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街はふるさと(まちはふるさと)



     娘ごころ


       一

「たまには、つきあえよ」
 と、青木が放二をさそったが、
「でも、校正を急がなければなりませんから」
 放二は明るい微笑で応じたが、額や頸には脂汗がういていた。
「残業、又、残業か。ジミな人だな。顔色が悪いぜ。お嬢さんが淋しがっていらッしゃるじゃないか。よく働き、よく遊べ、さ。ねえ、記代子さん」
 記代子は帰り仕度にかかりきって、顔もあげず、放二をさそいもしなかった。
「じゃ、お先きに」
 二人はそろって先にでた。
 せつ子の新社は多忙であった。けれども雑誌編輯部にくらべれば、出版部は大きにヒマな方だ。放二も、記代子も、青木も、出版部をまかされていた。そして、もと放二たちの編集長の穂積が出版部長であった。
 せつ子はお義理で入社させた連中をみんな出版部へ集めたのである。それは雑誌の編集に特に抱負があったからで、編集上の見識や才腕を特に見込んだ者でなければ、雑誌部へは入れなかった。
「青木さん。ビール、のませる?」
「やむをえん」
「たびたび、相すみません」
 青木と記代子は、ちかごろ、たいがい、一しょであった。青木は、そのことで、ほろにがい思いをしていたのである。
 記代子は放二を怒っているのだ。なるべく残業するようにして、一しょに遊ぶのを避ける様子があるからである。青木はそれを見かねて、若い二人を仲よく遊ばせてやるために、時々二人をさそったが、放二はそこからも身をひくようにして、青木と記代子二人だけで一しょに歩くのが自然になった。青木はつとめて放二を誘うようにしたが、記代子は放二を誘わなくなった。
 暑気が加わってから、放二のからだは、めっきり衰えていた。二度、軽く血をはいたことがあったが、それを誰にも悟られぬようにしていた。
 少年時代から病弱で、寝たり起きたりの生活はウンザリするほど重ねてきたが、養父母の仁愛ふかい看護の下で、彼が体得したことは忍耐であった。
 あるとき、放二はオリムピック・マラソン選手の戦記をよんだ。彼らは時々ある地点に於ては、激痛のあまり知覚を失ってしまうのだ。手も足も動かなくなる。放置すれば、倒れる一瞬である。天水桶をみつけて、すがりつく。頭から、かぶっているのだ。又、歩きだす。知覚がもどり、彼は走りだしている。苦痛を超える、よろこび。坂がある。果して、駈けあがる力があるだろうか。疑いに負けてはならない。あらゆる苦痛をのりこして、走りつづけなければ勝つことができないのである。
 一番健康な人のマラソンと、病人と、よく似ている、と放二は思った。マラソン選手は高熱のウワゴトの状態で走りつづけるのだ。苦痛に耐えて、生きぬき、走りつづけているのは病人だけではないのだ。人生が、そういうものなのである。凡人は途中でおりたり、落伍してしもう。まだしも病弱な自分は、その宿命として、おりては負けることをさとっている。そして、選ばれた優勝選手の心境を理解することもできるし、ややそれに似た日々を体験もしている。
 少年の日、放二は病床で、そんなことを考えたことがあった。

       二

 この夏の暑気いらい、急速に衰えはじめた放二は、養父母の慈愛の手にみとられていたころとちがって、仕事もあったが、休息すべき部屋がなかった。
 早めに戻って休息するのが何よりだったが、寝ていると、彼の部屋をたよりにしている女たちに暗い気持を植えてしもう。病気と闘っていることを、彼女たちに悟らせてはいけないのである。
 最良の方法として選んだのは、ねる時間まで残業していることだった。仕事もたしかに忙しかったが、それを残業にのばしてやると、仕事を半ば休養に中和することもできるのである。
 こまるのは、記代子と青木の誘いを拒絶しなければならないことだ。
 せつ子は放二と記代子に、二人が当然結婚すべく定められているかのような言い方をした。それが記代子に現れる反応は敏速であったし、確信的であった。せつ子の認定を得ていることは、内々叫びをあげなければならないような馴れ馴れしい表現をしても、顔すらもあからめさせない支えになるのであった。
 しかし、放二が彼女の誘いに応じる度数は、三日に一度に、五日に一度になる。そして、青木は好二を誘うが、記代子はもう誘うこともやめてしまい、話しかけることも、なくなってしまった。
 それでいいのだ、と放二は思うのである。病弱な自分は、結婚には不適な人間だ。相手を不幸にするだけだから。記代子が積極的になるほど、放二は身をひく。ぼくなんか、忘れて下さい。それを説明することはできるが、人生は説明では解決がつかない。放二は説明の代りに身をひいた。そして記代子が離れて行くのを、静かに、しかし、愛情をこめて見送りたかった。ごきげんよう! ボン・ボアイヤージュ! というように。
「若い者は、手間をかけたがるものさ。曲った方へ、曲った方へ、歩きたがるんだ」
 青木は記代子をひやかした。しかし、若い者だけのことじゃない。自分にしろ、礼子にしろ、もっと、ひどいようなものだ。
 記代子はなぜか顔色を変えた。一息にグラスをのみほして、
「もっと、ちょうだい」
「あんまりハデな飲み方をしないでくれよ。お嬢さんがのびちゃうのは、御当人は太平楽かも知れないが、連れの男は、憎まれたり疑られたり、楽じゃないからな」
 記代子は、又、一息にほした。
「お代り、ちょうだい」
「よせよ。もう、あんたは六パイだ」
「でましょう」
 道へでると、記代子は腕をくみ、肩をよせた。グイグイ押しつける。足はシッカリして、酔ってるようにも思われないから、青木は小娘の大胆さに当惑して、
「もう、お帰り。駅まで送るよ」
「イヤ」
「もう、のめやしないよ」
「話があるのよ」
「じゃア、喫茶店で休むか」
「いいえ。歩きながらが、いいの」
 記代子は暗い道へ曲りこんだ。
「なぜ、いじめるのよ。なぜ、意地わるするのよ、毎日」
「え? どんな意地わるしたろうね」
「してるわ。なぜ、放二さんを誘うのよ。毎日、きまったように」

       三

 やっぱり子供だな――と青木は思った。放二を思いつめているのだ。それは分りきったところだが、それをこんな見えすいた言いがかりで表すところが幼い。
 青木は笑って、
「お嬢さんや。こまった人だな。あなたの気持はわかるが、ぼくがいたわってあげる気持も察してくれなくちゃアいけませんよ」
「だから、私をいじめてるじゃないの」
「どうして?」
「男は男同志って、そんなことなの?」
「妙なことを云うね」
「放二さんをいたわって、私をいじめてるのよ。私なんかは、いたわる価値がないのね」
「やれやれ。そうか。お嬢さんを説得するには、言葉の厳密な選択と行き届いた表現が必要なんだな。いいかい。記代子さん。ぼくがいたわってあげているのは、あなたと放二君の、御二方だよ。二人の恋人の一方をいたわることは、他の一方をもいたわることにきまってるじゃないか」
「私は、どうなっても、かまわないのね」
「やれやれ。どう云ったら、表現が行き届くことになるのだろう」
 二人は小さなバアの前を通りかかった。記代子は青木を取りおさえでもするように、腕に力をこめて、押した。
「ここで、休むのよ」
「え?」
 そこは礼子の働いているバアだ。記代子に教えたはずはなかったが、知っている様子である。
「こゝに、ぼくの昔の奥さん、働いてるの、知ってるんだね」
 記代子は睨んで、答えない。
「誰が教えたの?」
「休みましょうッたら」
 記代子は身体ごと押した。
「ま、待ってくれ。ぼくの立場を考えてくれよ。修学旅行の女学生が色町をひやかすような気分で、ぼくをオモチャにしてくれるなよ」
「女学生じゃなくッてよ」
「すまん。しかし、な。別れた奥さんがお客さんにサービスするのを見るだけだって悲しいんだ。あれがふられた亭主だなんて、そんな哀れな顔を見たがっちゃ、いけないよ。それに、今日は、持合せがないのさ。別れた奥さんにたかって飲むほど、みじめな思いをしたくないんだ。それぐらいなら、泥棒がマシさ。なア、記代子さん。あんた、ぼくが泥棒なみに生きてきたこと、見て、知ってるじゃないか。しかし、別れた奥さんに、たかりたかアないんだよ」
 記代子の目にあらわれたのは、軽蔑の色だけだった。
「私がおごるわ」
 記代子は強い力で、青木を地下の酒場へひきずりこんだ。客はかなりたてこんでいた。記代子はあいてるソファーへかけて、
「カクテル、二つ。ジン台の辛いカクテル。それから、礼子さん、よんでね。こちら、礼子さんの昔の旦那様。意気地なしよ」
 記代子の態度は、なれていた。そして、見ちがえるほど、大人びていた。
「あなた、この店へ来たことがあるね。前に」
「穂積さんと飲むとき、いつも、ここよ」
 そうか、と青木は思った。そして、それを今まで黙っていた記代子、突然それをあばきだした記代子の心を考えた。

       四

 礼子がカクテルを持って現れた。記代子は軽く会釈して、
「つれてきてあげたの。意気地なしを。入口でふるえてたわ。ほら、蒼ざめてるでしょう」
「ヤ。こんちは。ぼくの昔の奥さん。まさか、ふるえもしないがね。しかし、貧ゆえには、ふるえもするさ。今日は持ち合せがないんでね。まさか昔の奥さんに飲ませてもらいたかないからさ。それで、ふるえましたよ。すると、お嬢さんが、おごるというんでね」
 青木は笑いながら、懐時計をはずして、
「明日、うけだしに、くるよ」
「もう、こないで」
 礼子は懐時計を押しかえした。そして、記代子に、
「お嬢さんも、バアへいらッしゃるの、よくないわ。女のくるところじゃありませんわ。大庭先生に叱られますよ」
 記代子は別れた夫婦の再会を、好奇の眼差で凝視していた。グラスに手をふれることも忘れて。
 礼子の言葉に短い観劇をさえぎられて、いさゝか苦笑してグラスをとりあげたが、
「礼子さん。新しい恋人、みつかって?」
 礼子は興ざめた顔をそむけた。それを見ると、記代子の目は興にもえて、
「女がきちゃいけないって、なぜ? 礼子さんだけは、大人だから?」
「まア、そうよ」
「大人って、どういうこと?」
 礼子は顔をそむけて、答えなかった。
「たぶん、恋愛の冒険者だから? そうでしょう。旦那様をすてたから? 家庭の殻をとびでたから? そうでしょう」
「そうよ」
 礼子はうるさそうだった。すると記代子の目に生き生きと微笑がこもった。
「子供だわ。礼子さんは。十いくつのお姉さんと思われない。女学生のよう」
「あら、そう」
「長平叔父さんのどこがお好きなの? 有名だから? 才能があるから? 芸術家だから? お金持ちだから? 威張ってるから? そのほかに、何か、あって? 平凡。少女趣味ね」
 礼子の目は怒りに燃えたが、記代子は冷静に見返して、目にこもる微笑は微動もしなかった。
「英雄気どりの偉い人、偉い人を崇拝する人、どっちも、きらい。子供たちと同じように、お人よしで、ウヌボレが強いのよ。欠点を見せたがったり、欠点を美点のように見せたがったり、みんな、きらい。偉くない人はウヌボレ屋じゃないから、欠点は隠さなければいけないと思うのよ。それで、いつもお化粧しなければいけないと思うのよ」
 記代子はいくらか亢奮して口をつぐんだ。それは言葉の表現が思うようにできないためのようにも見えた。グラスをほして、
「でましょう」
 青木をさそって、立ち上った。
「いかほどですの」
「ここは、いいの」
 記代子は笑って、
「そんなこと、なんにもならないことよ」
「まア、いいさ。ぼくの昔の奥さんの思うようにさせてあげたまえ」
「そのワケがあるの?」
「物事の本当のワケは誰にも分りゃしないのさ」
 今度は青木が記代子を押して外へでた。

       五

「どうして、お金払わせなかったの? なぜよ」
 外へでても、記代子はきいた。ただごとならぬ面持に、青木は苦笑して、
「つまり、ぼくの昔の奥さん、ぼくをあわれんだのさ。たまに会ったんだ。あわれまれてやらなきゃ、昔の奥さんのお顔が立たんじゃないか。今晩だけのことだから、あなたも我慢して、つきあってくれたまえよ」
「あわれんでもらいたいの」
「彼女があわれみたいのさ。だから、あわれまれてあげなきゃいかんじゃないか」
「うそよ」
 記代子の否定は激しかった。
「うそだの本当だのと争うほどのことじゃアないやね。あなたのお気にさわったとすれば、ぼくがナイトの作法に未熟だったというだけのことさ」
「うそです。私が礼子さんをやりこめたから、あなたは礼子さんをかばってあげたのよ」
「こまったな。どうも、インネンをつけたがるお方だ。なア。記代子さんや。やりこめるッて、あなた、別にやりこめやしないじゃないか」
「いいえ、やりこめたわ」
「どんなふうに?」
「礼子さんは少女趣味よ」
「それは、たぶん、当っていますよ」
「だから、やりこめたじゃないの」
 この少女のチグハグな論理の底に、何物があるのだか、青木には見当がつかなかった。記代子はまだ幼くて平凡な娘だ。しかし彼女なりに礼子を一応観察してはいる。だが、観察の根底にどれだけの心棒があるのか。いったい、なんのために礼子の酒場へ自分をさそいこんだのか、それが青木にはわからなかった。
 青木は不キゲンな記代子の肩に手をあてて、慰め顔に、
「なア。記代子さんや。あなた、なぜ、昔の奥さんの店へぼくをつれこんだのさ。ぼくが、あなたをいじめたからかい。あなた、本当に、ぼくがいじめたと思っているの?」
 記代子は答えなかった。
 あまり沈黙が長いので、ふとその顔をみると、たしかに涙にぬれているのだ。夜の灯のせいではなかった。
 青木は放二を思い描いた。それがこの少女の胸をいかに惑乱せしめているであろうか、と。いたましい思いがした。しばらく言葉をかけるのも控えていたが、
「なア。お嬢さんや。ぼくが毎日きまったように放二さんを誘うのはだね。あなたと放二さんが昔のようにむつまじい一対であれかしと願っているからだよ。あなた方は銀座でも人目をひく一対だった。そのような美術品をまもるのは側近の年寄の義務というものさ。ぼくの善意を素直にうけてくれなくちゃアいけませんよ」
「ひどいわ」
「なぜだろうな。ぼくには、あなたの云うことが分らないよ」
「放二さんは知ってるわ。だから、あなたが誘っても、ついてこないわ」
「なぜ、ついてこないの?」
「私にきらわれてること、知ってるから」
 青木が言葉に窮していると、記代子は彼をさえぎるように立ち止って、
「私、子供は、きらいよ。子供なんか、つまんない。私、青木さん、好き。なぜ、察して下さらないの」
 記代子は青木を見つめていたが、にわかに振りむいて、駈け去った。

       六

 記代子の気まぐれな感傷だろうと青木は思った。放二によせる胸の思いが、迷路をさまよって出口をふさがれているせいだ。
 翌日、青木は深くこだわらず、出社した。記代子の様子にも、ふだんと変りは見えなかった。
 午後になると、どの部屋も暑くなる。青木はトイレットへ顔を洗いに行く。いつもの彼の習慣だ。ゆっくり顔を洗って、ふと隣りをみると、水を流して、手を洗うフリをしながら、こッちを見ているのは記代子であった。
「ヤ」
 顔をぬらしているから、物を云うことができない。タオルで顔をおさえる。ふき終ると、視線がかちあった。記代子の目は、食いこむようであった。
「今日、放二さんをさそったら、承知しない」
 言いすてると、すぐふりむいて、立ち去った。昨夜のように駈け去りはしない。もっと確信にみちて、落ちついた態度であった。
 偶然の出会ではない。青木がトイレットへ立つとき、記代子は部屋にいたのだから。記代子は追ってきたのだ。
 青木が部屋へもどると、記代子の姿は見えなかった。
 記代子が戻ってきた。
「ライターかして」
 笑いながら、青木に云った。ライターをかりて、自分のデスクへもどり、タバコに火をつけた。イスにもたれて、タバコをふかしている。まもなく、むせびはじめた。タバコをすったことがないのである。苦笑して、火をもみつぶした。
「ハイ。あげましょう」
 ピースの箱とライターを青木の方へ投げてよこした。
 青木はかなり窮屈な思いにさせられた。記代子の言葉にこだわったのだ。そして、放二によけいなことを話しかけた。しかし、帰り仕度をするときには、放二を誘うことができなかった。
「ノドにつかえていたようね。放二さんを誘う言葉が」
 記代子はあとでひやかした。
 青木は浮いた気持にもなれなかった。のむビールのにがさが浸みるばかりである。
 酔いがまわると、腹をすえて、
「記代子さんや。長平さんの姪御さんだけのことはあるよ。平凡なお嬢さんのような顔をして、頓狂なカラ騒ぎをやらかす人だ。しかし、とにかく、文学的でありすぎるよ。いかに良き人を思いつめたアゲクにしろさ。痴話喧嘩の果に、ぼくのようなオジイサンを口説くのは、ひどすぎますよ。外国の小説や映画にはありそうだがね。女王だの公爵夫人というようなお方がさ。王様だの公爵と痴話喧嘩のあげくに、奴隷だの黒ン坊に身をまかせて腹イセをするというような話がね。それにしても、ぼくに白羽の矢をたてるというのが、頓狂すぎるというものだ。お嬢さんや。よく、おききよ。あなた方の年頃では、遊びというものを、みんな軽く、同列のものに考えているのだね。しかし、男女の遊びは、別のものですよ。とりかえしがつかないのだからな」
「私は、遊びではないの!」
 記代子は叫ぶと、すぐ立上って、大股に歩き去ってしまった。
 青木は別の店で焼酎をのんだ。そして宿へもどると、彼の部屋に記代子が待っていた。

       七

 青木はわざとドッカとアグラをかいて、うちとけてみせて、
「やれやれ。疲れるなア。遊びたい盛りのお嬢さんが退屈して姿を消すまでつきあってあげるのは。なんて、逞しい根気だろう。まさしく、面白ずくの一念だね」
「そう?」
「まアさ。あなたは昨日から怒りすぎるよ。もっと平静に話しあいましょう」
「あなたが、怒らせるのよ」
「怒らせるつもりで言ってるんじゃないんだがなア」
「いま、なんて云った?」
「……」
「面白ずくって、なによ。そんなふうに、見えて? 私、遊んでやしないわ。離婚して、バアで働いて、礼子さん、甘チャン。文学的すぎるわ。私も、そんなに見えて?」
 これが記代子の本心だろうかと青木はいぶかった。
 記代子の恨みは礼子をめぐり、礼子に比較して自己を主張しているのである。礼子のバアでも、記代子の態度は際だって大人びており、対立的な感情が尖鋭であった。
 記代子の意識が礼子をめぐっていることは、青木によせる感情が、放二のせいばかりでなくて、かなり本質的なものであることを表している。そう思っていいのだろうかと青木はいぶかった。
 礼子の離婚の原因が、長平のせいだということも、記代子は知っている。そして、礼子を少女趣味だと面罵しているのだ。
 それらのことを考えると、記代子は礼子との年齢の差を無視しており、礼子が長平によせる対等の感情で、青木に対しているように思われた。
 してみると……青木は考えた。記代子の愛情の本当の根は、長平にあるのではあるまいか。えてして少女というものは、まず肉親に愛情をもつものだ。どッちにしても、彼自身が本当の対象だとは思われなかった。
「ぼくの昔の奥さんが長平さんにあこがれて離婚したということ、誰にきいたの?」
「そんなことが知りたいの?」
「なるほど。別に知らなくともいいことらしい。だが、ねえ、お嬢さんや。ぼくの昔の奥さんは、たしかに文学的で、少女趣味ですよ。しかし、あなただってさ。文学的なお嬢さんに相違ないと思うんだね。なぜなら、現世に生きる人間というものは、一応常識というものを思考の根抵におかなければいけないものですよ。だが、記代子さんは、限られた小さな現実を全部のものにおきかえているね。思考の根が、常識でなくて、あなたを主役にした劇なんだ。夢なんだよ」
「それでいいと思うわ。じゃア、あなたは誰のために生きているのよ。放二さんのためなの? それとも別れた奥さんのためなの?」
「それは、人生というものは、云うまでもなく自分のためのものさね。しかし、自分の位置、限度というものを心得なければいけませんよ。あなたはツボミのようなお嬢さんだし、ぼくは花ビラの散りかけた老いぼれですよ」
「そんなことが理由になるのは、ほかのことがあるせいね。正直に云えないことがあるからよ」
「なア。記代子さん。もっと打ちとけて、茶のみ話をしようよ」
「イヤ」
 記代子は立ちあがった。

       八

 青木は記代子を送ってでた。
「なア。記代子さんや。こんなことで、怒ったり、怒られたり、よそうじゃないか。毎日、ノンビリ、コーヒーやビールや焼酎でものんで、バカ話をし合って、たのしく過そうじゃないか。そうするうちに、二人の心が通じ合うようになると思うんだがね」
 肩を並べて歩きながら、青木は懇願した。つとめて情慾を殺すには、そんな態度をとる以外に仕方がないのだ。そのくせ、立ち去る記代子を立ち去るままに放っておくことができないのは、可憐な記代子に断ちがたいミレンのあるせいだ。
 相剋する二つの心を、興ざめた目で見送る以外に手もない。
「なア。よく考えてくれよ。ぼくは叔父さんの友だちなんだぜ。叔父さんというものは、あんたのオヤジの兄弟じゃないか。オヤジだの、オヤジの兄弟なんてものは、あなたの友だちと違わアね。ぼくだって、そうなんだ。ぼくは、あなたにとって、甚だ親切な友だちさ。あなたのオヤジや、オヤジの兄弟のようにね。しかし、本当の友だちというものは、こんなに親切ではないものなんだ。たとえば、若い者同志はね。ここのところをカン違いしちゃいけないよ」
「喋るの、よして! こんど喋ったら、駈けだしちゃう」
「こまったな。ちょッとぐらい、喋らなきゃア、歩きようがないじゃないか」
「うるさいッたら!」
 記代子は激しくふりむいて、とびかかるように、手で青木の口を抑えた。青木はハズミをくらって、反射的に防禦の手をあげてしまったが、その小指が記代子の口にふれた。記代子は青木を見つめたが、力いっぱい小指をかんだ。
「痛……」
 青木は苦痛にたえようとした。噛まれた指をハシタなくひっこめるのをこらえようと努めていると、記代子は再び、力いっぱい噛んだ。
 青木は指が噛みきられたように思ったほどだ。あまりの痛さに茫然として、たたずんだが、記代子にみじめな思いをさせては、と、指の傷をあらためようとせず、ハンケチをとりだして笑いながら脂汗をふいた。
 記代子は一部始終を見つめていたが、
「指みせて。どんなになった?」
 青い歯型がハッキリついて、血のにじんだところもあった。
「痛かった?」
「うん」
「なぜ痛そうにしなかったの?」
「しなかったかい?」
「泣くかわりに、笑ってみせたわ。なぜ、指の怪我をしらべてみようとしなかったの?」
「痛すぎて、ボンヤリしたのさ」
 しかし記代子は見ぬいているのだ。青木が記代子をいたわるために、指の怪我すらしらべようとしなかったことを。
 青木の胸はふくらんだ。
「君、ぼくの指を本当にかみきるツモリじゃなかったの?」
「そうかも知れないわ」
 青木は記代子をだきよせて、くちづけした。そして明るい道まで送って、
「ねえ、記代子さん。ぼくたちは毎日たのしい四方山話をしようよ。すると、二人の心が通じあってくるよ」
「ええ」
 記代子はニッコリ笑った。そしてスタスタ行ってしまった。

       九

 青木はいったん宿へもどったが寝つかれなかった。思いたって、放二のアパートへでかけた。
 放二はまだ帰っていないから、マーケットのオデン屋で一パイやりながら待つことにした。ここにいると、帰宅の放二をよびとめることができるのである。
「放二さん、いつも帰りがおそいってね」
「ええ。毎晩あたしが店を閉めかけるころにね」
「お酒に酔って?」
「いいえ。ビール一杯で真ッ赤になる人だから、一目で見分けがつくんですが、よくねえなア。とにかく人間、お酒をのんでるうちが花ですぜ。グッタリ疲れきってお帰りでさ。お仕事が忙しいんですッてね」
「ぼくは御覧の通りだがね」
「上ッ方はね」
「冗談云ッちゃアいけませんやね。北川君が上役なのさ。年の功で、月給だけは、ぼくがいただいてるらしいがね」
「ヘッヘ」
 なんとなく来てみたものの、放二に打ちあけて語る性質のものではないようだ。たかが小娘の出来心だ。とまどって人に相談しなければならないようなウブな初心者ではないはずであった。
 青木がとまどったのは、彼自身の獣性についてゞあった。そして、彼を獣性にかりたてる複雑な心理についてゞあった。
 彼の念頭にひらめく主要な人物は、記代子ではなくて、長平だ。また、礼子であり、せつ子であった。
 彼は復讐について考える。これほど簡にして要を得た復讐はない。そこで誘惑は激しいが、復讐というものは、空想された願望の中では人は極端に悪魔的でありうるけれど、現実のものになってみると、そう悪魔的ではありえないものだ。むしろ悪魔と闘う気持が激しくなる。
 青木は復讐の激しさや悲しさにとまどった。どうしていゝか、わからない。なにかに縋らなければ、胸の切なさを持ちこたえることができないようであった。
「なア。おッさんや。カストリだのパンパンてものは、妙なものだね。あなた、なんだと思う?」
「へえ。なんでしょう」
「神様ッてものは、ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑ったりするものなんだぜ」
「そんなものですかねえ」
「そんなものなんだよ。すべてが具わったものでもないし、万能でもないのさ。そして、奴らは――奴らッてのは、神様のことだよ。奴ら、ノドがかわいたって、貴族の食卓へ行きやしないよ。カストリとパンパンを買いに行くんだ。ぼくみたいにね」
「ハア。あなた、神様だね」
「まア、そうさ。ノドがかわいてるし、ゲラゲラ笑いたいからね。なア、おッさんや。ぼくが北川放二君を信用しないと云ったら、あんた、怒るかい。だってさ。パンパンが彼を神様だの、ふるさとだのッて云いやがんだ。笑わせるな。ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑わない奴、信用できるかッてのさ。甘ったれるな。ハッハ。しかしさ。カストリとパンパンは、甘ったれたところがネウチなんだぜ。笑わせやがら」
「笑いなよ。勝手に」
「お前さんなんかに、可愛がられたくないんだ。パンパンにもよ。バカヤロー。オレはパンパンに軽蔑されにきたんだ」

       十

「なア。放二さん。パンパン街の神様や。笑わせるな。気どるなッてんだ」
 青木はコップを握って、ゆれながら、放二に毒づいた。放二は黙っていた。
 オデン屋のオヤジが見かねて、
「良い年をして、くどいよ。いい加減に、よさねえか」
「だまってろ。チンピラ善人。よって、たかって、甘えてやがら。お前さんたちが甘えるッてことは、めるッてことなんだぜ。お前さんたちが甜めてるものが、ホンモノなのさ。そんなことは、お前さんたちには、わからねえやな。オレはこの街の神様に、放二さんにさ。甘えにきたんだ。だから、ツバをひッかけてるのさ。そんなことは、お前さんに、わからねえのさ。チンピラの宿命だからな」
 青木の顔には脂汗とせせら笑いがにじんでいた。
「なア。放二さんや。あんたが、童貞だか、そうでないか、知らないが、とにかく、あんたは、童貞という規格品ですよ。童貞マリヤのメダイユみたいに、パンパンだの淫乱娘の胸に鎖をつけて吊るされているかも知れないが、あんた自身は、生きている何物なんだろうな。人間はノドがかわくと、水をのむんだ。神様だって、そうなんだぜ。あんたは、ノドがかわいてもジッと我慢するだけじゃないか。それが、どうしたってのさ。え、オイ、規格品。しッかりしろよ。しみッたれるな。可愛がられるなよ。憎まれろよ。だからさ。オレが憎んでやるんだ。なア。あんたには、いくらか、わかるだろうな。オレの愛情というものがさ」
「自分だけ、偉いと思ってやがるな」
「チンピラはだまってろ。オレが偉いと思ってりゃア、こんな子供のところへ甘ったれに来やしないやね。天に向ってツバを吐いてるのだぜ。お前さんなんぞは、ツバは地に吐いてると思ってやがる。それしか知らねえのだからさ。お前なんかに可愛がられちゃ、人間はオシマイなのさ。ひもじいパンパンや学生かなんかに、オデンを一皿めぐんでやって、けっこう善事をはどこしたと満足してやがら。うすぎたないぜ、この町は。しみッたれた人情がしみついてるよ。軽蔑されたいとか、憎まれたいとか、肝心なことは忘れてやがる」
「でろ」
 オヤジは店の外へまわってきて、青木を突きだした。
「そんなことしか、知らねえな。そうだろうと思っていたのさ。なア、おッさんや。お次は、パンパンと、ひッぱたくか。よかろう。やってもらいたいね」
「おのぞみかい」
 四ツ五ツ往復ビンタをくらわせた。青木はせせら笑って、なぐられるままに、まかせていた。
 オヤジはふりむいて、店へひッこんだ。青木は追わなかった。ふらふらと放二のアパートへあがりこみ、ルミ子の部屋の戸をたたいた。
「あけろ! 千円札が来たぞ! ここには、可愛いい女の子が住んでることを知ってるんだからね。千円札で目をさまし、千円札で扉があく。千円札が、来てるよ」
 放二が来て、彼のうしろに立っていた。
「なんだい。あんたかい。ここは、あんたのくるところじゃないぜ。千円札のくるところだ」
「これをお忘れなんです」
 放二は青木に帽子を渡した。そして立ち去った。

       十一

 翌朝、青木は見知らぬ部屋で目をさました。ねているのは、彼だけだった。どうしてこんなところに居るのだか思いだすことができないうちに、襖があいて、現れたのはルミ子であった。
「千円札、目がさめてる?」
「ここは、どこ?」
「私は誰?」
 青木はようやく分ってきた。ルミ子の部屋には先客がいたのだ。彼はルミ子にみちびかれて、近所の宿屋へねかされたのである。
「私の部屋へくる?」
 青木はうなずいて、立上った。
 ルミ子の部屋は、客を送りだしたばかりであった。青木はそのフトンの上へころがりこんで、
「誰かの体温がのこっているよ」
「もっとタクサンのこってるのよ。私のからだの中にね」
「君だけだな。ぼくを締めださないのは」
「千円札のあるうちはね」
「そうだっけ。そんなこと、怒鳴ったのを覚えてら。どこかで、ひッぱたかれたッけ」
「そう。八重ちゃんにね」
「ちがう。オデン屋のオヤジだろう」
「八重ちゃんにもよ。覚えていないの?」
「どこで?」
「兄さんのお部屋でさ。私にお客があったから、八重ちゃんに世話してあげたら、お前なら百円札でタクサンだッて喚いたからさ」
「ひッぱたかれたのは、それだけかい」
「あんたが、ひッぱたいたわ」
「誰を?」
「兄さんを」
 青木は驚いてルミ子を見たが、とくに非難しているような顔付でもなかった。
「北川君をぶつなんて、妙だな。なぜ、ぶったろう?」
「酔っ払いだからさ」
「何か言ったかい? 女のことかなんか」
「あんた、なぜ、顔をあからめるの?」
「変な観察は、よせ」
「なぜさ。あんたぐらいの年になって、そんなことを言いながら顔をあからめるなんて、スッキリしてないね。救われないから」
「救われたかないんだから、いいやな」
「あんたのことじゃないのよ。救われない顔、見せられる方が因果だから。あんたぐらいの年配の人は、たのもしいような顔をするものさ。公衆衛生だから。街路美化週間なんていうわね」
「で、女のことを、言ったかい」
「誰のことを?」
「おい。ハッキリ、言えよ」
「あんた、シッカリ、しなさいよ」
 ルミ子は青木を見つめた。
「あんたぐらいの年になって、そんなことが気がかりなの? 女のことを言ったか、言わなかったか、なんて」
「おい。割りきったようなことを云うな」
「そう。でもね。その女の人が、気の毒だと思うのよ。年配のオジサンが、こう救われなくちゃアね」
「ま、いいやな。とにかく、女のことを、何か言ったかい?」
「言わなかった」
 また、ルミ子は青木を見つめた。
「それで、安心した? あわれじゃないの」
「バカな。人間とコンクリートをまちがえちゃアいけないよ。じゃア、失敬。可愛いお嬢さん」
 青木はアパートをとびだした。


     泣き男


       一

 穂積が京都へきて、話のついでに、青木と記代子のことを長平に語ってきかせた。記代子が長平の姪であることは百も承知のはずだが、千里距てた異邦人の噂をしているように、うっかりすると聞きもらしそうな話し方であった。
 長平は記代子のことに驚くよりも、穂積の悠長な話しぶりに心をひかれて、
「君、わざと気をつかってくれたのかい?」
「え?」
「ぼくをビックリさせないために、わざと悠長な話し方をしたのかと訊いているのさ」
「ハッハア」
 穂積は雲をつかむような笑い方をした。わざととぼけているのかと思うと、苦りきって、
「当節、人のことで気をつかっちゃいられませんよ」
「へえ。なぜだい?」
「ハッハア」
 また、雲をつかむような笑い方をした。
「ですが、人生は、事もなく、また、若干、多忙ですな」
「なんのことだい」
「とにかく、人間というものは人の噂をしたがるものですよ。他人の身の上は多事多端ですな。そして当人だけは、事もなく、わが身に限って何一つ面白いことが起らぬような気でいるものですよ。そのくせ、あらゆる人間が人の話題になるような奇妙な身の上をしているのですな」
「なるほど」
 まったく、人生はそんなものかも知れない。彼自身にしても、梶せつ子と関係をもつに至った一夜の出来事などは、人の絶好な話題になるものであろう。しかし当人には、さしたる事ではない。今後せつ子と同様な機会が起らなければ、あの一夜は、単に過去という無の流れに没し去っているにすぎない。似た機会が起るにしても、二つの夜は、その時に限って継続しているにすぎないのだ。せつ子のように多事多端な毎日をすごす人でも、当人の身には事もない一生であるかも知れない。
「すると、君自身の特に最近の実感だね。事もなく、又、多忙をきわめているらしいな」
「多忙を自覚する人と、自覚しない人に分類して、ぼくはやや自覚派に属していますよ」
「君がかねえ。そんなにとぼけてねえ」
「とぼけているのは顔だけですな」
「青木君と記代子の二人はどうですか。自覚派かも知れないな」
 穂積はちょッとうつむいて考えこんでいたが、ちょいととがめだてるように、
「ひどいねえ」
「なにが?」
「記代子さんは、先生の姪ですよ。まるで赤の他人の話のように」
「へえ。そうかい。ほくが君に訊きたかったのが、それなんだぜ。当人が姪の身の上を他人同様きき流すのは当人の自由なんだぜ。ところが、それをぼくに語ってきかせる君の場合は、世間なみの礼義みたいな気兼ねがありそうなものじゃないか。御愁傷様というような、ね。ぼくの目からは、君の方がトーチカのように見えるんだがね」
「ハッハア」
 穂積は明るく笑って、
「だから、人のことで気をつかっちゃいられないんです。その代り、自分のことじゃア、慟哭しますよ」
「バカに都合がいいんだね。それで安心しているわけじゃアなかろうね」

       二

「しかし、これに就ては、どうですか。五十がらみの男と二十の娘が恋仲になってですな。まア、一般的な感情として、男に好感がもてないのが自然だろうじゃありませんか。ところが案外にも、男の方は、なんとなく引き立ってみえるんですな」
 穂積はハッハアと笑って、
「しおれた野草のような青木さんが、一輪ざしの花のように生き生きと、ハッハ、まア、それぐらいに見える瞬間もなきにしもあらずです。それにひきかえて、二十の娘は徹底的にウスノロに見えるんですな。けだし、ぼくのヤキモチのせいでしょうかね」
 そして穂積は記代子の恋愛状態のウスノロぶりについて例をあげて語ってきかせた。
 そのことがあってから一月あまりすぎて、梶せつ子が京都へきた。
 十一二の男の子が二人、せつ子が紙キレに書いたものを長平の住居へ持ってきた。こッちへ旅行に来たから寄ってみた。別に用があるわけでもないし、在宅かどうかも分らないから、ボンヤリ外に遊んで待ってるが、ヒマだったら食事でもしませんか、というようなことが走り書きしてあった。
 子供の案内で、近所のお寺へ行ってみると、木立の中で、せつ子は子供たちと蝉をとっていた。
「お早う。まだ、十時半よ」
「ぼくは早起きだよ。荷物は?」
「ちょッと散歩にぬけだしてきたのよ。大阪から」
「じゃア、殿様のお供だね」
 せつ子は軽くうなずいてみせた。
「京都の子供ッて、東京の言葉がわからないのかしら?」
「どうして?」
「お手紙とどけてちょうだいッて頼んだんです。なかなか分ってくれないのよ」
「それは君の頼みが奇怪だから、理解できないのさ」
「いいえ。理解しようとするマジメな気持が顔にアリアリ現れているのよ。言葉が通じないらしいわ。京都にも気の短い子がいるのよ。言葉が通じなくッて、モシャクシャしたらしいのね。インデコ、だって。わかる?」
「インデコ?」
「もう、帰ろう、ッてことなの。さッさと逃げて行っちゃったわ」
 せつ子は板チョコを折って長平にくれた。子供たちがチョコレートをかじっているところをみると彼女が配給したのに相違ない。せつ子が手をふってサヨナラと叫ぶと、古都の子供たちは、サヨナラ、バイバイと言った。
「浩然の気を養うという大人の風格があるよ」
 と、感心したのか、ひやかしたのか、わけのわからないことを長平が言うと、せつ子はなさけなそうに苦笑して、
「ゴキゲンとりむすぶの、つらい。息苦しくなるのよ。でも、こんな、息ぬきに散歩にでたりして、とても一流じゃないわね」
 そして、道ばたの犬に、じれったそうに口笛をふいた。
「記代子と青木はどうしてる? まさか、死にもしないだろうね」
 せつ子は驚いて長平を見つめた。
「どうして、知ってらッしゃるの?」
「穂積君がきかせてくれたのさ」
「知られぬ先に、処分しようと思っていたのに」
「処分て?」
 せつ子はボンヤリ口をつぐんでいた。

       三

「処分とは、おだやかならんね」
 重ねて、こう問いかけると、せつ子はものうそうに目をうごかして、
「誰にも知られないうちにと思っていたのよ」
「だって、ぼくは叔父じゃないか」
「だから、尚さらのことよ。こんなこと、肉親は知る必要のないことよ」
「そういうもんかね」
「わかってるくせに」
 せつ子は悠々と歩いていた。
「記代子さんは見かけによらぬアマノジャクよ。ダタイなさいとすすめても、フンという顔よ。私を嘲けるような薄笑いを浮べるだけなの」
「じゃア、記代子はニンシンしたのかね」
 せつ子はうなずいて、
「私のほかには知られていないと思うけど」
「青木だろうね、男は?」
 せつ子は、又、うなずいた。
 考えてみたって、仕様がない。長平は観念した。人間はみんなそれぞれ一人前に動きだすのが当然なのだから。どこといって、ぬきんでたところもなく、一風変ったところも見えない記代子なのだが、お半だのお七だのと思いきったことをやらかす女は、平凡で取柄のない小娘にかぎるのかも知れない。
 それまでは予想もしないことであったが、恋をしたあとの記代子のふてぶてしさが、にわかに思い当るような気にもなった。
「なぜダタイしないのだろうね」
「なぜでしょう」
「よほど、頭がわるいんだろうな」
「平凡な子ほど気違いじみたことをしでかすわ。女の本能が気違いじみているのね」
「静かにさとしたらどうだろう。気が立っているだけじゃないかな」
「そうでもない。私の能力でできるだけの手をつくしてみた。青木さんの子供なんか、生ませたくなかったから」
 手を変え、品を変え、さとしたり、すかしたりした時のことを思いだすと、腹のたつことばかりであった。
 青木の口からダタイをすすめさせもしたし、青木もそれに不賛成ではなかったが、記代子はきかなかった。青木もあきらめて、
「結局ダタイをすすめることが、何よりダタイしないという決意をかたくさせるようなものさ。ねえ、社長さん。ほかに理由がありますか。ぼくには、てんで見当がつかない」
 彼は力つきて、こうせつ子に報告した。
「あなたは子供を育てますか」
 こうきくと、青木は決意の重さにおしつぶされそうな、蒼ざめた顔をひきしめて、激しすぎるほどキッパリ言うのだ。
「むろんですとも。ぼくの子供ですよ。考えてみると、ぼくの足跡はこれだけなんだ。そう考えてニンシンさせたわけではありませんがね。みじめな男は、足跡がのこるまでは、それを欲してやしませんからさ」
 カラカラと、目まいでもしているような笑いをたてるのであった。せつ子は顔をそむけた。思いだしても悪感がすると思うのだ。
「放二さんと記代子さんを、結婚おさせなさろうとお思いじゃないこと?」
 せつ子は長平をみつめて、
「先生のお考えはどうなの? 先生がそれを希望なさるなら、私、必ず記代子さんをダタイさせます。いいえ、むかしの処女にもどしてあげるわ」

       四

「近いうち、上京しよう。それまで、記代子のことは、そッとしておきましょうや」
 食事しながら、長平は言った。
「なに、ぼくが上京したからって、人の心をうごかすような力がそなわってるわけじゃなし、新しい希望や打開策が生れる見込みは有りゃしないさ。それでいいと思ってるのさ。色恋の世界には、先輩後輩はなさそうだ。子供はとつぜん大人になるし、大人になったときは、もう同列のものですよ。この道ばかりは、何十年かかったって、ムダはムダ、当人のことは当人だけしか分りゃしない」
「私はそれほど悟れないけど」
「それは、そうさ。ぼくは講壇派、ニセ達人だが、あなたは生活派の達人だ」
「私は常識的に考えているだけ。記代子さんが結婚前に子供を生むなんて、変だから。青木さんの子供なら、なお奇ッ怪でしょう。それだけのことなの。そうオセッカイでもないのよ。ただ目のふれるところで行われているから。目ざわりなのよ」
 久しぶりの対面であったが、せつ子の心はこだわりなく打ちとけて、のびのびしていた。それが長平に快よかった。こんなにこだわりなく、のびのび打ちとけてみせることができるのは、とにかく、すぐれたことだ。肉慾にこだわりがなく、それを没したようなスガスガしさがあった。
「記代子の話は、もう、よそう」
 長平は言った。百里離れて人の色恋を案じてみてもムダなことだ。
 長平は珍しく眼前の事実に充足するよろこびを味っていた。
「今日は珍しく、たのしいよ。風に乗って、たのしいことが運ばれてきたようなものさ」
 炎天の樹間をくぐって、いくらか涼風が通ってくるが、杯をあげているから、汗の量をへらすだけのタシにもならない。しかし、かがやく葉が草が、目にしみる。炎天の光も、時には、美しいものだ。
「君の気持は、わかるんだ。時々、風になりたくなるからね。ぼくら、風になると、むやみに酔っ払う。下賤なる風なんだね。誰も風の訪れをよろこんでくれないよ。女はお酒をのまないから、綺麗な風になるらしいや。自分が風になるよりも、よその微風が訪れてくれた方が、健康にもいいんだな。こんなソヨ風の訪れはめったに有るもんじゃないんだね」
 せつ子は長平のように浮いた気持にはなれなかった。
「お供はつらいのよ。社でアクセクしてるときは、なんとでもしてお金が欲しいと思うけど、ダメなのね。でも、つとめるのよ。今日までは、おッぽりだして来たことなんかなかったのだけど、ふらふら、とびだしちゃった。もっと娼婦になりきれる方が、立派なんでしょうね」
「そんなことは、クヨクヨ考えることじゃアないね」
「そう。立派だなんて、おかしいわね。誰かに、ほめられたいみたい。でも、そんな気持も、あるのよ」
「社長だものな」
「そうなのよ。社長でなければ、乞食になるのよ。そして、生きてるわ。今日は乞食の方の気持よ。微風の訪れでもなかったの」
 せつ子は胃が悪いから、酒をのむといけないのだと云いながら、かなり飲んだ。そしてテキメンに苦しみはじめた。長平が知人の医者へつれこむと、医者は顔をくもらせて、酒をのむと、ひどいことになるかも知れない、とせつ子を叱責するようにつぶやいた。
 せつ子は黙って、医者を見つめていた。顔色を微動もさせずに。そして、自動車をよんで大阪へ戻った。

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