| 底本: | 坂口安吾全集 02 |
| 出版社: | 筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1999(平成11)年4月20日 |
| 入力に使用: | 1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行 |
| 校正に使用: | 1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行 |
| 底本の親本: | 作品 第七巻第三号 |
| 初版発行日: | 1936(昭和11)年3月1日 |
雪国の山奥の寒村に若い禅僧が住んでゐた。身持ちがわるく、村人の評判はいい方ではなかつた。
禅僧に限らず村の知識階級は概して移住者でありすべて好色のために悪評であつた。医者がさうである。医者も禅僧とほぼ同年輩の三十四五で、隣村の医者の推薦によつて学校の研究室からいきなり山奥の雪国へやつてきたが、ぞろりとした着流しに白足袋といふ風俗で、自動車の迎へがなければ往診に応じないといふ男、その自動車は隣字の小さな温泉場に春
農村へ旅行するなら南の方へ行くことだ。北の農家は暗さがあるばかりで、旅行者を慰めるに足る詩趣の方は数へるほどもありはしない。この山奥の農村では年に三人ぐらゐづつ自殺者がある。方法は首吊りと、
医者は多少の財産があるのか、夏場は温泉で遊び冬は橇を走らして遠い町へ遊びにでかけた。夏の山路は
知識階級の移住者には小学校の先生があるが、この人達も評判がわるい。男女教員の風儀だとか吝嗇とか不勤勉といふことが村人の眼にあまるのである。ところがさういふ村人は森の小獣と同じやうに野合にふけつてゐるのである。盆踊りを季節の絶頂にした本能の走るがままの夏期のたわむれ、丈余の雪に青春の足跡をしるしてゐる夜這ひ、村人達の生活から
禅僧は同じ村のお綱といふ若い農婦に惚れた。この農婦が普通の女ではなかつた。野性そのままの女であつた。
お綱は小学校に通ふ頃から春に目覚めて数名の若者を手玉にとつたと言はれるほどの娘。小学校を卒業すると町の工場へ女工に送られたが
ある時村へ一人の旅人がきた。隣字の温泉へ行くつもりのものが生憎と行暮れて、この字では唯一軒の
旅人がこの銘酒屋の暖簾をくぐつて現はれたとき、土間の卓には禅僧がお綱と共に地酒をのんでゐる時であつた。山村のことで旅人をむかへる部屋が年中用意されてゐるわけでもないから、部屋の支度をととのへるあひだ、旅人も卓によつて地酒をのんだ。旅人を見るとお綱の浮気の虫が動いた。
部屋の支度ができ、旅人は二階へ上つて、だるまを相手に改めて酒をのみはじめた。暫くすると階段をのぼる威勢のいい
「ここへ暫く泊るの?」
「明日から温泉へ泊るのだ」
「明日の晩、今時分ここへおいで」
野性の持つあの大胆な、キラ/\となまめかしく光る
翌朝旅人が温泉へ向けて出発すると、その一町ほどうしろから禅僧がうなだれがちに歩いてゐた。禅僧は旅人に一言頼みたいことがあつたのである。あの野性のままの女を旅先の気まぐれな玩具にしないでくれ、と。禅僧は栄養不良でヒョロ/\やせ、顔色は不健康な土色だつた。強度の近視眼で、怪しむやうに人を
禅僧のたど/\しい足どりがそれでも十間ぐらゐの距離まで旅人に近づいた時のことだが、旅人は九十九折の山径のとある曲路にさしかかつた。一方は山の岩肌、一方は谷だ。
突然頭上のくさむらから人間の頭ほどある石が落ちて、旅人の眼の先一尺のところを掠め、石は径にはづみながら、大きな音響を木魂しながら深い谷底へ落ちていつた。旅人が慄然として頭をあげると、姿はもはや見えないが頭上のくさむらをわけ灌木の中をくぐつて逃げて行く者の気配がはつきり分つた。
「あいつですよ。ゆふべ私と酒をのんでゐた女、突然貴方の部屋へおしかけていつた農婦です」
咄嗟の出来事にこれも面喰つて足速やに駈けつけた禅僧は、蒼ざめ、つきつめた顔をかすかに痙攣させながら旅人に言つた。
「あいつは貴方に気があるのです。いいえ、貴方に限らず、初めて会つた男には誰にしろ色目をつかひ、からかひたい気持を懐かずにゐられぬのです。恐らくあいつは今朝早くからあの岩角へまたがり、石をだきながら貴方の通るのを待ちかまえてゐたのでせう。楽しい気持でいつぱいで、その石が貴方に当つて怪我をさせたらどうしやう、といふことはてんで頭になかつたに違ひないのです。二年前のことですが、やつぱりかういふ山径を好きな男と肩を並べて歩いてゐるうちに、突然男を谷底へ突き落したことがあるのです。幸ひ男は松の枝にひつかかつて谷へ落ちこむことだけはまぬかれましたが、松の枝にぶらさがつて男が必死にもがいてゐると、あいつは径に腹這ひになつて首をのばし男の様子をキラキラ光る眼差しで視凝めながら、悦楽の亢奮のために息をはづませてゐたといふ話があるのですよ。あいつに散々あやつられたあげく、菱の密生した沼へ身を投げて死んだ若者が二人もあります。たとひ男が身を投げたつて、だいいち昨日の男を今日は忘れてゐるのですよ。貴方の場合にしたつて、今日は貴方に気があります。さうしてあいつはあの岩角にまたがり、
禅僧の語気には、旅人が呆気にとられてしまふほど熱がこもつてきたのであつた。さうしてそれからどうなつたか、然し旅人の話は村の噂に残つてゐない。
お綱の逸話では、煙草工場の女工カルメン組打の一場景に彷彿としたこんな話もあるのだ。
時は盆踊りの季節。ひと月おくれの八月の行事で、夏の短い雪国では言ふまでもなく凋落の季節、本能の年の最後の饗宴でもある。盆踊りは山の頂きのぶなに囲まれた神社の境内で、お綱も踊りに狂つてゐた。その日のホセは道路工事の土方で、居酒屋で酒をのみながら、店の老婆を走らしてお綱を迎ひにやつたが、お綱は踊りに狂つてゐて耳をかさうともしなかつた。
さうかうするうち踊りの列に異変が起つた。突然お綱が一人の娘を突き倒して、馬乗りになり、つかむ、殴る、つねる、お綱には腕力があるから、娘の鼻と唇から血潮が流れでた。原因といふのは、お綱が踊りながら女に向つて、お前の色男が俺に色目をつかつたよとからかつたところから、この娘がやつきになつて俺の色男はお妾あがりに手出しをしないよ、そこでお綱がカッとしてこの野郎と組ついたといふ次第であつた。娘の顔を血まみれにしては、お綱が人々に憎まれたのも仕方がなかつた。
五六名の若者が忽ちお綱をとりかこんだ。一人がお綱の襟首を掴んで
四五名の若者達は激怒して各々お綱を蹴倒したが、お綱は忽ち猛然と立ち上ると、誰を選ばず飛びかかり、噛みつき、引掻き、なぐりかかつた。もはやその悦楽の亢奮は色情狂を思はせた。淫慾は酔ひのやうに全身にまはり、敏活な動作につれて、満悦の笑声がきしむやうに洩れるのである。蹴倒される、ひとたまりもなく転ろがる。地面へ顔のめりこむほど、てひどく倒されることもあつた。然しはねかへるバネのやうに飛びかかつて行くのである。性こりもなくじやれつく牝犬もこれほどしつこくはあるまいと思はれ、若者達も流石に根負けのじぶんになつて、お綱は淫乱そのものの瞳を燃やして歓声をあげ、若者達の囲みをやぶつて闇の奥へころがるやうに走り去つた。ひときは高く哄笑をひいて。
憎しみにもえ激怒のために亢奮したといひながらそれが色情の一変形であつたところの若者達は、自分ながらしつこさの醜怪に気付くほど野性そのままの衝動にかられ、然しもはや自制の力はなかつたのだが、七八名一団となつてお綱のあとを追ひかけていつた。お綱は居酒屋へかけこんだ。そこには土方が待つてゐた。お綱は土方の卓に倒れた。彼には決して理解することのできなかつた逸楽のあとの満足のために疲れきつた肢体をなげだし、お綱は苦しげに笑ひのしぶきを吐きだしてゐた。若者達の一団が追ひついた。――
甚だありふれた事情が起つた。同時に奇妙な事件であつた。