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恐怖城(きょうふじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 9:20:09  点击:  切换到繁體中文


       4

 開墾地の人たちは茶呑茶碗ちゃのみぢゃわんで、酒をぐびりぐびりとあおった。彼らはそれですぐ酔っ払った。ひどく酔いが回ってくると、彼らは立ち上がって踊りだした。そして、徳利をたたき、卓を叩いて歌いだした。
 突然その時、戸口が開いた。彼らは驚きをもって戸口のほうを振り向いた。戸口からは、紀久子が静かに入ってきた。
「紀久ちゃんか?」
 正勝は微笑を含んで立ち上がった。開墾地の人たちは急に黙りだした。紀久子は羞恥しゅうちの表情を含んで顔を赤らめながら、顔を伏せるようにして静かに正勝のほうへ寄っていった。開墾地の人々は驚きの目を瞠って、ただじっと紀久子の姿を見詰めた。
「金を持ってきてくれたかい?」
「持ってきたわ」
 紀久子はそう言って、正勝に小さな包みを渡した。正勝はすると、煙草たばこ横銜よこぐわえに銜えながらその包みを解いた。十円紙幣ばかりだった。
「稲吉さん! それじゃ百五十円」
 正勝はそう言って、無造作に百五十円を数えた。稲吉爺は幾度も幾度もお辞儀をして、地面をめるほど腰をかがめながら正勝のほうへ寄っていった。初三郎爺や与三爺もお辞儀をしては腰を屈めながら、正勝のほうへ寄っていった。正勝は煙草でもくれるようにして、その金を渡した。
「初三郎爺さんと与三爺さんは、百円ずつだったね?」
「正勝さん! おれらは本当に、あなたさまを神さまのように思いますよ」
 彼らはそう言って、紙幣を押しいただいた。
「正勝さん! おれらにも少し貸してくだせえましよ。おれらこれ、貧乏で貧乏で……」
 喜代治らがそう言って、頭を下げながら正勝のほうへ寄っていった。正勝は黙って彼らを見た。それから、その目を紀久子のほうへ移した。
「紀久ちゃん! 残ってる分を、喜代治さんらに上げてもいいだろう?」
「正勝ちゃんのいいようにしたらいいわ」
 紀久子は顔を上げて、微笑を含みながら言った。
「それじゃ……」
 正勝はそう言って、残っている紙幣を五枚ずつ数えて、鼻紙でもやるようにして彼らに渡した。
「正勝さん! おれらは死んでもあなたのことは忘れませんよ」
「そんなことはまあいいから、飲もうじゃないか?」
「あなたがお嬢さまと一緒になって森谷さまの旦那さまになられたら、おれらは自分の生命いのちを投げ出してもあなたのためになるようなことをいたしますよ」
「飲もうじゃないか。紀久ちゃん! あんたも飲めよ」
 正勝はそう言って紀久子にも盃を渡した。紀久子は微笑を含んで素直に盃を取った。開墾地の人たちはまたじっと驚きの目でそれを見た。紀久子はぐびりと盃を干した。
「わたしもう、これで帰ってもいいでしょ?」
 紀久子は盃を置きながら言った。
「一緒に帰るから待てよ」
「平吾が外で待っているのよ」
「それじゃ、すぐ帰ろうか? 紀久ちゃん! いまここでみんなの踊りを見せてもらったんだがね。紀久ちゃんも踊って見せないか?」
「わたしの踊りなんか駄目だわ。それに着物がこれでは……」
「構わないさ。簡単でいいから、何か踊って見せてくれよ」
「できないんだけど……」
 紀久子は微笑を含んでそう言いながらも、手を振り足を上げながら静かに踊りだした。開墾地の人たちは何事も忘れて、呆気に取られてそれを眺めていた。彼らは夢を見るようにして、そこに展開された思いがけぬ空気に驚異と喜悦との目を瞠っているのだった。
「これでもういいでしょう?」
 紀久子は恥ずかしくてならないように、顔を真っ赤にして言った。
「ありがとう! それじゃ、帰ろうか?」
「帰りましょう。平吾を寒いところに待たしておいちゃ、かわいそうだから」
 正勝と紀久子とはそろって席を立った。
「正勝さん! おれらは本当に、あなたさまを神さまのように思っているでがすよ」
「お嬢さま! あなたさまも、ぜひとも正勝さんと一緒になってくだせえましよ。おれらのお願いですから」
 開墾地の人たちはそんなことを言いながら、正勝と紀久子とを戸口へ送っていった。

       5

 開墾地の人たちは炉端へ戻ると、互いにその赤い顔を見合わせた。
「どうも、お嬢さまは少し気が変になっているようじゃねえかな?」
 喜代治が低声に言った。
「それさよ。いくらなんでも、森谷家のお嬢さまが正勝の手紙一本で大金を持って駆けつけてきたり……」
「酒を飲んで踊りを踊るなんて、気がどうかしていなけりゃ……」
「正勝さんが偉いからだよ。それで、正勝さんの言うことなら、お嬢さまはなんでも聞くのだよ」
 吾助爺がぼっそりと言った。
「しかし、正勝さんも少し気がどうかしているのじゃないかなあ。理由わけもなく他人さ大金を分けてくれたりしてさ」
 与三爺が目を瞠りながら言った。
「気が変になったのじゃなくて、おれらをだますつもりじゃねえのか? 金をくれておいて、何か問題でも起きたときにおれたちを味方にするとかなんとか……」
「そんなことはねえ。お嬢さまは自分の親御は殺されるし、自分は過って他人を殺したので、気が変になったのさ。正勝さんだって、妹があんなことになったんだから、やっぱり気が少しどうかしたんだよ」
 初三郎爺が水洟みずばなを押し拭いながら言った。
「どうも、少し変だなあ。正勝さんと紀久子さんとは、自分たちは一緒になりてえんだが、親父おやじさんの代に、はあ、敬二郎さんという人が約束になっているので、いまさらそれができねえもんだから、敬二郎さんを殺してしまうようなことでも考えているんじゃねえのか? それで、おれたちさ金をくれておいて、おれたちを味方にするつもりじゃねえのかな?」
 喜代治は首をかしげながら、心配そうに言った。
「それさなあ?」
 彼らはそう言って顔を見合わせた。
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   第九章

       1

 憂鬱ゆううつな曇天が、刺すような冷気を含んで広がっていた。しかし、敬二郎は火の気のないコンクリートの露台に出て、激しい憎悪と不安と憂鬱とに胸をただらしながら正勝の来るのを待っていた。
(いったい、紀久ちゃんはおれと正勝との、どっちを愛しているのだろう?)
 敬二郎はそれを考えると、じっとしてはいられなくなってくるのだった。紀久子が正勝の命のままに動いて、吾助茶屋まで金を届けに行ったことを聞いてからというもの、敬二郎の不安と憂鬱とがなおひとしお激しくなってきた。同時に、正勝に対する憎悪が敬二郎の頭には火の車のように駆け巡っていた。五臓六腑ごぞうろっぷの煮え繰り返るような焦燥に駆られて、敬二郎は夜もろくろく眠ることができなかった。その不眠の焦燥がまた彼の神経をなおもひどく衰弱させて、さらに激しい憂鬱と不安との渦巻きの中に追い込んだ。皮膚と筋肉との間を痛痒いたがゆい幾百の虫が駆け巡っているような憂鬱感だった。敬二郎にとっては、もはや生命いのちを懸けての決心を持つべきときだった。
(紀久ちゃんを失うことは、同時にまた森谷家の相続権をも失うことだ。紀久ちゃんと森谷家の相続権と、この二つを失ってしまったら、自分にはいったい何が残るだろう? 何物もないではないか?)
 敬二郎はそれを考えて、憂鬱な溜息ためいきを繰り返さずにはいられなかった。
(あらゆるものを失って惨めな姿で生きているくらいなら、いっそのこと死んでしまったほうがいいのだ)
 あらゆるものを失ったとき、人間は勇敢になることもできれば捨て鉢になることもできる。
(正勝に会って最後の談判をしてみよう。それと同時に、紀久ちゃんの気持ちも分かるに相違ない。生か? 死か? それからだ)
 敬二郎は固い決心をもって胸をふるわせながら、正勝の来るのを待った。彼は顔を伏せて、露台の上をこつこつとおりの中のくまのように歩き回った。胸が爛れているばかりでなく、彼の頭の中は火の玉のように激しい憎悪の炎でいっぱいだった。
「おれに何か用かい?」
 突然に露台の下に来て、正勝は怒気を含んで大声に言った。敬二郎は驚きの表情で顔を上げた。正勝はその手にむちを握っていた。
「用があるから呼んだのだ!」
 敬二郎の目は正勝の手の鞭に走った。怒気と恐怖とを含んだ目? 敬二郎は爛々らんらんと目を輝かしながら、正勝をじっと見詰めた。
「何の用かね?」
 正勝はとんとんと露台へ上がっていった。
「紀久ちゃんを勝手に呼び出したりするのは、よしてくれ!」
 敬二郎は激しく心臓が弾んで、言葉が途切れた。
「きみにはいったい、そんなことを言う権利があるのか?」
「権利があるから言うんだ。紀久ちゃんは、ぼくと婚約している女だ。婚約のある女を勝手に呼び出したりするのは、紳士のやるべきことじゃない。今後はよしてくれ」
「おりゃあ紳士じゃねえよ。そんなこたあおれに言わねえで、紀久ちゃんに言ったらいいじゃねえか? きみの女房になる女なら、何だってきみの言うことは聞くだろうから。しかし、どうも困ったことに、紀久ちゃんはおれの言うことばかり聞くんでなあ。これはどうも、きみにそれだけの威厳がないからなんだなあ」
「なにを!」
 敬二郎は叫ぶと同時に、傍らの腰掛けを振り上げて正勝に打ってかかっていった。正勝はぱっと身を翻して、鞭をぴしりっと敬二郎の向こうずねに打ち込んだ。瞬間、敬二郎の投げつけた腰掛けが正勝の肩に当たって落ちた。
「殴ったなっ!」
「殴りゃあどうしたっ?」
 怒鳴りながら、二人は取っ組んでいった。そして、二人は組み付いたままで露台の上を飛び回った。最後に、正勝はとうとう下に組み敷かれた。
「何をなすっているんですか?」
 紀久子が出てきて、驚きの目をみはりながらそこに立った。
「およしなさいよ」
 紀久子は敬二郎の肩に手をかけてがした。瞬間、正勝は自分の身体からだから離れていく敬二郎の鳩尾みぞおちに突きの一撃を当てた。急所を突かれて、敬二郎は顔をしかめながら、まったく闘争力を失った。
ざまったらねえ! 馬鹿野郎ばかやろうめ!」
 正勝は怒鳴りながら、鞭を拾って悠々と露台を下りていった。
(酷いわ! 酷いわ! 正勝もあんまりだわ!)
 紀久子はそう心の中につぶやきながらも、しかしなにも言うことはできなかった。彼女は唇をみながら、憎悪の目をもってじっと正勝の後姿を見送った。そして、正勝の姿が物陰に消えてから、紀久子は急所の重苦しい痛みに悩んでいる敬二郎を静かに部屋の中へいたわり入れた。

       2

 紀久子はいつまでも黙りつづけた。
(許してください。敬さん! わたしが悪いんです。許してください。わたしがあなただけを愛しているってことを、いまは言うことができないんです。許してください)
 紀久子はそう心の中に呟きながら、黙りつづけていた。
 窓の外は暗鬱な曇天がしだいに暗く灰色を帯びて、ストーブが真っ赤に焼けてきた。真っ赤なストーブを前にして、敬二郎も唇を噛み締めながら言葉を切った。重苦しい沈黙が物哀ものがなしい空気をはらんで、二人の間へ割り込んできた。
「ぼくは紀久ちゃんの本当の気持ちを知りたいのだ。ぼくは紀久ちゃんの愛を失うくらいなら……」
「敬さん!」
 紀久子はハンカチで目を押さえてむせびだした。
「ぼくは本当に、紀久ちゃんの愛を失うくらいなら、死んでしまったほうがいいのだ」
「我慢していてください。きっと、きっと、いまにきっと、どうにかなりますわ。わたしの本当の気持ちの分かるときが来ますわ。それまで、じっと我慢していてちょうだい」
「いくらでも我慢をするがね。しかし、紀久ちゃんはぼくの言うことよりも、正勝のほうの言うことを聞くのだし、さっきだって、ぼくが正勝のやつを組み伏せているのに、紀久ちゃんが出てきて正勝の奴に加勢をするものだから……」
「敬さん! わたしの本当の気持ちを分かってちょうだい。わたし……わたし……わたしと敬さんとのことは、わたしたち二人だけで固く信じ合っていればいいのだわ。わたしの本当に愛しているのは敬さんだけよ」
「それなら、これからは正勝の奴からどんなことを言ってきても、正勝の言うことだけは聞かないでくれ。ぼくはあなたの愛を信じたいのだ。正勝の言うことを聞かないでくれ」
「わたしどうしたらいいのかしら? それは、わたしにも口惜くやしいんだけれど、どうにもならないのよ。あんな男が、本当に大きな顔をして生きていられるなんて……」
 だれかがその時、こつこつとドアをたたいた。
ばあや? お入り」
 婆やは腰をかがめながら入ってきた。その手には、白樺しらかばの皮を握っていた。二人の目は驚異の表情をたたえて、その自樺の皮の上に走った。
「正勝さんからって……」
 婆やは気兼ねらしく低声こごえに言って、紀久子の顔色をのぞいた。紀久子は真っ青になってわなわなと顫えていた。彼女は顫えながら、泣きだしそうな顔をして静かに手を出した。
「正勝はまた、吾助茶屋に行っているのでしょう」
「いったいまた、何を言ってきたんだ?」
 敬二郎は怒鳴るように言って、横から白樺の皮をひったくった。
「また? なんという失敬な奴だ! 行く必要があるものか」
 敬二郎は胸を激しく波打たせながら、怒鳴った。
「困ってしまうわ。婆や? いますぐ行くからと言って、帰らしておくれ」
「まいりますか?」
 婆やはそう念を押して、怪訝けげんそうな顔をしながら出ていった。
「紀久ちゃんはそれじゃ、行くんだね?」
 敬二郎は顔を引きゆがめながら唇を噛んだ。
「でも、手紙には来いと書いてあるのでしょう?」
「――ただいま吾助茶屋にてさかずきを重ねおり候。しかし、あなたなしではまったくつまらなく存じ候。ともに飲み、ともに歌って踊りたく候間、さっそくにもお越しくだされたく候――」
「やっぱりね」
 紀久子はそう言って、深い溜息をいた。
「行くことがあるものか!」
 敬二郎は怒鳴るように言って、白樺の皮をストーブの中に投げ込んだ。しかし、紀久子は真っ青な顔をして、かすかにわななきながら腰を上げた。敬二郎の目は驚異と哀愁との表情を含んで輝きだした。
「紀久ちゃんは行くつもりなのか?」
「…………」
「紀久ちゃん! 頼むから行かないでくれ。行かないでくれ」
「…………」
「紀久ちゃんが奴の言うことを聞かないからって、奴が何かしたらぼくがどうにでも始末をつける」
 しかし、紀久子はじっと空間を見詰めて、夢遊病者のようにふらふらと静かに戸口のほうへ歩いていった。
「紀久ちゃん! お願いする。頼むから行かないでくれ」
「…………」
「紀久ちゃん! ぼくはもう、本当に生きてはいられない」
 しかし、紀久子はもう魂の脱殻ぬけがらのように、黙ってふらふらと静かに歩いていった。敬二郎が抱き止めようとしても、無感情な機械人間のように静かにその手からけて、ふらふらと歩いていった。敬二郎は※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくようにしてもだえ悩みながらただその後を追うだけで、もはや機械のようにして動いている紀久子を抱き止めようとはしなかった。

       3

 紀久子はそして、無感情な機械人間のように吾助茶屋の中へふらふらと入っていった。
「おっ! 紀久ちゃんか? 来たね」
 正勝がぐっと立ち上がって言った。
「お嬢さまですか? 暗いところをよくまあ。炉のほうへ、さあ寄ってくだせえ」
 開墾地の喜代治が頭を下げながら言った。しかし、紀久子はそれには答えずに、魂の脱殼のようにただふらふらと正勝のほうへ寄っていった。開墾地の四、五人ばかりの目は、驚異の表情をもっていっせいにその姿を追った。
「紀久ちゃん! 一緒に飲もう」
 正勝は大きなわんに酒をいで紀久子のほうへぐっと差し出した。紀久子はすると、無表情のままでひと息に飲んだ。正勝も怪訝そうな顔表情を含んで、じっと紀久子を見た。
「紀久ちゃん! 一緒に踊ろうか?」
 正勝はそう言うなり紀久子の肩に手をかけて、足を上げ手を振りながら踊りだした。開墾地の人たちはでたらめな歌を歌いながら、徳利や盃を叩き鳴らした。
「お嬢さまは、いよいよ気が変だぞ」
 喜代治は徳利を叩きながら、傍らの与三じいの耳へそっとささやいた。
「おれも、さっきからそう思って見てるところだ」
 その時、紀久子がばったりと倒れた。
「どうした? 紀久ちゃん! どうした?」
 正勝は狼狽ろうばいしながら屈み込んだ。
「なんでもないの」
「顔色が悪い」
「なんでもないのよ」
 紀久子はそう言って、すぐ起き上がった。
「しかし、ばかに顔色が悪い。帰ろう」
「なんでもないのだけど……」
「どこが悪いんだ。真っ青だよ。帰ろう」
 正勝は狼狽しながら紀久子の肩に手をかけて、静かにそこを出ていった。

       4

 奥の洋室まで、正勝は紀久子について入っていった。
「あらっ!」
 紀久子は驚きの声を上げて戸口に立った。
 ストーブが赤々と燃えていて、そのそばに敬二郎がばったりと倒れていた。胸のところから血が流れて、ストーブと熊の皮の敷物との間の敷板が真っ赤な血溜ちだまりになっていた。そして、その手には黒いピストルを固く握っていた。
「死んでいるじゃないか? 自殺をしたんだな? 馬鹿なっ!」
 正勝はそう言いながら、ストーブのほうへ寄っていった。ストーブの傍の小卓の上には、何か手紙のようなものが書き残されてあった。紀久子も黙ってそこへ寄っていった。
「書置きだな?」
 紀久子は黙って、ただその胸を顫わせながら正勝と一緒にその手紙を覗き込んだ。

 最愛の紀久子さん!
 永劫えいごうの結合と深遠の愛を誓いながら、流星のように別れていかねばならないことを、わたしは深く深く悲しみます。あなたの愛だけに生きているわたしとしては、もはやこれも仕方のないことです。いまにして、わたしはわたしたちの愛が、開墾地の人たちの血と肉とのうえに建てられてあったことをはっきりと知りました。わたしたちはその血の池のなかに、その肉の山に、永劫の愛を求めようとしたのです。しかし、それは決してあなたの罪でもなく、わたしの責任でもありません。あなたの父上の負うべき一切のものを負わされて、わたしたちの果敢はかない宿命の愛が誤れる第一歩を踏み出したのでした。わたしたちがもしもくにこのことに気がついて、わたしたち自身の世界に永劫の結合と深遠の愛を誓ったのであったら、かくも悲惨な袂別べいべつを告げることはなかったでしょう。しかし、わたしたちは愚かにも、開墾地の人たちの血と肉と魂とのうえにその愛を築こうとしたのでした。そしてわたしたちは、あなたの父上の負うべき責めと復讐ふくしゅうとを、わたしたちの愛のうえに受けたのです。わたしたちがあなたの父上の遺産に執着するかぎり、当然の帰結だったと思います。そしてなお、わたしがあなたから去ってののちも、もしあなたがそののろわれている財産に執着するなら、あなたの今後の愛も決して幸福ではなかろうと思います。
 最愛の紀久子さん!
 わたしは最後の言葉として、あなたの今後の愛が、あなた自身の世界に建てられることを希望します。森谷家の遺産はわたしが継ぐべきものでもなく、正勝が継ぐべきものでもないのです。当然、それを受け取るべき人が沢山いるはずです。あなたはわたしがそれを継ぎそうに見えた間はわたしに愛をつなぎ、正勝がそれを奪還しかけると急に正勝へ愛を移していきましたが、それは間違いです。財産について回るあなたの愛は間違いです。財産は当然受け取るべき人々にそれを渡し、またそして、正勝との誤りにして不真実なる愛をって真実の愛の世界に幸福を求むべきです。それが、わたしからあなたへの最後の言葉です。
 最愛の紀久子さん! 法律のうえから言っても、森谷家の財産は養子としてのわたしが継ぐことになっているのですから、それを正勝になどは決して継がせずに開墾地の人たちへ返してやってください。正勝の口から言わしても、当然のこと開墾地の人たちが受け取るべきだという財産が、開墾地の人たちの手に渡らず、正勝の手に渡るようでは、わたしはとても死に切れません。それだけはくれぐれもお願いします。
 最愛の紀久子さん! 最後まであなたを愛し、なおかつ今後のあなたの幸福を祈りながら。

 黙って二人は顔を見合わせた。
「馬鹿なことを言いやがって……」
 正勝は侮蔑ぶべつの微笑を含みながら吐き出すように言って、紀久子の肩へそっと手を回した。
「何を言ったところで、奴が死んでしまえばおれと紀久ちゃんの世界さ」
「それはそうだわ」
 紀久子は低声に言いながら、遺書を畳んだ。
「馬鹿な奴だなあ、こっちのつぼまって自殺をしてしまいやがったじゃないか。おれと紀久ちゃんとの間には、子供のときから婚約があるんだ」
 正勝は微笑ほほえみながら言って、急に紀久子の唇を求めようとした。
「ここじゃ駄目だわ。あちらへ行きましょう」
 紀久子は微笑をもって優しく言った。
「あちらってどこだい?」
「わたしの部屋へ……」
 紀久子はそう言って、遺書を懐にしながら自分の寝室のほうへ正勝を伴った。

       5

 寝室へ入ると、正勝はすぐまた紀久子の後ろへ手を回して、彼女のわなわなと顫えている赤い唇を求めようとした。
「待ってらっしゃいよ。わたし、着物を着替えてくるわ」
 紀久子はそう言って、正勝の顔を自分の顔の上からけた。
「着物を着替えてくるって」
「だって! あなたはベッドで寝て待ってらっしゃいよ。すぐだから」
「それじゃ……」
 正勝はすぐベッドへ行って横になった。
「おれたちの世界がようやく来たんだ。おれと紀久ちゃんとの世界が来たんだ。だれももう、おれたちの愛に干渉する者は一人もねえんだ」
 正勝は仰向あおむきになって、独り言のように言った。
「すぐだからね」
 紀久子は微笑みながら優しく言って、部屋を出ていった。

       6

 寝室を出ると、紀久子は唇を噛みながらドアにがちゃりと錠を下ろした。
 紀久子はそして、すぐ敬二郎の死骸しがいのある部屋へ飛んでいった。真っ赤に燃えているストーブ。血溜りの中に倒れている死骸。真っ青な死の手に握られているピストル。紀久子は死骸に駆け寄って、その死骸の上へ自分の身体をどっと投げかけた。
「敬さん! 許して。許して。わたしを許してね」
 紀久子は、息詰まるようなのない調子で言った。
「敬さん! わたしが悪かったのだわ。わたしが悪かったのだわ。許してね。わたしもいますぐ、すぐもうあなたのところへ行きますわ。わたしの本当の心をお目にかけますわ。敬さん! 許してね」
 紀久子の声はしだいにすすり泣きになってきた。
「敬さん! わたしの本当の心が、すぐもうお目にかけられますわ。待っててね。わたし、これからあなたの遺言を実行していくわ。正勝になど、あの悪魔になど、ちり一つだって与えませんわ。あなたのお言葉どおり、みんなみんな、父が事業を始めるときに移住してきた人たちへ、何もかも分けてやりますわ。わたしも手紙にそのことを書き残しておきましょう。そして、わたしももうすぐあなたのところへ行きますわ」
 紀久子は啜り泣きながら言って、静かに身体を起こした。そして、紀久子は咽んで肩の辺りに波打たせながら、傍らの小卓の前にすわり直した。卓の上には、敬二郎の使い残しの紙と万年筆とがあった。紀久子は万年筆を取って、鶏がを拾うように首を動かしながら、啜り泣きながら、涙に曇ってくる目を幾度も幾度も押しぬぐいながら、一字一字を植え付けるようにして手紙を書いた。
 書き終わると、紀久子はその手紙を敬二郎の遺書と一緒に重ねて畳んで、ふたたび帯の間に差し挟んだ。
「敬さん!」
 紀久子はふたたび、敬二郎の死骸の上にどっと身体を投げかけた。
「敬さん! 許してね。わたしもうすぐあなたのところへ行くわ」
 紀久子はそして、敬二郎の死骸に顔を押し付け、その手を固く握った。紀久子はふと、敬二郎の手に握られているピストルに気がついた。紀久子はそれを取ってしばらくじっと見詰めてから、なおもそこに弾丸たまの残っていることを確かめると、唇を噛み締めながらそのピストルを自分の帯の間に差し込んだ。
 紀久子はそして、ある決心の表情を浮かべながら決然として部屋を出ていった。しかし、彼女は間もなく戻ってきた。彼女の両手には二つの石油缶が提げられていた。彼女は戸口を入ると、戸口をさっと開いておいて、ストーブのところから戸口のほうへ向け、戸口から廊下のほうに向かって、ざーっと二缶の石油をぶちいた。

 それから、紀久子はふたたびストーブの前へ駆け戻って、そこにある腰掛けを取り上げるとそれでストーブをぐいっと押し倒した。ストーブは煙突から外れて真っ赤な火をこぼしながら、床の上へがらがらと倒れた。次の瞬間、ストーブから飛び出した火の塊は床の上へ溜っている石油の池の上を、戸口のほうへ向けてちちっと走っていった。
 紀久子はそのすきに敬二郎の死骸を抱き上げて、南面している戸口のほうからバルコニーのほうへ駆け出していった。

       7

 乾燥し切っている木造の建物は、たちまちにして猛火に包まれてしまった。
 紀久子の寝室の鉄格子の嵌まっているすりガラスの窓に、猛火に責め立てられて※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがき苦しんでいるらしく、両手を広げて窓に飛びかかっている正勝の姿が影絵のように映って、踊り狂っていた。
「紀久ちゃん! 紀久ちゃん! 開けてくれ!」
 遠くの遠くのほうから、轟々ごうごうと渦巻いている猛火の音の下で、そんな風に叫んでいる声が微かに聞こえた。
「開けてくれ! 早く早く! 紀久ちゃん!」
「寒いのでしょう? 温めて上げるわ」
 紀久子は敬二郎の死骸を抱いて、降りかかる火の粉を浴びながらその窓の下に行って叫んだ。
「敬さん! わたしの本当の心がいま初めて分かってくれて? え、敬さん!」
 紀久子はそう言って、固く固く死骸を抱き締めた。
「敬さん! 紀久子はやっぱり、敬さんだけの紀久子だったわ。敬さん! 分かってくれて?」
 紀久子は踊るようにしながら、敬二郎の唇に自分の唇を押しつけた。
「ね! ね! あなただけでしょう。紀久子の唇に触ったのはあなただけよ。だれも、わたし、触らせなかったのよ」
 紀久子はふたたび、その唇を敬二郎の唇の上に置いた。次の瞬間、紀久子の唇は敬二郎の顔の上に、雨のように降った。
 遣る瀬のない衝動がそして、敬二郎の死骸をさらに固く固く抱き締めさせた。
「お嬢さま! お嬢さま! 大変なことになりました」
 だれか五、六人の人間が、ばたばたと駆けつけてきた。
「これを! 早く! これを!」
 紀久子は帯の間から敬二郎と自分との二人の遺書を引き出して、狼狽している人々の前へそれを突き出した。だれかがその畳まれてある紙切れを受け取った。そして次の瞬間には、その手はすぐに紀久子の手を握った。
「お嬢さま! こんなところにいちゃ危ないです。火の子の降ってこないところへ!」
「構わないで! 構わないで! ただその手紙をなくさないでね。それには大切なことが書いてあるのだから」
「お嬢さま! とにかくあっちへ!」
「おまえは平吾だね! その手紙は確かにおまえに預けたよ。敬二郎さんとわたしとの手紙だわ」
 紀久子はそう叫んで、次の瞬間にはぱっと身を翻して敬二郎の死骸を抱いたまま猛火の中へ飛び込んでいった。
 真っ赤に空を焼いて火は燃え狂った。暗闇くらやみの中から大勢の人間が駆け寄ってくる足音が地を揺るがした。遠くのほうで犬がえだした。





底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
   1995(平成7)年8月10日初版発行
入力:野口英司
校正:Juki
1999年11月8日公開
2005年12月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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    「木+忽」    4-1

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