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恐怖城(きょうふじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 9:20:09  点击:  切换到繁體中文


       2

 敬二郎の胸はあらしのように騒ぎだした。
(正勝のやつはこのおれから、紀久ちゃんをろうとしているのじゃないのかな?)
 そんな風に敬二郎は考えたのだった。
(そして同時に、この森谷家の財産を、つまりおれの財産を、正勝の奴はおれから奪ろうとしているのじゃないのか?)
 敬二郎は身内に、鋭い銀線の駆け巡るような衝撃を感じた。
(正勝の奴と紀久ちゃんとは兄妹のようにして育ったのだし、子供の時分にはおれのほうより正勝の奴を紀久ちゃんは好きだったのだから……)
 そこへ、電報配達夫が凍りついてコンクリートのようになっている凸凹の道を、自転車で寄ってきた。
「正勝さんはいますか?」
 電報配達夫は自転車から飛び下りながら言った。
「電報か?」
 敬二郎は目を瞠りながら言った。
(正勝の奴へ? 正勝の奴へいったい、どこから電報など来るところがあるのだろう?)
 敬二郎の軽い驚きの中には、嫉妬しっとの気持ちさえ加わってきていた。
「正勝さんへ来たんですがね」
 電報配達夫は、それでも小さな赤革のかばんの中から電報を取り出した。
「だれのでもいい、もらっておこう。正勝は放牧場のほうへ行っているから」
「それでは、あなたから渡してくださいね。頼みますよ」
 電報配達夫はそう言って敬二郎の手に電報を渡してしまうと、すぐまた自転車にまたがって凸凹の道を帰っていった。敬二郎は電報を手にして、じっと電報配達夫の後姿を見送った。電報配達夫は間もなく放牧場の外周をめぐっている高い土手の陰に消えた。敬二郎はそこで、放牧場の中に正勝の姿を探した。しかし、正勝はどこにも見えなかった。
 敬二郎は厩舎きゅうしゃの中へ引き返した。そして、彼は激しく躍る胸をじっと抑えるようにして、その電報を開いた。
(=ムザイニケツテイ 三四カウチニカエル キクコ=)
 電報にはそうあった。
 敬二郎の心臓は裂けるほど激しく、湯のような重い熱を伴って弾みだした。同時に、彼はその電文を疑わずにはいられなかった。彼は厩舎の戸口へ行って、明るい外光に宛名あてなをかざした。
(=ヒガシハラ モリタニボクジヨウナイ タカオカマサカツ=)
 瞬間、敬二郎の耳は汽笛のように鼓膜を刺して鳴りだした。同時に、激しい苦痛が心臓に食いついてきた。頭の中を火の車のようなものが、慌ただしく回転した。
(彼女は心変わりがしたのだ。正勝の奴にだまされて、彼女は急に心変わりがしたのだ)
 敬二郎は火を吐くような息をして、心の中に呟いた。
(正勝の奴がいるからなのだ。正勝の奴さえいなければ、彼女の気持ちがこんなに急に変わるわけはないのだ)
 敬二郎は電報を洋服のポケットに突っ込んで、厩舎の中からぴゅうっと飛び出した。そして、彼は自分の部屋に入っていった。部屋に入ると、彼は壁にかけてある猟銃を引っつかんだ。そして、すぐまた戸外へ飛び出していった。
(正勝の奴を、どんなことがあっても怒らしちゃいけない。あいつの機嫌をとっておいて、あいつが油断をしているとき……)
 敬二郎は気を静めながら、放牧場のほうへ駆けだしていった。しかし、正勝の姿は放牧場のどこにも見えなかった。
「開墾場のほうへ行ったのかな?」
 敬二郎はそう考えて、四角なコンクリートの正門から道路のほうへ出ていった。ちょうどそこへ、正勝が急ぎ足に寄ってきた。しかし、正勝は敬二郎の姿を見ると急に立ち止まった。
「敬二郎くん! 何を昂奮こうふんしているんだえ?」
 正勝は目を瞠って言った。
くまが出たんだよ。にれの木の上の林から放牧場のほうへ、のそのそと出てくるのがはっきりと見えたんだ。一緒に行ってくれないかね」
 敬二郎は胸を弾ませながら言った。
「熊が? それじゃ、おれたちばかりでなく、大勢で行こう」
「ぼくときみだけで沢山だよ」
「それより、きみはおれの電報を預かってるはずだな? いまそこで配達夫がそう言っていたが……」
「熊が出たんで、電報のことなんか忘れてしまっていた」
 敬二郎は狼狽ろうばいしながら電報を取り出した。
「紀久ちゃんからだろう?」
 正勝はそう言って、すぐその電報を広げた。
「おっ! 無罪に決定! 無罪に決定! 無罪ということにいよいよ決定したんだ。無罪に決定! 無罪に決定! 無罪に……」
 正勝はそう叫びながら、電報をひらひらと振り、急に踊りだした。
「正勝くん! 何がそんなにうれしいんだえ?」
 敬二郎は侮蔑的な微笑をもって言った。
「当然のことじゃないか! 紀久ちゃんが無罪に決定して、三、四日うちには帰ってくるんだもの。ほっ! 無罪に決定! 無罪に決定!」
「正勝くん! きみは紀久ちゃんが無罪に決定したのが、そんなに嬉しいのか? 自分の妹を殺した女が無罪に決定したって、何が嬉しいのかぼくには分からないなあ」
「おれにとって嬉しいこたあ、いまとなってみればきみにとっちゃ悲しいことさ」
「何を言っているんだ! きみは妹をかわいそうだとは思わないのか? 自分の妹を殺した女がたとえ幾月にもしろ、刑務所に……」
「余計なお世話だよ。蔦と紀久ちゃんとを一緒にされるもんか。紀久ちゃんのためなら、蔦なんか百人殺されたっていいんだ。紀久ちゃんとおれとがどんな風にして育ってきたか、それを考えてみろ。それから、この牧場が出来上がるまでおれの親父おやじがどんなに難儀したか、それを考えてみろ! おれの親父は言ってみれば、この牧場のために死んだんだぞ」
「そのことと、紀久ちゃんが無罪になったということと、どう関係があるんだね?」
「おれが言わなくても、紀久ちゃんが三、四日うちに帰るから、それまで待っているんだね。おっとどっこい! 無罪に決定! 無罪に決定!」
 正勝はそう言って、ふたたび踊りだした。
「正勝くん! それはそれとして、それじゃ、早く一緒に行ってくれ」
「熊か? おれはご免だ。紀久ちゃんが帰ってこねえうちに、熊と間違えて殺されたりしちゃ困るからなあ。だれかほかの奴を連れていけよ。おれは前祝いでもしてくるから。おっとどっこい! 無罪に決定だ! 無罪に決定! 無罪に決定!」
 正勝はそう叫びながら、踊るような足つきで敬二郎の前を離れていった。

       3

 開墾場を貫通する往還を挟んで、五、六軒ばかりの木羽屋根こばやねの集落があった。森谷牧場と森谷農場とを目当てとしての、つまり、牧場と農場での労働に身体からだり減らして余生を引きる人々によって形成されている、唯一の商業集落であった。雑貨店・雑穀屋・呉服店、小さな見窄みすぼらしいそれらの店の間に挟まって、一軒の薄汚い居酒屋があった。
 正勝は踊るような足つきをしながら、その居酒屋の中へ入っていった。
 居酒屋の薄暗い土間の中央には四角の大きな炉があって、真っ赤に火が燃えていた。そして、その炉の周りには、無造作な造りつけのテーブルと腰掛けとがめぐらされてあった。正勝はその腰掛けの一つに、身体を投げ出すようにして腰を下ろした。
じいさあ! 一本つけてくれないか?」
「おっ! 正勝さんか? これはこれはしばらく」
 卯吉爺うきちじいはそう言いながら、ぼそぼそと土間へ下りてきた。
「熱くしてもらいたいなあ」
「熱く? あいよ。ときに、裁判はどんなことになったか、決定しねえかね?」
 卯吉爺はかんの支度をしながら訊いた。
「無罪さ? 無罪に決定したんだ」
「無罪? ほっ! 無罪かね。それじゃ、敬二郎さんは喜んでるベ?」
「敬二郎の奴なんか、なにも喜ぶわけねえさ。紀久ちゃんは敬二郎の奴なんか好きじゃねえんだもの」
「それは初耳だなあ」
 卯吉爺はそう言いながら、酒のさかな烏賊いかの塩辛を運んできた。
「今度だって紀久ちゃんは、無罪に決定したっていう電報を敬二郎の奴に寄越さねえで、おれに寄越してるんだからなあ。紀久ちゃんはむしろ、敬二郎の奴を嫌ってるんだよ」
「それじゃ、お嬢さんは敬二郎さんよりも、正勝さんのほうを気に入っているのじゃねえのかな? どうもそうらしいなあ」
 爺はそう言いながら、酒を運んできた。
「おれはどっちを好きだか、そんなことは知らねえがな。しかし、敬二郎の奴を好きでねえことだけ、これは確かなことなんだ。もし敬二郎の奴を好きなのなら、今度だっておれのほうさ電報を寄越すわけはねえからなあ」
 正勝は上半身をぐっと後ろに引くようにして、炉の火の上に大股おおまたを開いた。
「そりゃあ、敬二郎さんよりもお嬢さんは正勝さんを好きなのだよ。それに違いねえとも。それ! 熱いうちに……」
 爺はそう言って、燗のできている酒をいだ。
「そんなこたあまあ、おりゃあどっちだっていいがなあ」
 しかし、正勝の顔にはなにかしら、暗い重々しいものの底から浮かび上がってくる得意の表情が容易に隠し切れなかった。正勝は唇を微笑にゆがめながら、熱い燗の酒を続けてぐびりぐびりと飲み干した。爺は炉の火をき立てながら、無骨な手で酌を続けるのだった。
「どっちでもいいってこたあねえさ。いまのところお嬢さんに好かれるか好かれねえかっていうこたあ、こりゃあ大問題だぞ。お嬢さんに好かれりゃあ、それでまあ、森谷さまのお婿さまに決まったようなもんだ。森谷さまの財産といったら、こりゃあまた大したもんだ」
「おりゃあ、財産なんかどうだっていいんだ」
「お嬢さんにしてみりゃあ、そりゃあ正勝さんのことを気にするなあもっともな話だよ。牧場のほうも農場のほうも森谷さまと高岡たかおかさまと二人で始めて、森谷さまのお嬢さんと高岡さまの坊ちゃんの正勝さんとは兄妹のようにして育ったのを、高岡さまのほうだけが不幸なことになって、正勝さんをお嬢さんのお婿さんにするのかと思ったらそれもしないで、敬二郎さんを連れてくるんだから……」
「紀久ちゃんがおとなしいからさ。紀久ちゃんが自分の気持ちを言い張れば、親父だって無理やりに押しつけたりしやしめえから」
 正勝はそしてまた、ぐびりと酒をあおった。
「お嬢さまがおとなしいからって、牧場を始めるときのことを考えれば……」
「それなんだ。それだよ、卯吉爺さん! おりゃあ森谷の財産を自分のものにしてえと思わねえが、おれの親父ばかりじゃなく、開墾場のほうの何人かの人たちが実にひどい目に遭っているんだから、できれば開墾場の人たちが当然自分の土地として牧場のほうからもらっていい土地ばかりは開墾場の人たちの手に返してやりたいんだ。おれの親父がそう考えていたんだから、親父の気持ちを継いで、おれの手で返してやりたいんだ」
「それは立派な考えだ。いまならもう、お嬢さんの気持ち一つでどうにでもなるんだから、お嬢さんが敬二郎さんよりゃ正勝さんのほうを好きで、正勝さんが森谷さまのお婿さんになられて、たとえ半分でも返してやったら、開墾場の人々がどんなに喜ぶか……」
「それで、おりゃあ、それだから、紀久ちゃんの気持ちをどうしても敬二郎のほうへはなびかせたくねえんだ。敬二郎の野郎に森谷の財産を奪られてしまえば、それでもう前と同じことなんだから。森谷の親父はまたそれを考えて敬二郎の野郎を婿にしようとしていたんだし」
「しかし、お嬢さまが敬二郎さんに電報を寄越さねえで正勝さんに寄越したのなら、それだけでももうお嬢さまの気持ちははっきりと分かるようだがなあ」
「卯吉爺さん! そりゃあおれにだって、見当も考えもあっての話だがなあ。いまに見てろ、この辺はまるで変わったものになるから。卯吉爺さんなどだって、いまよりはきっとよくなるから。爺さん! 一杯まあ飲め」
 正勝はしだいに酔いが回ってきて、爺のほうへぐっとさかずきを突きつけながら叫ぶような高声で言うのだった。
「これはこれは……」
 爺は微笑を崩して盃を受けながら、正勝をあおりだした。
「そんな風にしてくれりゃあ、村にとっちゃ神さまのようなもんだ。村の人たちのためにでも、ぜひともお婿さんになってもらいてえもんだなあ。村の人たちがよくなりゃあ、おれのほうもすぐよくなるのだし、そりゃあぜひとも……」
「紀久ちゃんの気持ちを、どうかして敬二郎の奴から裂いて……」
 その時、入り口の戸が開いて、不意に敬二郎が入ってきた。正勝は急に口をつぐんだ。そして、正勝と爺とは顔を見合わせた。
「正勝くんも来てるのか?」
 敬二郎は鼻であしらうようにしながら、正勝と向き合いに、炉端の腰掛けへ腰を下ろした。
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   第六章

       1

 片隅の壁に造りつけられてある土間のストーブには、まきがぴちぴちと跳ねながら真っ赤に燃えていた。敬二郎はストーブのほうへ長靴の両足を伸ばして煙草たばこをふかしながら、次の言葉を躊躇ちゅうちょした。平吾と常三と松吉との三人はストーブに手をかざして、重い沈黙の中に敬二郎の言葉を待った。しかし、敬二郎は煙草をくゆらしてはただじっと唇をみ締めるだけだった。
「とにかく、正勝の野郎は旦那だんなが亡くなってからってもの、生意気になってきたことだけは確かだ」
 平吾が両手を擦り合わせながら、思い出したように言った。
「それなら本当だ」
 松吉が顔を上げて、叫ぶように言った。
「そればかりじゃねえ、あの野郎はなにも仕事をしねえで遊んでばかりいるぞ。そして、旦那の長靴を履いたり、旦那のむちを持ち出したり、勝手なことばかりしていやがるよ」
「正勝くんとしちゃ、それぐらいのこと、なんでもないことなんだ」
 敬二郎は三人の者が正勝に反感を抱いているのを知って、急に勢いを得てきた。
「なにしろ、正勝くんは大変なことをたくらんでるのだからなあ。実はそれで、きみたち三人に相談してみようと思ったわけなんだがね。しかし、これはほかの人たちにはだれにも知らせたくないことなんだ。ぼくはきみたち三人にだけ打ち明けて、ほかの人たちには絶対秘密にしておきたいと思うんだ」
 敬二郎はそこまで言って、言葉を切った。そこへばあやが紅茶を運んできた。紅茶をすすりながらふたたび沈黙が続きだした。
「それで、正勝の野郎はどんなことを企んでるのかね?」
 しばらくしてから松吉はそう言って、煙管きせるに煙草を詰めた。
「正勝くんはこの森谷家の財産を、自分のものにしようとしているのだよ。他人ひとから聞いた話だけれど、どうもそうらしい気振りがぼくにも見えるんでね。それできみたちに相談してみるわけなんだよ」
「あの野郎なら、それぐらいのことは企みかねないなあ」
 平吾が勢い込んで言った。
「それで、きみたちはどう思うかね」
「どうもこうもねえことじゃありませんがなあ。正勝の野郎をいまのうちに、この牧場から追い出してしめえばいいんですよ。だれがなんと言ったって、いまのところあなたはこの牧場の主人あるじなのだから、あなたがあの野郎を追い出す分にゃあだれも文句はねえはずだ」
「しかし、追い出すといっても、簡単に出ていく男じゃないからなあ」
「あなたがびしびしとやりゃあ、そんなことなんでもねえじゃありませんか。造作のねえことですよ。面倒なときゃあ、正勝の野郎一人ぐれえなら畳んでしめえばいいんだからなあ。たたき殺して谷底へでも投げ込んでしめえば、それで片づいてしまうんだもの」
「しかし、紀久ちゃんの気持ちが最近ではぼくのほうよりも正勝くんのほうへ傾いているかもしれないのだから、紀久ちゃんが帰ってきて、正勝くんより逆にぼくのほうが追い出されるかもしれないからなあ」
「そんなら、お嬢さまの帰ってこねえうちに、いまのうちにやってしめえばいいですよ。まず試しに、何かあいつのいやがることを言いつけて、無理にでもさせるんだなあ。それで、あいつが言いつけどおりにやらねえんなら、おれたちが黙っていねえから」
「いったい、正勝の野郎は今日は何をしてるんだ? 今日は朝から見えねえじゃねえか?」
 松吉が突然、思い出したようにして言った。
「今日は浪岡に乗って、放牧場のほうで鉄砲を撃って歩いていたよ」
「浪岡に乗って?」
 敬二郎は驚きの表情で、き返した。
「近ごろは正勝の野郎、浪岡にきり乗りませんよ」
「浪岡を自分の乗り馬にするつもりなのかな? 浪岡なら、乗り馬としちゃ最上の馬だからなあ。まったく、この牧場の中でももっとも値段の出ている馬だし、調教を少しつければ、それだけでもう浪岡は貴族階級の乗り馬だよ」
「それを正勝の野郎に勝手にさせておくなんて、そんな馬鹿ばかなことはねえ! 敬二郎さん! おれが引っ張ってくるから、あなたからぐっと差し止めなせえよ。それで、あの野郎があなたの言うことを聞かなかったら、そのときゃあおれらが黙ってねえから」
「それじゃ、とにかく差し止めてみよう」
「それじゃ、みんなは厩舎うまやの前へ行って、あそこで待っていてくれ。すぐ引っ張ってくるから」
 平吾はそう言って長靴をぎゅっぎゅっと鳴らしながら、戸外へ出ていった。

       2

 平吾は栗毛くりげの馬に乗って、放牧場の枯草の中を一直線に駆けていった。
 正勝は浪岡に※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)だくを踏ませて、にれの木のある斜面を雑木林の谷のほうへ下りてくるところだった。右手には猟銃を持って、手綱は左手でさばいていた。正勝はそして、木の枝に鳥を探りながら、平吾がすぐその近くへ行くまで知らずにいた。
正勝まっかちゃんよう!」
 平吾は馬の上から声をかけた。
「平さんか?」
 正勝は軽い驚きの表情で振り向いた。
「正勝ちゃんに、若旦那がちょっと用事があるそうだで」
「若旦那? 若旦那って、いったいだれのことだえ?」
 正勝はほおを膨らましながら、高圧的に言った。
「そんな皮肉なことは言うもんじゃねえよ。用事があるんだそうだから、一緒に来てくれよ」
「しかし、おれにはだれのことだか分かんねえなあ。おれらが若旦那って呼ばなきゃならねえ人間が、いまこの牧場にいるのかね。おれには分かんねえ」
「皮肉だなあ。敬二郎さんが用事があるんだってさ」
「平さん! きみはもう敬二郎を旦那にしているのかい?」
「そんなことを言ったって、仕方がないじゃないか?」
「仕方がない? 平さん! きみの親父おやじは内地からはるばると、難儀をしにこんなところまで来たのかい? 子供を牧場の安日当取りにしようと思って、こんなところまで来たのかい? 荒地を他人のために開墾したのかい? そんなつもりでおれの親父について来たのじゃねえと思うがなあ」
「そんなことを言ったって、はじまらないよ」
「どうしてかね? きみの親父の開墾したところはきみの親父の土地で、同時にきみの土地なんだ。なにもその土地を敬二郎に奉って、そのうえ敬二郎を旦那としていただかなくてもいい」
「しかし、そんなことを言ったって、開墾はおれらの親父がしたかもしれねえが、大旦那から敬二郎さんに譲られていく土地だもの、おれらが何を言ったところで……」
「そんなことはねえ。森谷の親父はおれの親父までだまして、開墾をした人たちから開墾地をみんな取り上げて自分のものにしてしまったのだ。けれども、森谷の親父の死んでしまったいまはだれの土地でもねえのだ。いや! 開墾した人たちの土地なのだ。しかし、このままにしておけばこのまま紀久ちゃんのものになって、紀久ちゃんが敬二郎と結婚してしまえば、それこそ敬二郎のものになってしまうのだ。そこで、紀久ちゃんの手に移らねえうちに、開墾した人たちが自分の手に戻さなくちゃ! 紀久ちゃんが帰ったら、おれは紀久ちゃんに言うつもりだが、紀久ちゃんはそれが分からねえ人じゃねえんだ」
「とにかく、敬二郎さんのところへ行ってくれよ。頼むから」
「いったい、敬二郎のやつめ、おれになんの用があるんだろう。あの野郎は油断ができねえんだが……」
「なんでも、その浪岡をどこかへ売るらしいなあ」
「なに? そんな勝手な真似まねをさせておくもんか。行こう!」
 正勝はそう言って、ぐっと拍車を入れた。

       3

 厩舎の前には、松田敬二郎と、常三と松吉との三人が唇を噛み締めながら立っていた。そして、敬二郎は長い編革の鞭で長靴の胴をぴしぴしと打っていた。常三は猟銃をつえにしていた。松吉は長い綱を手にしていた。
 正勝は左の手でぐっと手綱を引きながら、上半身を起こして猟銃を人指し指が引金のところへいくように持ち替えた。
「何かおれに用かい?」
 正勝は反り身になってそう言いながら、手綱を引き絞っておいて浪岡の胴へぐっと拍車を入れた。浪岡はどどっとふた足ばかり躍った。敬二郎ら三人は狼狽ろうばいしながら横にけた。
「正勝くん! 浪岡をきみの乗り馬にしちゃ困るじゃないか?」
 敬二郎はどもりながらふるえを帯びた声で言った。
「浪岡はきみの馬か?」
「ぼくが管理している馬だ」
「何を言うんだい? きみの管理している馬なんか、まったく一頭だっていないはずだ。馬はわれわれが管理しているんだ。きみは帳面のほうさえやっていればいいんだ」
「正勝! しかし、若旦那が乗っていけねえって言うんだから、若旦那の言うとおりにしたらいいじゃねえか?」
 常三が前のほうへ出てきて言った。
「乗っていけないと言ったら下りろ!」
 声高に叫ぶと同時に、敬二郎は長い鞭を浪岡のしりに振り当てた。不意を食らって、浪岡はあらしのように狂奔した。瞬間、正勝の手の猟銃が引き裂くような音を立てて鳴った。浪岡はなおも激しく狂奔した。しかし、正勝は長靴の脚で馬の胴を締め、左手で手綱を捌いて、彼ら三人の間へと割り込んでいった。
「下りなけりゃあ撃つぞ!」
 常三は馬上の正勝に銃先つつさきを向けた。
「撃てるなら撃て!」
 瞬間、正勝は馬首を変えて、ぴゅっと開墾場のほうへ向けて駆けだした。
「逃げるのか?」
 平吾が横からそう声をかけて栗毛の馬に拍車を入れ、正勝の後を追おうとした。
「平さん! 平さん! この鉄砲を持っていけよ」
 常三が駆けていって、馬上の平吾に鉄砲を渡した。
「きみたちもすぐ後から来てくれ」
 平吾は鉄砲を受け取りながら言って、すぐ正勝の後をいっさんに追っていった。

       4

 敬二郎と松吉とは真っ青になりながら、顔を見合わせた。
「どうする?」
「追いかけましょう」
「おい! 追っかけよう。野郎を谷底へ投げ込んでしまえ?」
 常三がそう叫びながら、二人の前に駆け戻ってきた。
「それじゃ、銘々に鉄砲を持って……」
 敬二郎はそう言いながら、厩舎の中へ駆け込んだ。
 厩舎の中には、三匹の馬がくらを置いて隠されていた。猟銃も弾嚢帯だんのうたいと一緒にそこに置かれてあった。三人は胴に弾嚢帯を巻きつけると、銃を握って馬にまたがった。
「山の中へ、山の中へ追い込むようにしなけりゃ!」
 敬二郎はそう言って、花房の胴にぐいっと拍車を打ち込んだ。三匹の馬は黒土を蹴起けおこしながら駆けだした。
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   第七章

       1

 砂煙を蹴上けあげながら、まりのように駆け飛んで吾助茶屋ごすけぢゃやの前まで来ると、正勝は馬の背にしがみつくようにしながらぐっと手綱を引いた。馬はあえいで立ち上がるようにしながら止まった。次の瞬間、正勝はぱっと身を翻して道の上へ飛び下りた。そして、正勝は馬をそのままにしておいて、茶屋の中へ飛び込んだ。
 茶屋の中の薄暗い土間には、開墾場の人たちが五、六人ばかり炉を囲んでいた。
「どうなさいましたよ?」
 吾助じいは正勝の突然の闖入ちんにゅうに驚いて、目をみはりながら言った。
「鉄砲なんか持って?」
「敬二郎のやつらがおれがいちゃ邪魔なもんだから、おれを殺そうというんだ」
 正勝は喘ぎながら言った。
「殺すってね?」
「おれだって、おめおめと殺されちゃいねえさ。野郎どもめ! どうしてくれるか……」
 正勝はそう言って、戸口から路上へ向けて銃口を突き出した。
「正勝さんを殺そうなんて、敬二郎の野郎はなんて野郎だべなあ」
 だれかが叫んだ。そして、開墾場の人たちは総立ちになった。
「逆に、敬二郎の野郎をぶっ倒してやれ」
 開墾場の人たちはののしりながら、土間の隅からまきを引っつかんだ。
「大丈夫だよ。おれだっておめおめと殺されちゃいねえから」
「なんだってまた敬二郎の奴は、あんたを殺そうというんです?」
 開墾場の人たちはそう言いながら、路上に向けて銃を構えている正勝の後ろへと寄っていった。
「敬二郎の奴はこの機会に、森谷の財産を完全に受け継ごうとしているんだ。それには、おれがいたんじゃ邪魔になるんだよ。おれは森谷の財産のうち開墾場の土地だけでも、この機会に開墾場の人たちの手に返るのが本当だと思っているのだから」
 正勝は戸外に向けて銃を構えながら、喘ぐようにして言った。
「正勝さんのその考えはいま吾助爺さんから聞いたところなんだが、自分の欲で正勝さんを殺そうなんて、敬二郎の奴が来やがったら逆に野郎をっつけてしめえばいい」
 開墾場の人たちは昂奮こうふんして言うのだった。
「正勝さん! おれたちにまかして、あなたはこっちへ引っ込んでいなせえよ」
「大丈夫だ。きみたちこそ引っ込んでてくれよ。奴らも鉄砲を持っているんだから、下手に手を出さねえでくれ。敬二郎らの三人や五人はおれが一人で、大丈夫、引き受けてみせるから」
「しかし、おれらのためにあんたがそうまでしてくれるのに、おれらが手を組んで見ているわけにはいかねえ。正勝さん! おれらに委せて、あんたは引っ込んでいてくだせえよ。敬二郎の野郎ぐらいなら、おれらで引き受けるから」
 薄暗い居酒屋の土間は殺気を帯びてきた。
「おれが逃げ隠れしたら、敬二郎の奴がなんて言うか……」
 正勝はそう言って、戸口を退かなかった。
 そこへぽかぽかと蹄鉄ていてつを鳴らして、三頭の馬が殺到してきた。
「来やがったなっ!」
 正勝は鉄砲を持ち直した。
「殺っつけてしまえ!」
 開墾地の人たちは叫びながら、戸口を蹴飛ばすようにして戸外へどどっと雪崩なだれ出していった。
 路上には敬二郎と松吉と平吾との三人が馬から下り立って、くつわを左手に掴み、鉄砲を右脇みぎわきに構えて戸口をにらんでいた。
「いまここへ、正勝の奴が駆け込んできたでしょう?」
 敬二郎が、前のほうへひと足踏み出しながらいた。
「おれらが、そんなことを知るかい?」
「でも、きみたちはいまそこから出てきたじゃないか?」
 松吉が敬二郎に代わって言った。
「そんなこたあこっちの勝手だ」
「きみたちはそれじゃ、正勝の奴を隠そうとしているんだな? かばっているんだな?」
「庇ったら悪いか?」
 開墾地の人たちは掴みかからんばかりに殺気立っていた。
「正勝を出せっ!」
 平吾は鉄砲を突き出しながら叫んだ。
「てめえらの指図なんざ受けねえ」
「指図を受けねえと?」
「受けねえとも」
「そんなことを言わないで、用事があるんだから出してくれないかなあ」
 敬二郎は言葉を和らげて言った。
「用事? 何の用事だ?」
 正勝はそう叫びながら、鉄砲を構えて路上へ出てきた。
「正勝くん! きみはどうして逃げたりなんかするのかね?」
「用事を聞こう?」
「きみは浪岡を、どこへやったのかね?」
「そんな用事か? そんなことにゃあなにも、返事をしようとしまいとおれの勝手だ」
「正勝くん! それは少し乱暴じゃないかなあ? 落ち着いて考えてみてくれ」
「森谷家の財産は現在だれの財産でもねえんだ。宙に浮いている財産なんだ。自分のもの顔をするのはよしてくれ」
「きみは本気でそんなことを言ってるのか?」
「本気だとも。きみが紀久ちゃんと結婚して森谷家を相続したら、そん時にゃあ立派に返事をしよう」
「そんなことを言って、浪岡を見えなくでもしたらどうするんだね? 浪岡が高価な馬だってことは、きみも知っているだろうが……」
「余計な心配だよ。どこかその辺の開墾場へ逃げ込んだに相違ねえから、開墾地のだれかが森谷家への貸し分の代わりに捕まえるだろうから。開墾地の人たちゃあ、開墾の賃金をほとんどもらってねえのだからなあ」
「無茶なことばかり言って、困るなあ」
 敬二郎は溜息ためいきくようにして言った。
「正勝!」
 怒鳴りながら平吾が前へ出た。
「手出しをしてみろ!」
 開墾地の人たちが肩を持ち上げながら、ぞぞぞっと歩み寄った。
 ちょうどその時、そこへ一台の幌馬車ほろばしゃが通りかかった。幌馬車はそこに立っている馬や人々のために進路を遮られた。敬二郎らは馬を路傍へ寄せた。開墾地の人たちも、正勝と一緒に吾助茶屋の軒下に退いた。

       2

 幌馬車には紀久子が乗っていた。
「敬さん! どうしたんですの?」
 紀久子は馬車の上から声をかけた。彼女はその目に、馬をいて路傍に避けている敬二郎らだけをとらえて、茶屋の軒下に避けて開墾地の人たちの中に交じっている正勝の姿には気がつかなかった。
「おっ! 紀久ちゃん!」
 敬二郎は驚きの目を瞠りながら、馬を曳いて馬車のほうへ寄っていった。
「わたしの帰るのが分かったの?」
「こんなに早く帰るとは思わなかったんだが……」
「迎えに来てくれたの? ありがとう。では、帰りましょうか?」
 紀久子は微笑をもって言った。そして、紀久子の馬車は沈黙を割って、ふたたびがらがらと動きだした。敬二郎は平吾と松吉とに目配せをした。そして、三人はひらりと馬にまたがった。
「紀久ちゃん!」
 正勝は叫びながら、茶屋の軒下を飛び出していった。
「あらっ、正勝まっかちゃんも……」
 紀久子は驚きの微笑を含んで、振り返った。
「おれをその横へ乗せてくれ」
 正勝はそう言いながら、動いている馬車に飛び乗って紀久子と並んで腰を下ろした。そして、馬車は二人を乗せて駆けた。その後から敬二郎と松吉と平吾の三匹の馬が、蹄鉄をぽかぽか鳴らしながらついていった。

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