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菊模様皿山奇談(きくもようさらやまきだん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/7 10:43:59 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        十一

大「足下そっかを何うした、穴が開いているようだが」
權「これか、是は殿様が槍を突掛つッかけてで受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」
大「むゝ、そうか、そして御家来のうち仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けてきましょう」
 と細かに書いて暇乞いとまごいを致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行過ゆきすぎるを見済みすまして、
大「あれは」
權「あれが渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうもの人にはかなわねえ」
大「成程寛仁大度かんじんたいど、見上げれば立派な人だね」
權「なにい、韓信かんしんが股アくゞりだと」
大「いえ中々お立派なお方だ、う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度々たび/\お尋ね下さい、拙者もまたお尋ね申します」
權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっぱまってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々にるから、随分身体を大事でえじにしねば成んねえ」
大「誠にかたじけない、左様なら」
 と松蔭大藏は帰りました。其の渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜六きろくという老僕じゞいに供をさせて、飛鳥山あすかやまへまいりました。もっとも花見ではない、初桜はつざくら故余り人は出ません、其の頃には海老屋えびや扇屋おうぎやの他にい料理茶屋がありまして、柏屋かしわやというは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へあがり、御酒ごしゅは飲みませんから御飯ごぜんを上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖味こわみはありますが、もっと巾着切きんちゃくきりのような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから服装なりは出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、おとっさまは小紋の野掛装束のがけしょうぞくで、お供は看板を着て、真鍮巻しんちゅうまきの木刀を差して上端あがりばなに腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流行はやった玉紬たまつむぎあい小弁慶こべんけいの袖口がぼつ/\いったのを着て、砂糖のすけない切山椒きりざんしょで、焦茶色の一本独鈷いっぽんどっこの帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうなあたまをして居るものも有り、大小を差した者も有り、大髷おおたぶさ連中れんじゅうがそろ/\花見に出る者もあるが、金がないのでかれないのを残念に思いまして、少しばかり散財ざんざいを仕ようと、味噌吸物みそずいものに菜のひたし物香物こう/\沢山だくさんという酷いあつらえもので、グビーリ/\と大盃おおもので酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御飯ごぜんが済んで、
織「これ/\女中」
下婢「はい」
織「下に従者ともるから小包を持って来いと云えば分るから、う云ってくれ」
下婢「はいかしこまりました」
 とん/\/\と階下したへ下りまして、
下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へあがれと仰しゃいましたよ」
喜「はい畏まりました」
 と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ/\して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、わきに置いた主人の雪踏せったとお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐中ふところへ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子をあがろうとする時、微酔機嫌ほろよいきげんで少し身体がよこになる途端に、懐の雪踏がすべっておちると、間の悪い時には悪いもので、の喧嘩でも吹掛ふっかけて、此の勘定を持たせようと思っている悪浪人わるろうにんの一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲「これしからん奴だ、やいおりろ、二階へあがる奴下ろ」
 と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜「あ痛いやい……」
甲「不礼至極ぶれいしごくな奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎草履くそぞうりを投込むとは何の事だ」
 と云いながら二つつ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁をねげえます」
甲「これ彼処あすこに下足をあずかる番人があって、銘々下足を預けてあがるのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」
喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前様めえさまには始めてお目に懸って意趣遺恨のある理由わけがござえません、わしなんにも知んねえ田舎漢いなかもので、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になるはずみに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」
 と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲「勘弁まかりならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」
喜「誠に御道理ごもっとも……しかし屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大概たいげえ土から出来ねえものはねえ、それには肥料こやしいしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」
甲「なに肥料こやしをしないものはないが、直接じかに肥料を喰物くいものぶっかけて喰う奴があるか、しからん理由わけの分らん奴じゃアないか」
乙「これ/\其様そんな者に何を云ったって、痛いもかゆいも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此処こゝへ来て詫るならば勘弁してろう、それまで其の小包を此方こちらへ取上げて置け、なに娘を連れて年をっている奴だと、それ/\今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此方こっちへ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」
喜「詫ん事は無いたって、わしが不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法をたんだから、二つも三つも打叩ぶちたゝかれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其処そこを叩くてえ事はねえ」
甲「なに……」
 と又つ。
喜「あ痛い、又ったな」
甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」
喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」
甲「勘弁罷りならん」
喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝばわしがしくじるだ」
甲「手前が不調法をしてしくじるのは当然あたりまえだ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此方こっちへ出さんか」
喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃアわしが済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」
甲「なに野郎だ……」
 とお事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢「かまどんをっておくれな」
鎌「なに斯ういう事は矢張やッぱり女がいよ」
下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」
鎌「客種きゃくだねが悪い筋だ、なんかごたつこうとして居るはずみだから、どうも仕様がない」
 下婢おんなどもがそれへ参り、
下婢「ね、あなた方」
甲「何だ、何だ手前は」
下婢「貴方あなた申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此方こちらは下足番の有るのを御存じないものですから、履物はきものを懐へ入れて梯子段をあがろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何卒どうぞね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」
甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量がいとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」
下婢「誠にどうも、あのちょいと清次せいじどん」
清「そら、己の方へ来た」
下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」
清「女でもいのに、仕様がないね」
 と若い者が悪浪人わるろうにんの前へ来て、額へ手を当て、
若「えへゝゝ」
甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」
若「今日こんにち生憎あいにく主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御尤ごもっともさまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此方こなたで御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」
甲「只相済まん/\と云って何う致すのだ」
若「どうか旦那さま」
甲「うん何だと、何が何うしたと、此椀これを何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」
清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとおよしどん、是をずっと下げて、何かおつな、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような[#「ような」は底本では「なうな」]もので、えへゝゝ」
甲「いやな奴だな、空笑そらわらいをしやアがって」
清「ずっとお料理を取換え、お燗のい処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」
 それより他に致し方がないので、酒肴さけさかなを出しまして、
清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」
乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、てまえ酒肴しゅこうを振舞って貰いたいから立腹致したと心得てるか、振舞って貰いたい下心でおこってる次第じゃアなえぞ」
清「いえその最初はじまりは上げて置いて、あとで代を戴きます」
甲「てまえでは分らんもっと分る者をよこせ」
 二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながらあがってまいりました。

        十二

 喜六は力無げに二階へあがってまいり、
喜「はい御免下せえまし」
織「おゝ喜六か、是へ来い/\」
喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包をられて」
織「困ったものじゃアないか、何故なぜ草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へあがるなどという事があるかえ」
喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」
織「何も心得んとて、先方で立腹するところはもっともじゃアないか、喰物くいものの中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当然あたりまえのことじゃ、それから何う致した」
喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余所目よそめに見て二階に居ることはねえ、此処これへまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえとしっかり押えると、あんた傍に居た奴がわしの頭を叩いて、無理やりに引奪ひったくられましたから、大切な物でもへえってろうかと心配して居ります」
織「何も入って居らん空風呂敷からぶろしきではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名をけがす事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習慣しぐせけん男だ、誠に困ったもんだの」
喜「へえ、誠に困りました、うしてわしが頭ア五つくらしました」
織「たれながら勘定などをする奴が有りますか」
喜「余り口惜くやしゅうございます、中央まんなかにいた奴の叩くのが一番痛うござえました」
織「誠に困るの」
竹「おとっさま、斯う致しましょうか、かえって先方が食酔たべよって居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、わたくしは女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」
織「いや、己がいなければいが、己がいて其の方を出しては宜しくない」
[#「竹」は底本では「喜」]「いゝえ、喜六とわたくしと二人で此処こゝへまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」
喜「はい、お嬢様が出れば屹度きっと勘弁します、みんな助平そうなものばかりで」
[#「織」は底本では「竹」]「こら、其様そんなことを云うから物の間違になるんだ」
竹「じゃア二人の積りでいかえ、わたくしは手前を連れてお寺参りに来た積りで」
喜「どうか何分にも願います」
 とお竹のあとに附いて悄々しお/\と二階を下りる。此方こちらは益々たけり立って、
甲「さア何時までべん/\と棄置くのだ、二階へ折助おりすけあがったり下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」
 と申してるところへお竹がまいり、しとやかに、
竹「御免遊ばしませ」
甲「へえお出でなさい、何方どなたさまで」
竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れてって、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何卒なにとぞ御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りましてわたくしからお詫を致します事で」
甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身におでは恐入りましたね、誠にどうもおうるわしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗湯せんとうの帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」
竹「家来どもが不調法をいたし、さぞ御立腹ではございましょうが……」
甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、おで下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一盃ひとつ召上れ」
 と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見るとのろい人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でもすぐにでれ/\と許してしまう、それもいが、あとの勘定を何うする、勘定をよ、前に親娘連おやこづれであがった立派な侍が二階にるじゃアないか、しかるを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其のかどを押したら宜かろう、勘定を何うするよ」
甲「うん成程、気が付かんだったが、さきあがっていたか、至極どうも御尤ごもっともだからう致そうじゃアないか」
丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それでいじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様のはじになるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたらかろう」
甲「これは至極よろしい、たくは手狭だが、是なる者は拙者の朋友ともだちで、可なりうちも広いから、ちょっと一献いっこん飲直してお別れと致しましょう」
 とやさしい真白な手を真黒なきたない手で引張ひっぱったから、喜六は驚き、
喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」
甲「なに、此ん畜生」
 と又騒動が大きくなりましたから、流石さすがの渡邊も弱って何うする事も出来ません。打棄うっちゃってそっと逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍微塵あいみじんの小袖を大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人「えゝ卒爾そつじながら手前は此の隣席りんせきに食事を致して、只今帰ろうと存じてると、何か御家来の少しの不調法をかどに取りまして、暴々あら/\しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼処あれにて聞兼きゝかねて居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばしてさぞかし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思召おぼしめすかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如何いかゞで」
織「これはなんともはや、折角の思召ではござるが、先方ではのない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、ひらにお捨置きを願いたい」
浪人「いえ/\、手前は無禄無住むろくむじゅうの者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御主名ごしゅめいあかすのをひどく御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」
織「何ともそれでは恐入ります事で、しかし御迷惑だ……」
浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」
 とひっさげ刀で下へおりると、三人の悪浪人わるろうにんはいよ/\たけり立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人「御免を……」
甲「何だ」
浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ましたよししからん事で、女の身でお詫をいたし、かえって御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹がまかり出て重々恐入りますが、何卒なにとぞ御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は先刻さっき此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、かくの如く両手を突いてお詫を……」
甲「此奴こいつかえ/\」
乙「此者これじゃアなえよ、其奴そいつさきあがっていた奴だ、もっと年をってる奴だア、此奴はの娘へ※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)おべっかに入って来たんだ、其様そんな奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎たにやまとうじゅうろうと申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、かくの如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
 と半分残っていた吸物椀を打掛ぶっかけましたから、すっと味噌汁が流れました。流石さすが温和の仁もたちまち疳癖が高ぶりましたが、じっとこらえ、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方こっちへ申し受けよう、うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところがいぬを斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、当家こゝでも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合はたしあいに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって食物くいものの中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身でとてもお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、う了簡まかりならん、篦棒べらぼうめ」
 と侍の面部へ唾を吐掛はきかけました。

        十三

 斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭はんてぬぐいを出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人はじき気が附きまして、
○「やすさん出掛けよう、んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、の位妹が出て謝って、御主人が塩梅あんばいの悪いのに出て来て詫びているのに、ひどい事をするじゃアないか、汁を打掛ぶっかけたばかりで誰でも大概おこっちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえうちに出掛けよう、他に逃げ処がないからこう/\」
△「おりう云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼にさわらの照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口ちょこを二つばかりごまかしてこう」
 と皆逃支度にげじたくをいたします。此方こちらの浪人は屹度きっと身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁相成あいならんとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
 とずいとひっさがたなで立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
 と自分が斬られる訳ではないが、あわてゝ逃出すから、煙草盆を蹴散けちらかす、土瓶を踏毀ふみこわすものがあり、料理代を払ってく者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本かつぎ出す奴があります。の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「しからばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧ごろうじろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合はたしあいに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
 と何うしてもきません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳にぎりこぶしを振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
 と逆に捻倒ねじたおした手練てなみを見ると、あとの二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が口惜くやしいから又起上って組附いて来る処を、こぶしを固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身あてみをくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
 と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「其方そっちへ二人逃げた、威張った野郎の癖にざまア見やアがれ、殴れ/\」
 と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履ぞうり草鞋わらじを投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に有難ありがてえことで、はじまりは心配して居りました、し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっぬまで威張りアがって野郎」
 二つ三つ打つを押止おしとめ、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴こやつを殺しても仕様がないから、御家来はゞかりだが彼方あっちで手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はいかしこまりました」
 の侍は其処そこに倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋きょうろく一活いっかつ入れる。
甲「あっ……」
 と息を吹反ふきかえす処へ水を打掛ぶっかける。
甲「あっ/\/\……」
浪「其様そんな弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、よいに乗じはなはだ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもおわびを致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、おらような年いった弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那につかまると魂消たまげてやアがる、我身をつねって他人ひとの痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るからう思え」
 と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
 と這々ほう/\ていで逃げてくと、弥次馬に追掛おっかけられて又打たれる、意気地いくじのない事。
織「どうか一寸ちょっともとの席へ、まア/\何卒どうぞ…」
浪「いえ、ちっと取急ぎますから」
織「でもござろうが」
 と無理にもとの茶屋へ連戻り、上座じょうざへ直し、慇懃いんぎんに両手を突き、
織「ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守くめのみまさか家来渡邊織江と申す者、今日こんにち仏参ぶっさん帰途かえりみち、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力ごじょりきを得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、しかしどうも起倒流きとうりゅうのお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれよしあるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「手前てまいは名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂をりまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋ぼうおく佗住居わびずまいを致して居ります、此のとも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計たつき致し方なく売卜ばいぼくを致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは売卜者うらないしゃか、どうもえらいもんだね、売卜者ばいぼくしゃだから負けるか負けねえかをて置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「いずれ御尊宅へお礼に出ます」
 と宿所しゅくしょ姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込いりこみ、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があってたくんで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁なかへ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼にかんければ気が済みませんので、お竹と喜六をれ、結構な進物をたずさえまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜ばいぼくの看板が出て居りますから、
織「あ此家これだ、喜六一寸ちょっと其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方こなたかと云って伺ってみろ」
喜「はいかしこまりました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ有助ゆうすけ何方どなたか取次があるぜ」
有「はい畏りました」
 つか/\/\と出て来ました男は、少し小侠こいなせな男でございます。子持縞こもちじま布子ぬのこを着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋ぶすい打扮こしらえのようだが、もと江戸子えどっこだから何処どっか気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方こちらさまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用とうようか身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、おあがんなせえまし」
喜「いや、うじゃアござえません、旦那さまア此方こちらさまですと」
織「あい、御免くだされ」
 と立派な侍が入って来ましたから、有助も少しかたちを正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼にまかずべきでござったが、主用しゅよう繁多にき存じながら大きにお礼が延引いたしました、ようや今日こんにち番退ばんびきの帰りに罷出まかりでました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様かすぐに茶の良いのを入れて莨盆たばこぼん、に火をけて、いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「今日こんにちは宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭てぜまで何とも恥入りましたことで、さ何卒なにとぞお通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸ちょっとお台を……何でも宜しい、いえ/\其様そんな大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を此処これへ」
 と風呂敷をひらきまして、中から取出したは白羽二重しろはぶたえ一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。

        十四

 尚も織江は慇懃いんぎんに、
織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、おりはあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此娘これが又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実にかたじけない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女連おんなづれゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」
大「いえ/\何う致しまして、再度お礼ではかえって恐入ります、こと御親子ごしんしお揃いで斯様な処へおいでは何とも痛入いたみいりましてござる」
織「えゝ此品これは(と盆へ載せた品を前へ出し)[#「)」は底本では脱落]なんぞと存じましたが、御案内の通りで、下屋敷しもやしきから是までまいる間には何か調とゝのえます処もなく、殊に番退ばんひけからを見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」
大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理由わけもなし、おことばのお礼で十分、どうか品物の所は御免をこうむりとう、思召おぼしめしだけ頂戴致す」
織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……はなはなんでござるが御意ぎょいかなった色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」
大「なんともどうも恐入りました訳でござるしからば折角の思召おぼしめしゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品をるわけにはとてもまいりません、しかし此のお肴料さかなりょうとおしるしの包は戴く訳にはまいりません」
織「左様でもござろうが、貴方がなんでございますなら御奉公人にでもおつかわしなすって下さるように」
大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」
竹「いえ親共と早くお礼にあがりたいと申し暮し、わたくし種々いろ/\心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一寸ちょっと此方こちらへ出て、宜くお礼を」
喜「はい旦那さま、おりは何ともはアお礼の云うようもござえません、わしなんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼奴等あいつら打殺ぶちころされても命のおしいわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打殺ぶっころされたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼のもうしようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打殺うちころしただから、お侍はちがったものだと噂をして居りました」
大「う云われてはかえって困る、これは御奉公人で」
喜「はいわしなんでござえます、お嬢さまが五才いつゝの時から御奉公をして居り、ながえ間これ十五年もお附き申していますからお馴染なじみでがす、の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いでっつけたで、えら腹がったから、二合出たのを酌飲くんのんじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」
織「えゝ今日こんにちすぐにおいとまを」
大「何はなくとも折角の御入来ごじゅうらいもとより斯様な茅屋ぼうおくなれば別に差上さしあげるようなお下物さかなもありませんが、一寸ちょっと詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」
織「いや思召おぼしめしかたじけないが、今日こんにちは少々急ぎますから、しかし貴方様はお品格といい、先達せんだって三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御生国ごしょうこく矢張やはり美作で」
大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、いさゝか高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、おいとまになりまして、しばらくの間黒戸くろとの方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえにあれとは知る仲でございます」
織「実にどうも貴方はおしいことで、大概忠臣二君につかえずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再びしゅうは持たんというところの御決心でござるか」
大「いえ/\二君につかえんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店借たながりを致して、売卜者ばいぼくしゃで生涯朽果くちはてるも心外なことで、仮令たとえ何様どんな下役小禄でも主取しゅうとりをして家名を立てたい心懸こゝろがけもござりますが、これという知己しるべもなく、手蔓等てづるとうもないことで、先達せんだって權六に会いまして、これ/\だと承わり、お前はうらやましい事で、遠山の苗字を継いでもと米搗こめつきをしていた身の上の者が大禄たいろくを取るようになったも、全くお前の心懸こゝろがけが良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とてもういう身の上には成れんが、何様どんな処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、の様な小禄の旗下はたもとでも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んでおきましたが、御重役の尊公定めしお交際つきあいもお広いことゝ心得ますから」
織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫にまみえずの教訓を守って居りましたが、かえってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美作守みまさかは小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共はだ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」
大「どうもそれはかたじけない事で」
 と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種々いろ/\周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏のもとへお召状めしじょうが到来致しましたことで、大藏ひらいて見ると。

御面談申度もうしたき有之候これありそうろうみょう十一日朝五つ時当屋敷へ御入来ごじゅらい有之候よう美作守みまさかのかみ申付候此段得御意ぎょいをえ候以上
美作守内[#地付き、地より8字アキ]

    三月十日

寺島兵庫

        松蔭大藏殿
 という文面で、文箱ふばこに入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請書うけしょをいたし、是から急に支度にかゝり、小清潔こざっぱりした紋付の着物が無ければなりません、紋が少しちがっていても宜い、昌平しょうへいかせてもじきに出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いにつかわし、大小はもとより用意たしなみがありますから之をして、翌朝よくあさの五つ時に虎の門のお上屋敷かみやしきへまいりますと、御門番にはかねて其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。

        十五

 御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持をくだし置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付にはたか拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江からきたる十五日御登城の節お通り掛けお目見え仰付おおせつけらるゝ旨、かつ上屋敷に於てお長家ながやを下し置かるゝ旨をもあわせて達しましたので、大藏は有難きよしのおうけをして拝領の長家へさがりました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、あれもお持ちなさいと種々いろ/\な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其のうち十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は麻上下あさがみしもでお廊下に控えていると、やがてごそり/\と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、むしろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。しか当時そのころでは是すら容易に出来ませんことで、先ずとゞこおりなくお目見えも済み、是から重役の宅を廻勤かいきんいたすことで、是等これらすべて渡邊織江の指図でございますが、羽振のい渡邊織江の引力でございますから、おのずから人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお下屋敷詰しもやしきづめを申付けられました。はじまりはお屋敷そとを槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は仲間部屋ちゅうげんべやから出ます、棒持の方は足軽部屋から[#「て」は底本では「で」]甃石いしの処をとん/\とん/\たゝいてるく、余りい役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の高持たかもちになりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、一寸ちょっという一言ひとことに人を感心させるのが得意でございますから、家中かちゅう一般の評判が宜しく、
甲「流石さすがは渡邊うじ見立みたてだ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ」
乙「いゝえなんでげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体あれを家老にしたら宜かろう」
 などと種々いろ/\なことを云います。大藏はもとより気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして
大「一盃いっぱい飲むがい、今日こんにちは雪が降って寒いから巡検おまわりわし一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ」
 とかねびらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、
甲「野上のがみイ」
乙「えゝ」
甲「今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね」
乙「あれは別だね一寸ちょっと来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、仮令たとえ二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、は寒いから止せ/\と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると此方等こちとらは寝たがってばかりいてて仕様がないの」
甲「本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった」
 と仲間共ちゅうげんどもは大藏を見まして、
「えゝどうもお寒うございます」
大「あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お客来きゃくらい遺失物おとしものでもあるといかんから、仁助にすけわしが一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから」
仁「成程降って来ましたね」
大「よほど降って来たな、提灯ちょうちんも別にるまい、廻りさえすればいのだ、わしは新役だからこれがつとめで、貴様達は私に連れられる身の上だ、ことに一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れてかれるのも迷惑だろうから」
仁「面目次第もありませんが、此方等こちとらは狼藉者でも出ると、真先まっさきに逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝アこわすたちでありますよ、恐入りますな」
大「御家中ごかちゅうで万事に心附こゝろづきのある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さしのぎに酒を用いたら宜かろうと云って、御酒ごしゅを下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り徳利とくりを提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に下物さかなはないから、此銭これで何ぞすきな物を買って、夜蕎麦売よそばうりが来たら窓から買え」
仁「恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、いつもお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……」
大「雪がひどく降るので手前達も難儀だろう、わし一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ/\」
 と竹の饅頭笠をかぶり、提灯を提げ、一人でひそかに廻りましたがかえってどか/\多勢おおぜいで廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ/\一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が長局ながつぼねの塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら/\と雪が顔へ当り、なか/\寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、
大「あゝ困ったもの」
 とあと退さがると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の頭巾ずきん目深まぶかに被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、小刀しょうとうは付けているかいないか判然はっきり分りませんが、鞘の光りが見えます。
大「はてな」
 と大藏はあと退さがって様子を見ていました。すると三尺の開口ひらきぐちがギイーとき、内から出て来ました女はお小姓姿、文金ぶんきん高髷たかまげ、模様はしかと分りませんが、華美はでな振袖で、大和錦やまとにしきの帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も判然はっきり分りませんが、只色の真白まっしろいだけは分ります。大藏は心のうちで、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、いつも下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、今日こんにちのお客来で御蔵おくらから道具を出入だしいれするお掃除番が、粗忽そこつで此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろしからん事だと、段々側へ来て見ますと、塀外へいそとに今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたしてるのではないかと存じましたから、あと退さがって息をころして、そっと見て居りますと、の女は四辺あたりをきょろ/\見廻しまして声を潜め、
女「春部はるべさま、春部さま」
春「シッ/\、声を出してはなりません」
 と制しました。

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