海野十三全集 第2巻 俘囚 |
三一書房 |
1991(平成3)年2月28日 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
1
この奇怪極まる探偵事件に、主人公を勤める「赤外線男」なるものは、一体全体何者であるか? それはまたどうした風変りの人間なのであるか? 恐らくこの世に於て、いまだ曾て認識されたことのなかった「赤外線男」という不思議な存在――それを説明する前に筆者は是非とも、ついこのあいだ東都に起って、もう既に市民の記憶から消えようとしている一迷宮事件について述べなければならない。
これは事件というには、実にあまりに単純すぎるために、もう忘れてしまった人が多いようであるが、しかし知る人ぞ知るで、識っている人にとっては、これ又奇怪な事件であることに、この迷宮事件が後になって、例の摩訶不思議な「赤外線男」事件を解く一つの重大なる鍵の役目を演じたことを思えば、尚更逸することのできない話である。
なんかと云って筆者は、話の最初に於て、安薬の効能のような台辞をあまりクドクドと述べたてている厚顔さに、自分自身でも夙くに気付いているのではあるが、しかしそれも「赤外線男」事件が本当に解決され、その主人公がマスクをかなぐり捨てたときの彼の大きな駭きと奇妙な感激とを思えば、一見思わせたっぷりなこの言草も、結局大した罪にならないと考えられる。――
さてその日は四月六日で、月曜日だった。
ところは大東京で一番乗り降りの客の多いといわれる新宿駅の、品川方面ゆきの六番線プラットホームで、一つの事件が発生した。
それは丁度午前十時半ごろだった。この時刻には、流石の新宿駅もヒッソリ閑として、プラットホームに立ち並ぶ人影も疎らであった。
あの六番線のホームには、中央あたりに荷物上げ下げ用のエレヴェーターがあって、その周囲は厳重な囲いが仕切られて居り、その背面には、青いペンキを塗った大きな木の箱があって、これにはバケツだとかボロ布などの雑品が入っているのだが、その箱の上を利用して新聞雑誌が一杯拡げられ、傍に青い帽子を被った駅の売子が、この間に合わせながら毎日規則正しく開かれる店の番をしている。
このエレヴェーターとレールとの間のホームの幅は、やっと人がすれちがえるほどの狭さであるが、その通路にはエレヴェーターを背にして駅の明いているうちは不思議にもきまって、必ず一人の若い婦人が凭れているのだ。その婦人は電車の発着に従って人は変るけれど、其の美しさと、何となく物淋しそうな横顔については、どの女性についても共通なのであった。この神秘を知っている若いサラリーマン達の間には、このエレヴェーター附近を「佐用媛の巌」と呼び慣わしていた。かの松浦佐用媛が、帰りくる人の姿を海原遠くに求めて得ず、遂に巌に化したという故事から名付けたもので、その佐用媛に似た美しさと淋しさを持った若い婦人がいつも必ず一人は居るというのであった。
その午前十時半にも確かに一人の佐用媛が巌ならぬエレヴェーターの蔭に立っていた。鶯色のコートに、お定りの狐の襟巻をして、真赤なハンドバッグをクリーム色の手袋の嵌った優雅な両手でジッと押さえていた。コートの下には小紋らしい紫がかった訪問着がしなやかに婦人の脚を包み、白足袋にはフェルト草履のこれも鶯色の合わせ鼻緒がギュッと噛みついていた――それほど鮮かな佐用媛なのに、そのひとの顔の特徴を記憶している者が殆んど無いという全くおかしな話だった。尤もホームは至って閑散で、そんなことには超人的な記憶力をもっている若い男たちが、幸か不幸かその近所に居合わさなかったせいにもよるだろう。そこへ上りの品川廻り東京行きの電車がサッと六番線ホームへ入って来た。運転台の硝子窓の中には、まだ昨夜の夢の醒めきらぬらしい、運転手の寝不足の顔があった。
「呀ッ!!」
運転手は弾かれたように、座席から立ちあがった。彼の面はサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。
ゴトリ。……ゴトリ。……
車輪とレールとの間に、確かな手応があった。あのたまらなくハッキリした轢音が……。佐用媛がいきなりホームからレール目懸けて飛びこんだのだ!
それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。
現場の落花狼藉は、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。
「……というような着衣の上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円札で九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。……ああ、年齢ですか。それがどうも明瞭でありませぬ。何しろ、顔面を滅茶滅茶にやられてしまったものですからネ。しかし着物の柄や、四肢の発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」
係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を嚥みこんだ。
やがて鶯色のコートを着た轢死婦人の屍体は、その最期を遂げた砂利場から動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが筋書だったが、どうしたものか何時まで経っても引取人が現れない。告知板に掲示をしてある外、午後一時のラジオで「行路病者」の仲間に入れて放送もしたのであるが、更に引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議千万だと署員が噂さし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは轢死後、丁度十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。
それは隅田乙吉と名乗る東京市中野区の某料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の卓子の上に拡げられた数々の遺留品を一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の末の妹だったのだ。
「このコンパクトですがネ、梅子――これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。蓋をあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと不良の方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達同胞もいけなかったんです。何しろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は末ッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お小遣いヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる嵩でした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは流石の同胞たちも、梅子から持ちこまれる尻拭いに耐えきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、又金の無心です。これが最後だというので百円呉れてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな惨らしいことになろうとは思いませんでした。……なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから……」
顔面は判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々肯定したので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを謝し、屍体は持参の棺桶に収め所持品は風呂敷に包んで帰りかけた。
「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」司法係の熊岡という警官が席から立ち上って来た。
「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又卓子の上に置いて振りかえった。
「君はこんなものを知らんか」
警官は掌の上に、ヨーヨーを横に寝かしたような紙函を載せて、乙吉の方にさしだした。
「これは……?」乙吉の受取ったのは、よく鉱物の標本を入れるのに使う平べったい円形のボール函で、上が硝子になっていた。硝子の窓から内部を覗いてみると、底にはふくよかな脱脂綿の褥があって、その上に茶っぽい硝子屑のようなものが散らばっている。
「判らんかネ」と警官は再び尋ねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」
「どこに御座いましたのですか」
「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅からゴミと一緒に拾い出したのだ」
「さあ、どうも見当がつきませんが……」
どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上追究したり、また今とりつつある上官の処置に異議を挿もうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。
隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が殺到して来た。
「とうとう、新宿の轢死美人の身許が判ったてじゃありませんか。誰だったんです」
「自殺の原因は何です」
「全然素人じゃないという噂さもありましたが……」
当直は、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと禿げ頭を掻いた。
「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」
本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと大欠伸した。記者連もこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの誤りだったような気がして、一緒に欠伸を催したほどだった。
しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、互に血相をかえて「怪事件発生」を喚きあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。
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