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生死卍巴(せいしまんじどもえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 7:41:26  点击:  切换到繁體中文


颯と一揮

(あのお方があんな所におられようとは。……俺はとうとう感付かれてしまった! ……俺に恐ろしいのはあのお方ばかりだ。……俺は邸へは帰られない。俺は体を隠さなければならない。……あのお方があんな所におられようとは。いやいやこれは当然かも知れない。……あのお方はああいうお方なのだから。……不正な所へも現われるし、正しい所へも現われる。貧しい所へも現われれば、富んだところへも現われる。そうして「状態」をひっくり返す)
 露路口で立ち止まった碩寿翁は、こう考えて戦慄したが、そういう恐怖よりもさらに一層の、好奇心が胸へ湧き上った。で、手に持っていた包み物の、包みをグルグルと解きほぐし、現われた蒔絵まきえの箱のふたを、月に向かってパッと取った。と一道のさば色の光が、月の光を奪うばかりに、燦然としてほとばしり出たが、ほんの一瞬間に消えてしまった。碩寿翁が箱の蓋をかぶせたからである。
「おおこの光に比べては、名誉も身分も、財産も生命いのちさえも劣って見える。……あれだ! たしかに! 探していたあれだ!」
 感動が著しかったためなのであろう、碩寿翁はガタガタと顫え出した。
 が、その次の瞬間に、碩寿翁を驚かせたものがあった。一本の腕が背後うしろから延びて、蒔絵の箱を掴んだからである。
 とたんに活然と音がして、白い物が月光に躍り上り、すぐに地に落ちてころがった。
 抜き討ちに切りつけた碩寿翁の太刀に、御幣ごへいの柄が真ん中から二つに切られ、その先が躍り上って落ちたのであった。
 露路口に立っている女があった。白の行衣ぎょうえに高足駄をはき、胸に円鏡を光らせてかけ、手に御幣の切られたのを持って、それを頭上で左右に振って、鋭い声で喚いている。
 勘解由かげゆ家の当主の千賀子であった。
「返せ返せ持っている物を返せ! 久しく尋ねていた我が家の物だ! それの一つだ、返せ返せ! ……刑部おさかべ殿々々々、お出合いくだされ! あなたにとっても大切の物が、見付かりましてござりますぞ! ……得体の知れない老人が、持って立ち去ろうといたします! ……お出合いくだされ、お出合いくだされ! ……あッ、切り込んで参ります! 妾は殺されそうでござります! お出合いくだされ! お助けくだされ!」
「黙れ!」と碩寿翁は※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったした。
おのれこそ誰だ、不届きの女め! 拙者の持ち物を取ろうとする! ……うむ、うむ、うむ、汝もそうか! 汝もこいつを探している一人か! ……では許されぬ! 助けはしない! ……くたばれ!」と、毒々しく食らわせたが、一躍するとさっと切った。
 辛くもひっ外した巫女の千賀子は、御幣ごへいを尚も頭上で振ったが、
「なんの汝に! 切られてなろうか! なんの汝に! 取られてなろうか! ……返せ返せ、我が家の物だ! ……刑部殿、刑部殿、刑部殿!」
 するとその声が聞こえたのであろう、露路の奥から応ずる声がした。
「おお千賀子殿か、何事でござる!」
 つづいて走って来る足の音がしたが、刑部老人が来るのでもあろう。道服めいた衣裳を着て、払子ほっすを持った身長たけの高いおきなの、古物商の刑部が露路を走って、露路の口まで出て来た時には、しかし松平碩寿翁は、その辺りにはいなかった。月の光を青々とねて、数間の先を走っていた。
「あッ、ありゃア碩寿翁様だ! ……え、あの方があれを持って? ……ふうむ、さようか、それはそれは。いやそれなら大事ない! 私に取り返す策がある。……が、待てよ、こいつはいけない! ……大変だ大変だかえって大変だ!」

 それから三日の日が経った時に、旅よそおいをした一人の武士が、飛騨の峠路を辿っていた。
 ほかならぬ宮川茅野雄ちのおであった。
 巨木が鬱々と繁っていて、峠の路は薄暗く、山蛭やまひるなどが落ちて来て、気味の悪さも一通りでなかった。と、その時唸りをなして、一本の征矢そやが飛んで来たが、杉の老幹の一所へ立った。矢文と見えて紙が巻いてある。
「はてな?」と、立ち止まった宮川茅野雄は、手を延ばすと文をほぐし取ったが、開いて読むと血相を変えた。
醍醐だいご弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」
 矢文に書いてあった文字もんじである。
 で、茅野雄は顔色を変えて、突っ立ったままで考え込んだ。
 思い出されるのは、いつぞやの晩に、醍醐弦四郎という浪人者に、突然切ってかかられたあげく、
「あの巫女みこが占いをいたした以上は貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょう。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際にはいつも貴殿の生命いのちを巡って、拙者のやいばのあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい」と、このように云った言葉であった。
(それでは醍醐弦四郎という男は、俺と敵対をするために、このように飛騨の山中まで後をつけて来て矢文を射て、俺を脅迫しているのか)
 茅野雄は何となく肌寒くなった。
(どうして俺が江戸を立って、飛騨の山中へ入り込んだことを、あの男は探り知ったのであろう?)
 これが茅野雄には不思議であった。
(しかし俺は巫女の占いを奉じて、飛騨の山中へ来たのではない。叔父の一族に逢おうとして、飛騨の山中へ入り込んだのだ)
 とはいえ結果から云う時には、
「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょう」と、そう云った巫女の言葉の、占い通りにはなっていた。
(しかし俺に巫女が占ってくれた「何か」がはたして何であるか、それさえ知ってはいないのだ)
 ――で、醍醐弦四郎などに、敵対行動を取られるという、そういう理由はないものと、そう思わざるを得なかった。
(そうは思うものの醍醐弦四郎に、現在このように矢文を付けられ、あからさまなる敵対行動を、約束された上からは、用心しなければならないだろう)
 で、茅野雄は四方あたりを見た。
 六月の山中の美しさは、緑葉と花木とに装われて、類い少なく見事であった。椎の花が咲いている。石斛せっこくの花が咲いている。えんじゅの花が咲いている。そうして厚朴ほおの花が咲いている。鹿が断崖の頂きを駆け、たかが松林で啼いている。もずが木の枝で叫んでいるかと思うと、つぐみが藪でさえずっている。
 四方八方険山であって、一所に滝が落ちていた。その滝のまわりをめぐりながら、啼いているのは何の鳥であろう? 数十羽群れた岩燕であった。
 高山の城下までつづいているはずの、峠路とも云えない細い道は、足の爪先からやまがたをなして、曲がりくねって延びていた。昼の日があたっているからであろう。道の小石や大石が、キラキラと所々白く光った。
 しかし、弦四郎と思われるような、人の姿は見えなかった。
(不思議だな、どうしたのであろう?)
 宮川茅野雄は首をひねったが、ややあって苦い笑いをもらした。
(何も近くにいるのなら、矢文を射てよこすはずはない。遠くに隠れているのだろう。そこから矢文を射てよこしたのだ。そうしてそこから窺っているのだ)
 それにしても戦国の時代ではなし、矢文を射ってよこすとは、すこし古風に過ぎるようだ。――こう思って茅野雄はおかしかった。
(弓矢で人を嚇すなんて、今時なら山賊のやることだがなあ)
 考えていたところで仕方がない。用心しいしい進んで行くことにした。
 で、茅野雄は歩き出した。
 裾べり野袴にすげの笠、柄袋をかけた細身の大小、あられ小紋の手甲に脚絆、――旅装いは尋常であった。
 峠の路は歩きにくい、野茨が野袴の裾を引いたり、崖から落ちて来る泉の水が、峠の道に溢れ出て、膝にくまでに溜っていたりした。
 高山の城下へ着くまでには、まだまだ十里はあるだろう。それまでに人家がなかろうものなら、野宿をしなければならないだろう。
(急がなければならない、急がなければならない)
 で、茅野雄は足を早めた。
 こうして二里あまりも来ただろうか、峠の道が丁寧にも三つに別れた地点まで来た。
(さあ、どの道を行ったものであろうか、ちょっとこれは困ったことになったぞ)
 で、茅野雄は足を止めた。

不思議な老樵夫

 一本の道は少しく広く、他の二本の道は狭かった。
(城下へ通う道なのだから、相当に広い道でなければならない――この広い道がそうなんだろう。高山へ通っている道なんだろう)
 こう茅野雄は考えて、その広い道へ足を入れた。
 と、その時一人の老人が、狭い方の道の一本から、ノッソリと姿を現わした。かるさんを穿いて筒袖を着て、樵夫そまと見えて背中に薪木をしょって、黒木の杖をついていた。
「ああこれおやじちょっと訊きたい」
 茅野雄はそれと見てとって、確かめて見ようと思ったのだろう。後戻りをして声をかけた。
「高山のお城下へ参るには、この道を参ってよろしかろうかな?」
 こう云って広い方の道を指した。
 と、老樵夫は冠り物を取って、コツンと一つ頭をさげたが、つくづくと茅野雄の顔を見た。
「へい、高山へいらっしゃいますので」
「さよう、高山へ参る者だ。この道を参ってよろしかろうかな?」
「…………」
 どうしたのか老樵夫は物を云わないで、何か物でも探るように、茅野雄の顔を見守った。
 大きい眼、高い鼻、田舎者らしくない薄い唇、頬の肉がたっぷりと垂れていて、わずかではあったが品位があった。年格好は五十五六か、顔の色は赧く日に焼けていたが、かえってそれが健康そうであり、額や頤に皺はあったが、野卑なところは持っていなかった。――これが老樵夫の風貌であって、注意して観察を下したならば、単なる山間の住民などではなく、由緒ある人間だということに、感付くことが出来たであろう。
 と、老樵夫は意味ありそうに笑った。
「ハッハッハッ、ちがいますよ」
「異う? そうか、この道ではないのか」
「へいへいこの道ではございません」
「しかしこの道が広いようだが。お城下へ通っている道とすれば、この道以外にはなさそうだが」
 すると老樵夫はまた笑ったが、意味ありそうに次のように云った。
「尊いおふみにございます。天国への道は細く嶮しく、地獄への道は広うござるとな。――それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
(何だか風変わりのことを云う爺だ。まるでお説教でもしているようだ)
 茅野雄は笑止に思いはしたが、
「ほほうさようか、この細い道か。この道を真直ぐに辿って行けば、高山のお城下へ出られるのだな」
 しかし老樵夫は同じような事を、慇懃ねんごろに繰り返すばかりであった。
「それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
「そうか」と、茅野雄は会釈をした。
「お前に訊ねてよいことをした。お前へ道を訊かなかろうものなら、すんでに別の道へ行くところだった。ではこの道から参ることにしよう」
 で、茅野雄は歩き出したが、すぐにたけ延びた雑草に蔽われ、その姿が見えなくなった。と、老樵夫は茅野雄の行った後を、意味ありそうに見送ったが、
「武道も学問もおありなさる、立派なお武家に相違なさそうだ。……郷民ごうみんたちは喜ぶだろう。……きっと歓迎するだろう。……が、云ってみれば人身御供ひとみごくうさ。お武家様にはご迷惑かもしれない。……とはいえ俺達にとって見ればなあ」
 こう呟きの声を洩らした。
 夏の日が熱く照っていて、ムッとするような草いきれがした。と、一匹の青大将が、草むらから姿を現わしたが、老樵夫を見ても逃げようとはせず、道を横切って姿を消した。
「どれ、そろそろ行くとしようか」
 で、老樵夫は歩き出したが、ものの二間とは行かなかったろう、旅装いをした五人の武士が、茅野雄の上って来た同じ道から、上って来るのに邂逅いきあった。
「これこれ」と、一人の武士が云った。
「ちょっと物をたずねたい」
 猟夫さつおの使う半弓を持った、それは醍醐弦四郎であったが、さも横柄に言葉をつづけた。
「旅の侍が通ったはずだ。ここに三本の道がある。どの道を行ったか教えてくれ」
「へいへい」と云ったが首を下げて、老樵夫は弦四郎の笠の中を覗いた。人相を通してこの侍の人物を知ろうとするものらしい。しばらくの間は黙っていた。
 その態度がどうやら弦四郎には、腹立たしいものに思われたらしい。癇癪声で怒鳴るように云った。
「当方の申すことが解らぬか。唖者かそれとも聾者なのか! ……では改めてもう一度訊く。――旅の侍が通った筈だ。ここに三本の道がある。どの道を侍は通って行ったな」
「へい」と老樵夫は決心したように云った。
「細い道を通って参りました」
「おおそうか、細い道を行ったか。が、細い道は二本ある。どっちの細い道を通って行ったな?」
「へい」と老樵夫は妙な笑い方をしたが、
「この細い道を通って参りました」
 こう云って一本の道を指した。が、その道は茅野雄の通った、細い道とはちがっていた。
 しかし弦四郎には解るはずがなかった。
「おおそうか、この道を行ったか」
 ――で、ロクロク礼も云わず、四人の部下を従えて、その細い道を先へ進んだ。
 そうしてこれも長く延びたすすきに、間もなく蔽われて見えなくなった。
 一旦かくれた青大将が、草むらから姿を現わしたが、また道を横切って、どこへともなく行ってしまった。
 風の音がサラサラと草を渡り、日がまじまじと照っていて、四辺あたり[#「四辺あたり」は底本では「四辺あたりり」]はひっそりと物寂しい。
 と、高い笑い声がした。
 老樵夫が上げた笑い声であった。
「ああいう悪いお侍さんはあっちの郷へやった方がいい。あっちの郷は乱されるだろうなあ」

(どうも恐ろしく歩きにくい道だ。天国へ行く道は狭くて嶮しいと、先刻さっきの老樵夫がお談義をしてくれたが、高山のお城下へ行く道が、こんなに歩きにくいとは思わなかった)
 もう夕暮が逼って来ていた。草には重く露が下りて、脚絆を通して脚を濡らし、道の左右に繁り合っている、巨大な年老いた木々の間から、夕日が砂金のように時々こぼれた。道は思い切った爪先上りで、胸を突きそうな所さえあった。大岩が行く手にころがっていて、それを巡って向こうへ出たところ、大沼が湛えてあったりもした。
 老樵夫に逢った地点から、少なくも二里は歩いたはずだが、一つの人家にも逢わなかった。
(変だな)と茅野雄は思案した。
(道が異ったのではあるまいかな? お城下へ通じている道である以上は、本街道と云わなければならない。本街道なら本街道らしく、たとえまれまれであろうとも、人家が立っていなければならない)
 ところが人家は一軒もない。
(おかしいな、おかしい)
 しかし老樵夫がああ教えた以上は、やはり高山のお城下へ通う、本街道であるものと認めて、辿って行くべきが至当のようであった。
 で、茅野雄は歩いて行った。
 人間の不安や心配などに、なんの「時」が関わろうとしよう。間もなく夜となり夜が更けた。星の姿さえ見えないほどに樹木が厚く繁っている。で、四辺あたりが真の闇となり歩こうにも、歩くことが出来なくなった。
(いよいよ野宿ということになった。どうも仕方がない野宿をしよう)
 狼の襲来というようなことも、弦四郎の襲来というようなことも、もちろん心にはかかったけれども、それよりも山道を歩いて行って、断崖などを踏みそこなって、深い谿たになどへころがり落ちて、死んでしまうかもしれないという、そういう不安の方が茅野雄にとっては、緊急の不安であったので、野宿をすることに決心した。
(大岩の陰へでも寝ることにしよう)
 で、手さぐりに探り出した。
 と、その時遥か行く手の、高所たかみの上から一点の火光が、木の間を通して見えて来た。
(はてな?)と、これは誰でも思う。茅野雄は怪しんで火光を見詰めた。
 と、火光が下って来た。しかも火光は数を増した。二点! 三点! 五点! 十点!
 ……で、こっちへ近寄って来る。
(あの光は松火たいまつだ。山賊かな? それとも樵夫であろうか?)

どこへ?

 そもその一団は何者なのであろう? その風采から調べなければならない。同勢はすべてで二十人であったが、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を一本だけ帯び、切れ緒の草鞋わらじをはいていた。で、風采から云う時は、大して変なものでもなかった。が、顔立ちには特色があった。と云うのは山間の住民などに見る、粗野で物慾的で殺伐で、ぐずぐずしたようなところがなくて、精神的の修養を経た、信仰深い人ばかりが持つ、霊的な顔立ちを備えているのである。
 彼らは輿こしを担いでいた。白木と藤蔓とで作られた輿で、ばかりが黒木で出来ていた。四人の若者が担いでいる。どこか神輿みこしめいたところがあって、何となく尊げに見受けられたが、一所に垂れている垂れぎぬの模様が、日本の織り物としてはかなり珍らしい。剣だの巻軸だの寺院てらだのの形で、充たされているのが異様であった。
 と、この一団だが近づいて来て、茅野雄の前までやって来ると、予定の行動ででもあるかのように、足を止めて松火たいまつをかかげた。
 そうでなくてさえ茅野雄にとっては、もの珍らしい一団であった。ましてや足を止められたのである。必然的に彼らを見た。
 と、「おや!」という驚きの声が、茅野雄の口から飛び出した。
 その一団の先頭に佇み、茅野雄を見ている老人があったが、昼間茅野雄に道を教えた、老樵夫その人であったからである。
 と、老樵夫は腰をかがめたが、恭しく茅野雄へお辞儀した。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
(驚いたなア何ということだ。俺には訳が解らない)
 茅野雄は老人へ云った。
「親切に道を教えてくれた、お前は先刻の老人ではないか。何と思ってこのようなことをするぞ?」
 しかし老人は茅野雄の言葉へ、返辞をしようとはしなかった。
「お迎えに参りましたのでござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
 こう繰り返して云うばかりであった。
「お前に迎えられる理由はないよ」
 茅野雄は少しく腹立たしくなった。
「案内すると云うが、わしの行く先を知っているかな?」
 老人の言葉は同じであった。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
わしはな」と茅野雄は苦笑しながら云った。
先刻さっきは高山へ行くとは云ったが、ほんとうの行く先は高山ではないのだ。高山からさらに十里離れた……」
 しかしこのように云って来て、不意に茅野雄は口をつぐんだ。
(迎えに来たというからには、案内しようというからには、俺の行く先を知っていなければ嘘だ、……と云って知っているはずはない。よしよし一つからかってやろう)
 で、茅野雄はわざと慇懃いんぎんに云った。
「せっかくのお迎えでござるゆえ、遠慮なく輿に乗りまして、行く先までご案内をお願いしましょう。が、只今も申した通りに、貴殿方には拙者の行く先を、ご存じないように存じますよ。それともご存じでござりますかな? ご存じならば仰せられるがよろしい。ただしこれだけは申し上げる。と云うのは今も申しました通り、拙者の行く先は高山から、十里はなれた地点でござる。どこでござろうな? どこでござろうな?」
 で、老人の答えを待った。
「はい」と老人はその言葉を聞くと、いくらか眉をひそめたようであったが、
「高山のお城下を中心にして、十里離れた地点と申しても、いろいろの里や郷があります。どの方角へ十里でござりましょうか」
(それ見ろ)と茅野雄は笑止に思った。
(お迎えに来たの案内しようのと、いいかげんのことを云っていながら、俺の行く先を知らないではないか。――どうやらこ奴らは悪者らしい)
 しかし茅野雄は云うことにした。
「どの方角だかわしも知らぬ。ただし地名は丹生川平にゅうがわだいらと云うよ」
 ――するとこれはどうしたのであろうか、老人の態度がにわかに変わって、一種の殺気を持って来た。
「丹生川平へおいでになる? どのようなご用でおいでになりますかな?」
「そこにの、わしの叔父がいるのだ」
「お名前は何と仰せられますかな?」
(何故こううるさく訊くのだろう?)
 茅野雄は変な気持がしたが、
「叔父の名前か、宮川覚明かくめいというよ」と、一つの事件が起こった。
 茅野雄のそう云った言葉を聞いて、老人が鬼のような兇悪な顔をつくり、従えて来た部下らしい十九人の者へ、何やら大声で喚いたかと思うと、十九人の若者が小刀を抜いて、死に物狂いの凄じさで、茅野雄へ切ってかかったことであった。輿も松火も投げ捨てられて、輿は微塵に破壊こわされたらしく、松火は消えて真の闇となった。
 ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――ッと物凄い足音! つづいて喚く声々が聞こえた。
「法敵の片割れだ! 生かして帰すな!」
「丹生川平へ走らせるな!」
「谷へ蹴落とせ! 切り刻んでしまえ!」
「いや引っ捕らえろ! 生贄いけにえにしろ!」
 しかしそういう声々よりも、そういう声々の凄じい中を縫って、例の老人の錆びた太い声が、祈りでも上げているように、途切れ途切れではあったけれども、
「我が兄弟健在なれ! 勝利を神に祈れ! 教主マホメットの威徳を我らに体得せしめよ! 全幅の敬意を我らは捧ぐ! 唯一なる神よ! 謀叛人を許すなく、マホメットの使徒に行なわしめよ! 最も荘厳なる殺戮を! この者我らの敵にして、神を犯しマホメットを穢す! 嵐よ吹け! この者を倒せ! 豪雨よ降れ! この者を溺らせよ!」
 と、木や岩に反響して聞こえてくるのが、一層に凄くすさまじかった。
 思いも及ばなかった殺到に対して、いかに茅野雄が驚いたかは、説明をするにも及ばないであろう。
 身を翻えすと飛びしさって、そこにあった老木の杉の幹を楯に、引き抜いた刀を脇構えに構え、しばらく様子をうかがった。
 と云っても相手を見ることは出来ない。深山の暗夜であるからである。焔は消えたが余燼よじんはあって、五六本の松火が地上に赤く、点々とくすぶってはいたけれど、光は空間へは届いていなかった。案内の知れない山中であった。諸所に大岩や灌木のくさむらや、仆れ木や地割れがあることであろう。飛び出して行って叩っ切ろうとしても、つまずいて転がるのが精々であった。
(こ奴らは、一体何者なのであろう?)
 老人の祈りめいた叫び声によって、マホメット教徒であるらしい――そういうことだけは思われた。
(丹生川平の叔父の一族を、敵として憎んでいるらしいが、どういう理由から憎むのであろう?)
 すると不意に茅野雄の記憶の中へ、従妹いとこの浪江から送りされた、書面の文句が甦えって来た。
(父も母も無事でございます。でも性質は変わりました。敵を持つようになりました。只今私達の一族は、苦境にあるのでございます。どうぞどうぞおいでくださいまして、私達一族の味方となって、私達をお助けくださいませ。――そうだ、こんなように書いてあった。その敵というのがこ奴らなのであろう)
「だが何故俺を殺そうとするのか?」
(俺が叔父達の一族だからであろう)
(俺にとってもこいつらは敵だ!)
 眼の前の余燼を赤らめて、点々と見えていた松火の火が、この時にわかに消えてしまった。
 松火の余燼の消えたのは、そこへ相手の敵の勢が集まって、足で踏み消したのであろう――と、直感した直感を手頼たよって、茅野雄は翻然と突き進んだ。声は掛けなかったが辛辣であった! 感覚的に横へ薙いだ。と、すぐに鋭い悲鳴が上って、人の仆れる物音がしたが、つづいて太刀音と喧号けんごうとが、嵐のように湧き起こった。そうして闇の一所に、その闇をいよいよ闇にするような、異様な渦巻が渦巻いたが、にわかに崩れて一方へ走った。
 と、数間離れたところで、同じような渦巻が渦巻いて、またもや太刀音と喧号とが悲鳴と仆れる音とに雑って、同じく嵐のように湧き起こった。茅野雄が敵を切って位置を変えるごとに、執念深く敵が追い逼って、引っ包んで討ち取ろうとしているのであった。
 同じようなことが繰り返されて、渦巻が崩れて一方へ走って、そっちへ渦巻が移って行った時に、谷へ石でも転落するような、ガラガラという音が響き渡った。

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