您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 楠山 正雄 >> 正文

家なき子(いえなきこ)01

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-1 11:43:28  点击:  切换到繁體中文



     ヴィタリス親方の一座(いちざ)

 その晩(ばん)一晩、きっと孤児院(こじいん)へ連(つ)れて行かれたゆめばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの寝台(ねだい)にねているような気がしなかった。わたしは目が覚(さ)めるとさっそく寝台にさわったり、そこらを見回したり、いろいろ試(ため)してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。
 バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう孤児院(こじいん)へやる考えを捨(す)てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに置(お)くことに決めたのであろう。
 けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。
 わたしは目つきで母さんに救(すく)いを求(もと)めてみた。かの女もご亭主(ていしゅ)に気がつかないようにして、いっしょに行けと目くばせした。わたしは従(したが)った。かの女は行きがけにわたしの肩(かた)をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。
 なにも言わずにわたしはかれについて行った。
 うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。
 どこへいったいわたしを連(つ)れて行くつもりであろう。
 わたしは心の中でたびたびこの疑問(ぎもん)をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくらだいじょうぶだと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてにげ出そうかと考えた。
 わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。
 はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を見破(みやぶ)ったらしく、いきなりわたしのうで首をとらえた。
 わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。
 そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目を丸(まる)くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行くていさいであった。
 わたしたちが村の居酒屋(いざかや)の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にはいれと言った。バルブレンはわたしの耳を引(ひ)っ張(ぱ)って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとからはいって、ドアをぴしゃりと立てた。
 わたしはほっとした。
 そこは危険(きけん)な場所とは思われなかった。それに先(せん)からわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。
 旅館(りょかん)御料理(おんりょうり)カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである……
 バルブレンはいま声をかけた亭主(ていしゅ)と、食卓(しょくたく)に向かい合ってこしをかけた。わたしは炉(ろ)ばたにこしをかけてそこらを見回した。
 わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした背(せい)の高い老人(ろうじん)がいた。かれはきみょうな着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。
 長い髪(かみ)の毛(け)をふっさりと肩(かた)まで垂(た)らして、緑と赤の羽根(はね)でかざったねずみ色の高いフェルト帽(ぼう)をかぶっていた。ひつじの毛皮の毛のほうを中に返して、すっかりからだに着こんでいた。その毛皮服にはそではなかったが、肩(かた)の所に二つ大きな穴(あな)をあけて、そこから、もとは録色だったはずのビロードのそでをぬっと出していた。ひつじの毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。
 かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手に支(ささ)えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。
 わたしは生きた人で、こんな静(しず)かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒(せいと)の像(ぞう)のようであった。
 老人(ろうじん)の回りには三びきの犬が、固(かた)まってねていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の灰(はい)色の雌犬(めすいぬ)が一ぴき。白いむく犬は巡査(じゅんさ)のかぶる古いかぶと帽(ぼう)をかぶって、皮のひもをあごの下に結(ゆわ)えつけていた。
 わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人(ろうじん)を見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋(いざかや)の亭主(ていしゅ)は低(ひく)い声でこそこそ話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。
 バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ連(つ)れて行って、村長から孤児院(こじいん)に向かって、わたしをうちへ置(お)く代わりに養育料(よういくりょう)が請求(せいきゅう)してもらうつもりだと言った。
 これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあが夫(おっと)に説(と)いて承諾(しょうだく)させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。
 その老人(ろうじん)はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。
「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」
「そうだよ」
「それでおまえさんは孤児院(こじいん)が養育料(よういくりょう)をしはらうと思っているのかね」
「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。お上(かみ)からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」
「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」
「それはそうさ」
「それそのとおり。だからおまえさんが望(のぞ)んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」
「じゃあ孤児院(こじいん)へやってしまうだけだ。こちらで養(やしな)いたくないものを、なんでも養えという法律(ほうりつ)はないのだ」
「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」
「ふん、おれはこの子を養(やしな)いたくないのだ。だからどのみちどこへでもやっかいばらいをするつもりでいる」
「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」老人(ろうじん)はしばらく考えて、「おまけに少しは金にもなるしかたがある」と言った。
「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」
「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう相談(そうだん)は決まったから」
「だいじょうぶかえ」
「だいじょうぶよ」
 老人(ろうじん)は立ち上がって、バルブレンの向こうに席(せき)をしめた。ふしぎなことには、老人が立ち上がると、ひつじの毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。たぶん、もう一ぴき犬をうでの下にかかえているのだとわたしは思った。
 この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓(しんぞう)がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人(ろうじん)から目をはなすことができなかった。
「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない以上(いじょう)、自分のうちに置(お)いて養(やしな)っていることはいやだという、それにちがいないのだろう」
「それはそのとおりだ……そのわけは……」
「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が要(い)らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」
「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」
「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」
「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」
「よく見ているよ」
「ルミ、ここへ来い」
 わたしは食卓(しょくたく)に進み寄(よ)った。ひざはふるえていた。
「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人(ろうじん)は言った。
「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。
「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば欲(ほ)しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」
「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または一寸法師(いっすんぼうし)ででもあったなら……」
「だいじにして孤児院(こじいん)にやりはしないだろう。香具師(やし)に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」
「仕事はできるよ」
「いや、あまりじょうぶではないからなあ」
「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」
 バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。
「やせすぎている」と老人(ろうじん)は言った。
「それからうでを見ろ」とバルブレンは続(つづ)けた。
「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」
「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」
 老人(ろうじん)はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。
 このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って連(つ)れて行った。
 この老人(ろうじん)もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。
 不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。
 わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難(ひなん)したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。
「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。百姓(ひゃくしょう)仕事にはたしかに向いてはいないようだ。試(ため)しに畑をやらしてごらん、どれほど続(つづ)くかさ」
「十年は続くよ」
「なあにひと月も続(つづ)くものか」
「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」
 わたしは食卓(しょくたく)のはしの、ちょうどバルブレンと老人(ろうじん)の間にすわっていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいようにこづき回された。
「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人(ろうじん)は最後(さいご)に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ借(か)りるのだ。その借(か)り賃(ちん)に年に二十フラン出すことにしよう」
「たった二十フラン」
「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの金貨(きんか)を四枚(まい)にぎったうえに、やっかいばらいができるのだからね」と老人(ろうじん)は言った。
「だがこの子をうちに置(お)けば、孤児院(こじいん)から毎月十フランずつくれるからな」
「まあくれてもせいぜい七フランか十フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならないからね」
「その代わり働(はたら)きもするさ」
「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい捨(す)て子(ご)を引き取るというのは、その養育料(よういくりょう)をはらってもらうためではない、働(はたら)かせるためなのだ。それから金を取り上げこそすれ、給金(きゅうきん)なしの下男(げなん)下女(げじょ)に使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちに置(お)くところなのだ」
「とにかく、毎月十フランはもらえるのだから」
「だが孤児院(こじいん)で、いや、そんならこの子はおまえさんには預(あず)けない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこは確(たし)かだ。おまえさんの苦労(くろう)はただ金を受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」
 老人(ろうじん)はかくしを探(さぐ)って、なめし皮の財布(さいふ)を引き出した。その中から四枚(まい)、金貨(きんか)をつかみ出して、食卓(しょくたく)の上にならべ、わざとらしくチャラチャラ音をさせた。
「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子のふた親が出てくるかもしれない」
「それはかまわないじゃないか」
「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、初(はじ)めっからだれが世話をするものか」
「それを思わなければ初(はじ)めっからだれが世話をするものか」――このことばで、わたしはいよいよバルブレンがきらいになった。なんという悪い人間だろう。
「なるほど、だがこの子のふた親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちそのふた親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。だれもわたしを知らないのだから」と老人(ろうじん)は言った。
「でもおまえさんがそのふた親を見つけ出したらどうする」
「なるほどそういう場合には、わたしたちで利益(りえき)を分けるのだね。ところで、ひとつ、きばってさしあたり三十フラン分けてあげようよ」
「四十フランにしてもらおう」
「いいや、この子の使い道はそこいらが相応(そうおう)な値段(ねだん)だ」
「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたいい足をしているし、うでといえばこのとおりりっぱないいうでをしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」
 そのとき老人(ろうじん)はあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップを干(ほ)した。
「つまりわたしの相手(あいて)になってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」
「なるほど、それにはこの子の足はじゅうぶんたっしゃだから」
「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、はね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の一座(いちざ)の役者になるのだ」
「その一座はどこにある」
「もうご推察(すいさつ)あろうが、そのヴィタリス親方はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」
 こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像(そうぞう)したように、犬ではなかった。
 わたしはこのきみょうな動物を生まれて初(はじ)めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。
 わたしはびっくりしてながめていた。
 それは金筋(きんすじ)をぬいつけた赤い服を着ていたが、うでと足はむき出しのままであった。実際(じっさい)それは人間と同じうでと足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、縦(たて)につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の穴(あな)が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは鏡(かがみ)のようにぴかぴかと光った。
「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。
 ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。
「さあ、これが一座(いちざ)の花形(はながた)で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにおじぎをしないか」
 さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。
「さて」とヴィタリスはことばを続(つづ)けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)に一座(いちざ)のものをご紹介(しょうかい)申しあげる光栄(こうえい)を有せられるでしょう」
 このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足を胸(むね)の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査(じゅんさ)のかぶと帽(ぼう)が地べたについた。
 敬礼(けいれい)がすむとかれは仲間(なかま)のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足(かたあし)をさしのべて、みんなそばに寄(よ)るように合図をした。
 白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように厳(おごそ)かに六歩前へ進み、また三足あとへもどつて、代わりばんこにご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)に向かっておじぎをした。
 そのときヴィタリス親方が言った。
「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の頭(かしら)ということです。いちばんかしこくって、わたしの命令(めいれい)を代わってほかのものに伝(つた)えます。その黒いむく毛の若(わか)いハイカラさんは、ゼルビノ侯(こう)ですが、これは優美(ゆうび)という意味で、よく様子をご覧(らん)なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬(めすいぬ)はドルス夫人(ふじん)です。あの子はイギリス種(だね)で、名前はあの子の優(やさ)しい気だてにちなんだものだ。こういうりっぱな芸人(げいにん)ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もそのときどきの回り合わせさ。おおカピ……」
 カピと呼(よ)ばれた犬は前足を十文字に組んだ。
「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人(きじん)たちにいつもていねいなことばを使っています――さあ、この玉のような丸(まる)い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、いまは何時だか教えてあげてください」
 カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしを探(さぐ)って大きな銀時計を取り出した。かれはしばらく時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。
「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人(ふじん)になわとびおどりをお願いしてもらいましょうか」
 カピはまた主人のかくしを探(さぐ)って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐにかれの真向(まむ)かいに座(ざ)をしめた。カピがなわのはしをほうってやると、二ひきの犬はひどくまじめくさって、それを回し始めた。
 つなの運動が規則(きそく)正しくなったとき、ドルスは輪(わ)の中にとびこんで、優(やさ)しい目で主人を見ながら軽快(けいかい)にとんだ。
「このとおりずいぶんりこうです」と老人(ろうじん)は言った。「それも比(くら)べるものができるとなおさらりこうが目立って見える。たとえばここにあれらと仲間(なかま)になって、ばかの役を務(つと)める者があれば、いっそうそれらの値打(ねう)ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが欲(ほ)しいというのだ。あの子にばかの役を務めてもらって、いよいよ犬たちのりこうを目立たせるようにするのだ」
「へえ、この子がばかを務(つと)めるのかね」とバルブレンが口を入れた。
 老人(ろうじん)は言った。「ばかの役を務めるには、それだけりこうな人間が入りようなのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく試(ため)してみることにします。この子がじゅうぶんりこうな子なら、わたしといっしょにいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から晩(ばん)まで同じ牧場(ぼくじょう)で牛やひつじの番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、泣(な)いてじだんだをふむだろう。そうすればわたしは連(つ)れては行かない。それで孤児院(こじいん)に送られて、ひどく働(はたら)かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」
 わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子(でし)たちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらといっしょに旅をするのは、ゆかいだろう。だがバルブレンのおっかあは……おっかあに別(わか)れるのはつらいなあ……
 でもそれをいやだと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり孤児院(こじいん)に送られなければならない。
 わたしはほんとに情(なさ)けなくなって、目にいっぱいなみだをうかべていた。するとヴィタリス老人(ろうじん)が軽くなみだの流れ出したほおをつついた。
「ははあおこぞうさん、大さわぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい胸(むね)で思案(しあん)をしているのだな。それであしたは……」
「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ置(お)いてください。どうぞ置いてください」とわたしはさけんだ。
 カピが大きな声でほえたので、じゃまされてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた食卓(しょくたく)のほうへとび上がった。例(れい)のさるはみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲み干(ほ)そうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。
「ジョリクールさん」とヴィタリスが厳(きび)しい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえにどろぼうです。あそこのすみに行ってかべのほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたらぶっておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。握手(あくしゅ)をしましょう」
 さるは息づまったような鳴き声を出して、すごすごすみのほうへ行った。幸せな犬は得意(とくい)な顔をして前足を主人に出した。
「さて」と老人(ろうじん)はことばをついで、「先刻(せんこく)の話にもどりましょう。ではこの子に三十フラン出すことにしよう」
「いや、四十フランだ」
 そこでおし問答が始まった。だが老人(ろうじん)はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。
「よし、じゃあ裏(うら)へ行っていろ。だがにげるな。にげるとひどい目に会わせるから」
 バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。
 あの人たちはわたしのことを相談(そうだん)している。どうするつもりだろう。
 心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが裏(うら)へ出て来た。
 かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで連(つ)れて来たのだな。
「さあ帰るのだ」とかれは言った。
 なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあに別(わか)れないでもすむのかな。
 わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。
 それで……だまってうちのほうへ歩いた。
 けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴(らんぼう)にわたしの耳をつかみながらこう言った。
「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」


     おっかあの家

「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」
「会わなかったよ」
「どうして会わなかったのさ」
「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」
 それではバルブレンは犬を連(つ)れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。
 うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと疑(うたが)っていたが、いまのことばでその疑(うたが)いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを訪(たず)ねるというのでは、きっとじいさんとのやくそくはできなかったにちがいない。
 バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその晩(ばん)一晩じゅううちをはなれないので話す機会(きかい)がなかった。
 すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。
 けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの姿(すがた)が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。
「おっかあ」
「ああ、それなら村へ行った。昼過(ひるす)ぎでなければ帰るものか」
 おっかあはまえの晩(ばん)、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。
 なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。
 バルブレンの顔を見るとよけいに心配が積(つ)もるばかりであった。その目つきからにげるためにわたしは裏(うら)の野菜畑(やさいばたけ)へかけこんだ。
 畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物(やさいもの)は残(のこ)らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を残(のこ)しておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛(めうし)を飼(か)いながら野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と呼(よ)んでだいじにしていた。
 わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが芽(め)をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから続(つづ)いておいおい芽を出しかけている。
 もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。
 どんな花がさくだろう。
 それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。
 それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい野菜(やさい)を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜(やさい)をいっしょにした味がするのであった。わたしはそっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあをおどろかそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、ないしょで料理(りょうり)をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用(きよう)な子だろう』と感心させてやろう。
 こんなことを思い思いこのときも、まだ芽(め)が出ないかと思って、種(たね)のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンがかんしゃく声で呼(よ)びたてているので、びっくりしてうちへはいった。まあどうだろう。おどろいたことには、炉(ろ)の前にヴィタリス老人(ろうじん)と犬たちが立っているではないか。
 すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを連(つ)れて行くのだ。それをおっかあがじゃましないように村へ出してやったのだ。
 もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人(ろうじん)のほうへかけ寄(よ)った。
「ああ、ぼくを連(つ)れて行かないでください。後生(ごしょう)ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく泣(な)きだした。
 すると老人(ろうじん)は優(やさ)しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間(なかま)には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」
「おっかあが……」
「どうせきさまはここには置(お)けないのだ」とバルブレンはあらあらしく言って、耳を引(ひ)っ張(ぱ)った。
「このだんなについて行くか、孤児院(こじいん)へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」
「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」
「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」
「この子は母親に別(わか)れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。優(やさ)しい心だ。いいことだ」
「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」
「まあ、話を決めよう」
 そう言いながら、老人(ろうじん)は五フランの金貨(きんか)を八枚(まい)テーブルの上にのせた。バルブレンはそれをさらいこむようにしてかくしに入れた。
「この子の荷物は」と老人が言った。
「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばった包(つつ)みをわたした。
 中にはシャツが二枚(まい)と、麻(あさ)のズボンが一着あるだけであった。
「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」
「こいつはほかにはなにもないのだ」
「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを争(あらそ)っているひまがない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、こぞうさん、おまえの名はなんと言うんだっけ」
「ルミ」
「そうか、よしよし、ルミ。包(つつ)みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」
 わたしは哀訴(あいそ)するように両手を老人(ろうじん)に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、老人はわたしのうで首をつかまえようとした。
 わたしは行かなければならない。
 ああ、このうちにもお別(わか)れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、からだを半分そこへ残(のこ)して行くようにわたしは思った。
 なみだをいっぱい目にうかべて[#「うかべて」は底本では「うがべて」]わたしは見回したが、手近にはだれもわたしに加勢(かせい)してくれる者がなかった。往来(おうらい)にもだれもいなかった。牧場(ぼくじょう)にもだれもいなかった。
 わたしは呼(よ)び続(つづ)けた。
「おっかあ、おっかあ」
 けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり泣(な)きの中に消えてしまった。
 わたしは老人(ろうじん)について行くほかはなかった。なにしろうで首をしっかりおさえられているのだから。
「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。
 かれはうちの中へはいった。
 ああ、これでおしまいである。
「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人(ろうじん)が言って。わたしのひじをおさえた。
 わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。
 わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後(さいご)の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。
 幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上(ちょうじょう)に来た。
 老人(ろうじん)はおさえた手をゆるめなかった。
「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。
「うん、そうだなあ」とかれは答えた。
 かれはやっとわたしをはなしてくれた。
 けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。
 それですぐと、ひつじ飼(か)いの犬のように、一座(いちざ)の先頭からはなれてわたしのそばへ寄(よ)って来た。
 わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。
 わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。
 わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちを探(さが)した。
 下には谷があって、所どころに森や牧場(ぼくじょう)があった。それからはるか下にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかなけむりが、そこのけむり出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。
 気の迷(まよ)いか、そのけむりはうちのかまどのそばでかぎ慣(な)れたかしの葉のにおいがするようであった。
 それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。
 ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。
 わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党(あくとう)のバルブレンだ。
 もう一足(あし)往来(おうらい)へ出れば、わたしの畑もなにもかもかくれてしまうのだ。
 ふと村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたりかくれたりしていた。
 それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春のちょうちょうのように見えただけであった。
 けれど目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。確(たし)かにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。
「さて出かけようか」と老人(ろうじん)が言った。
「ああ、いいえ、後生(ごしょう)ですからも少し」
「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もうつかれてしまったのか」
 わたしは答えなかった。ただながめていた。
 やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。
 白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭にはいって行った。
 わたしはすぐにとび上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピがおどろいてとびついて来た。
 おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両うでを広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。
 かの女はわたしを探(さが)しているのだ。
 わたしは首を前に延(の)ばして、ありったけの声でさけんだ。
「おっかあ、おっかあ」
 けれどもそのさけび声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。
「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。
 わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、往来(おうらい)へ出て、きょろきょろしていた。
 もっと大きな声でわたしはさけんだ。けれども、初(はじ)めの声と同様にむだであった。
 そのうち老人(ろうじん)もやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。かれもまもなく白いボンネットを見つけた。
「かわいそうに、この子は」とかれはそっと独(ひと)り言(ごと)を言った。
「おお、わたしを帰してください」と、わたしはいまの優(やさ)しいことばに乗(の)って、泣(な)き声(ごえ)を出した。
 けれどもかれはわたしの手首をおさえて、土手を下りて往来(おうらい)へ出た。
「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、かれは言った。
 わたしはぬけ出そうともがいたけれども、かれはしっかりわたしをおさえていた。
「さあカピ、ゼルビノ」と、かれは犬のほうを見ながら言った。
 二ひきの犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。
 二足(ふたあし)三足(みあし)行くと、わたしはふり向いた。
 わたしたちはもう坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに遠山(とおやま)がうすく青くかすんでいた。果(は)てしもない空の中にわたしの目はあてどなく迷(まよ)うのであった。


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告