毒瓦斯――スパイの活躍
私たち三名は、すばらしい流線型の自動車に、乗り込んだ。
これは完全流線型というやつで、二枚貝の貝殻一つを、うんと縦に引伸し、そして道路の上に伏せた――といったような恰好であった。むかしの人が見たら、まさか、これが自動車だとは、気がつかないであろう。
「元帥閣下は、そんなにお待ちかねの様子でしたか」
「はい、それはもう、たいへんお待ちかねで、潜水洞四十三番へ、たびたび電話をおかけになるというようなわけで……」
「元帥閣下は、なにか、怒っていられる様子は、なかったですか」
「いいえ、たいへん上機嫌でいらっしゃいました。どうやら、あなたさまは、御栄転になるとの噂が専らでございますわ。黒馬博士、このたび、あなたさまは、どっちの方面から、お帰りになったのでございますの」
「今度はね、私は……」
と、いいかけて、私はとつぜん、ごほんごほんと咳こんだ。こいつは油断がならない。マリ子という女は、へんなことを尋ねる。ことによると、第五列かもしれない。
「ああ、苦しい。海上があまり涼しかったもので、すっかり咽喉をこわしてしまいましてねえ。おい、オルガ姫咳止めの丸薬をくれないか、三粒あればいいよ」
オルガ姫は、私の前にいたが、鞄の中から、丸薬入りの缶を出して、私の掌に、三つの黒い丸薬をのせた。
「水、水を早くくれ」
オルガ姫は、水筒の水を、大きなコップに三分の一ほどついだ。
私は丸薬を掌にのせたまま、まず、水をぐっと呑みほした。
「あら、水の方を、先にお呑みになって……」
と、マリ子は、怪訝な顔。
私は、彼女の見ている前で、更に怪訝なことをやってみせた。それは、そのコップを下におかないで、いきなりコップの口で、私の鼻と口とを覆ったのである。
コップの口は、ぐちゃりとなって、私の鼻と口とのまわりに密着した。――このコップは、口のまわりだけが粘質硝子で、できているので、こうすると、うまく顔に密着するのだ。
「あなた、しっかりしてください。気が変になったのでは……」
と、マリ子が、さわぎたてるのを尻眼にかけて、私は掌にのせていた三つの黒い丸薬を、ぱっと足もとに投げつけた。
「呀っ!」
とたんに、丸薬はとび散り、それに代って、うす紫の瓦斯が、もうもうと立ちのぼりはじめた。
「ああッ、毒瓦斯!」
マリ子は、あわてて、座席から腰をあげ、自動車のハンドルに手をかけた。
だが、毒瓦斯の効目の方が、もう一歩お先であった。マリ子は、ハンドルを握ったまま、顔色を紙のように白くして、どうと、前にのめったのである。おそるべき第五列の女スパイの死だ。
「おお、あぶない」
私は、そのとき、快速力で走っていた自動車が、エンジンを停め、ゆうゆうと頭をふって、地下道の壁に突進していくのを認めた。運転手も、マリ子と名のる女スパイとともに、毒瓦斯にやられてしまい、レバーやハンドルから、手を放してしまったのである。
私は、ぐにゃりと伸びた運転手の肩ごしに、手をのばして、ハンドルをぐっとつかんだ。
片手でハンドルを握ったのだ。
無理である。たいへん無理である。しかし私は、死にものぐるいで、ハンドルを左に切った。地下道の厚い壁はわが自動車めがけて、鋼鉄艦のごとく驀進してきたが、私が、力一ぱいハンドルを切ったため、壁は、ぐーッと右に流れた。
「おお、これで衝突をのがれたか……」
と思ったが、とたんに車体は、左に傾くと思う間もなく、呀っという間に、顛覆してしまった。
そのとき、自動車の硝子戸が、うまく壊れてくれなかったら、私はコップを鼻や口から外し、わが撒いた毒瓦斯により、自ら生命を縮めたかもしれない。コップを放すのが、窓硝子のこわれたよりも遅かったため、私の一命は、幸いに助かった。
それでも、しばらくは胸が灼けつくようで、とても気持がわるかった。私は、オルガ姫をよんで、外に助けだされた。
「ふん、おどろかせおった。このマリ子という奴は、どこの国のスパイだろうか」
私は、マリ子の服を改めたが、彼女は悪心ぶかく、証拠になるような何物も持っていなかった。
私が、呆然として、顛覆した自動車に、腰をかけていると、後方から、数台の快速自動車が追いかけて来た。
私は、また敵が現われたかと、顔をしかめて痛む腰をあげ、オルガ姫を楯として、身構えた。
(第五列だ)
と思う間もなく、車は停った。
車上からは、十数名の軍人がばらばらと下りてきた。
「おお、黒馬博士。お身体に、お怪我はありませんでしたか。私は鬼塚元帥の副官であります」
そういって、りっぱな将校が、私の前へ、元帥の書面を出した。
“コノ者ニ伴ワレ、スグ来レ。鬼塚”
私は将校を見上げた。
「貴官は、本物でしょうな」
「田島大佐です」
「しかし、第五列が猖獗をきわめているようじゃありませんか。現に私は今……」
「申し訳ありません。私たちも、途中で、第五列部隊のため、妨害をうけたのです。もちろんそれは、プラットホーム付近で、博士を誘拐する目的だったのでしょう。とにかく、近頃めずらしい事件です」
「事件のあとで、めずらしい事件だと感心していては困るですね」
「全く、御説のとおり。警備部隊の引責はのがれませんが、またその一方において、敵がいかにわが黒馬博士を高く評価しているかという証拠になります。博士、今後も、どうぞ御注意のほどを……」
「わかりました」
私は、田島副官の率直なことばに、好感をもって、それまでの不機嫌を直して、
「私が、早くに、この女は第五列だなと、気がついたから、よかったようなものの、気がつくのが遅ければ、どこへ連れていかれたか分らんですぞ」
「大きに、御説のとおりです。して、その第五列というのは、どこにいますか」
「顛覆している自動車の中を見てください。そこに、運転手もろとも、長くなって伸びているでしょう」
私が、そういうと、田島大佐は、部下を随えて、壊れた自動車の中をのぞきこんだ。
「おやッ、マリ子じゃないか」
大佐は、びっくりしたような声を出した。
「御存知でしたか、その女を……。さだめし、黒表にのっている豪の者なんでしょうね」
と、私がいえば、大佐は硬い声で、
「いえ、博士。この女は、元帥の秘書のマリ子でありますぞ」
「なに、元帥の秘書のマリ子?」
私は困惑した。
「そうですか、それにちがいありませんか」
「たしかに、マリ子です。マリ子の顔を見まちがえるようなことはない」
やっぱり元帥の秘書だったのか。私は、とんだ失策をやってしまったと思った。仕方がないから、私は、マリ子がたしかに第五列の一員と思われたから、毒瓦斯で殺してしまったのだと、率直に一切を白状して、何分の処分を、大佐に委せるといった。
「あははは。これはおかしい」
と、田島大佐が、私の話をきいているうちに、腹をかかえて、笑いだした。私は、むっとした。
「なにが、おかしいのですか。私が失策したことが、そんなにおかしいのですか」
私は、大佐のへんじ如何によっては、いってやりたいことばがあった。
「いや、博士。これは、とんだ失礼を。笑ったのは、博士が思いちがいをしていられるからです。元帥の秘書のマリ子なら、毒瓦斯などで死ぬような者ではありません。なぜといって、マリ子は人造人間なんですからね」
「ああ、やっぱり人造人間ですか」
では、私におけるオルガ姫のようなものだ。
「そうです、人造人間です。ですから、毒瓦斯を吸って死んだマリ子は、にせ者のマリ子にちがいありません。そして、そいつは、生身の人間でしょう。いま、よく調べてみます」
大佐は、そういって、自動車の中から、マリ子をひっぱりだした。彼は、マリ子の頸のあたりをしきりに調べていたが、やがて、
「おお、やっぱりそうだ」
といって、指先で、マリ子の皮膚をいじっているうちに、ベリベリと音をさせて、マリ子の頸のところから顔面へかけて皮膚を、はいでしまった。その下からは、マリ子とは、似てもつかない鼻の高い、白人女の顔が出て来た。
「マスクだ。巧妙なマスクを被っていたのだ。元帥秘書のマリ子と、そっくりの完全マスクを被っていたのだ」
私は、万事を悟って、苦笑した。なんだ、つまらない奇計である。
大佐は、白人女の死顔を、じっと眺めていたが、
「はて、この顔は、見覚えがある。これはたしか、アストン女史というポーランド女だ。アストン女史が、東京へはいりこんで活躍するとは、はて、訳がわからないぞ」
大佐の疑問は、尤もであった。私には、見当がつかない。ポーランド女が、なぜ東京へはいりこんで、私にクロクロ島のことを聞きだそうとしたのであろう。
それから二十分ほど後、私たちは、鬼塚元帥と、大きな卓子を囲んで、向いあっていた。
まず話題は、ここへ来る途次、私の惹き起したポーランド女の殺害事件についてであった。
元帥は、私たちの報告を、しずかにうなずきつつ、聞き入っていたが、
「まあ、その辺で、話の筋は分った。いずれにしろ、大東亜共栄圏を侵略しようという敵国の肚の中が、手にとるように分る。黒馬博士に、とつぜん帰国を願ったのも実はそのためじゃ」
私は、元帥が、なにか思いちがいをしているのではないかと思った。
「元帥閣下、大東亜共栄圏を侵略しようとする外国があるにしても、只今すぐには、手が出ないのではありませんか」
「なぜじゃ、それは……」
「でも、只今、米連と欧弗同盟とは、第三次の戦争を起そうとしています。一方は北南アメリカ大陸に陣どり、他方はヨーロッパとアフリカの両大陸を武装し、これから喰うか喰われるかの大戦闘が始まるのではありませんか。ですから、只今、大東亜共栄圏に手を伸ばすにも、その余裕がない筈です。そうではありませんか」
「うん、われわれも、昨日までは、そう思っていた。そう信じていたのじゃ。ところが、昨日になって、おどろくべき真相が曝露したのじゃ」
元帥は、沈痛な面持でいった。
「おどろくべき真相とは?」
私は、過去においてこのように元帥が、顔色を悪くしたことを知らないので、内心非常に安らかでなかった。
「うむ、実におどろくにたえぬ真相じゃ」
と、元帥は拳を固めて、卓子の上を、どんと叩いて、
「皆、聞け、よろしいか。始めて聞いたのでは、信じられないかもしれないが、米州連邦と欧弗同盟国とは、互いに戈を交えて、戦闘を開始するのではない。彼等は、協力して東西から、わが大東亜共栄圏を挟撃しようというのである」
「まさか、そんなことが……」
と、私は言下に否定した。米連と欧弗同盟は、三十年来の敵同志だ。それが、急に手を握るなんて、あるものか。第一、双方とも、既に戦闘するつもりで、高度の大動員を行っているではないか。
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