二
私が
その彼女を殺した手段と、その手段を行った機会とが、
そうして、そういう私はソモソモどこの何者か。
そんな事は三週間ばかり前の東京の各新聞を見てもらえば残らずわかる。多分特号活字で、大々的に掲載してあるであろう「女優殺し」の記事の中に在る「私の告白」を読んでもらえば沢山である。そうしてその記事によって……かくいう私が、某新聞社の社会部記者で、警察方面の事情に精通している青年であった。同時に極端な唯物主義的なニヒリスト式の性格で、良心なぞというものは旧式の道徳観から生まれた、遺伝的感受性の一部分ぐらいにしか考えない種類の男であった……という事実をハッキリと認識してもらえば、それで結構である。
ところでその私が、現在、ここで係官の許可を得て、執筆しているのは、そんな新聞記事の範囲に属する告白ではない。又は警察の報告書や、予審調書に記入さるべき性質の告白でもない。すなわち、その新聞記事や、予審調書にあらわれているような告白を、私がナゼしたかという告白である。……事件の真相のモウ一つうらに潜む、極めて不可思議な恐ろしい真相の告白である。……すべての犯罪事件を客観的に考察し、批判する事に
あの新聞記事を徹底的に精読してくれた、極めて少数の人々……もしくは直感の鋭い、或る種のアタマの持ち主は直ぐに気付いたであろう。私はこの事件に
……こうした疑問は、あの記事を本当の意味で精読してくれた何人かの頭に必然的に浮かんだ事と思う。「何故に私が白状したか」という大きな疑問に、一直線にぶつかった筈と考えられる。
ところが不思議な事に、この事件を担当した警察官や裁判所の連中は、コンナ事をテンカラ問題にしていないらしい。現在私を
しかし考えてみるとこれは無理もない話である。彼等は私の自白にスッカリ満足してしまって、ソレ以上の事に気が付かないでいるのだから……。彼等は要するに犯人を捕える無智な器械に過ぎないのだから……そうしてそんな器械となって月給を取るべく彼等は余りに忙し過ぎるのだから……。
だから私はこの一文を彼等の参考に供しようなぞ思って書くのではない。あの記事を精読してくれて、私の自白心理に就いて疑問を起してくれた少数の頭のいい読者と、わざわざ私のために係官の許可を得て、この紙と鉛筆とを差し入れてくれた官選の弁護士君へ、ホンの
そうして私の「完全な犯罪」を清算してしまいたい意味で……。
私は「彼女の死」以外に、何等の犯跡を残していない空屋を出ると、零度以下に冷え切った深夜のコンクリートの上を、
すべてが私の予想通りに完全無欠で、
……彼女はモウ、これで完全に過去の存在として私の記憶の世界から流れ去ってしまったのだ。そうして私はこれから
そう思い思い私は下宿の表口の
その時計の音を耳にしながら私は、神経の端の端までも整然として靴の紐を解く事が出来た。それから、いつもの足どりで、うつむき勝ちに階段を昇ったが、それは
……もう大丈夫だ。何一つ手ぬかりは無い。あとは階段の上の取っ付きの自分の
そんな事を考え考え幅広い階段を半分ほど昇って、そこから直角に右へ折れ曲る処に在る、一間四方ばかりの板張りの上まで来ると、そこで
……「私」が「私」と向い合って突立っているのであった……板張りの正面の壁に
「この鏡の事は全く予想していなかった」……と気付くと同時に私は、私の全神経が思いがけなくクラクラとなるのを感じた。私の完全な犯行をタッタ今まで保証して、支持して来てくれた一切のものが、私の背後で突然ガランガランガランガランと
するとその時に、鏡の中の私が、その黒い、鋭い眼つきでもって、私にハッキリとこう命令した。
「お前はソンナに
……しかし、そんなに神経を動揺さしたまま俺の前を立ち去るのは
こんな風に隙間もなく、次から次に命令する相手の鋭い眼付きを、一生懸命に正視しているうちに私は、私の神経がスーッと消え失せて行くように感じた。それにつれて私の全身が石像のように硬直したまま、左の方へグラグラと傾き倒れて行くのを見た……ように思いながら慌てて両脚を踏み締めて、唇を血の出るほど噛み締めながら、鏡の中の自分の顔を、なおも一心に睨み付けていると、そのうちにいつの間にか又スーッと吾に返る事が出来た。やっと右手を動かして、ポケットからハンカチを取り出して、顔一面に流るる
私は変に
私は鏡の中の自分を軽蔑してやりたくなった……「何だ貴様は」とツバを吐きかけてやりたい衝動で一パイになって来た。そこでモウ一度ポケットからハンカチを出して顔を拭い拭い、そこいらをソット見まわしてから、鏡の中を振り返ると、鏡の中の私も
私は思わず眼を伏せた。……ゴックリと
それから一週間ばかり
「フ――ン……何かその男に変った事は無いかね……近頃……」
T刑事は有名な
「イイエ。別に……それあキチョウメンな方ですよ」
女将も評判のキンキン声であったが、きょうは何となく
私は新聞紙を夜具の上に伏せて、天井の木目を見ながら一心に耳を澄ました。大丈夫こっちの事ではない……と確信しながら……。
「フ――ン。身ぶり素振りや何かのチョットした事でもいいんだが……隠さずに云ってもらわんと、あとで困るんだが」
「……ええ……そう
「どんな事だえ」
「…………」
女将の声が急に聞えなくなった。T刑事の耳に口を寄せて
「……ウ――ム……。いつも鏡の前を通るたんびにチョット立ち止まるんだな。ウンウン。そうしてネクタイを直して、色男らしい気取った身振りを一つして、シャッポを冠り直して降りて行く。……それがこの頃その鏡を見向きもしない。色っぽい男だから、そんな
私はガバと跳ね起きた。社に出るにはまだ早かったが、そんな事を問題にしてはいられなかった。しかし決して慌てはしなかった。万一の用心のために、あらゆる場合を予想していたのだから……手早く着物を脱ぎ棄てて、テニスの運動服に着かえたが、その時に恥かしい話ではあるが胸が少々ドキドキした。まさか……まさかと思っていたのが案外早く手がまわったので……同時に
……
そんな事を思い思い運動服の上から、スエーターをぬくぬくと着込んで、ガマ口を尻のポケットへ押し込んで、鳥打帽子と西洋手拭と、ラケットと運動靴を抱えると、
……シメタナ。事によったら今の芝居は、芝居じゃなかったかも知れないぞ。逃げる余裕が充分に在るのかも知れないぞ……しかしまだ往来まで出てみないとわからない……。
と考えながら裏口の階段に続く廊下を、もしやと疑いながら曲り込むと、果してそこに立っていた……張り込んでいたに違い無いAという、やはり警視庁の老刑事にバッタリと行き合ってしまった。
私はその時にハッと眼を丸くして立ち
A刑事はゴマ塩の
「……ヤア……早くから……どこへ行くかね……」
私は二三度眼をパチパチさせた。すぐに笑い出しながら、何か
「……エ……エ……そのチョット……」
私は
「チョットどこへ」
「テニスをしに行くんです……約束がありますから……」
老刑事は悠々と私を見上げ見下した。相かわらず
「……フ――ン……どこのコートへ……」
私はここでヤット笑う事が出来た。ドンナ笑い顔だったか知らないけど……。
「日比谷のコートです……しかし何か御用ですか」
「ウン……チョット来てもらいたい事があったからね」
「僕にですか」
「ウン……大した用じゃないと思うが……」
「そうじゃないでしょう……何か僕に嫌疑をかけているのでしょう」
……平生の通りズバズバ
「そ……そんな事じゃないよ。君は新聞社の人間じゃないか」
私は腹の中で
「だってそうじゃないですか。何でも無い用事だったら電話をかけてくれた方が早いじゃないですか。まだ社に出る時間じゃないんですから直ぐに行けるじゃありませんか」
老刑事の顔から笑いが全く消えた。疑い深い眼付きをショボショボさして、モウ一度私を見上げ見下した。
その顔をこっちからも同時に見上げ見下しているうちに、私は完全に落ち付きを
私は事態が容易でないのをモウ一度直覚した。老刑事が私を容易に犯人扱いにしようとしないのは、証拠が不十分なままに私を的確な犯人と睨んでいる証拠である……だから何とかして私を
……しかし警視庁ではドウして俺に目星を付けたんだろう……その模様によっては慌てない方がいいとも思うんだが……ハテ……。
そう考えながらホンノ一二秒ばかり躊躇しているうちに、老刑事は又もニコニコ笑い出しながら、私の耳に口をさし寄せた。そうして私が身を
「……ええかね君……
この言葉のウラに含まれている恐るべく、憎むべき
しかし私は、そんな
「……駄目です。冗談は止して下さい……僕を引っぱったら君等の面目は立つかも知れないが、僕の面目はどうなるんです。面目ばかりじゃない、飯の喰い上げになるじゃないですか。厚顔無恥にも程がある。……失敬な……
と大声で怒り付けながら、老刑事を突き
しかし、こうした私の行動が、滅多に無事に通過しないであろう事は、私もよく知っていた。
老刑事は私が思っていたよりも強い力で、素早く私の肩を押えて引き戻した。そうしてラケットと靴を持った両手をホンの
私はその中でも見知り越しの二人の刑事の顔を、わざと不思議そうに見まわした。それから
「ハハハハハ。今の芝居に引っかかったね」
冗談に殺す(じょうだんにころす)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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