五
星浦製鉄所はさながらの不夜城であった。
第一製鋼工場の平炉は今しも、底の方に沈んでいる最極上の鋼鉄の流れを放流しつくして、不純な鉱石混りの、俗に「
暗黒の底に
その数百坪に亘る「
その
「返事はどうですか……中野さん……」
「……………」
「ここで返事すると云ったじゃありませんか……ええ……」
「……………」
「
中野学士が微かにうなずいた。それから悠々と金口煙草を一本出してライターを
「……あっしを……それじゃ……オビキ出すために、あんな事を云ったんですか……ここまで……」
戸塚は
「暑いじゃないですかここは……丸で
「……フフン……百二三十度ぐらいだろうな……この空気は……フフン……」
「……あっちに行って話しましょうよ。もっと涼しい処で……」
「……イヤ。僕はここに居る。ここで考えなくちゃならん」
「何をお考えになるんですか」
「このの利用方法さ」
「この火の海のですか」
「ウン……このの中には最小限七パーセント位の鉄分を含んでいる。この中から純粋の鉄を取るのは、非常に面倒な工程が要るので、こうやって放置して、冷却してから打割って海へ棄てるんだが、
「今も考えているんですかい」
「ウン……重大なヒントが頭の中で閃めきかけているんだ。暫く黙っていてくれ給え」
戸塚は
「チエッ……いい加減、馬鹿にしてもらいますめえぜ。十二万円の話はドウしてくれるんですか」
「十二万円……何が十二万円だい」
「……………」
「十二万円儲かる話でもあるのかい」
戸塚は唖然となったらしい。狭いデッキの上で、すこし中野学士から離れた。
「……呆れたね……」
「そんな話は知らないよ僕は……夢を見ているんじゃないか君は……」
戸塚の眼が眼鏡の下でキラリと光った。菜葉服の腕をマクリ上げかけたが又、思い直したらしく、鳥打帽を脱いで頭を下げた。
「……イヤ……中野さん。決して無理は云いません。四半分でいいんで……ねえ。それ位の事はわかってくれてもいいでしょう。貴方は大学を一番で出た
中野学士の眼鏡が反撃するようにピカリと赤く光った。
「……失敬な……失敬な事を云うな。西村を
戸塚は冷然と笑った。
「ヘヘヘ。その証拠は……」
「九月の末に、お前と三好と俺とでテニスを遣った事があるだろう」
「ありましたよ。三好が、あっしに勧めて貴方にお弟子入りをしようじゃないかと云い出したんです。三好が、一番下手なんで、貴方が三好ばかりガミガミ云ったもんだから、あれっきり来なくなっちゃったんですが……」
「ウム。あの時に会計部の西村がコートの横を通りかかったろう」
「ヘヘ。よく
「今度の事件で思い出したんだ。……あの時も半運転だったからスチームの音がしなかったが、その西村の顔をジロリと見た貴様が……イヤ……三好だっけな……スチームが一パイ這入ってれあここで鵞鳥を絞め殺したって、生きながら猿の皮を剥いだって大丈夫だ……てな事を云ったじゃないか」
「そんならそれを聞いた貴方と、三好と、あっしと、三人の
「俺はソンナ事をする必要はない」
「必要はなくても貴方に間違いないですよ」
「何……何だと……」
「ヘヘヘ……あの時に貴方の仕事を、ズッと向うの事務所の前から拝見していたのは、あっしと三好と、又野の三人ですぜ。貴方は近眼だからわからなかったんでしょうけど……貴方は警察に呼ばれて話をしたのが又野一人と思っていらっしたんですか。又野が一番正直者ですから代表に名前を出されただけなんですぜ。ヘヘヘ……貴方にも似合わない
「……………」
「ねえ。そうでしょう。立役者は何といったって貴方一人だ。貴方にはチャンとした必要があったんだ。だからあの話から思い付いて、万が一にも抜目の
「……………」
「ねえ。そうでしょう。今貴方がお穿きになっているその新しい太陽足袋ですね。そいつがきょう、テニス・コートで物をいっちゃったんでさあ。あの話は、ほかの連中もみんな聞いているんですからね。あっしが出る処へ出れあ、証人はいくらでも……」
「よしッ。わかったッ。もう云うな……半分くれてやる」
「エッ。半分……」と戸塚が叫んだ。
「……ヘエッ……半分ですって……」
「同じ事を二度とは云わん。テニスの道具を
戸塚は茫然となって相手の顔を見た。相手の顔はニコニコしていた。
「……馬鹿……何をボンヤリしているんだ。その新聞紙包みをここに持って来いよ。分けてやるからな。テニス倉庫の鍵はこれだ。ホラ……」
戸塚は何という事なしに、慌てて頭を一つ下げた。鍵を受取ってポケットに入れようとしたが、その一
「アッ」と叫ぶなり戸塚はモンドリ打って火の海へ落ちて行った。
「ボオオ――ンンン……」
それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った
ただ、それだけであった。
六
中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも
その
板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。
中野学士は思わず半歩ほど後へ
中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の
相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という
「知っている。……職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」
中野学士の語尾が少し
「知っとる……貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」
「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」
「……嘘
「
中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き
「エベエベエベエベエベエベ……」
という奇妙な声を上げたと思うと中野学士は、背中と尻のふくらみを又野の両手に掴まれたまま、軽々と差上げられていた。
又野は怒りの余り、中野学士を火の海へ投込むつもりらしかったが……トタンに、それと察した中野学士が無言のままメチャクチャに手足を振まわし初めたので、又野は思わずヨロヨロとなってデッキの端に立止まった。
その時に誰かわからない真黒い影が、突然に平炉の蔭から飛出して来た。又野の腰を力一パイ突飛ばすとそのまま、後も見ずに逃げて行った。
「アッ……」
と又野は前へのめったが、振返る間もなく中野学士を掴んだままギリギリと一廻転して、
しかし又野は下まで落ちて行かなかった。
ちょうど又野の両足の間に、鉄板の腐蝕した馬蹄型の穴が在った。そこに又野の左足の
「……ガガアーッガガアーッ……助けて助けてッ……」
金剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。
「
又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。
「オーイ。誰か来いッ。誰かア……誰か来てくれエエーイッ。オオ――オオ――イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない……」
「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。
しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を
「ギャアギャアギャア……ギャギャギャギャッ……」
と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。
「ハッハッハッハッ……あばれちゃ……いかん……ハッハッハッハッ……
折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。
その時に中野学士の胸のポケットからハミ出していた白いハンカチが、フワリと火の海の上に落ちてメラメラと燃え上った。トタンに中野学士が人間の力とは思われぬ力と声を出した。
「……グワ――アアッ……」
中野学士のお尻の処の
近付いて来た足音が、その上で立止まった。
「ここだここだ。ワッ。臭いッ」
「ウア――。大変だ。人間が焼け死によるぞッ」
オンチ(オンチ)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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