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捜査課長の殺害事件は、俄然日本全国の新聞紙を賑わした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の面目はまるつぶれだった。
四谷に赤外線男が出た。三河島にも赤外線男が現われたと、時間と場所とを弁えぬ出現ぶりだった。尤もそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、一寸話を聞いただけで偽赤外線男だと看破出来るようなものもあった。
帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を埋めると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の故幾野氏の惨死事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら勿論出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。
雁金検事、中河判事――この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。
警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。
熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。但しいろいろと探偵眼のあるところが、平警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。
残るは深山理学士だ。これは確かに怪しくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の嫌疑は薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ抛り上げられていた被害者ででもある。感心しない。
然らば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの溌溂たる肉体美から云って信じられない。殊に課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。
いや凡そ、あの部屋にいた連中は皆、闇黒の中に沈澱していたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で延髄を刺すということは、誰にも出来ない筈だ。
残る嫌疑者は自分であるが、これとても同じことが云える。
然らば、誰が課長を殺したか?
ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。
帆村は呻りながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む頭脳をふり絞った。
有るには有る。あの延髄を刺した鍼だ。調べてみると指紋はあった。しかし細い鍼の上にのった幅のない指紋なんて何になるのだ。
それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。
次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が要るとは可笑しい。しかし靴を履いていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、矢張り金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、背丈肉付もわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと拡がらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、若しや赤外線男に手下があるのではあるまいか。
世間では、新宿のホームから飛びこんで轢死した婦人の身許もわからないし、地下に葬った筈の死骸が紛失した不思議さを、今も尚覚えていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を捕虜にし、その皮を剥いで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に紛れこんでくるのがある。しかしあの婦人の顔面は滅茶滅茶だった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて印度や土耳古なら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。
それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの焼け屑だ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。
赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、隅田梅子という婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから黒河内子爵夫人が、行方不明で、今も尚生死が知れぬが、あの少し前に、乱歩氏の「陰獣」のことを言い出したという事――よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。
帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って卓子の灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。
そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。
「帆村君を願います」性急な声が聞えた。
「帆村は私ですが、貴方は?」
「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った新進の警部だった。
「大江山さんですか。また何かありましたか」
「ええ、あったどころじゃないです。唯今総監閣下が殺害されました」
「ナニ総監閣下が……? 本当ですか」
「困ったことですが、本当です」
「一体どうしたのです。どこでやられたのです」
「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方にもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻総監閣下が急に見たいと仰有るので到頭ご覧に入れちまったのです」
「そりゃ拙かったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。
「私ども始めはお止めしたのです。しかし閣下は他出される約束があって、その日の三時にはご覧になれないのです。それで強いてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」
例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線発生灯を点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に撮る。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の動静を赤外線映画に収めてしまう。斯うすれば、その中で怪し気な行動をする者がフィルムの上に映った筈だから、後で現像すればそれと判る――こんな仕掛けを予め作って置いたのである。しかし総監閣下が犠牲になられたのでは、何にもならない。本庁の連中の愚鈍さに、帆村は呆れる外なかった。
「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」
「そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」
「現像は……」
「今やっています。直ぐこれからおいで願いたいのです」
「ええ、参ります」
帆村は憂鬱な返辞をした。
駆けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺られる人に事欠いて、総監閣下が苟めの機会から非業の死を遂げたというのだから、これは大変なことである。
「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先に訊いた。
「出来たのですが……」
「どうしたんです?」
「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心のところは真暗で、何にも写ってやしません」
課長は、面目なげに下俯いた。
「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」
「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈なく調べ、繃帯もすっかり取外させるし、眼鏡もとられて眼瞼もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得るところもありません」
「ダリア嬢の眼はどうです」
「ますますひどいようですよ。左眼は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」
「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」
「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳しく説明していた最中なのです。深山氏が喋っているのに、閣下はウーンといって仆れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」
「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」
「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室内へは行かないと云っていますよ」
「では犯人は一体誰なんです」
「赤外線男――でしょうナ」
「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」
「今となっては満足しています。昨日までは稍信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」
「しかし、レンズは室内を睨ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」
帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉を飛ばした。
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