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生死卍巴(せいしまんじどもえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 7:41:26  点击:  切换到繁體中文


勘解由と刑部?

「根津仏町に祈祷者住む、カアバ勘解由と云う。祈祷して曰く、『最も慈悲深き神よ、全智全能の神よ、死後まで祈祷すべし、尚神に願うべきことあり、正直に導けよ、邪道に導くなかれ』また曰く『告白せよ、神は唯一なり、信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし』と。――吉利支丹キリシタンには非ず。有司放任す。信者数多あまたあり、いずれも謙遜」云々。
 古い文献に記してある。
 で、その信者達が住んでいたので、勘解由店と云ったのである。数十軒かたまっていたらしい。
 その一軒に刑部という男が、やはり信者として住んでいたが、カアバ勘解由と親交があり、最も信任されていた。が、刑部には商売があって、単なる信者ではなかったそうである。商売というのは古物商で、特に異国の珍器などを、蒐集していたということである。で、好奇こうずの富豪連や、大名などが手を廻して、取り引きをしたということである。
 以上は将軍家光時代、寛永年間のことなのであるが、それから数十年の時が経って、享保十五年になった時には、多少趣が変わっていた。
 すなわち代々勘解由という名をもって、男性ばかりが継いで来た家が、この代になって女性となり、信者が目立って減って来て、その代わりにただの市民達が、勘解由店へ続々移り住み、普通の貧しい部落となったことが、その一つの変化であり、勘解由家の後を継いだ千賀子という女が、勘解由家代々の主人のように、権力を持っていないばかりか、肝心の実家へもろくろく住まず、江戸の市中や地方などへ出て、人相だの家相だの身の上判断だのと、そういったような貧弱な業に、専心たずさわっているところから、家がほとんど没落してしまった。――と云うのも変化の一つといえよう。しかしある人のうわさによれば、千賀子の代になってからであるが、二人の非常に有力の信者が、女性である千賀子を裏切って、勘解由家にとって重大な何かを、横領をしてしまったので、それで千賀子は落胆をして、そんな変なものになったのだとも云われ、いやいやそれだから千賀子という女は、奪われた何かを奪い返そうとして、放浪的生活をしているのだと、そんなようにも云われていた。
 ところで一方刑部おさかべ家の方には、どういう変化があったかというに、これは勘解由家とは反対に、昔よりも一層に盛んになって、江戸における特殊の古物商として、認められるようになっていた。
 と、こんなように説明して来れば、何か初代の勘解由という男が、偉大な宗祖のように見えるが、大したものではなかったらしい。カアバというこの文字から推察すれば、回教には因縁があったようである。と云うのはカアバというこの文字の意味は、亜剌比亜アラビアのメッカ市に存在する、回教の殿堂の名なのであるから。そういえば祈祷の文句にある、神は唯一なりというこの言葉なども、回教の教典コーランの中にある。
 家光将軍の時代といえば、吉利支丹迫害の全盛時代で、吉利支丹信者は迫害したが、その他の宗教に対しては、政策として保護を加えた。で勘解由という人物であるが、長崎あたりにゴロツイていて、何かの拍子に回教の教理の、ほんの一端を知ったところから、江戸へ出て来て布教したのであろう。大して勢力もなかったので、有司もうっちゃって置いたのであろう。
 刑部という男にしてからが、同じ頃に長崎にゴロツイていて、いろいろの国の紅毛人と交わり、異国の安っぽい器具うつわものなどを、安い値でたくさん仕入れて来て、これも長崎で知り合いになった、勘解由という男と結托して、大袈裟に宣伝して売っただけなのであろう。
 さてまずそれはそれとして、人間という者は出世をすれば、自分へ箔を付けようとして、勿体もったいをつけるものであるが、刑部といえどもそうであった。第一にめったに人に逢わず、第二に諸家様から招かれても、容易なことには出て行かず、物を買ったり売ったりする時にも、お世辞らしいことは云わなかった。しかし一体に古物商には、変人奇人があるものであるから、刑部のそうした勿体ぶった様子は、あるいは加工的の勿体ぶりではなくて、本質的のものなのかもしれない。
 が、とりわけ勿体的であり、また変奇的であるものといえば、刑部の家の構造であろう。いやいや家の構造というより、古道具類を置き並べてある、――現代の言葉で云ったならば――蒐集室の構造であろう。
 しかし、それとても昭和の人間の、科学的の眼から見る時には、別に変奇なものではなかった。窓々に硝子ガラスが篏めてあって、採光が巧妙に出来ている。四方の壁には棚があったが、それが無数に仕切られていて、一つ一つの区画のおもてに、同じく硝子が篏め込まれてあり、その中に置かれてある古道具類を、硝子越しに仔細に見ることが出来た。部屋の板敷きには幾個いくつも幾個も、脚高の台が置かれてあったが、その台の上にも硝子を篏めたところの、無数の木箱が置かれてあって、中に入れてある古道具類を、硝子越しに見ることが出来た。
 構造と云ってもこれだけなのであった。
 しかし日本のこの時代においては、硝子というものが尊く珍らしく、容易に入手することが出来ない。その硝子を無数に使っているのである。変にも奇にも見えたことであろう。その上に壁の合間などに、波斯ペルシャ織りだの亜剌比亜アラビア織りだのの、高価らしい華麗な壁掛けなどが、現代の眼から見る時には、ペンキ画ぐらいしかの値打かちしかない――しかし享保の昔にあっては、きわめて高雅に思われるところの、油絵の金縁の額などと一緒に、物々しくかけられてあるのであるから、見る人の眼を奪うには足りた。のみならず高い天井などからは、瓔珞ようらくを垂らした南京龕ナンキンずしなどが、これも物々しく下げられてあるので、見る人の眼を奪うには足りた。で、日中であろうものなら、硝子窓から射して来る日光ひかりが、蒐集棚の硝子にあたり、蒐集木箱の硝子にあたり、五彩の虹のような光を放ち、それらの奥所おくどに置かれてあるところの、古い異国の神像や、耳環や木乃伊ミイラや椰子の実や、土耳古トルコ製らしい偃月刀えんげつとうや、亜剌比亜人の巻くターバンのきれや、中身のなくなっている酒の瓶や、刺繍した靴や木彫りの面や、紅、青、紫の宝玉類を、異様に美々しく装飾し、もしそれが夜であろうものなら、南京龕にともされた火が、やはり硝子や異国の器具類を、これは神秘的に色彩るのであった。
 しかしこれらの部屋の構造も、そこに置かれてある異国の古道具も、今日の眼から見る時には、安物でなければ贋物なのであって、誠に価値のある物といえば、皆無と云ってもよいほどであった。いやもっと率直に云えば、享保年間のその時代においても、少し利口な人間であり、長崎などと往来し、紅毛人などと親しくし、多少商才のある人間であったから、こういう部屋の構造や、こういう異国の古道具などは、造ることも出来ればあつめることも出来、したがって高価に売りつけることも、苦心もせずに出来るのであった。だがもしそれが反対となって、異国の事情を知らない者などが、この部屋へ入って来ようものなら、何から何までが怪奇に見え、高雅に見えることであろう。
 とまれこういう部屋を持った、刑部屋敷という一軒のうちが、その左隣りに没落をして、廃墟めいた姿をさらしている、勘解由千賀子の屋敷を持ち、周囲に貧民の家々を持って、かなり豪奢に立っているのであった。
 ところで当主の刑部という男は、そもそもどんな人物なのであろう。
 年は六十で痩せていて、狡猾尊大な風貌をしていて、道服めいた着物を着ていて、手に払子ほっすめいたたたきを持ち、絶えず口の中で何かを呟き、隙のない眼でジロジロ見廻す。――と云ったような人物であった。
 しかし刑部はめったのことには、蒐集室へは現われなかった。いつも奥の部屋にいるのであった。とはいえ見張ってはいるものと見えて、いかがわしい客などが入り込んで来ると、扉をあけてチョロチョロと入って来て、払子を揮って追い出したりした。
 宝石や貴金属の鑑定には、名人だという噂があり、贓品ぞうひんなどをも秘密に買って、秘密に売るという噂もあった。で、大家の若旦那とか、ないしは富豪の妻妾などが、こっそり金の用途があって、まとまった金の欲しい時には、そうした宝石や貴金属を、ひそかにここへ持ち込んで来て、買い取って貰うということである。と、それとは反対に、掘り出し物の宝玉とか、貴金属などの欲しい者は、これはおおっぴらにここへ来て、蒐集室で探したり、直接刑部にぶつかったりして、手中に入れると噂されてもいた。
 松平碩寿翁と醍醐弦四郎とが、この日蒐集室へ集まって、互いに相手を探るような話を、さっきから曖昧に取りかわせていたのも、宝石かないしは貴金属か、掘り出し物をしようとして、苦心している結果とみなすことが出来る。

曖昧な会話

「それでは松平碩寿翁様で。……が、それにしてはこのような、醜悪極まる勘解由店かげゆだなの、刑部おさかべ屋敷などへおいでなさるとは、心得ぬ儀にござりますな」
 こう云って醍醐弦四郎は、碩寿翁の返辞をしばらく待った。
 何と碩寿翁は答えるであろうか?
 答えは極めて簡単であった。
「私はな、珍器や古器物が好きだ。世間周知のことではないか、何の勘解由店の刑部屋敷が、醜悪極まる処であろう。すくなくもわしにはよい所だ。ここへ来て探すと珍らしい物が、ヒョッコリヒョッコリと手に入るからの。……それはそうとお手前におかれても、身分ある立派なお武家らしいが、お手前こそ何の用事があって、このような処へ参られたかの? とたずねるのが本当ではあるが、ナーニ私は訊ねないよ。ちゃんと解っているからさ。掘り出し物がしたいからであろう。ここへ来るほどの人間は、一人残らず誰も彼もそうさ。アッハッハッ、図星だろうがな。ところでどういう掘り出し物を、お手前は望んでおられるやら? 実はな、私はそいつが聞きたい。が、押しては訊ねない、と云うのは推量がついているからよ。お手前の今の話によって、推量を私はつけたのだ。……亜剌比亜アラビアから渡って来た何かであろう。ここで率直に云うことにする。私もな、同じ物を探しているのだ」
 戸外そとは夜で暗かったが、部屋の中は燈火で明るかった。一つの卓を前にして、その向こう側へ醍醐弦四郎を置いて、眼光の鋭い巨大な鷲鼻の、老将軍のような碩寿翁が、胡麻塩の頤髯を悠々とし、威厳のある声音こわねで急所々々を、ピタピタ抑えてまくし立てた様子は、爽快と云ってよいほどであった。
 向かい合っている醍醐弦四郎も、一種剛強の人物らしく、太い眉に釣り上った眼、むっと結んだ厚手の唇、鉄のように張った胸板など、堂々とした風采ではあったが、碩寿翁にかかっては及ぶべくもないのか、たじろいだような格好に、卓から一二歩後ろへ離れた。
 しばらくの間は無言である。
 で、部屋の中は静かであって、南京龕ナンキンずしから射して来る光に、蒐集棚の硝子ガラスが光り、蒐集箱の硝子が光り、額の金縁が光って見えた。部屋の片隅に等身ほどもある、梵天ぼんてんめいた胴の立像があったが、その眼へ篏められてある二つの宝玉が、焔のような深紅しんくに輝いていた。紅玉などであろうかもしれない。
(相手が松平の大隠居とあっては、俺に勝ち目があるはずがない。のみならず俺の探している物を、碩寿翁も探しているという、困った敵が現われたものだ)
 碩寿翁と眼と眼とを見合わせながら、弦四郎は思わざるを得なかった。
(さてこれからどうしたものだ)
(何とかバツを合わせて置いて、器用にこの部屋を退散しよう。それにさ俺は何をおいても、伊十郎めに逢わなければならない)
 そこで弦四郎はお辞儀をした。
「これは恐縮に存じます。いや、お言葉にはございますが、何の私めがご前様と同じに、亜剌比亜アラビアから渡った何かなどを、探しなどいたしておりましょうぞ。先刻申し上げました話なども、ほんの出鱈目なのでござります。遠い異国の亜剌比亜のことなど、存じておるわけはござりませぬ。……さあこの屋敷へ参りましたのも、偶然からにござります。珍らしい器類を置き並べてあると、江戸で名高うございますので、一度は見ようと存じまして、本日門口かどぐちを通りましたので、立ち寄ったまでにございます。……まことに珍器、まことに異品、このように取り揃えてありましょうとは、思いも及ばないでおりましたので、驚かされましてござります。が、私めにとりましては、ご高名の松平碩寿翁様に、このように親しくお目にかかり、このように気安くお話をし、謦咳けいがいに接しましたそのことの方が、実は一層に珍らしくも、有難くも想われるのでござります。で、なにとぞこれをご縁に、今後はお引き立てにあずかりたく……ええ私めの素性と申せば……ハッハッハッとんでもない儀で、浪人者の私などに、何の素性などござりますものか。……よしまた素性がありましたところで、お耳に入れて徳もなく、聞かれるあなた様におかれましても、面白くもおかしくもござりますまい。そこで……」と云って来たが醍醐弦四郎は、自分が頓馬とんまに思われて来た。
(まるで辻褄が合わないじゃアないか。鼻の頭へ汗を掻いて、俺は一体何を云ってるのだ)
 で、また一つお辞儀をしたが、
「お別れいたすでござります。ご免」と、云うと部屋を飛び出した。
 こうして二人の変な会見は、あっけなく終りを告げたのであったが、しかし碩寿翁にも弦四郎にも、すぐ意外な事件が起こった。
 弦四郎の事件から書くことにしよう。
 刑部屋敷を出た弦四郎が、上野の山下まで来た時であったが、しゃを巻いたような月光の中から、
「あの方もご出立でございます。あなたもご出立なさりませ!」
 こういう女の声が聞こえた。
「…………」
 で、弦四郎は声の来た方を見た。
 巫女みこ姿の女が弦四郎の横手をすべるようにして歩いて行く。
「おお、あれはあの女だ」
 で、弦四郎は見送るようにした。
 月の光をヒラヒラと縫って、髪を垂らして、御幣ごへいを持って、脚に一本歯の足駄をはき、胸へ円鏡をかけている。衣裳といえば白衣びゃくえであって、長い袖が風にひるがえり、巨大な蛾などが飛んでいるように見える。容貌なども美しいと見えて、月光にさらされた横顔の形は、鼻が高くて額が秀でて、頤が珠のように円味がかっていた。
「待て!」と、弦四郎は声をかけたが、すぐにスッと走り寄り、巫女の片袖へ手をかけた。
「千賀子殿でござろう、相違ござるまい!」
 だがその巫女は返辞もしないで、取られた片袖を柔かに外し、同じ辷るような歩き方で、根津の方角へ足を運んだ。
 一種いわれぬ威厳があって、遮ろうにも遮ることが出来ない。
 で、弦四郎は立ったままでいたが、千賀子の姿が見えなくなるや嘲るような声をもらした。
「碩寿翁には先手を打たれ、千賀子には謎語めいごを浴びせかけられてしまった。今夜は、俺にはめでたくない晩だ。二度あることは三度あるというが、もう一度、今夜中に嚇されるかもしれない」
(それにしてもどういう意味なのであろう? あの方はご出立なさいました、あなたもご出立なさいませとは?)
 しかし間もなく謎語の意味が、醍醐だいご弦四郎には解けて来た。
「伊十郎めに早く逢おう」
 こうして足を早ませて、両国の橋詰めまで行った時に、向こうから一人の若い武士が、息をせき切って走って来たが、
「おおこれは醍醐殿で」
「伊十郎氏か、何か起こったか?」
「宮川茅野雄ちのおが旅に立ちました」
(ははあこの事を云ったのだな、あの千賀子という女巫女は)
「おおさようか、で、何処いずこへ?」
「まずお聞きなさりませ」
 年は二十八九であろうか、帷子かたびらに小袴をつけている。敏捷らしい顔立ちのうちに、一味の殺気のっているのは、善良でない証拠と云えよう。醍醐弦四郎の部下と見えて弦四郎に対しては慇懃いんぎんである。
「まずお聞きなさりませ」
 半田伊十郎は話し出した。
「ご貴殿のお指図さしずがありましたので、昨夜より私茅野雄めの邸を、警戒いたしましてござります。ところが今朝になりまして、にわかに旅支度をいたしまして、茅野雄には邸を立ちいでましたので、すぐに私こと玄関へかかり、茅野雄の友人と偽わりまして、行く先を詳しく訊ねましたところ、しもべらしい老人の申しますことには、飛騨の国は高山城下より、十五里あまり離れましたところの、丹生川平にゅうがわだいらという一つのごうへ、参りました旨語りましたので、早速お耳に入れたく存じて、お邸へ参上いたしましたところ、ご外出にてご不在とのこと、そこで止むなくお約束の場所の、ここでお待ち受けいたしますうちに、お姿をお見かけいたしましたので、せ参った次第にござります」
「そうか」と、それを聞くと醍醐弦四郎は、大きく一つ頷いて見せたが、
「すぐ俺も出立しよう」
「は、ご出立? でどちらへ?」
「云うまでもない、丹生川平へよ」
「茅野雄の後を追いましてな」
「素晴らしい何かを求めてだよ」
「で、我々一党の者は?」
「出立々々、同時に出立!」
「かしこまりましてございます」
 ――で、二人は引っ返したが、この頃松平碩寿翁においては、刑部屋敷の露路の口で、一人の若者と話していた。

兇悪の碩寿翁

(醍醐弦四郎と云ったあの男も、俺と同じ物を探しているらしい。油断のならない人物らしかったが、とんでもない競争者が出て来たものだ)
 碩寿翁はこんなことを思いながら、弦四郎の立ち去ったその後においても、蒐集部屋の中をあちらこちらと、珍奇の器具類を調べながら、しばらくの間はさまよっていた。
(今日はこれぐらいで帰るとしよう)
 で、碩寿翁は蒐集部屋を出たが、出たところに露路があって、それをウネウネと幾廻りかして、往来へ出なければならなかった。
 こうして碩寿翁は露路口まで来た。と、その時一人の男が、誰かに追われてでもいるかのように、息を切らして走って来たが、そこまで来ると足を止めて、キョロキョロ四辺あたりを見廻し出した。
「もし」と、碩寿翁を眼に入れたので、その若者は声をかけた。
「ちょっとお訊ねいたしますが、刑部屋敷と申します屋敷は、どこら辺りでござりましょうか?」
「刑部屋敷か、刑部屋敷はここだ。たった今私の出て来たところだ」
 こう云うと碩寿翁は若者を見た。
「おやそうでございましたか。やっと安心いたしました。で、はなはだ失礼ながら、あなた様がお屋敷のご主人で?」
「何か用でもあるというのか?」
「主人の用事でござります。はいはい私のご主人様の。ええ私のご主人様と申すは、松倉屋の奥様にござります。私ことは京助と申して、寵愛の手代にござります。で、奥様が仰せられました。この品物を持って行って、刑部屋敷のご主人に逢って、お手渡しをして参るがよい。一緒に書面もお渡ししな。そうしてご返辞をいただいて参れ。下さるものがあるだろう、それをもいただいて参るがよい。……これが品物にございます。これがお手紙にござります。……品物の中身は存じませぬが、どうやら高価の品物らしく、それが証拠には勘右衛門様が――はい松倉屋のご主人様なので、――品物を取り返そう取り返そうとして、いやはやいやはやとてもしつこく、追っかけて来ましてございます。で、私は一散に逃げて、やっとここまで参りました。ほッ、この汗! この汗はどうだ! 汗をかきましてござります。ほッ、この動悸! この動悸はどうだ! ひどい動悸が打っております。……」
 碩寿翁を屋敷の主人と見あやまり、京助はあたふたこう云いながら、包み物と書面とを前へ出した。
 恐ろしい主人の勘右衛門に、執念深く追いかけられ、弁太や杉次郎に助けられ、ようやく逃げて根津まで来て、あっちこっちをほっつき廻り、ようやく目的の刑部屋敷の、露路の口まで来たのであった。その時風采堂々とした、松平碩寿翁に逢ったのである。顛倒している眼から見れば、刑部屋敷の主人公に、碩寿翁の見えたのは当然と云えよう。
 で、京助は恭しく、包み物と書面とを支え持っていた。
(松倉屋の女房の高価な品物? 勘右衛門が取り返そうと追って来た品物? 刑部屋敷の主人へ渡して、返辞と何かを下さるだろうから、それをいただいて参れという品物。……松倉屋は昔は抜け荷買いだ、異国の珍器なども持っていよう。刑部屋敷の主人といえば、そういう品物を売買する奴だ……松倉屋の女房は贅沢三昧で、むやみと金を使うという。……うむ、解った! それに違いない!)
 碩寿翁には咄嗟に真相が解った。
 俄然碩寿翁の眼の光が、貴人などにはあるまじいほどに、毒々しく惨酷に輝いたが、
「さようか、よろしい、受け取りましょう。返辞もあげよう、物もあげよう。……さあさあこっちへ参るがよい。どれ」と、手を延ばして二品を取ったが、とたんに片手をグッと突き出した。
 呻きの声の聞こえたのは、急所を突かれた手代の京助が、倒れながら呻いたからであろう。
 左右は貧民の家々であって、露路を挟んで立ち並んでいる。月の光が遮られて、露路の中はほとんど闇であった。そういう露路を背後うしろにして、露路口に立っている碩寿翁の姿は、その長い髯に、頑丈な肩に、秀れた上身長うわぜいに、老将軍らしい顔に、青白い月光を真っ向に浴びて、茶人とか好奇家こうずかとか大名の隠居とか、そういうおおらかの人物とは見えずに、老吸血鬼か殺人狂のように見えた。その足もとに転がっているのは、犠牲にされた京助であって、両手を握って左右へ延ばし、食いしばった口から泡を吹き半眼で空を睨んでいる。
 と、碩寿翁は腰を曲げたが、手を延ばすと京助の襟上をつかみ、露路へズルズルと引っ張り込んだ。
 一つの露路は二つの露路を産み、二つの露路は四つの露路を産み、この一画は細い露路によって、蜘蛛手くもでのように織られていたが、それの一つへ投げ込まれたが最後、死人であろうと、怪我人であろうと、犬や猫のように扱われて、死人は下手人も探されず、そのままどこかへ片寄せられ、怪我人は介抱もされないのであった。
 この一画は貧民窟ではあったが、また罪悪の巣でもあり、悪漢わる無頼漢ごろつきの根城なのでもあった。
 淫祠邪教の存在地なるものは、表面人助けが行なわれるが、裡面においては惨忍極まる、悪徳が横行するものである。
 とりわけ細い露路の一つへ、死んでしまったのか、気絶をしているのか、されるままになっている京助の体を、ズルズルと引っ張って来た松平碩寿翁は、一軒の家の門口かどぐちの前へ、その京助の体を捨て、忍びやかに露路を出ようとした。
 と、その家の窓の辺りから、急に華やかな燈火ともしびが射し、高貴な若々しい男の声が、屈託もなさそうに聞こえてきた。
「問題は非常に簡単なのだよ。小慾にあり知足ちそくにあるのさ。なるほど、今は生活くらしにくい浮世だ。戦い取ろう、しぼり取ろうと、誰も彼も逆上してあせっている。だから私は云うのだよ、慾を少なくして、足るを知れと。つまり浮世と逆行するのだ。その逆行が徹底した時に、桃源郷が現じ出してくる。……誰も彼も桃源郷を求めていながら、誰も彼もが桃源郷を断っている」
 するとその声に答えるようにして、あどけない娘の声がした。
小父おじ様ほんとうでございますわね。……でも小父様はどういうお方ですの?」
わしかね」と男の笑声が云った。
「旅人なのだよ、この人の世の。……お伽噺の語り手なのだよ。伝道者と云ってもよいかも知れない」
わたしちっとも恐くないわ。知らないお方ではございますけど。……フラリと先刻さっきいらしった時から、ちっとも恐くはございませんでしたの」
「それはね、お前さんがよいだからよ。……悪人なら私を怖がるはずだ」
「でも小父様はお立派なのね。お顔もお姿もお召し物も。……そうして何て神々こうごうしいのでしょう。妾、ひざまずいて拝みたいのよ」
「お前さんの心が立派だからよ。……立派な心は立派な心を好くよ。私こそお前さんにひざまずくべきだよ」
「でも妾貧しいのでございますの。誰も彼も私を馬鹿にしますの」
「一人だけお前さんを認めているものがあるよ」
「まあ小父様、あなたのことですの」
「いやいや私がお仕えしている方だよ」
「どなたでございますの? ねえ小父様?」
「唯一なる神」
「唯一なる神?」
「お聞きおたえさん、聞こえるだろうね」
「…………」
「小慾知足とは反対に、飽くことを知らない強慾者が、みすみす没落の穴の方へ、歩いて行く足音が聞こえましょう」
「小父様妾には聞こえませぬが」
「窓をお開け!」と男の声がした。
「姿を見ることが出来ましょう。その気の毒な強慾者の姿が」
 露路の闇に佇んで、聞きすましていた碩寿翁は、一刹那体をひるがえすと、その家の板へへばりついた。
 と、すぐに窓があき、娘の顔が現われたが、家内いえうちから射し出る燈火ともしびの光を、背景としているがために、顔立ちなどはわからなかった。清らかな白い輪廓ばかりが、ぼんやり見えるばかりであった。
 娘は露路の左右を見たが、
「小父様、何にも見えませぬ」
「さようか」と、家内で男の声が云った。
「では見ない方がよいだろう。……そうだ、なるたけ穢らわしいものは」
「ああ小父様、黒い物が見えます。おおおお死骸でございます。若い方の死骸でございます。露路の真ん中に倒れております」
「助けておいで」と、男の声がした。
「可哀そうな不幸なにえなのだよ」
 つづいて「はい」という声が聞こえて、窓から娘の顔が消えた。
 と、戸をあける声がした。
 松平碩寿翁は見付けられなければなるまい。
 いやいや碩寿翁はこの時には、既に露地から走り出していた。すなわち窓から娘の顔が、引っ込むと同時に身を躍らせて、露路から外へ飛び出したのであった。

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