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素戔嗚尊(すさのおのみこと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 10:26:40  点击:  切换到繁體中文



        八

 女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが素戔嗚尊(すさのおのみこと)には腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、故(ことさら)に彼等を脅(おびやか)すべく、一層不機嫌(ふきげん)らしい眼つきを見せた。
「何が可笑(おか)しい?」
 が、彼等には彼の威嚇(いかく)も、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい領巾(ひれ)を弄(もてあそ)びながら、
「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの?」と云った。
「鳩(はと)を助けてやろうと思ったのだ。」
「私(あたし)たちだって助けてやる心算(つもり)でしたわ。」
 三番目の娘は笑いながら、活(い)き活(い)きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、容子(ようす)もすぐれて溌溂(はつらつ)としていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この利発(りはつ)らしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、何故(なぜ)と云う事もなく狼狽(ろうばい)した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその慌(あわ)て方を見せたくないと云う心もちもあった。
「嘘をつけ。」
 彼は一生懸命に、乱暴な返事を抛(ほう)りつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。
「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる心算(つもり)でしたわ。」
 彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当惑(とうわく)を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。
「ほんとうですわ。」
「どうして嘘だと御思い?」
「あなたばかり鳩が可愛(かわい)いのじゃございません。」
 彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊(こわ)された蜜蜂(みつばち)のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒(なぎたお)しそうな擬勢(ぎせい)を示しながら、雷(いかずち)のように怒鳴りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」
 女たちはさすがに驚いたらしく、慌(あわ)てて彼の側(かたわら)を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜(よめな)の花を摘み取っては、一斉(いっせい)に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)(におい)の好い雨を浴びたまま、呆気(あっけ)にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯(いたずら)な女たちの方へ、二足(ふたあし)三足(みあし)突進した。
 彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止(どま)ったなり、次第に遠くなる領巾(ひれ)の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故(なぜ)か薄笑いが、自然と唇(くちびる)に上(のぼ)って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗(うら)らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後(あと)にはただ草木の栄(さかえ)を孕(はら)んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
 何分(なんぷん)か後(のち)、あの羽根を傷(きずつ)けた山鳩は、怯(お)ず怯(お)ずまたそこへ還(かえ)って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向(あおむ)いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――

        九

 その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言(ひとこと)もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅(か)ぎつけるには、余りに平生(へいぜい)の素戔嗚(すさのお)が、恋愛とは遥(はるか)に縁の遠い、野蛮(やばん)な生活を送り過ぎていた。
 彼は相不変(あいかわらず)人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中(ひとよじゅう)、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪(しし)などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲(す)んでいる大鷲(おおわし)を射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗(いまだかつて)、その非凡な膂力(りょりょく)を尽すべき、手強(てごわ)い相手を見出さなかった。山の向うに穴居(けっきょ)している、慓悍(ひょうかん)の名を得た侏儒(こびと)でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸(しがい)になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。
 その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀(いが)み合う事を憚(はばか)らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮(いこう)には頓着なく、ほとんど何事にも軋轢(あつれき)し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――
 現に一度はこう云うことがあった。
 ある麗(うらら)かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山(くさやま)を独(ひと)り下(くだ)って来た。その時の彼の心の中(うち)には、さっき射損じた一頭の牡鹿(おじか)が、まだ折々は未練がましく、鮮(あざや)かな姿を浮べていた。ところが草山がやや平(たいら)になって、一本の楡(にれ)の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻(しきり)に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼(か)いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食(は)んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕(ぬぼく)のごとく彼に仕えるために、反(かえ)って彼の反感を買った事がある男に違いなかった。
 彼は彼等の姿を見ると、咄嗟(とっさ)に何事か起りそうな、忌(いま)わしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、元(もと)より彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、
「どうしたのだ。」と声をかけた。
 その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭(あ)ったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの理不尽(りふじん)な事を滔々(とうとう)と早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷(きずつ)けたり虐(いじ)めたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を睨(にら)みつけて、
「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、横柄(おうへい)な文句を並べたりした。

        十

 素戔嗚(すさのお)は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野蛮(やばん)な彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその刹那(せつな)に彼の崇拝者は、よくよく口惜(くちお)しさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬(ほお)を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ掴(つか)みかかった。
「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」
 こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を嗔(いか)らせながら、今度は彼へ獅噛(しが)みついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした鞭(むち)をふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は咄嗟(とっさ)に二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に度(ど)を失った素戔嗚へ、紛々と拳(こぶし)を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに途(みち)はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭(こうべ)に下(くだ)った時、彼は理非も忘れるほど真底(しんそこ)から一時に腹が立った。
 たちまち彼等は入り乱れて、互に打ったり打たれたりし出した。あたりに草を食(は)んでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を揮(ふる)うのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行方(ゆくえ)に気をとめる容子(ようす)は見えなかった。
 が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫(くじ)かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意気地(いくじ)なく草山を逃げ下(くだ)って行った。
 素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し止(とど)めなければならなかった。
「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが好(い)いのだ。」
 若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく殴(なぐ)られた事は、一面に地腫(じばれ)のした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に可笑(おか)しさがこみ上げて来た。
「どうした? 怪我(けが)はしなかったか?」
「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」
「うん、瘤(こぶ)が一つ出来ただけだった。」
 素戔嗚はこう云う一言に忌々(いまいま)しさを吐き出しながら、そこにあった一本の楡(にれ)の根本(ねもと)に腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格闘(かくとう)が、夢のような気さえしないではなかった。
 二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。
「どうです。瘤は痛みますか。」
「大して痛まない。」
「米(こめ)を噛(か)んでつけて置くと好(い)いそうですよ。」
「そうか。それは好い事を聞いた。」

        十一

 ちょうどこの喧嘩(けんか)と同じように、素戔嗚(すさのお)は次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、思兼尊(おもいかねのみこと)だの手力雄尊(たぢからおのみこと)だのと云う年長者(ねんちょうじゃ)に敬意を払っていた。しかしそれらの尊(みこと)たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
 殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木(くちき)の幹へ腰を下して、思いのほか打融(うちと)けた世間話などをし始めた。
 尊(みこと)はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予(か)ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担(にな)っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師(まじものし)のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷(さんこく)の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
 彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂(た)れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀(しろがね)のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。
「近頃はあなたの剛力(ごうりき)が、大分(だいぶ)評判(ひょうばん)のようじゃありませんか。」
 しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬(かたほ)に笑(えみ)を浮べた。
「評判だけ大きいのです。」
「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐(がい)があるのですから。」
 素戔嗚にはこの答が、一向腑(ふ)に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」
「さらに剛力ではなくなるのです。」
「しかし人が掬(すく)わなくっても、砂金(しゃきん)は始(はじめ)から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」
 素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯(からか)われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺(しわ)だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色(けしき)は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」
「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」
 思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗(ふき)の薹(とう)の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)(におい)を嗅(か)ぎ始めた。

        十二

 素戔嗚(すさのお)はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊(おもいかねのみこと)が彼の非凡な腕力へ途切(とぎ)れた話頭を持って行った。
「いつぞや力競(ちからくら)べがあった時、あなたと岩を擡(もた)げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
 素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日(うすび)がさした古沼(ふるぬま)の上へ漂(ただよ)わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽(め)ぐんだ春の木々をひっそりと仄(ほの)明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、
「気の毒ですが、莫迦(ばか)げていますよ。第一私(わたし)に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)じゃありませんか。」
「しかし私(わたくし)は何となく気が咎(とが)めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反(かえ)って憎(にく)まれているようです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」
「世の中はそう云うものでしょうか。」
 その時尊(みこと)は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。
 素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目(やまめ)が一尾(いちび)、溌溂(はつらつ)と銀のように躍(おど)っていた。
「魚は人間より幸福ですね。」
 尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤(かぎ)を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
 彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛(ほう)りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
 尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目(まじめ)な調子になって、白い顎髯(あごひげ)を捻(ひね)りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
 彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋(たず)ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹(ひ)くものが潜(ひそ)んでいたのであった。
「鉤(かぎ)が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
 思兼尊の皺(しわ)だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
 二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠(かわせみ)が、時々水を掠(かす)めながら、礫(こいし)を打つように飛んで行った。

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