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菊模様皿山奇談(きくもようさらやまきだん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/7 10:43:59 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        十一

大「足下(そっか)掌(て)を何うした、穴が開いているようだが」
權「これか、是は殿様が槍を突掛(つッか)けて掌(て)で受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」
大「むゝ、そうか、そして御家来の中(うち)仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けて往(ゆ)きましょう」
 と細かに書いて暇乞(いとまごい)を致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行過(ゆきす)ぎるを見済(みすま)して、
大「彼(あれ)は」
權「彼(あれ)が渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうも彼(あ)の人には敵(かな)わねえ」
大「成程寛仁大度(かんじんたいど)、見上げれば立派な人だね」
權「なにい、韓信(かんしん)が股ア潜(くゞ)りだと」
大「いえ中々お立派なお方だ、最(も)う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度々(たび/\)お尋ね下さい、拙者も亦(また)お尋ね申します」
權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっ溺(ぱま)ってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々に在(あ)るから、随分身体を大事(でえじ)にしねば成んねえ」
大「誠に辱(かたじ)けない、左様なら」
 と松蔭大藏は帰りました。其の後(ご)渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜六(きろく)という老僕(じゞい)に供をさせて、飛鳥山(あすかやま)へまいりました。尤(もっと)も花見ではない、初桜(はつざくら)故余り人は出ません、其の頃には海老屋(えびや)、扇屋(おうぎや)の他に宜(よ)い料理茶屋がありまして、柏屋(かしわや)というは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へ上(あが)り、御酒(ごしゅ)は飲みませんから御飯(ごぜん)を上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖味(こわみ)はありますが、是(もっと)も巾着切(きんちゃくきり)のような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから好(よ)い服装(なり)は出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、お父(とっ)さまは小紋の野掛装束(のがけしょうぞく)で、お供は看板を着て、真鍮巻(しんちゅうまき)の木刀を差して上端(あがりばな)に腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流行(はや)った玉紬(たまつむぎ)の藍(あい)の小弁慶(こべんけい)の袖口がぼつ/\いったのを着て、砂糖のすけない切山椒(きりざんしょ)で、焦茶色の一本独鈷(いっぽんどっこ)の帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうな髪(あたま)をして居るものも有り、大小を差した者も有り、大髷(おおたぶさ)の連中(れんじゅう)がそろ/\花見に出る者もあるが、金がないので往(ゆ)かれないのを残念に思いまして、少しばかり散財(ざんざい)を仕ようと、味噌吸物(みそずいもの)に菜のひたし物香物(こう/\)沢山(だくさん)という酷い誂(あつら)えもので、グビーリ/\と大盃(おおもの)で酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御飯(ごぜん)が済んで、
織「これ/\女中」
下婢「はい」
織「下に従者(とも)が居(お)るから小包を持って来いと云えば分るから、然(そ)う云ってくれ」
下婢「はい畏(かしこ)まりました」
 とん/\/\と階下(した)へ下りまして、
下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へ昇(あが)れと仰しゃいましたよ」
喜「はい畏まりました」
 と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ/\して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、傍(わき)に置いた主人の雪踏(せった)とお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐中(ふところ)へ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子を上(あが)ろうとする時、微酔機嫌(ほろよいきげん)で少し身体が斜(よこ)になる途端に、懐の雪踏が辷(すべ)って落(おち)ると、間の悪い時には悪いもので、彼(か)の喧嘩でも吹掛(ふっか)けて、此の勘定を持たせようと思っている悪浪人(わるろうにん)の一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲「これ怪(け)しからん奴だ、やい下(おり)ろ、二階へ上(あが)る奴下ろ」
 と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜「あ痛いやい……」
甲「不礼至極(ぶれいしごく)な奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎草履(くそぞうり)を投込むとは何の事だ」
 と云いながら二つ三(み)つ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁を願(ねげ)えます」
甲「これ彼処(あすこ)に下足を預(あずか)る番人があって、銘々下足を預けて上(あが)るのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」
喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前様(めえさま)には始めてお目に懸って意趣遺恨のある理由(わけ)がござえません、私(わし)は何(なん)にも知んねえ田舎漢(いなかもの)で、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になる機(はず)みに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」
 と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲「勘弁罷(まか)りならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」
喜「誠に御道理(ごもっとも)……併(しか)し屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大概(たいげえ)土から出来ねえものはねえ、それには肥料(こやし)いしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」
甲「なに肥料(こやし)をしないものはないが、直接(じか)に肥料を喰物(くいもの)に打(ぶっ)かけて喰う奴があるか、怪(け)しからん理由(わけ)の分らん奴じゃアないか」
乙「これ/\其様(そん)な者に何を云ったって、痛いも痒(かゆ)いも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此処(こゝ)へ来て詫るならば勘弁して遣(や)ろう、それまで其の小包を此方(こちら)へ取上げて置け、なに娘を連れて年を老(と)っている奴だと、それ/\今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此方(こっち)へ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」
喜「詫ん事は無いたって、私(わし)が不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法を為(し)たんだから、二つも三つも打叩(ぶちたゝ)かれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其処(そこ)を叩くてえ事はねえ」
甲「なに……」
 と又打(ぶ)つ。
喜「あ痛い、又打(ぶ)ったな」
甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」
喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」
甲「勘弁罷りならん」
喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝば私(わし)がしくじるだ」
甲「手前が不調法をしてしくじるのは当然(あたりまえ)だ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此方(こっち)へ出さんか」
喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃア私(わし)が済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」
甲「なに野郎だ……」
 と尚(な)お事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢「鎌(かま)どんを遣(や)っておくれな」
鎌「なに斯ういう事は矢張(やッぱ)り女が宜(い)いよ」
下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」
鎌「客種(きゃくだね)が悪い筋だ、何(なん)かごたつこうとして居る機(はず)みだから、どうも仕様がない」
 下婢(おんな)どもがそれへ参り、
下婢「ね、あなた方」
甲「何だ、何だ手前は」
下婢「貴方(あなた)申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此方(こちら)は下足番の有るのを御存じないものですから、履物(はきもの)を懐へ入れて梯子段を昇(あが)ろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何卒(どうぞ)ね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」
甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量が好(よ)いとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」
下婢「誠にどうも、あのちょいと清次(せいじ)どん」
清「そら、己の方へ来た」
下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」
清「女でも宜(よ)いのに、仕様がないね」
 と若い者が悪浪人(わるろうにん)の前へ来て、額へ手を当て、
若「えへゝゝ」
甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」
若「今日(こんにち)は生憎(あいにく)主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御尤(ごもっとも)さまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此方(こなた)で御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」
甲「只相済まん/\と云って何う致すのだ」
若「どうか旦那さま」
甲「うん何だと、何が何うしたと、此椀(これ)を何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」
清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとお芳(よし)どん、是をずっと下げて、何か乙(おつ)な、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような[#「ような」は底本では「なうな」]もので、えへゝゝ」
甲「忌(いや)な奴だな、空笑(そらわら)いをしやアがって」
清「ずっとお料理を取換え、お燗の宜(よ)い処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」
 それより他に致し方がないので、酒肴(さけさかな)を出しまして、
清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」
乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、汝(てまえ)に酒肴(しゅこう)を振舞って貰いたいから立腹致したと心得て居(お)るか、振舞って貰いたい下心で怒(おこ)ってる次第じゃアなえぞ」
清「いえその最初(はじまり)は上げて置いて、あとで代を戴きます」
甲「汝(てまえ)では分らんもっと分る者を遣(よこ)せ」
 二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながら昇(あが)ってまいりました。

        十二

 喜六は力無げに二階へ上(あが)ってまいり、
喜「はい御免下せえまし」
織「おゝ喜六か、是へ来い/\」
喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包を奪(と)られて」
織「困ったものじゃアないか、何故(なぜ)草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へ昇(あが)るなどという事があるかえ」
喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」
織「何も心得んとて、先方で立腹するところは尤(もっと)もじゃアないか、喰物(くいもの)の中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当然(あたりまえ)のことじゃ、それから何う致した」
喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余所目(よそめ)に見て二階に居ることはねえ、此処(これ)へまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえと確(しっ)かり押えると、あんた傍に居た奴が私(わし)の頭を叩いて、無理やりに引奪(ひったく)られましたから、大切な物でも入(へえ)って居(お)ろうかと心配して居ります」
織「何も入って居らん空風呂敷(からぶろしき)ではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名を汚(けが)す事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習慣(しぐせ)が脱(ぬ)けん男だ、誠に困ったもんだの」
喜「へえ、誠に困りました、然(そ)うして私(わし)が頭ア五つくらしました」
織「打(う)たれながら勘定などをする奴が有りますか」
喜「余り口惜(くやしゅ)うございます、中央(まんなか)にいた奴の叩くのが一番痛うござえました」
織「誠に困るの」
竹「お父(とっ)さま、斯う致しましょうか、却(かえ)って先方が食酔(たべよ)って居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、私(わたくし)は女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」
織「いや、己がいなければ宜(よ)いが、己がいて其の方を出しては宜しくない」
竹[#「竹」は底本では「喜」]「いゝえ、喜六と私(わたくし)と二人で此処(こゝ)へまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」
喜「はい、お嬢様が出れば屹度(きっと)勘弁します、皆(みん)な助平そうなものばかりで」
織[#「織」は底本では「竹」]「こら、其様(そん)なことを云うから物の間違になるんだ」
竹「じゃア二人の積りで宜(い)いかえ、私(わたくし)は手前を連れてお寺参りに来た積りで」
喜「どうか何分にも願います」
 とお竹の後(あと)に附いて悄々(しお/\)と二階を下りる。此方(こちら)は益々哮(たけ)り立って、
甲「さア何時までべん/\と棄置くのだ、二階へ折助(おりすけ)が昇(あが)った限(ぎ)り下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」
 と申して居(お)るところへお竹がまいり、しとやかに、
竹「御免遊ばしませ」
甲「へえお出でなさい、何方(どなた)さまで」
竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、盗(と)られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れて居(お)って、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何卒(なにとぞ)御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りまして私(わたくし)からお詫を致します事で」
甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身にお出(い)では恐入りましたね、誠にどうもお麗(うる)わしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗湯(せんとう)の帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」
竹「家来どもが不調法をいたし、嘸(さぞ)御立腹ではございましょうが……」
甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、お出(い)で下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一盃(ひとつ)召上れ」
 と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見ると惚(のろ)い人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でも直(すぐ)にでれ/\と許してしまう、それも宜(よ)いが、後(あと)の勘定を何うする、勘定をよ、前に親娘連(おやこづ)れで昇(あが)った立派な侍が二階に居(い)るじゃアないか、然(しか)るを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其の廉(かど)を押したら宜かろう、勘定を何うするよ」
甲「うん成程、気が付かんだったが、前(さき)に昇(あが)っていたか、至極どうも御尤(ごもっと)もだから然(そ)う致そうじゃアないか」
丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それで宜(い)いじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様の辱(はじ)になるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたら宜(よ)かろう」
甲「これは至極宜(よろ)しい、宅(たく)は手狭だが、是なる者は拙者の朋友(ともだち)で、可なり宅(うち)も広いから、ちょっと一献(いっこん)飲直してお別れと致しましょう」
 と柔(やさ)しい真白な手を真黒な穢(きたな)い手で引張(ひっぱ)ったから、喜六は驚き、
喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」
甲「なに、此ん畜生」
 と又騒動が大きくなりましたから、流石(さすが)の渡邊も弱って何うする事も出来ません。打棄(うっちゃ)って密(そっ)と逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍微塵(あいみじん)の小袖を着(き)大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人「えゝ卒爾(そつじ)ながら手前は此の隣席(りんせき)に食事を致して、只今帰ろうと存じて居(お)ると、何か御家来の少しの不調法を廉(かど)に取りまして、暴々(あら/\)しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼処(あれ)にて聞兼(きゝかね)て居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばして嘸(さぞ)かし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思召(おぼしめ)すかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如何(いかゞ)で」
織「これは何(なん)ともはや、折角の思召ではござるが、先方では柄(え)のない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、平(ひら)にお捨置きを願いたい」
浪人「いえ/\、手前は無禄無住(むろくむじゅう)の者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御主名(ごしゅめい)を明(あか)すのを甚(ひど)く御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」
織「何ともそれでは恐入ります事で、併(しか)し御迷惑だ……」
浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」
 と提(ひっさ)げ刀で下へ下(おり)ると、三人の悪浪人(わるろうにん)はいよ/\哮(たけ)り立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人「御免を……」
甲「何だ」
浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ました由(よし)怪(け)しからん事で、女の身でお詫をいたし、却(かえ)って御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が罷(まか)り出て重々恐入りますが、何卒(なにとぞ)御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は先刻(さっき)此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、此(かく)の如く両手を突いてお詫を……」
甲「此奴(こいつ)かえ/\」
乙「此者(これ)じゃアなえよ、其奴(そいつ)は前(さき)に昇(あが)っていた奴だ、もっと年を老(と)ってる奴だア、此奴は彼(あ)の娘へ※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)諛(おべっか)に入って来たんだ、其様(そん)な奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎(たにやまとうじゅうろう)と申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、斯(かく)の如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
 と半分残っていた吸物椀を打掛(ぶっか)けましたから、すっと味噌汁が流れました。流石(さすが)温和の仁も忽(たちま)ち疳癖が高ぶりましたが、じっと耐(こら)え、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方(こっち)へ申し受けよう、然(そ)うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが狗(いぬ)を斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、当家(こゝ)でも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合(はたしあ)いに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって食物(くいもの)の中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身で迚(とて)もお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、最(も)う了簡罷(まか)りならん、篦棒(べらぼう)め」
 と侍の面部へ唾を吐掛(はきか)けました。

        十三

 斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭(はんてぬぐい)を出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は直(じき)気が附きまして、
○「安(やす)さん出掛けよう、斯(こ)んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、彼(あ)の位妹が出て謝って、御主人が塩梅(あんばい)の悪いのに出て来て詫びているのに、酷(ひど)い事をするじゃアないか、汁を打掛(ぶっか)けたばかりで誰でも大概怒(おこ)っちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ中(うち)に出掛けよう、他に逃げ処がないから往(い)こう/\」
△「折(おり)を然(そ)う云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に鰆(さわら)の照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口(ちょこ)を二つばかり瞞(ごま)かして往(ゆ)こう」
 と皆逃支度(にげじたく)をいたします。此方(こちら)の浪人は屹度(きっと)身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁相成(あいなら)んとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
 とずいと提(ひっさ)げ刀(がたな)で立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
 と自分が斬られる訳ではないが、遽(あわ)てゝ逃出すから、煙草盆を蹴散(けちら)かす、土瓶を踏毀(ふみこわ)すものがあり、料理代を払って往(ゆ)く者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本担(かつ)ぎ出す奴があります。彼(か)の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「然(しか)らばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧(ごろう)じろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合(はたしあ)いに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
 と何うしても肯(き)きません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳(にぎりこぶし)を振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
 と逆に捻倒(ねじたお)した手練(てなみ)を見ると、余(あと)の二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が口惜(くや)しいから又起上って組附いて来る処を、拳(こぶし)を固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身(あてみ)をくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
 と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「其方(そっち)へ二人逃げた、威張った野郎の癖に容(ざま)ア見やアがれ、殴れ/\」
 と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履(ぞうり)草鞋(わらじ)を投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に有難(ありがて)えことで、初(はじま)りは心配して居りました、若(も)し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ死(ち)ぬまで威張りアがって野郎」
 二つ三つ打つを押止(おしと)め、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴(こやつ)を殺しても仕様がないから、御家来憚(はゞか)りだが彼方(あっち)で手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はい畏(かしこ)まりました」
 彼(か)の侍は其処(そこ)に倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋(きょうろく)へ一活(いっかつ)入れる。
甲「あっ……」
 と息を吹反(ふきかえ)す処へ水を打掛(ぶっか)ける。
甲「あっ/\/\……」
浪「其様(そん)な弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、酔(よい)に乗じ甚(はなは)だ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお詫(わび)を致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、己(おら)ような年い老(と)った弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に捉(つか)まると魂消(たまげ)てやアがる、我身を捻(つね)って他人(ひと)の痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから然(そ)う思え」
 と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
 と這々(ほう/\)の体(てい)で逃げて行(ゆ)くと、弥次馬に追掛(おっか)けられて又打たれる、意気地(いくじ)のない事。
織「どうか一寸(ちょっと)旧(もと)の席へ、まア/\何卒(どうぞ)…」
浪「いえ、些(ちっ)と取急ぎますから」
織「でもござろうが」
 と無理に旧(もと)の茶屋へ連戻り、上座(じょうざ)へ直し、慇懃(いんぎん)に両手を突き、
織「斯(か)ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守(くめのみまさか)家来渡邊織江と申す者、今日(こんにち)仏参(ぶっさん)の帰途(かえりみち)、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力(ごじょりき)を得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、併(しか)しどうも起倒流(きとうりゅう)のお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ由(よし)あるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「手前(てまい)は名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を下(お)りまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋(ぼうおく)に佗住居(わびずまい)を致して居ります、此の後(ご)とも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計(たつき)致し方なく売卜(ばいぼく)を致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは売卜者(うらないしゃ)か、どうもえらいもんだね、売卜者(ばいぼくしゃ)だから負けるか負けねえかを占(み)て置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「何(いず)れ御尊宅へお礼に出ます」
 と宿所(しゅくしょ)姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込(いりこ)み、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって企(たく)んで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、宜(よ)い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、彼(か)の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁(なか)へ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に往(ゆ)かんければ気が済みませんので、お竹と喜六を伴(つ)れ、結構な進物を携(たずさ)えまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜(ばいぼく)の看板が出て居りますから、
織「あ此家(これ)だ、喜六一寸(ちょっと)其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方(こなた)かと云って伺ってみろ」
喜「はい畏(かしこま)りました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ有助(ゆうすけ)何方(どなた)か取次があるぜ」
有「はい畏りました」
 つか/\/\と出て来ました男は、少し小侠(こいなせ)な男でございます。子持縞(こもちじま)の布子(ぬのこ)を着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋(ぶすい)の打扮(こしらえ)のようだが、もと江戸子(えどっこ)だから何処(どっ)か気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方(こちら)さまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用(とうよう)か身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お上(あが)んなせえまし」
喜「いや、然(そ)うじゃアござえません、旦那さまア此方(こちら)さまですと」
織「あい、御免くだされ」
 と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し容(かたち)を正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に罷(まか)り出(い)ずべきでござったが、主用(しゅよう)繁多に就(つ)き存じながら大きにお礼が延引いたしました、稍(ようや)く今日(こんにち)番退(ばんび)きの帰りに罷出(まかりで)ました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「何(な)んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様か直(すぐ)に茶の良いのを入れて莨盆(たばこぼん)、に火を埋(い)けて、宜(よ)いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「今日(こんにち)は宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭(てぜま)で何とも恥入りましたことで、さ何卒(なにとぞ)お通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸(ちょっと)お台を……何でも宜しい、いえ/\其様(そん)な大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を此処(これ)へ」
 と風呂敷を開(ひら)きまして、中から取出したは白羽二重(しろはぶたえ)一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。

        十四

 尚も織江は慇懃(いんぎん)に、
織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、彼(あ)の折(おり)はあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此娘(これ)が又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実に辱(かたじ)けない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女連(おんなづれ)ゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」
大「いえ/\何う致しまして、再度お礼では却(かえ)って恐入ります、殊(こと)に御親子(ごしんし)お揃いで斯様な処へおいでは何とも痛入(いたみい)りましてござる」
織「えゝ此品(これ)は(と盆へ載せた品を前へ出し)[#「)」は底本では脱落]何(なん)ぞと存じましたが、御案内の通りで、下屋敷(しもやしき)から是までまいる間には何か調(とゝの)えます処もなく、殊に番退(ばんひ)けから間(ま)を見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」
大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理由(わけ)もなし、お辞(ことば)のお礼で十分、どうか品物の所は御免を蒙(こうむ)りとう、思召(おぼしめし)だけ頂戴致す」
織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……甚(はなは)だ何(なん)でござるが御意(ぎょい)に適(かな)った色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」
大「何(なん)ともどうも恐入りました訳でござる然(しか)らば折角の思召(おぼしめし)ゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品を購(と)るわけには迚(とて)もまいりません、併(しか)し此のお肴料(さかなりょう)とお記(しる)しの包は戴く訳にはまいりません」
織「左様でもござろうが、貴方が何(なん)でございますなら御奉公人にでもお遣(つか)わしなすって下さるように」
大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」
竹「いえ親共と早くお礼に上(あが)りたいと申し暮し、私(わたくし)も種々(いろ/\)心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、彼(あ)の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一寸(ちょっと)此方(こちら)へ出て、宜くお礼を」
喜「はい旦那さま、彼(あ)の折(おり)は何ともはアお礼の云う様(よう)もござえません、私(わし)なんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼奴等(あいつら)に打殺(ぶちころ)されても命の惜(おし)いわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打殺(ぶっころ)されたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼の申(もうし)ようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打殺(うちころ)しただから、お侍は異(ちが)ったものだと噂をして居りました」
大「然(そ)う云われては却(かえ)って困る、これは御奉公人で」
喜「はい私(わし)ア何(なん)でござえます、お嬢さまが五才(いつゝ)の時から御奉公をして居り、長(なが)え間これ十五年もお附き申していますからお馴染(なじみ)でがす、彼(あ)の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いで飲(や)っつけたで、えら腹が空(へ)ったから、二合出たのを皆(み)な酌飲(くんの)んじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」
織「えゝ今日(こんにち)は直(すぐ)にお暇(いとま)を」
大「何はなくとも折角の御入来(ごじゅうらい)、素(もと)より斯様な茅屋(ぼうおく)なれば別に差上(さしあげ)るようなお下物(さかな)もありませんが、一寸(ちょっと)詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」
織「いや思召(おぼしめし)は辱(かたじ)けないが、今日(こんにち)は少々急ぎますから、併(しか)し貴方様はお品格といい、先達(せんだっ)て三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御生国(ごしょうこく)は矢張(やはり)美作で」
大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、聊(いさゝ)か高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、お暇(いとま)になりまして、暫(しばら)くの間黒戸(くろと)の方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえに彼(あれ)とは知る仲でございます」
織「実にどうも貴方は惜(おし)いことで、大概忠臣二君に事(つか)えずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再び主(しゅう)は持たんというところの御決心でござるか」
大「いえ/\二君に仕(つか)えんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店借(たながり)を致して、売卜者(ばいぼくしゃ)で生涯朽果(くちはて)るも心外なことで、仮令(たとえ)何様(どん)な下役小禄でも主取(しゅうと)りをして家名を立てたい心懸(こゝろがけ)もござりますが、これという知己(しるべ)もなく、手蔓等(てづるとう)もないことで、先達(せんだっ)て權六に会いまして、これ/\だと承わり、お前は羨(うらやま)しい事で、遠山の苗字を継いでもと米搗(こめつき)をしていた身の上の者が大禄(たいろく)を取るようになったも、全くお前の心懸(こゝろがけ)が良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とても然(そ)ういう身の上には成れんが、何様(どん)な処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、何(ど)の様な小禄の旗下(はたもと)でも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んで置(おき)ましたが、御重役の尊公定めしお交際(つきあい)もお広いことゝ心得ますから」
織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫に見(まみ)えずの教訓を守って居りましたが、却(かえ)ってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美作守(みまさか)は小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共は未(ま)だ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」
大「どうもそれは辱(かたじ)けない事で」
 と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種々(いろ/\)周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏の許(もと)へお召状(めしじょう)が到来致しましたことで、大藏披(ひら)いて見ると。

御面談申度(もうしたき)儀有之候(これありそうろう)間明(みょう)十一日朝五つ時当屋敷へ御入来(ごじゅらい)有之候様(よう)美作守(みまさかのかみ)申付候此段得御意(ぎょいをえ)候以上
美作守内[#地付き、地より8字アキ]

    三月十日

寺島兵庫

        松蔭大藏殿
 という文面で、文箱(ふばこ)に入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請書(うけしょ)をいたし、是から急に支度にかゝり、小清潔(こざっぱり)した紋付の着物が無ければなりません、紋が少し異(ちが)っていても宜い、昌平(しょうへい)に描(か)かせても直(じき)に出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いに遣(つか)わし、大小は素(もと)より用意(たしなみ)がありますから之を佩(さ)して、翌朝(よくあさ)の五つ時に虎の門のお上屋敷(かみやしき)へまいりますと、御門番には予(かね)て其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。

        十五

 御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持を下(くだ)し置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付には高(たか)拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江から来(きた)る十五日御登城の節お通り掛けお目見え仰付(おおせつ)けらるゝ旨、且(かつ)上屋敷に於てお長家(ながや)を下し置かるゝ旨をも併(あわ)せて達しましたので、大藏は有難きよしのお受(うけ)をして拝領の長家へ下(さが)りました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、彼(あれ)もお持ちなさいと種々(いろ/\)な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其の中(うち)十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は麻上下(あさがみしも)でお廊下に控えていると、軈(やが)てごそり/\と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、寧(むし)ろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。併(しか)し当時(そのころ)では是すら容易に出来ませんことで、先ず滞(とゞこお)りなくお目見えも済み、是から重役の宅を廻勤(かいきん)いたすことで、是等(これら)は総(すべ)て渡邊織江の指図でございますが、羽振の宜(よ)い渡邊織江の引力でございますから、自(おのず)から人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお下屋敷詰(しもやしきづめ)を申付けられました。始(はじま)りはお屋敷外(そと)を槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は仲間部屋(ちゅうげんべや)から出ます、棒持の方は足軽部屋から出(で)て[#「出(で)て」は底本では「出(で)で」]、甃石(いし)の処をとん/\とん/\敲(たゝ)いて歩(あ)るく、余り宜(い)い役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の高持(たかもち)になりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、一寸(ちょっと)いう一言(ひとこと)に人を感心させるのが得意でございますから、家中(かちゅう)一般の評判が宜しく、
甲「流石(さすが)は渡邊氏(うじ)の見立(みたて)だ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ」
乙「いゝえ何(なん)でげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体彼(あれ)を家老にしたら宜かろう」
 などと種々(いろ/\)なことを云います。大藏は素(もと)より気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして
大「一盃(いっぱい)飲むが宜(よ)い、今日(こんにち)は雪が降って寒いから巡検(おまわり)は私(わし)一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ」
 と金(かね)びらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、
甲「野上(のがみ)イ」
乙「えゝ」
甲「今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね」
乙「彼(あれ)は別だね一寸(ちょっと)来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、仮令(たとえ)二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、夜(よ)は寒いから止せ/\と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると此方等(こちとら)は寝たがってばかりいて扨(さ)て仕様がないの」
甲「本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった」
 と仲間共(ちゅうげんども)は大藏を見まして、
「えゝどうもお寒うございます」
大「あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お客来(きゃくらい)で又(ま)た遺失物(おとしもの)でもあるといかんから、仁助(にすけ)私(わし)が一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから」
仁「成程降って来ましたね」
大「よほど降って来たな、提灯(ちょうちん)も別に要(い)るまい、廻りさえすれば宜(よ)いのだ、私(わし)は新役だからこれが務(つと)めで、貴様達は私に連れられる身の上だ、殊(こと)に一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れて往(い)かれるのも迷惑だろうから」
仁「面目次第もありませんが、此方等(こちとら)は狼藉者でも出ると、真先(まっさき)に逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝ア毀(こわ)すたちでありますよ、恐入りますな」
大「御家中(ごかちゅう)で万事に心附(こゝろづき)のある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さ凌(しの)ぎに酒を用いたら宜かろうと云って、御酒(ごしゅ)を下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り徳利(とくり)を提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に下物(さかな)はないから、此銭(これ)で何ぞ嗜(すき)な物を買って、夜蕎麦売(よそばうり)が来たら窓から買え」
仁「恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、毎(いつ)もお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……」
大「雪が甚(ひど)く降るので手前達も難儀だろう、私(わし)一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ/\」
 と竹の饅頭笠を被(かぶ)り、提灯を提げ、一人で窃(ひそ)かに廻りましたが却(かえ)ってどか/\多勢(おおぜい)で廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ/\一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が長局(ながつぼね)の塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら/\と雪が顔へ当り、なか/\寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、
大「あゝ困ったもの」
 と後(あと)へ退(さが)ると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の頭巾(ずきん)を目深(まぶか)に被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、小刀(しょうとう)は付けているかいないか判然(はっきり)分りませんが、鞘の光りが見えます。
大「はてな」
 と大藏は後(あと)へ退(さが)って様子を見ていました。すると三尺の開口(ひらきぐち)がギイーと開(あ)き、内から出て来ました女はお小姓姿、文金(ぶんきん)の高髷(たかまげ)、模様は確(しか)と分りませんが、華美(はで)な振袖で、大和錦(やまとにしき)の帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も判然(はっきり)分りませんが、只色の真白(まっしろ)いだけは分ります。大藏は心の中(うち)で、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、毎(いつ)も下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、今日(こんにち)のお客来で御蔵(おくら)から道具を出入(だしい)れするお掃除番が、粗忽(そこつ)で此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろ怪(け)しからん事だと、段々側へ来て見ますと、塀外(へいそと)に今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたして居(お)るのではないかと存じましたから、後(あと)へ退(さが)って息を屏(ころ)して、密(そっ)と見て居りますと、彼(か)の女は四辺(あたり)をきょろ/\見廻しまして声を潜め、
女「春部(はるべ)さま、春部さま」
春「シッ/\、声を出してはなりません」
 と制しました。

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