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素戔嗚尊(すさのおのみこと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 10:26:40  点击:  切换到繁體中文


        四

 二人はこう云う力競(ちからくら)べを何回となく闘(たたか)わせた。その内に追い追い二人とも、疲労の気色(けしき)を現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が滴(したた)っていた。のみならず彼等の着ている倭衣(しずり)は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を擡(もた)げ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に止(や)めそうな容子(ようす)もなかった。
 彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘鶏(とうけい)や闘犬(とうけん)の見物(けんぶつ)同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に捉(とら)えていた。だから彼等は二人の力者(りきしゃ)に、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が徒(いたず)らに尊い血を流した、――宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。
 勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に背(せい)の低い猪首(いくび)の若者は、露骨にその憎悪を示して憚(はばか)らなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。
 彼は今も相手の投げた巌石を危く躱(かわ)しながら、とうとうしまいには勇を鼓(こ)して、これも水際(みぎわ)に横(よこた)わっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は斜(ななめ)に流れを裂(さ)いて、淙々(そうそう)とたぎる春の水に千年(ちとせ)の苔(こけ)を洗わせていた。この大岩を擡(もた)げる事は、高天原(たかまがはら)第一の強力(ごうりき)と云われた手力雄命(たぢからおのみこと)でさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、渾身(こんしん)の力を揮(ふる)い起して、ともかくも岩の根を埋(うず)めた砂の中からは抱え上げた。
 この人間以上の膂力(りょりょく)は、周囲に佇(たたず)んだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った観(かん)があった。彼等は皆息を呑んで千曳(ちびき)の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴(したた)り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後(のち)、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好(よ)い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩(も)れた驚歎の呻(うめ)きにほかならなかった。何故(なぜ)と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡(もた)げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分(いちぶ)ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀(とつこつ)たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額(ひたい)に乱して、あたかも大地(だいち)を裂(さ)いて出た土雷(つちいかずち)の神のごとく、河原に横(よこた)わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。

        五

 千曳(ちびき)の大岩を担(かつ)いだ彼は、二足(ふたあし)三足(みあし)蹌踉(そうろう)と流れの汀(なぎさ)から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好(い)いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。
 猪首(いくび)の若者は逡巡(しゅんじゅん)した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、
「よし。」と噛(か)みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱(だ)き取ろうとした。
 岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫(かんまん)であった。と同時にまた雲の峰が堰(せ)き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼(おおかみ)のように牙(きば)を噛みながら、次第にのしかかって来る千曳(ちびき)の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那(せつな)の間(あいだ)、大風(おおかぜ)の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋(うず)めた鬚(ひげ)を除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの眩(まばゆ)い砂の上へ頻(しきり)に汗の玉が落ち始めた。――と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分(いちぶ)ずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、石塊(いしくれ)の下にもがいている蟹(かに)とさらに変りはなかった。
 周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の背(せな)からさっき擡(もた)げた大盤石(だいばんじゃく)を取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と驚愕(きょうがく)とを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した眼(まなこ)を相手に注ぐよりほかはなかった。
 その内に猪首の若者は、とうとう大岩に背(せな)を圧(お)されて、崩折(くずお)れるように砂へ膝をついた。その拍子(ひょうし)に彼の口からは、叫ぶとも呻(うめ)くとも形容出来ない、苦しそうな声が一声(ひとこえ)溢(あふ)れて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を飜(ひるがえ)して、相手の上に蔽(おお)いかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は多愛(たわい)もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも夥(おびただ)しく鮮(あざやか)な血を迸(ほとばし)らせた。それがこの憐むべき強力(ごうりき)の若者の最期(さいご)であった。
 あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を束(つか)ねたまま、陽炎(かげろう)の中に倒れている相手の屍骸(しがい)を見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは麗(うら)らかな日の光を浴びて、いずれも黙念(もくねん)と眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。

        六

 高天原(たかまがはら)の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装(よそお)う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬(しっと)を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度(おめでた)さとに残酷な嘲笑(ちょうしょう)を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。
 こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首(いくび)の若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷(いた)ましい痕跡(こんせき)を残していた。この記憶を抱(いだ)いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥(しゅうち)の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目(ま)なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。
 彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞(めぐ)る山間の自然の中(うち)に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩(やまばと)の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆(あし)と共に、彼の寂寥(せきりょう)を慰むべく、仄(ほの)かに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木(やぶき)の交(まじ)る針金雀花(はりえにしだ)、熊笹の中から飛び立つ雉子(きぎす)、それから深い谷川の水光りを乱す鮎(あゆ)の群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎(あいぞう)の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。
 時々彼が谷川の石の上に、水を掠(かす)めて去来する岩燕(いわつばめ)を眺めていると、あるいは山峡(やまかい)の辛夷(こぶし)の下に、蜜(みつ)に酔(よ)って飛びも出来ない虻(あぶ)の羽音(はおと)を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座(とうざ)どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫(らくばく)たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎(なげ)くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣(けもの)のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。
 彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏(かしわ)の梢(こずえ)に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天(あめ)の安河(やすかわ)の河原(かわら)に近く、碁石(ごいし)のように点々と茅葺(かやぶ)き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食(かしょく)の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨(また)がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺(ゆす)って、折々枝頭の若芽の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)(におい)を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁(ささや)いて行くように思われた。
「素戔嗚(すさのお)よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」

        七

 しかし素戔嗚(すさのお)は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原(たかまがはら)の国に繋(つな)いでいたか。――彼は自(みずか)らそう尋(たず)ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私(ひそ)かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合(ふにあい)の感じがしたからであった。
 彼が始めてこの娘に遇(あ)ったのは、やはりあの山腹の柏(かしわ)の梢(こずえ)に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている天(あめ)の安河(やすかわ)を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと礫(こいし)を投げたように、彼の寂しい真昼の夢を突嗟(とっさ)の間(あいだ)に打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、麗(うら)らかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、頻(しきり)に何か笑い興じていた。
 彼等は皆竹籠を臂(ひじ)にかけている所を見ると、花か木の芽か山独活(やまうど)を摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、卑(いや)しいものの娘でない事は、彼等の肩に懸(かか)っている、美しい領巾(ひれ)を見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に飜(ひるがえ)しながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の山鳩(やまばと)を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。
 素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ撒(ま)き散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで跨(またが)っていた太枝を掴(つか)んで、だらりと宙に吊(つ)り下った。と思うと一つ弾(はず)みをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その拍子(ひょうし)に足を辷(すべ)らせて、呆気(あっけ)にとられた女たちの中へ、仰向(あおむ)けさまに転がってしまった。
 女たちは一瞬間、唖(おし)のように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと傲然(ごうぜん)と、女たちの顔を睨(にら)めまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。
「あなたは一体どこにいらしったの?」
 やっと笑い止んだ女たちの一人は蔑(さげす)むようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない可笑(おか)しさが残っているようであった。
「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」
 素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。

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