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家なき子(いえなきこ)01

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-1 11:43:28  点击:  切换到繁體中文



     捨(す)て子(ご)

 旅の日数(ひかず)のたつのは早かった。親方が刑務所(けいむしょ)から出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるに従(したが)って、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。
 船の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの苦労(くろう)もなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなけれはならないときがじき来るのだ。
 これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもう寝台(ねだい)もなければ、クリームもない。お菓子(かし)もなけれは、テーブルを取り巻(ま)いた楽しい夜会もなくなるのだ。
 でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン夫人(ふじん)とアーサとに別(わか)れることであった。わたしはこの人たちの友情(ゆうじょう)からはなれなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。
 わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちといっしょにくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちと別(わか)れなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、愛(あい)し愛されたりするようなものであった。
 このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの心痛(しんつう)がわたしの心をくもらせた。
 ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン夫人(ふじん)に、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が刑務所(けいむしょ)から出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったのである。
 アーサはわたしが帰って行くという話を聞くと、急にさけびだした。
「帰っちゃいやだ、ルミ。行ってしまってはいやだ」
 かれはすすり泣(な)きをしていた。
 わたしはかれに、自分がヴィタリス親方のものになっていること、かれが金を出して両親からわたしを借(か)りていること、用のあるときいつでも帰って行かなければならないことを話した。
 わたしは両親のことを話した。けれどもそれがほんとうの父親でも母親でもないことは話さなかった。わたしは自分が捨(す)て子(ご)であることをはじに思った――往来(おうらい)で拾われた子どもだということを白状(はくじょう)することをはじに思った。わたしは孤児院(こじいん)の子どもというものがどんなにあなどられるものであるか知っていた。世の中で捨(す)て子(ご)であるということほどいやなことがあろうとは、わたしには思えなかった。それをミリガン夫人(ふじん)やアーサに知られることを好(この)まなかった。それを知られたら、あの人たちはわたしをきらうようになるだろう。
「お母さま、ルミはどうしても止めておかなければだめですよ」とアーサは言い続(つづ)けた。
「わたしもルミをここへ止めておくことはたいへんけっこうだと思うけれど」とミリガン夫人(ふじん)は答えた。「わたしたちはずいぶんあの子が好(す)きなのだからね。でもこれには二つやっかいなことがある。第一にはルミがいたがっているかどうか……」
「ああ、それはいますとも、いますとも」とアーサがさけんだ。「ねえルミ、行きたかないねえ、ツールーズへなんか」
「第二には」と、ミリガン夫人(ふじん)がかまわず続(つづ)けた。「この子の親方が手放すだろうか、どうかということですよ」
「ルミが先です。ルミが先です」とアーサは言い張(は)った。
 ヴィタリスはいい親方であった。かれがわたしにものを教えてくれたことに対しては、わたしはひじょうに感謝(かんしゃ)していた。けれどもかれとくらすのと、アーサとこうしてくらすのとではとても比較(ひかく)にはならなかった。同時に親方に持つ尊敬(そんけい)と、ミリガン夫人(ふじん)とその病身の子どもに対して持つ愛着(あいちゃく)とは比較にはならなかった。わたしはこういう外国人を、世話になった親方よりありがたいものに思うのはまちがっていると感じていた。けれどもそれはそのとおりにちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心から愛(あい)していた。
「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン夫人(ふじん)は続(つづ)けた。
「この船にだって遊び半分ではいられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な境涯(きょうがい)ではないでしょう」
「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら……」とわたしは言いかけた。
「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。
「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン夫人(ふじん)が言った。「この子の親方の承諾(しょうだく)を受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもいようにたのんでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは汽車賃(きしゃちん)を送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへ呼(よ)ぶことになるのだが、たぶん承知(しょうち)してくださることだろうと思うから、それで相談(そうだん)したうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」
 この最後(さいご)のことばで、わたしの美しいゆめは破(やぶ)れた。
 両親に相談(そうだん)する。そうしたらかれらはわたしが内証(ないしょう)にしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしが捨(す)て子(ご)だということを言いたてるだろう。
 ああ捨(す)て子(ご)。そうなればアーサもミリガン夫人(ふじん)もわたしをきらうようになるだろう。
 まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。
 わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。かの女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、かの女はたずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が転倒(てんとう)していると考えたらしく、かの女はそのうえしいては問わなかった。
 幸いにじきねむる時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の部屋(へや)に一人閉(と)じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来(いらい)初(はじ)めてのふゆかいな晩(ばん)であった。それはおそろしくふゆかいな、長い熱病(ねつびょう)をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。
 たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなればかれらはどうしたってほんとうのことは知らずにいよう。かれらは、わたしの捨(す)て子(ご)だということを知らずにすむだろう。素性(すじょう)を知られることについてのわたしの羞恥(しゅうち)と恐怖(きょうふ)があまりひどかったので、もうアーサ母子(おやこ)と別(わか)れても、しかたがない。ヴィタリスがなんでも自分といっしょに来いと主張(しゅちょう)することを希望(きぼう)し始めたくらいであった。そうなれば少なくともかれらはこののちわたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。
 それから三日たってミリガン夫人(ふじん)はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。かれは夫人の文意をよくくんで、向こうから来てかの女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを連(つ)れて、かれに会いに停車場(ていしゃじょう)まで行くことを許(ゆる)された。
 その朝になると、犬たちはなにか変(か)わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしはひじょうに興奮(こうふん)していた。きょうこそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気(ゆうき)があったら、親方にたのんで捨(す)て子(ご)だということをミリガン夫人(ふじん)に言ってもらわないようにたのむことができたであろう。けれどもわたしはかれに対してすら『捨(す)て子(ご)』ということばを口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、ジョリクールは上着の下に入れて、停車場(ていしゃじょう)の片(かた)すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目にはいらなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。かれらは主人のにおいをかぎつけた。
 ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張(みは)りをゆるめていたので、かれらはぬけ出したのであった。ほえながらかれらは前へとび出した。わたしはかれらが親方にとびかかるのを見た。ほかの二ひきに比(くら)べてははげしくしかもしたたかにカピが、いきなり主人のうでにとびかかった。ゼルビノとドルスがその足にとびかかった。
 親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両うでをわたしのからだに投げかけた。初(はじ)めてかれはわたしにキッスした。
「ああよく無事(ぶじ)でいてくれた」とかれはたびたび言った。
 親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに優(やさ)しくはなかった。わたしはそれに慣(な)れていなかった。それでわたしは感動して、思わずなみだが目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしはかれの顔をながめた。刑務所(けいむしょ)にはいっているまにかれはひじょうに年を取った。背中(せなか)も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の気(け)はなかった。
「ルミ、わたしは変(か)わったろう。なあ」とかれは言った。「刑務所(けいむしょ)はけっしてゆかいな所ではなかった。それに苦労(くろう)というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来ればだいじょうぶだ。これからはよくなるだろう」
 それから話の題を変(か)えてかれは言い続(つづ)けた。
「わたしの所へ手紙を寄(よ)こしたおくさんのことを話しておくれ。どうしてそのおくさんと知り合いになったのだ」
 わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割(ほりわり)をこいでいたミリガン夫人(ふじん)とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから別(わか)れてミリガン夫人(ふじん)の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。
 わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしはかの女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。
「そのおくさんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルにはいったときにかれは言った。
「ええ、ぼくがいまおくさんの部屋(へや)に案内(あんない)しましょう」とわたしは言った。
「それにはおよばないよ」とかれは答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちといっしょにわたしを待っておいで」
 わたしは、いつでもかれに従順(じゅうじゅん)であったけれども、この場合はかれといっしょにミリガン夫人(ふじん)の部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当でもあり自然(しぜん)なことだと思っていた。けれども手まねでかれがわたしのくちびるに出かかっていることばをおさえると、わたしはいやいや犬やさるといっしょに下に残(のこ)っていなければならなかった。
 どうしてかれはミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを好(この)まなかったか。わたしはこの質問(しつもん)を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快(めいかい)な答えが得(え)られずに考えこんでいたときにかれはもどって来た。
「行っておくさんに、さようならを言っておいで」とかれはことば短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分のうちにたつのだから」
 わたしはかみなりに打たれたような気がした。
「それ」とかれは言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」
 かれはまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的(きかいてき)にわたしは服従(ふくじゅう)して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。
「あなたはおくさんになんとお言いに……」二足三足行きかけてわたしは問いかけた。
「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要(ひつよう)なのだ。従(したが)ってわたしはおまえに対するわたしの権利(けんり)を捨(す)てることはできませんと言ったのさ。行って来い。いとまごいがすんだらすぐ帰れ……」
 わたしは自分が捨(す)て子(ご)だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性(すじょう)を話したからだとばかり思っていた。
 ミリガン夫人(ふじん)の部屋(へや)にはいると、アーサがなみだを流している。そのそばに母の夫人が寄(よ)りそっているところを見た。
「ルミ、きみ行ってはいやだよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」とかれはすすり泣(な)きをした。
 わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人(ふじん)がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。
「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知(しょうち)してくださいませんでした」とミリガン夫人(ふじん)は、いかにも悲しそうな声で言った。
「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。
「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたがだいじで手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる……あの人はああいう身分の人のようではない、どうしてりっぱな口のきき方をなさいました。お断(ことわ)りになる理由としてあの人の言われたのは――そう、こうです、――わたしはあの子を愛(あい)している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに授(さず)けている世間の修業(しゅぎょう)は、あれにとって、あなたがたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それはほんとうだ。なるほどあなたはあれのちえを養(やしな)ってはくださるだろう、だがあれの人格(じんかく)は作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難(かんなん)ばかりです。あれはあなたの子にはなれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地(いごこち)がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから――とこうお言いになるのですよ」
「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサはさけんだ。
「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に従(したが)うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で貸(か)したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」
「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしはさけんだ。
「それはどういうわけです」
「いいえ、どうかよしてください」
「でもそのほかにしかたがないんですもの」
「ああ、どうぞよしてください」
 ミリガン夫人(ふじん)が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がくれた十分の時間以上(いじょう)をさようならを言うために費(ついや)したであろう。
「ご両親たちはシャヴァノンにいるんでしょう」とミリガン夫人はたずねた。
 それには答えないで、わたしはアーサのほうへ行って、両うでをかれのからだに回して、しばらくはしっかりだきしめていた。それからかれの弱いうでからのがれて、わたしはふり向いてミリガン夫人(ふじん)に手をさし延(の)べた。
「かわいそうに」と、かの女はわたしの額(ひたい)にキッスしながらつぶやいた。
 わたしは戸口へかけて行った。
「アーサ、わたしはいつまでもあなたを愛(あい)します」とわたしは言って、こみ上げて来るなみだを飲みこんだ。「おくさん、わたしはけっしてけっしてあなたを忘(わす)れません」
「ルミ、ルミ……」とアーサがさけんだ。その後のことばはもう聞こえなかった。
 わたしは手早くドアを閉(と)じて外に出た。一分間ののち、わたしはヴィタリスといっしょになっていた。
「さあ出かけよう」とかれは言った。
 こうしてわたしは最初(さいしょ)の友だちから別(わか)れた。


     ふぶきとおおかみ

 またわたしは親方のあとについて痛(いた)い肩(かた)にハープを結(むす)びつけたまま、雨が降(ふ)っても、日が照(て)りつけても、ちりやどろにまみれて、旅から旅へ毎日流浪(るろう)して歩かなければならなかった。広場であほうの役を演(えん)じて、笑(わら)ったり泣(な)いたりして見せて、「ご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)」のごきげんをとり結(むす)ばなければならなかった。
 長い旅のあいだ再三(さいさん)わたしは、アーサやその母親や白鳥号のことを考えて足が進まないことがあった。きたならしい村にはいると、わたしはあのきれいな小舟(こぶね)の船室をどんなに思い出したろう。それに木賃宿(きちんやど)のねどこのどんなに固(かた)いことであろう。(もう二度とアーサとも遊べないし、その母親の優(やさ)しい声も聞くことはできない)それを考えるだけでもおそろしかった。
 これほど深い、しつっこい悲しみの中で、うれしいことには、一つのなぐさめがあった。それは親方がまえよりはずっと優しく、温和になったことであった。
 かれのわたしに対する様子はすっかり変(か)わっていた。かれはわたしの主人というより以上(いじょう)のものであるように感じた。もうたびたび思い切って、かれにだきつきたいと思うほどのことがあった。それほどにわたしは愛情(あいじょう)を求(もと)めていた。けれどもわたしにはそれをする勇気(ゆうき)がなかった。親方はそういうふうになれなれしくすることを許(ゆる)さない人であった。
 初(はじ)めは恐怖(きょうふ)がわたしをかれから遠ざけたけれど、このごろはなんとは知れないが、ぼんやりと、いわば尊敬(そんけい)に似(に)た感情(かんじょう)がかれとわたしをへだてていた。
 わたしがいよいよ村の家を出るじぶんには、ふつうのびんぼうな階級(かいきゅう)の人たちと同じように親方を見ていた。わたしは世間なみの人からかれを区別(くべつ)することができずにいたが、ミリガン夫人(ふじん)と二か月くらしたあいだに、わたしの目は開いたし、ちえも進んだ。よく気をつけて親方を見ると、態度(たいど)でも様子でも、かれにはひじょうに高貴(こうき)なところがあるように見えた。かれの様子にはミリガン夫人のそれを思い出させるところがあった。
 そんなときわたしは、ばかな、親方はたかが犬やさるの見世物師(みせものし)というだけだし、ミリガン夫人(ふじん)は貴婦人(きふじん)である、それが似(に)かよったところがあるはずがないと思った。
 だがそう思いながら、よくよく見ると、わたしの目がまちがわないことが確(たし)かになった。親方はそうなろうと思えば、ミリガン夫人が貴婦人であると同様に紳士(しんし)になることができた。ただちがうことは、ミリガン夫人がいつでも貴婦人であるのに反して、親方がある場合だけ紳士であるということであった。でも一度そうなれば、それはりっぱな紳士になりきって、どんな向こう見ずな、どんな乱暴(らんぼう)な人間でも、その威勢(いせい)におされてしまうのであった。
 だからもともと向こう見ずでも、乱暴でもなかったわたしは、よけい威勢に打たれて、言いたいことも言い得(え)ずにしまった。それは向こうから優(やさ)しいことばでさそい出してくれるときでもそうであった。
 セットをたってからのち、しばらくわたしたちはミリガン夫人(ふじん)のことや、白鳥号に乗っていたあいだのことを口に出すことをしなかった。けれどもだんだんとそれが話の種(たね)になるようになって、まず親方がいつも話の口を切った。そうしてそれからは一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。
「おまえは好(す)いていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩(おん)を忘(わす)れてはならないぞ」
 そのあとでかれはいつも言い足した。
「だがしかたがなかったのだ」
 こう言う親方のことばを、初(はじ)めはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人(ふじん)がそばへ置(お)きたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。
 親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確(たし)かであった。そのうえこのことばの中には後悔(こうかい)に似(に)た心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしを残(のこ)しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。
 でもなぜかれがミリガン夫人(ふじん)の申し出を承知(しょうち)することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔(こうかい)しているということがわかって、わたしは心の底(そこ)に満足(まんぞく)した。
 もうこれでは親方も承知(しょうち)してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望(きぼう)の目標(もくひょう)になった。
 それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。
 それはローヌ川を上って行くはずであった。そうしてわたしたちはその川の岸に沿(そ)って歩いていた。
 それで歩きながらわたしの目は両側(りょうがわ)を限(かぎ)っている丘(おか)や、豊饒(ほうじょう)な田畑よりも、よけい水の上に注がれていた。
 わたしたちがアルルとか、タラスコンとか、アヴィニオン、モンテリマール、ヴァランス、ツールノン、ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場(はとば)か橋の上で、そこから川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を探(さが)した。遠方に半分、深い霧(きり)にかくれてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。
 でもそれはいつも白鳥号ではなかった。
 ときどきわたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしの探(さが)す美しい船の模様(もよう)を話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でもかれらはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。
 このごろでは親方も、わたしをミリガン夫人(ふじん)にわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう想像(そうぞう)されたから、もはやわたしの素性(すじょう)を告(つ)げたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの事件(じけん)は親方とミリガン夫人との間の相談(そうだん)でうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしいゆめでいろいろに事件を処理(しょり)してみた。ミリガン夫人はわたしをそばに置(お)きたいと言うだろう。親方はわたしに対する権利(けんり)を捨(す)てることを承知(しょうち)してくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。
 わたしたちは何週間もリヨンに滞在(たいざい)していた。そのあいだひまさえあればいく度もわたしはローヌ川と、ソーヌ川の波止場(はとば)に行ってみた。おかげでエーネー、チルジット、ラ・ギョッチエール、ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。
 しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。
 わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン夫人(ふじん)に二度と会う希望(きぼう)を捨(す)てなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへ別(わか)れて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの夢想(むこう)の結末(けつまつ)であった。
 いよいよいけなくなったことは、冬がいまや目近(まぢか)にせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない宿屋(やどや)かまたは物置(ものお)き小屋(ごや)につかれきってたどり着くと、もうはだまで水がしみ通って、わたしたちはとても笑顔(えがお)をうかべてねむる元気はなかった。
 ディジョンをたってから、コートドールの山道をこえたときなどは、雨にぬれて骨(ほね)までもこおる思いをした。ジョリクールなどは、わたしと同様いつも情(なさ)けない悲しそうな顔をしていた。よけい意地悪くなっていた。
 親方の目的(もくてき)は少しでも早くパリへ行き着くことであった。それは冬のあいだ芝居(しばい)をして回れるのはパリだけであった。わたしたちはもうごくわずかの金しか得られなかったので、汽車に乗ることもできなかった。
 道みちの町や村でも、日和(ひより)のつごうさえよければ、ちょっとした興行(こうぎょう)をやって、いくらかでも収入(しゅうにゅう)をかき集めて、出発するようにした。寒さと雨とで苦しめられながら、でもシャチヨンまではどうにかしてやって来た。
 シャチヨンをたってから、冷(つめ)たい雨の降(ふ)ったあとで、風は北に変(か)わった。
 もういく日かしめっぽい日が続(つづ)いたあとでは、わたしたちも顔にかみつくようにぶつかる北風を、いっそ気持ちよく思っていたが、まもなく空は大きな黒い雲でおおわれて、冬の日はすっかりかくれてしまった。大雪の近づいていることがわかっていた。
 わたしたちがちょっとした大きな村に着くまではまだ雪にもならなかった。でも親方は、なんでもトルアの町へ早く行こうとあせっていた。そこは大きい町だから、ひじょうに悪い天気で五、六日(にち)逗留(とうりゅう)しても、少しは興行(こうぎょう)を続(つづ)けて回る見こみがあった。「早くとこにおはいり」とその晩(ばん)宿屋(やどや)に着くと親方は言った。「あしたはなんでも早くからたつのだ……だが雪に降(ふ)りこめられてはたまらないなあ」
 でもかれはすぐにはとこにはいらなかった。台所の炉(ろ)のすみにこしをかけて、寒(さむ)さでひどく弱っているジョリクールを暖(あたた)めていた。さるは毛布(もうふ)にくるまっていても、やはり苦しがって、うめき声をやめなかった。
 あくる日の朝、わたしは言いつけられたとおり早く起きた。まだ夜が明けてはいなかった。空はまっ暗な雲が低(ひく)く垂(た)れて、星のかげ一つ見えなかった。ドアを開けると、はげしい風がえんとつにふき入って、危(あぶ)なくゆうべ灰(はい)の中にうずめたほだ火をまい上げそうにした。
 宿屋(やどや)の亭主(ていしゅ)は親方の顔を見て、
「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどいふぶきになりますぜ」
「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大ふぶきの来るまえにトルアまで行きたいと思っている」
「六、七里(約二十四~二十八キロ)もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」
 でもかまわずわたしたちは出発した。
 親方はジョリクールをしっかりからだにだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬は固(かた)いこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はデイジョンでわたしにひつじの毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったりからだにふきつけられていた。
 わたしたちは口を開くのがひどくふゆかいだったので、だまりこんで歩きながら、少しでも暖(あたた)まろうとして急いだ。
 もう夜明けの時間をよほど過(す)ぎていたが、空はまだまっ暗であった。東のほうに白っぽい帯(おび)のようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。
 野景色(のげしき)を見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、灌木(かんぼく)や小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。
 往来(おうらい)にも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、むちの鳴る音も聞こえなかった。
 ふと北の空に青白い筋(すじ)が見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちはきみょうながあがあいうささやき声のような音を聞いた。それはがんか野の白鳥のさけび声であったろう。この気ちがいじみた鳥の群(む)れは、わたしたちの頭の上を飛(と)んだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。かれらが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな雪片(せっぺん)が静(しず)かに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。
 わたしたちが通って行く道は喪中(もちゅう)のようにしずんでさびしかった。あれきって陰気(いんき)な野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さなちょうちょうのように目の前にちらちらした。絶(た)えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。
 わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪の降(ふ)るまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。
 わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。
 しかしまもなくそれがほんとうにわかった。しかもわたしにはけっして忘(わす)れることのできないものであった。
 雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲のふところが開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中をちょうちょうのようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしい勢(いきお)いで降(ふ)って来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。
「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。
 わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならないまえにわたしが見ておいたかぎりでは、一けんもうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。
 わたしたちの前には底知(そこし)れぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちを包(つつ)んでいる両側(りょうがわ)の丘陵(きゅうりょう)もやはり深い森であった。
 雪はいよいよはげしく降(ふ)ってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけにひつじの毛皮服を持ち上げて、ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。
 犬たちももう先に立ってかけることができなかった。かれらはわたしたちのかかとについて歩いて、早く休むうちを求(もと)めたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。
 道はいっこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼ骨(ほね)を折(お)って歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物がこおりついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののないあらしにふきさらされていた。そのうち風はいくらか静(しず)まったが、雪のかたまりはますます大きくなって、みるみる積(つ)もった
 わたしは親方がなにか探(さが)し物(もの)をするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、かれはなにも言わなかった。なにをかれは見つけようとするのであろう。
 わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家が現(あらわ)れてきはしないかという望(のぞ)みをかけていた。
 だが目の届(とど)く限(かぎ)り両側(りょうがわ)は雪にうずまった林であった。前はもう二、三間(四~五メートル)先が雪でぼんやりくもっていた。
 わたしはこれまで暖(あたた)かい台所の窓(まど)ガラスに雪の降(ふ)るところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠いゆめの世界のように思われることであろう。
 でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。なるほど、わたしはぼんやりと、空き地の中に堀立小屋(ほったてごや)のようなものを見た。
 わたしたちはその小屋に通う道を探(さが)さなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは困難(こんなん)な仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へはいることができた。
 その小屋は丸太(まるた)やしばをつかねて造(つく)ったもので、屋根も木のえだのたばを積(つ)み重ねて、雪が間から流れこまないように固(かた)くなわでしめてあった。
 犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上をほこりを立てて転(ころ)げ回(まわ)っていた。
 わたしたちの満足(まんぞく)もかれらにおとらず大きかった。
「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が降(ふ)ってもかまわないぞ」
「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大いばりで言った。
 わたしは戸口――というよりも小屋に出入(しゅつにゅう)する穴(あな)というほうが適当(てきとう)で、そこにはドアも窓(まど)もなかったが――そこまで行って、わたしは上着とぼうしの雪をはらった。せっかくのかわいた部屋(へや)をぬらすまいと思ったからである。
 わたしたちの宿(やど)の構造(こうぞう)はしごく簡単(かんたん)であった。備(そな)えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石がいすの代わりに置(お)いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが五、六枚(まい)、かまどの形に積(つ)んであったことである。なによりもまず火を燃(も)やさなければならぬ。
 なによりも火がいちばんのごちそうだ。
 さてまきだが、このうちでそれを見つけることは困難(こんなん)ではなかった。
 わたしたちはただかべや屋根からまきを引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。
 まもなくたき火の赤いほのおがえんえんと立った。むろん小屋はけむりでいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの欲(ほっ)しているのは火と熱(ねつ)であった。
 わたしは両手をついて、腹(はら)ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り巻(ま)いて、首をのばして、ぬれた背中(せなか)を火にかざしていた。
 ジョリクールはやっと親方の上着の下からのぞくだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを確(たし)かめて満足(まんぞく)したらしく、急いで地べたにとび下りて、たき火の前のいちばん上等な場所を占領(せんりょう)して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。
 親方は用心深い、経験(けいけん)に積(つ)んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料(しょくりょう)を包(つつ)んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足(まんぞく)した。
 情(なさ)けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯(ばんめし)に残(のこ)しておくほうが確実(かくじつ)だと考えたからであった。
 わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それでかれらはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢(はいのう)に納(おさ)められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、そのひざがしらを引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。
 背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめてねむる決心をした。カピは灰(はい)の中に鼻をつっこんでいた。わたしもかれらの例(れい)にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、ゆめの国にでも遊んだほうが気が利(き)いている。
 わたしはどのくらいねむったか知らなかった。目が覚(さ)めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪はひじょうに深かった。無理(むり)に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。
 何時だろう。
 わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら例(れい)のカピが時間を示(しめ)した大きな銀時計は売られてしまった。かれは罰金(ばっきん)や裁判(さいばん)の費用(ひよう)をはらうためにありったけの金を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。
 時計を見ることができないとすれば、日の加減(かげん)で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時だか時間を推量(すいりょう)するのが困難(こんなん)であった。
 なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなりこおらせてしまったように思われた。
 わたしは小屋の入口に立っていると、親方の呼(よ)ぶ声が聞こえた。
「これから出て行けると思うかな」とかれはたずねた。
「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」
「そうか、わたしはここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、たき火もあるのだから」
 それはほんとうであったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。
「どうせまた雪は降(ふ)ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜はよけい寒くなる。今夜はここでくらすほうが無事(ぶじ)だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」
 そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留(とうりゅう)するほかはない。胃(い)ぶくろのひもを固(かた)くしめておく、それだけのことだ。
 夕飯(ゆうはん)に親方が残(のこ)りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも残(のこ)さず、がつがつして食べた。このつましい晩食(ばんしょく)がすんだとき、犬はまたさっきのようにあとねだりをするだろうと思っていたが、かれらはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらいかれらがりこうであるか知った。
 親方がナイフをズボンのかくしにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろのにおいをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の吟味(ぎんみ)で、もうなにも食物の残(のこ)っていないことがわかった。それでかれはたき火の前の自分の席(せき)に帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきはあきらかにどうもしんぼうするほかはないよという意味を示(しめ)していた。そこでかれはあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。
「もうなにもない。ねだってもだめだよ」かれはこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと仲間(なかま)の犬たちに会得(えとく)さしていた。
 かれの仲間(なかま)はこのことばを理解(りかい)したらしく、これもやはりため息をつきながらたき火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっしてほんとうにあきらめたため息ではなかった。おなかの減(へ)っているうえに、ゼルビノはひじょうに大食らいであった。だからこれはかれにとっては大きな犠牲(ぎせい)であった。
 雪がまたずんずん降(ふ)りだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高くふくれ上がって、しまいに、小さな若木(わかぎ)や灌木(かんぼく)がすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな雪片(せっぺん)がなお暗い空からほの明るい地の上にしきりなしに落ちていた。
 わたしたちはいよいよここへねむるとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早くねつくことであった。わたしは昼間火でかわかしておいた毛皮服にくるまってまくらの代わりにした。平ったい石に頭をのせて、たき火の前に横になった。
「おまえはねむるがいい」親方が言った。「わたしのねむる番になればおまえを起こすから。この小屋ではけものもなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心してかぜをひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」
 わたしはさっそくねむった。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶふけていた。たき火はまだ燃(も)えていた。雪はもう降(ふ)ってはいなかった。
「今度はわたしのねむる番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさん採(と)っておいたまきをくべればいい」
 なるほどかれはたき火のわきに小えだをたくさん積(つ)み上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいちかべからまきをぬくたんびに音を立てて目を覚(さ)まさせられることをいやがった。それでわたしはかれのこしらえておいてくれたまきの山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。
 たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、情(なさ)けないことに親方は、これがどんな意外な結果(けっか)を生むかさとらなかった。
 かれはいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、たき火の前にからだをのばした。まもなくしだいに高く、しだいに規則(きそく)正しいいびきで、よくねいったことが知れた。
 そのときわたしはそっと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。
 草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。日の届(とど)くかぎりどこも目がくらむような白色であった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどくこおっていた。すきまからはいる空気は氷のようであった。喪中(もちゅう)にいるような静(しず)けさの中に、雪の表面のこおりつく音がいく度となく聞こえた。
「ああ、この森のおくで雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」
 わたしはそっと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の荘厳(そうごん)はかれにとってなんでもなかった。かれはしばらく景色(けしき)をながめたが、やがてたいくつして外へ出て行こうとした。
 わたしはかれに中にはいるように命令(めいれい)した。ばかな犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、暖(あたた)かいたき火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。かれは不承不承(ふしょうぶしょう)にわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっ面(つら)をして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことを忘(わす)れない犬であった。
 わたしは、まっ白な夜をながめながらまだ二、三分そこに立っていた。それは美しい景色(けしき)ではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中にはいって、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。
 とうとうわたしはまたたき火のそばへ帰って、二、三本まきをたがいちがいに火の上に組み合わせて、まくらの代わりにした石の上にこしをかけた。
 親方はおだやかにねむっていた。犬たちとジョリクールもまたねむっていた。ほのおが火の中から上って、ぴかぴか火花を散(ち)らしながら屋根のほうまで巻(ま)き上がった。ぱちぱちいうたき火のほのおの音だけが夜の沈黙(ちんもく)を破(やぶ)るただ一つの音であった。
 長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん我知(われし)らずうとうとし始めた。わたしが外へ出てまきをこしらえる仕事でもしていたら、日を覚(さ)ましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなくねむくなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目を覚(さ)ましているつもりになっていた。
 ふとはげしいほえ声にわたしは目が覚めて、とび上がった。まっ暗であった。わたしはかなり長いあいだねむったらしく、火はほとんど消(き)えかかっていた。もう小屋の中にほのおが光ってはいなかった。
 カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。
「どうした。どうした」と親方が目を覚(さ)ましてさけんだ。
「知りません」
「おまえはねむっていたのだな。火も消えている」
 カピは入口までかけ出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、ウウ、ほえていた。
「どうした。どうしたというんだろう」わたしは今度は自分にたずねた。
 カピのほえ声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い距離(きょり)から聞こえて来た。
 わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしの肩(かた)に手をのせて引き止めた。
「まあまきをくべなさい」かれは命令(めいれい)の調子で言った。
 言いつけられたとおりにわたしがしていると、かれは火の中から一本小えだを引き出して、火をふき消して、燃(も)えている先を吹(ふ)いた。
 かれはそのたいまつを手に持った。
「さあ、行って見て来よう」とかれは言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」
 外へ出ようとすると、はげしいほえ声が聞こえた。カピはこわがって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。
「おおかみだ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」
 なにをわたしが言えよう。二ひきの犬はわたしのねむっているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしがねつくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。
 おおかみがかれらをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、かれの声にはその恐怖(きょうふ)があった。
「たいまつをお持ち」とかれは言った。「あれらを助けに行かなければならない」
 村でわたしはよくおおかみのおそろしい話を開いていた。でもわたしはちゅうちょすることはできなかった。わたしはたいまつを取りにかけて帰って、また親方のあとに続(つづ)いた。
 けれども外には犬も見えなければおおかみも見えなかった。雪の上にただ二ひきの犬の足あとがぽつぽつ残(のこ)っていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとややはなれて雪の中でなにかけものが転(ころ)がり回ったようなあとがあった。
「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時にかれはゼルビノとドルスを呼(よ)び寄(よ)せる呼(よ)び子(こ)をふいた。
 けれどこれに答えるほえ声は聞こえなかった。森の中の重苦しい沈黙(ちんもく)を破(やぶ)る物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりにかけ出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも恐怖(きょうふ)にたえない様子であった。いつもはあれほど従順(じゅうじゅん)でゆうかんなカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの勇気(ゆうき)がなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先はただどんよりと暗かった。
 もう一度親方は呼(よ)び子(こ)をふいて、迷(まよ)い犬(いぬ)を呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。
「ああ、かわいそうなドルス」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。
「おおかみがつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」
 そう、どうして――そう言われて、わたしは答えることばがなかった。
「行って探(さが)して来なければ」とわたしはしばらくして言った。
 わたしは先に立って行こうとしたけれど、かれはわたしを引き止めた。
「どこへ探しに行くつもりだ」とかれはたずねた。
「わかりません、ほうぼうを」
「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で……」
 それはほんとうであった。雪がわたしたちのひざの上まで積(つ)もっていた。わたしたちの二本のたいまつをいっしょにしても、暗がりを照(て)らすことはできなかった。
「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」とかれは言った。
「わたしたちは、むやみに進むことはならない。おおかみはわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」
 かわいそうな犬どもを、その運命(うんめい)のままに任(まか)せるということは、どんなに情(なさ)けないことであったろう。
 ――われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになにより困(こま)ったことは、それがわたしの責任(せきにん)だということであった。わたしはねむりさえしなかったら、かれらも出て行きはしなかった。
 親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとに続(つづ)きながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。
 雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。
 こうしてわたしたちが、小屋にはいると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいたえだは勢(いきお)いよく燃(も)え上がって、小屋のすみずみの暗い所まで照(て)らしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。かれの着ていた毛布(もうふ)はたき火の前にぬぎ捨(す)ててあった。けれどかれは小屋の中にはいなかった。親方もわたしも呼(よ)んだ。けれどかれは出て来なかった。
 親方の言うには、かれの目を覚(さ)ましたときには、さるはわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。燃(も)えているたいまつを雪の積(つ)もった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。
 どこかたばねたまきのかげにでもかくれているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらく探(さが)し回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。
 わたしは親方の肩(かた)に上って、屋根に葺(ふ)いてあるえだたばの中を探してみた。二度も三度も呼(よ)んでみた。けれどもなんの返事もなかった。
 親方はぷりぷりかんしゃくを起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。
 わたしは親方に、おおかみがかれまでも取って行ったのではないかとたずねた。
「いいや」とかれは言った。「おおかみは小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへかかくれたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっとかぜをひくであろう。寒さがあれにはなにより効(き)くのだから」
「じゃあどんどん探(さが)してみましょうよ」
 わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。
「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。
「どのくらいで明けるでしょう」
「二時間か三時間だろう」
 親方は両手で頭をおさえてたき火の前にすわっていた。
 わたしはそれをじゃまする勇気(ゆうき)がなかった、わたしはかれのわきにつっ立って、ただときどき火の中にえだをくべるだけであった。一、二度かれは立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。
 わたしはかれがそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。
 三時間はのろのろ過(す)ぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。
 でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくに従(したが)って、寒さはいよいよひどくなった。戸口からはいって来る風が骨(ほね)までこおるようであった。
 これでジョリクールを見つけたとしても、かれは生きているだろうか。
 見つけ出す希望(きぼう)がほんとにあるだろうか。
 きょうもまた雪が降(ふ)りださないともかぎらない。
 でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの好天気(こうてんき)を予告(よこく)するようであった。
 すっかり明るくなって、樹木(じゅもく)の形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、棒(ぼう)をかかえて小屋を出た。
 カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいでかけ出す仕度をしていた。
 わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとを探(さが)し回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。かれはわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。
 小屋のわきの大きなかしの木のまたで、わたしたちはなにか黒い小さなもののうごめく姿(すがた)を見つけた。
 これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声におびえて、かれはわたしたちが出ているまに、小屋の屋根によじ上った。そしてそこから一本のかしの木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちの呼(よ)ぶ声にも答えず、じっとからだをかがめてすわっていたのであった。
 かわいそうな弱い動物。かれはこごえてしまったにちがいない。
 親方がかれを優(やさ)しく呼(よ)んだ。かれは動かなかった。わたしたちはかれがもう死んでいると思った。
 数分間親方はかれを続(つづ)けさまに呼んだ。けれどさるはもう生きているもののようではなかった。
 わたしの心臓(しんぞう)は後悔(こうかい)で痛(いた)んだ。どれほどひどく罰(ばっ)せられたことだろう。
 わたしはつぐないをしなければならない。
「登ってつかまえて来ましょう」とわたしは言った。
「危(あぶ)ないよ」
「いいえ、だいじょうぶです。わけなくできますよ」
 それはほんとうではなかった。それは危険(きけん)でむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん困難(こんなん)な仕事であった。
 わたしはごく小さかったじぶんから木登りをすることを習った。それでこの術(じゅつ)には熟練(じゅくれん)していた。わたしはとび上がって、いちばん下のえだにとびついた。そして木のえだをすけて雪が落ちて日の中にはいって来たが、でもどうやら木の幹(みき)をよじて、いちばんしっかりしたえだに手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。
 わたしは登りながら、優(やさ)しくジョリクールに話しかけた。かれは動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。
 わたしはほとんど手の届(とど)く所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいとかれはほかのえだにとびついてしまった。
 わたしはそのえだまでかれを追っかけたけれど、人間の情(なさ)けなさ、子どもであっても、木登りはさるにはかなわなかった。
 これでさるの足が雪でぬれていなかったら、とてもかれをつかまえることはできそうもなかった。かれは足のぬれることを好(この)まなかった。それでじきにわたしをからかうのがいやになって、えだからえだへととび下りて、まっすぐに主人の肩(かた)にとび下りた。そして上着の裏(うら)にかくれた。
 ジョリクールを見つけるのはたいへんなことであったがそれだけではすまなかった。今度は犬を探(さが)さなければならなかった。
 もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。
 わたしたちは十間(けん)(約十八メートル)ばかりかれらの足あとをつけることができた。かれらは続(つづ)いて小屋からぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとに続(ぞく)いた。
 それからほかのけものの足あとが見えた。一方にはおおかみどもは犬にとびかかって、はげしく戦(たたか)ったしるしが残(のこ)っていた。こちらにはおおかみがえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。
 かわいそうな二ひきの犬は、わたしのねむっているあいだに死にに行ったのであった。
 でもわたしたちはできるだけ早く帰って、ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方がさるの足と手を持って、赤んぼうをおさえるようにして、たき火にかざすと、わたしは毛布(もうふ)を温めて、その中へ転(ころ)がす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。かれは湯たんぽと温かい飲み物を求(もと)めていた。
 親方とわたしはたき火のそばにすわって、だまってまきの燃(も)えるのをながめた。
「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」
 わたしたちは代わりばんこにこんなことばをつぶやいた。初(はじ)めに親方が、つぎにはわたしが。
 あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、道連(みちづ)れであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。
 わたしがしっかり見張(みは)りをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。おおかみはそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。
 どうにかしていっそ親方がひどくわたしをしかってくれればよかった。かれがわたしを打ってくれればよかった。
 けれどかれはなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。かれは火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

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