地上楽園
地上楽園の光景は
わたしの夢みている地上楽園はそう云う天然の温室ではない。同時に又そう云う学校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此処に住んでいれば、両親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変るのである。それから子供は男女を問わず、両親の意志や感情通りに、一日のうちに何回でも聾と唖と腰ぬけと盲目とになることが出来るのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互いに相手を褒め合うことに無上の満足を感ずるのである。それから――ざっとこう云う処を思えば好い。
これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の
附記 わたしの甥はレムブラントの肖像画を買うことを夢みている。しかし彼の小遣いを十円貰うことは夢みていない。これも十円の小遣いは余りに真実の幸福に溢れすぎているからである。
暴力
人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。
「人間らしさ」
わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屡「人間らしさ」に
スウィフトは発狂する少し前に、
椎の葉
完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは
「
椎の葉の椎の葉たるを
追記 不道徳とは過度の異名である。
仏陀
又
悉達多は
又
悉達多は六年の苦行の後、
政治的天才
古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。
又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも
恋は死よりも強し
「恋は死よりも強し」と云うのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に恋ばかりではない。たとえばチブスの患者などのビスケットを一つ食った為に知れ切った往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数え挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。(勿論死に対する情熱は例外である。)
地獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、
醜聞
公衆は醜聞を愛するものである。
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
グルモンの答は
又
天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。
輿論
又
輿論の存在に価する理由は
敵意
敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は
ユウトピア
完全なるユウトピアの生れない
危険思想
危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
悪
芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。
二宮尊徳
わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は
けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼等は尊徳の教育に
わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じている。成程彼等には尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を
奴隷
奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。
又
暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。
悲劇
悲劇とはみずから
強弱
強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の
弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。
S・Mの智慧
これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
弁証法の功績。――
少女。――どこまで行っても
早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にいるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。
追憶。――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。
女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来ているものらしい。
年少時代。――年少時代の
艱難
我等如何に生くべき
社交
あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸毫の虚偽をも加えず、我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、
瑣事
人生を幸福にする為には、日常の
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の
神
あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。
又
我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。
民衆
民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。
又
民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは
又
古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。
チエホフの言葉
チエホフはその手記の中に男女の差別を論じている。――「女は年をとると共に、益々女の事に従うものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」
しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのずから異性との交渉に立ち入らないと云うのも同じことである。これは三歳の童児と
侏儒の言葉(しゅじゅのことば)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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