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「赤外線男というものが棲んでいる!」
途方もない「赤外線男」の存在を云い出したのは、外ならぬ深山理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。
大胆といおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に駭いたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。逸早く帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると識らざるとを問わず、どこからどこの隅々まで、一大センセイションが颶風の如く捲きあがった。
「赤外線男というものが棲んでいるそうだ」
「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」
「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」
などと、人の噂は千里を走った。
なにが「赤外線男」だ?
深山理学士の言うところによれば斯うだ。
「予はかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、此の程完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い吸収硝子で除いて、装置の中には入れない。だから徹頭徹尾、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。
「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を覗くことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も仄暗くハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど白昼と変らない明るさであった。それは太陽の残光が多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、吾人が既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように真白にうつって見えた。なんという驚くべき器械の魅力であるか。
「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに驚倒せしめるものがあろうとは、今日の今日まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと匍いまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を覗いてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、彼の生き物は直立した。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり肥えている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。鳥渡悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと眺められる人の姿でありながら、一度元の肉眼にかえると、薩張り見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男――というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。
しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと逸走を始めた。そしてアレヨアレヨと云う裡に、視界の外に出てしまった。駭いてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、最早駄目だった。しかし兎も角も、予は初めて『赤外線男』の棲んでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が棲んでいるとは、何という駭くべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」
深山理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。
「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の身近かに現われるかと思って戦々恟々としていた。
そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の仕業と思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。
郊外の文化住宅の卓子の上に、温く湯気の立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。
ギンザ、ダンスホールの夜更け。ジャズに囃されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際の椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々年増のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭いてダンスを止めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中だったという。――何が幸になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝ちだったのが急に流行っ児になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。
こうなると何事も、暗闇だからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時赤外線男にアリアリと覗かれてしまうか知れなかったのである。
これに類する報告は、日一日と殖えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧又は軽い痴漢みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待外れを口にする人も少くはなかった。
だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如として赤外線男の魔手は伸び、帝都全市民の面は紙のように色を喪って、「赤外線男」恐怖症に罹らなければならなくなった。――それは赤外線男発見者の深山理学士の研究室が不可解な襲撃をうけたことだった。
これは午前二時前後の出来ごとだったけれど、警視庁へ報告されたのはもう夜明けの五時頃だった。場所が場所であるし、赤外線男の噂さの高い折柄でもあったので、直ちに幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事等、係官一行が急行した。
取調べの結果、判明した被害は、深山研究室の扉が破壊せられ、あの有名なる赤外線テレヴィジョン装置が滅茶滅茶に壊されているばかりか、室内のあらゆる戸棚や引出しが乱雑に掻き廻され、あの装置に関する研究記録などが一枚のこらず引裂かれているというひどい有様だった。
襲撃されたところは、もう一ヶ所あった。それは深山研究室に程近い研究所の事務室だった。ここでも同じ様な狼藉が行われているのみか、壁の中に仕掛けられた額のうしろの隠し金庫が開かれ、現金千二百円というものが盗まれてしまった。
さて当の深山理学士は、当夜例のとおり、研究室内に泊っていた筈だが、どうしていたかと云うと、赤外線男のために、もろくも猿轡をはめられ両手を後に縛られて、室内にあった背の高い変圧器のてっぺんに抛りあげられて、パジャマ一枚で震えていた。これを発見したのは係官の一行だった。
「この事件を真先に発見したのは、誰かネ」
と幾野捜査課長は、走せ集った研究所の一同を見廻わしていった。
「儂でございます」年寄の用務員が云った。「儂は毎晩研究所を見廻わっている役でございます」
「発見当時のことを残らず述べてみなさい」
「あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、夜番の室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて闇の戸外へ一歩踏み出した途端に、脾腹をドスンと一つきやられて、その儘何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、儂は元の室の土間の上に転がっているという始末。それから駭いて窓から外へ飛び出すと、門衛のいますところまで駈けつけて、大変だと喚きましたようなわけです」
「すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか」
「それが何にも見えませんでございました」
「序に聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか」
「存じて居ります。昨夜のあれは、赤外線男でございましたでしょうか」老人は急に臆気がついてブルブル慄え出した。
課長は、用務員を下げると、今度は深山理学士を呼び出した。
「昨夜、貴方の襲撃された模様をお話し下さい」
「どうも面目次第もないことですが」と学士はまず頭を掻いて「何時頃だったか存じませぬが、研究室のベッドに寝ていた私は、ガタリというかなり高い物音に不図眼を醒してみますと、どうでしょうか。室の入口の扉の上半分がポッカリ大孔が明いています。これは枕許のスタンドを点けて寝るものですから、それで判ったのです。私は吃驚して跳ね起きました。すると、あの赤外線テレヴィジョン装置がグラグラと独り手に揺れ始めました。オヤと思う間もなく、装置の蓋が呀ッという間もなく宙に舞い上り、ガタンと床の上に落ちました。私が呆然としていますと、今度はガチャーンと物凄い音がして、あの装置が破裂したんです。真空管の破片が飛んできました。大きな廻転盤が半分ばかりもげて飛んでしまう。つづいてガチャンガチャンと大きなレンズが壊れて、頑丈なケースが、薪でも割るようにメリメリと引裂かれる。私は胆を潰しましたが、ひょっとすると、これはこの装置で見たことのある赤外線男ではないかしらと考えると、ゾーッとしました。見る可からざるものを視た私への復讐なのではないかしらと思いました。私はソッと逃げ出し、室の隅ッこにでも隠れるつもりで、寝床から滑り下りようとするところを、ギュッと抱きすくめられてしまいました。それでいて身の周りには何の異変もないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて呉れ』と怒鳴りました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ昏倒してしまったのです。それから途中、全然記憶が欠けているのですが、イヤというほど横ッ腹に疼痛を覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに載っているのです。それが先刻、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には猿轡を噛ませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が悪夢のように眼に映ります。実験戸棚の扉が、風にあおられたように、パターンと開く、すると棚に並べてあった沢山の原書が生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた洋紙や薬品の小壜などが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、正視するのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃唱えたこともなかったお念仏を口誦んだほどでした」
理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、憐愍を求めるように見えた。
「それから、どうしたです」課長は尚も先を促した。
「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、壊れた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に跫音がして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな響がしはじめました。掛矢でもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と経つうちに段々静かになり、軈て何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も魂も消し飛ばしてガタガタ慄えていましたが、幸にもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」
そういって深山理学士は、大きい溜息をついたのであった。
「君は、そのとき、何か扉の閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が尋ねた。
「そうです。そういえば、跫音らしいものが空虚な反響をあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」
「ふふん、それはどうも……」課長は低く呻った。
「どうでしょうか、ちょっとお尋ねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の深山先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」
「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」
そのとき一人の刑事と何か囁き合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。
「君、一つ発見したよ。この室の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」
「靴の跡ですか」
「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵の摩滅具合から云ってこれは血気盛んな青年のものだと思うよ」
「検事さん、待って下さい」と捜査課長は慌て気味に云った。
「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」
「それは勿論、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」
「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽じゃないでしょうか」
「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男はこの運動場を人間のような恰好して歩いていたというぞ。してみれば、赤外線男とて、地球の重力をうけて歩いているので、空中を飛行しているわけではない。だから身体は見えなくても、大地に接するところには、赤外線男の足跡が残らにゃならんと思うよ」
「足跡が見えるなら、靴も見えたっていいでしょう。すくなくとも、靴の裏は見えたっていいわけです。そこには我々の眼に見える泥がついているのですからネ」
課長と検事とは喋っていながらも、この難問題が自分たちの畠ではないことに気がついた。
「ねえ、君」と検事が鼻に小皺をよせて囁くように云った。「これはどうも俺たちの手にはおえないようだよ。第一、知識が足りない」
「そうですヨ」と課長も苦笑した。
「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六をサ」
「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」
二人の意見は直ぐに纏った。そして新に呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。
こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう洩れてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に秘蔵していた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、故意に学士の心に秘めたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。
とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の生態というものが、大分はっきりしてきた。
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