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街はふるさと(まちはふるさと)


     青木の場合


       一

 記代子の失踪をきいたとき、青木が直感したのは死であった。
 しかし、記代子に、死を選ぶような素振りがあったわけではない。むしろ、怪しい挙動のなさすぎるのがフシギなほどであった。
 悲しくて、怪しいのは、青木の方であった。罪悪感にさいなまれ、行末を案じ、一人でいると、絶叫したくなり、胸をかきむしりたくなることがあった。記代子と会うと、逆上的なものはおさまって、平静で柔和になるが、骨がらみの暗さ悲しさはどうにもならない。記代子の気持をひきたて、力をつけてやろうとして、いつとなく悲しい思いに走っているのは彼自身であった。
 男の方がそんな風にダラシないから、記代子が逆に、青木の前ではノンビリしていたのかも知れないが、案外シンは頑固で、一人ぎめで、それで楽天的なようにも見えた。
 青木は、記代子の将来を考えてダタイをすすめたいのであるが、記代子の反対は強く、青木は再々云いだすことができなかった。
 失踪前も、特別な挙動があったとは考えられない。二人の仲はいつもと変りがなく、ちょッとしたイサカイもなかった。いつまでも捨てないでくれ、とか、いつまでも愛してくれ、というようなことを言ったこともない。青木がたよりない思いをさせられるほど、淡々と、ノンビリしていたのである。
 しかし、死というものが、どこに宿るかは見当がつかない。ノンビリと、鈍感な田舎者の魂にも、だしぬけの死が宿りやすいことは、チエホフが書いていることだ。これぐらい妙な友だちはない。めったに訪ねてこないけれども、訪ねてきた時は親友で、とびぬけて親友なのかも知れないのである。
 日々が平凡で平和な子守女でもふと自殺する理由がありうるのだ。記代子が死にみいられるのはフシギではない。むしろ当然すぎるといえよう。
 青木は彼女の失踪をきいて、死のほかに考えることができなかった。彼女に不幸の訪れを怖れていたので、最悪の場合を想定せざるを得なかった。
「まだ、生きていてくれ!」
 青木はちょっとした当てをたよりに走りまわった。
「死んでいるなら、死んだ場所へ案内して下さいよ。記代子さん」
 誰の目にもふれない先に、記代子の屍体を埋葬して、同じ場所で死のうと思った。
 礼子に会って、十日あまり毎日一人でバーへ通った話をきくと、ぶちのめされたように思った。やっぱし! 記代子は彼の前ではノンビリしていたが、内心はやりきれなかったのだ! 切なさは、一人じゃ処置がつかないものだ。親しい人には隠して、行きずりの人の合力にすがるのだ。切なさ、というものは、そんなものだ。
「いよいよ、ダメか!」
 青木は落胆して溜息をついた。
「どこで死んでいるのだろう?」
 しかし、礼子の意見はちがっていた。
「生きていますよ。私たちのように平凡な女は、生きることを考えて、悩むものです。あなたのように、力みすぎたり、諦めすぎたりしないのよ。案外ノンビリと、お友だちと水泳にでもいっているのかも知れません」
 青木は、とてもそんな風に思うことができなかった。

       二

 青木は玉川上水に沿うて、さまよった。記代子の宿から、歩いて四十五分ぐらい。死ぬとすれば、まずここを考えるのが自然であった。濁った早い流れを見つめて歩いていると、その下に記代子がいるように思われて仕方がなかった。
「よびかけてくれないかな」
 と、青木は思った。自然林に、おびただしい小鳥が啼いていた。
「あんな風に、よびかけてくれないかな」
 青木は、しかし、自分がどうかしている、と考えた。どうして、玉川上水なんかへ、来たのだろう? 五十の男が人の行方を探すにしては、論理的なところがなさすぎる。まるで女学生のように直感的でセンチである。
「だらしがない!」
 まったくだ。泣きべそかいているじゃないか。ともかく学問を身につけた人間が、論理的なところを皆目失って行動しているようでは、身の終りというものだ。
「死にたいのはオレ自身じゃないのか」
 もしそうだとすると、いよいよセンチで、助からない。彼は苦笑して、歩きだした。
 記代子は、どこにいるか? それを解く鍵が一つある。金曜日に、記代子の姿を見た人を探すことだ。宿をでて電車にのったか、玉川上水の方へ歩いて行ったか、誰かが見ている筈である。しかし、その誰かを探す手段がわからない。
 彼は記代子の宿を訪ねた。はじめての訪問だった。彼の名をきくと、主婦は身をかたくひきしめて、警戒の色をみせた。青木の癇にグッときたので、彼は苦笑して、
「わかっています。歓迎されないお客さんだということは、どこへ行っても、こうなんですよ。で、皆さんのお気持を尊重していたぶんには、出家遁世あるのみですから、時々こうして、歓迎せられざる訪問もしなければならないのですよ。まゝ外交員なみに、ちょッとの辛抱、おねがいしますよ」
 青木はドッコイショとカマチに腰を下して、
「失礼します。これが外交員、イヤ、一般に歓迎せられざる客人の礼義でして、つまり、ここから上へはあがらない、即ち、歓迎せられざる身の程をわきまえています、という自粛自虚の表現なんですな」
 青木は、もっと、ふざけたくなった。
「カバンの中から鉛筆かなんかとりだして、並べたくなるもんですなア。こうして、入り口へ腰かけますとね。昔、やったことがあるような気持になるから、妙なものですよ」
 先方がタニシのように口をあける見込みがないのを見てとって、青木は益々、ふざけた気持になった。
「さて、鉛筆の代りに、とりいだします品物は、ハッハ」
 青木は主婦を見つめた。
「記代子さんは、金曜日に、どんな服装で、でましたか?」
 主婦は意表をつかれた。青木にしてみれば当然な質問だったが、主婦はこれまでに放二から様々の質問をうけて、しかし、この質問はうけなかったからである。
「それを、きいて、どうなさるのです」
 敵意がこもったので、青木は嘲笑で応じた。
「人相書をまわすんですよ。探ね人。家出娘。二十歳」
「大庭さんのお指図で、北川さんが捜査に当っておられます。あなたのことは、なんのお指図もありませんから、お帰り下さい」
 ピシャリと障子をしめてしまった。

       三

 青木は熱海をぶらぶらした。
 記代子は熱海に通じていた。長平が上京のたび熱海に立ち寄る習慣で、迎える記代子や放二らと数日すごしたからである。
 青木は記代子の案内で、いくらか熱海に通じた。観音教の本殿や、来宮神社の大楠や、重箱という鰻屋なども教えてもらった。
 錦ヶ浦へ案内したのも記代子であった。トンネルをでた崖のコンクリートに、ちょッと待て、と書いてあるのも指し示した。
「投身自殺ッて、とてもスポーツの要領でやるもんですッて。ナムアミダブツ、なんてんじゃないそうだわ」
「どんなふうにやるの?」
「たいがい、助走してくるのよ。エイ、エイ、エイッて、掛け声をかけて助走する人も、あるんですッて。茶店で休んでいた人が、とつぜん駈けだして飛びこむこともあるそうよ。走り幅飛の助走路よりも長そうだわ」
「なるほど。岩にぶつかるのがイヤなんだな。ぼくも、ここで死ぬんなら、助走するな。痛い目を見たくないからね」
「痛い目?」
 記代子は不審そうに、
「足が折れたり、顔がつぶれたり、醜い姿になるのがイヤなのよ。助走しない人だって、いるのよ。その人はダイヴィングの要領ですって。こう手をあげて、後にそって、かゞんで、ハズミをつけてダイヴするんですって。私だったら、ダイヴィングでやるなア」
 二人はそんな話をしたことがあった。
 又、記代子がニンシンをうちあけたのも、熱海の宿であった。
 青木は錦ヶ浦の茶店で休んだ。断崖の柵にそうて、若い人たちがむれていた。空も、海も、あかるい。
「あそこで、ダイヴしたのかな」
 しかし、そう考えたり、それを突きとめるために来たわけではなかった。彼は目当てがないのだ。ただ、感傷旅行をたのしんでいるのであった。
 熱海の道々に記代子の匂いがしみているような気がする。そう考えてもいいのだ。なんとなく、センチな気分を追って、漫然と感傷的な旅にひたりたかったのだ。彼の身をとりまいて感じられる見えない敵意の数々から逃げだしたくもあった。
「ここ一週間ぐらいのうちに、誰か投身した人がありましたか」
 彼は茶店の人にきいた。
「投身は下火になりました。今は、アドルムですね」
「なるほど。めったに投身はないのですか」
「いゝえ。下火といっても、かなり、あるんですよ。三四日前にも泳ぎの達者な学生がとびこんで、助かりましたね」
 茶店の前に十名ぐらいの若い男女の団体がむれていた。
「誰か、とびこむ勇士はいないか」
「よし」
 小柄な男が声に応じて群から離れた。彼は肩のリュックを下した。
「諸君。サヨナラ」
 彼は左手をあげて挨拶した。にわかに顔がひきしまって真剣になった。彼は一散に走りだした。
 残された団体は、わけのわからぬどよめきをたてた。断崖の近くで、男は野球のスライディングをやった。そして、スレスレのところで止った。団体は拍手した。
 青木は思わず立ち上って首をのばしていたが、顔は蒼白になっていた。メマイで、クラクラした。
「ひどいイタズラをしやがる」
 しかし、すばらしくキレイな空が目にしみた。

       四

 熱海から戻ってみると、記代子の行方は依然わからなかった。
 もう生きている見込みはない、と青木は思った。生きているなら、ハガキぐらいはくれるだろうと思われた。失踪の日から一週間すぎて、次の金曜日になっていた。
 青木はせつ子によびつけられて、まるで彼が記代子を隠して、ひそかに逢っているかのような不快な疑惑を露骨に浴せかけられた。
 青木は苦笑して否定したが、怒らなかった。そう疑られても仕方がないと思っていたからである。
「しかし、そこまで疑る人の本性というものは、残忍無慙、血も涙も綺麗サッパリないんだなア。見事ですよ」
 青木は皮肉ったが、せつ子は蠅がとまったほども気にとめなかった。
 彼女が耳目をこらしているのは、青木の言葉が真実かどうか、それを見分けるためだけである。
「三日間、どこにいたのですか」
「第一日目は東京に、二日目と三日目は熱海に。そして三日目の夜、つまり昨夜ね。哀れにも悄然と東京へ戻ってきましたよ」
「誰と、ですか」
「二人です。ぼくの影と。ねえ、あなた。影は悲しく生きていますよ。広島のなんとか銀行の石段をごらんなさい。あれは誰の影でもない私の影ですよ。あらゆる悲しい人間の影なんだな。ぼくは原子バクダンを祝福するですよ。なぜなら、も一人の自分を見ることができたから。悲しめる人は、広島で、ありのままの自分を見ることができるですよ。ロダンだって、あんな切ない像を創りやしなかった……」
「熱海の旅館は?」
「実に、見事ですよ、あなたは」
 と、青木はくさりきって、
「そんなことまで一々きく品性もあれば、答える必要をもたない品性もあるですよ。ねえ、あなた。あなたという人は、女ながらも、仕事師としては偉い人です。しかし、あなたの品性は、失礼ながら、戦国時代ですな。人をギロチンにかけるか、あなたがギロチンにかかるか、たぶん、二つながら、あなたのものだ」
 話の途中に、せつ子はベルをおして、秘書をよんだ。
「アレ、とどいてますか。タキシードは?」
「きております」
「持ってきて下さい」
 秘書はカサばった包みをぶらさげてきた。中から、タキシード、シルクハット、靴、その他付属品、ステッキに白い手袋まで一揃い現れた。
「あなた、きてごらんなさい」
 せつ子は青木に命じた。
「なにごとですか。これは?」
「社員は連日宣伝に総動員ですよ。あなたのように、休んで遊んでいる人はおりません。あなたは、明日から三日間、この服装で、都内の盛り場の辻々でビラをくばるのです。ヒゲのある中年紳士は、あなただけですから。デコレーションを施したトラックに、蓄音機と拡声機をつみこんで、お供させます。あなたは、演説がお上手でしたね。立候補なさるのですものね」
 青木は泣きそうな顔をしたが、
「ええ。演説はね。うまいもんですわ。なんなら、シャンソンぐらい、おまけに、唄ってあげまさアね。タキシードも似合うでしょうよ。着てみなくッても分りまさア。紳士はなんでも似合うにきまっているのだから」
 サヨナラも言わないで、立ち去った。

       五

 青木は、たそがれの街を歩いていたが、ふと、キッピイを思いだした。記代子と二度ほど踊りに行ったことがあった。
 尖った顔が、出来の悪い観音様に似て、南洋の娘のような甘ったるい腰つきをしている。なんとなく中年男をそそりたてる杏のような娘である。
「フン。杏娘に拝顔しようや」
 ほかに行き場がなかった。どこにも、親しいものがない。多少、つきあってくれそうなのは、ルミ子ぐらいのものだ。そこは時間が早すぎた。
 目的がきまると、やるせない気持も落付いてくれる。彼は新宿のマーケットで安焼酎をのんだ。一パイ三十円。三杯以上は命の方が、という説もあるから、ギリギリ三杯できりあげる。
 杏娘はあんまり親切じゃないようだ。人ヅキのわるい娘である。しかし、記代子の友だちではあるから、赤の他人よりは身をいれて、失踪の話をきいてくれるだろう。それだけでよかった。
「アクビをかみ殺しているような顔さえしなきゃアたくさんなのさ」
 杏娘の甘ったるい腰をだいて、踊りながら喋りまくっているうちは、太平楽というものである。
 しかし、杏娘はホールにいなかった。一曲ごとにダンサーをかえてキッピイの居場所をきくうちに、十人目ぐらいで突きとめた。
 こんなちょッとの困難に突き当ると、青木の勇気はわき立つのである。キッピイに会ったところで、どうせ、たいしたこともない。むしろ居場所を突きとめるという事業に熱中する方が、気持がまぎれるというものだ。
 踊るうちに、酔いが沸騰していた。
「ここだな。ヤ。こんばんは。お嬢さん」
 めざす店の女給にからみつかれて、青木はキゲンよく挨拶した。
「キッピイさん、いるかい?」
 女は返事をしなかったが、その顔色で居ることを見てとると、それで青木は充分であった。カンの閃きに身をひるがえして応じる時が、彼の人生で最も順調な時間なのである。わずかに一分足らずであるが。彼はそれを心得ていた。わが人生の最良の一分間。
「ヤ。ドッコイショ」
 彼はイスに腰を下して、たちまち彼をとりまいた女たちを一人一人ギンミした。キッピイはいなかった。
「コンバンハ。麗人ぞろいだなア。ビールをいただきましょう。ときに、キッピイさんをよんで下さい。陰ながらお慕い申上げているオトッチャンが、一夜の憐れみを乞いにあがったとお伝えして、ね。イノチぐらい捧げますと、ね。ねては夢、さめてはうつつさ。わかっていただけるだろうね。この気持は。年のことは、言いなさんな」
 他の女の陰から、キッピイがヌッと現れた。彼女は青木を睨みつけた。
「ヤ。キッピイさん。待ってました。そうでしょうとも。分ってましたよ。あんたが笑顔じゃ迎えてくれないだろうということはね」
 キッピイは立ったままだった。
「まア、かけなさいよ。はるばるお慕いして訪ねてきた男を、ジャケンに扱うもんじゃありませんよ。な。笑ってみせてくれよ。一秒でもいいや。ぼくを忘れたかな。大庭記代子嬢のカバン持ちさ。覚えているだろうね」
 キッピイはイスにかけて頬杖をついて、ジロジロ青木を見つめた。
「どうして笑ってみせなきゃいけないのさ」
「難問だね」
 青木はキッピイを観察したが、酔っているようでもなかった。

       六

「言葉が足りなかったんだな。あなたが笑ったら、さぞ可愛いくて、ぼくはうれしい気持だろうと云いたかったのさ。あなたは観音様に似てるんだ。ちょッとリンカクが尖っているのは、職人が南蛮渡来なんだなア。腰の線が、又、そっくり南洋の観音様さ。な。南蛮渡来だって、日本なみに、笑ってくれたっていいだろうね」
 彼はビールをのみほした。そして、益々、好機嫌であった。
「こんなことを言いにきたんじゃなかったんだがな。ま、いいや。何から喋らなきゃいけないという規則があるわけじゃアないんだからな。ねえ。キッピイさん。そうだろう。ぼくはあなたに会えて、うれしいのだ。ぼくは、あなたの頬ッペタを、ちょッと突ッついてみたいね。普通、そんな気持には、ならないもんだね。接吻したいとか、肩をだきよせたいとか、そういう気持になるもんですよ。一般に、女というものに対してはね。ところが、キッピイさんは、ちがうね。ぼくは頬ッペタを突ッつきたいんだ。チベットの女の子は、コンニチハの挨拶にベロをだすそうだね。べつに頬ッペタを突ッつかなくとも出すんだとさ。だけどさ。南洋の観音様は、こッちの方から頬ッペタを突ッついてあげて、コンニチハの挨拶がわりにしたいんだなア。ベロをだせというんじゃないんだぜ。最もインギン、又、愛情こまやかに焚きしめた礼節としてですよ」
 青木はビールをのもうとした。頬杖をついてジロジロ目を光らしていたキッピイが、片手をのばして、青木が口に当てたコップを横に払った。コップは壁に当って、落ちて、割れた。キッピイは睨みつけて、
「じゃア、私の頬ッペタ、突ッついてごらんよ。タダは、帰さないよ」
 青木は酔っていたので、むしろ興にかられた。
「さすがに、あなたは、ぼくの考えた通りの人さ。そのトンチンカンなところがね。ほかの観音様は、みんなツジツマが合ってらア。神秘的というものはタカの知れたものさ。あなたは神秘じゃないんだな。要するに南洋と日本の言語風習の差あるのみ。ねえ。あなた。我々はその差に於て交りを深めましょう」
 青木は腕をつかまれた。そして、ひき起こされた。身ナリのよいアンちゃんであった。
「勘定を払えよ。そして、出ろ。いくらだい。このオトッチャンは」
 二千円であった。青木の蟇口がまぐちには、千八百円と小銭があるだけであった。アンちゃんは千八百円を女に渡した。
「二百円、まけてやってよ。仕方がねえや。おい。出ろ。足りないところは、カンベンしてくれるとよ」
「ヤ、アンちゃん。コンバンハ。しかしお前さんが出ることはなかろうぜ。ねえ、アンちゃんや。ぼくの話し相手はジャカルタの観音様さ」
 アンちゃんは、もはや物を言わなかった。彼の片腕をかかえて、グイグイつれだした。露路をまがると、ちょッとした暗闇の空地があった。男の腕がとけたと思うと、往復ビンタを五ツ六ツくらった。と、顔に一撃をくらッて、意識を失ってしまった。
 気がついたとき、男の代りに、立っていたのはキッピイであった。
「血をふけよ。紙をまるめて、鼻につめこむんだよ。鼻血の始末もできないくせに、この土地で大きな口をきくんじゃないよ」
 空地の隅の水道で、手と顔を洗わせた。
「利巧ぶるんじゃないよ。大バカでなきゃ、こんな目にあいやしないんだから」
 廻り道して大通りの近くまで一しょにきて、キッピイはさッさと戻って行った。


     五人目の人


       一

 放二は午ごろキッピイの自宅を訪ねた。これで四度目であった。キッピイはどこかへ泊りこんで、三日、家へ戻らなかったのである。
 四度目に、キッピイはいた。
 彼女は放二の根気にあきらめたようであった。
「あなた、何回でも、来るつもりなのね」
「ええ。お目にかかって、お話をうけたまわるまでは、何回でも」
 キッピイは有り合せの下駄をつッかけると、放二をうながして、外へでた。人通りのすくない道へ歩きこんでから、
「あなたはどういう人なのよ。記代子さんの何よ。ハッキリ言って」
「同じ社の同じ部に机をならべている同僚です」
「それから?」
「同じ仕事をしています」
「それから?」
「それだけです。そして、社長の命令で、記代子さんの行方を捜しているのです」
 放二は思った。こういう女には、洗いざらい言ってしまう方がいいのだ、と。キッピイは何かを打ちあけてもいいらしい気持になっているようだ。彼が隠しだてをしなければ、たぶん、打ちあけてくれるだろう。キッピイの関心は、彼と記代子との恋愛関係にあるようであった。
「あなたは、記代子さんがニンシンしていらッしゃることを御存じでしょうね」
 キッピイはうなずいた。
「記代子さんの恋人は、青木さんと仰有る年配の方です。ぼくとあの方とは、お友だち以外の関係はありません。ただ、ぼくが大庭長平先生の掛りですから、仕事の上で、特別密接な関係にあるというだけです」
「あなた方は、以前はフィアンセだったのでしょう」
 キッピイの目は険しかった。嘘をとがめているのである。
「ちがいます。ぼくには、女の方を幸福にする資格がないのです」
 放二は、ザックバランにうちあけた。
「ぼくは胸が悪いのです。元々悪かったのですが、この夏以来、特別にいけないのです。ぼくの予感が正しければ、記代子さんの行方を突きとめるまで倒れないのが精一ぱいです。人なみの生活を考えないことにしているのです」
 キッピイは放二をジロジロ見廻した。放二は疲れきっている。目のまわりに青い隈がしみついている。しかしキッピイは同情した様子もなかった。
「私は、なにも知らないわ」
 キッピイはすてるように呟いた。
「ですが、五人目の女の方を御存じではないのですか」
「五人目の女?」
「ええ。先日、そう仰有ったと覚えているのですが」
「五人目か」
 キッピイはつまらなそうに呟いて、やがて、早口につけくわえた。
「五人目の人は知っています。だけど、言うわけには、いかないわ。言うことが、できないの。これだけのことを教えてあげるのだって、一分前まで、考えていなかったことなのよ。あとは勝手に捜しなさいよ。どこかに、いるでしょうよ。なくならないものらしいから。もう、会いに来ても、ダメ。さよなら。肺病さん。だけど、五人目は女じゃないかも知れないわ」
 キッピイは走り去った。

       二

 放二が社へでてみると、穂積が汗をふきふき外出から戻ってきた。
「ゆうべ青木さんが新宿で愚連隊にやられたのさ。記代子さんの友だちの喫茶店でインネンをつけられたんだそうだね。欠勤届を持たせてよこしてね。皮肉な先生さ。タキシードにシルクハットの晴れの日にあいにく美貌に傷をつけまして相すみません。アハハ。あの人は、めぐりあわせまで皮肉に回転するらしいや。しかし、ひどいぜ。鬼瓦みたいな顔さ。喋るのも不自由なのさ。見舞いに行って、気の毒したよ」
「どんなことでインネンつけられたのですか」
「わけがわからんそうだがね。とにかく一撃のもとにノビたんで、かえって良かったんだそうだ。悪酒の酔いは、ノビたぐらいじゃ醒めないそうだぜ」
 放二の頭には、キッピイの謎の言葉がからみついていた。青木のなぐられたのはキッピイの店らしいが、彼女はそれを言わなかった。言う必要がないことも確かであるが。
 しかし、キッピイに会う前に、そのことを知っていたら、と、放二は残念がった。五人目の人物の多少の手掛りにはなったであろう。放二は、ダンスホールでキッピイの居場所をきいたとき、切符売りの女が彼に云った忠告も忘れていなかった。キッピイには悪いヒモがついているらしい。ヒモと五人目の人物は、たぶんツナガリがあるようである。
 放二はせつ子に報告した。
「とにかく、生きておられることだけは確実のようです」
 たったそれだけであるが、最初で、全部の聞きこみであった。とにかく、はじめて足跡らしいものを突きとめたのだが、そこでとぎれで、あとがない。
 しかし、せつ子はよろこんだ。
「きっと突きとめて下さると信じていたわ。私の信じた通りです。こんなうれしいこと、ないわ。あと一歩です」
 放二は、こまりきって、
「このさきが雲をつかむようなんです」
「いゝえ。ハッキリしています」
「誰でしょうか。五人目の男は?」
「それは問題ではないのです。キッピイが知っています。男の名ではありませんよ。記代子さんの居場所を。あなたはそれを突きとめればよろしいのです。五人目の男のことは、どうだって、かまいません」
 理窟はそうにちがいなかった。たしかにキッピイは知っている。放二にはいろ/\のことが考えられた。記代子には青木のほかにも男の友だちがあったのかも知れない。あるいは青木は社内でだけの恋人で、本当の恋人は五人目の男かも知れなかった。青木がなぐられたのは、そのせいかも知れないし、キッピイが、放二と記代子との関係を気にしていたのも、彼女がヒントを与えたのは二人の関係がなんでもないと分ってからであったのも、それを裏書きしているように思われた。
 しかし、キッピイの口からは、もうあれ以上きくことができないだろうと放二は思った。一筋縄ではいかないらしいが、とにかく、やってみるだけだ。
 彼は、せつ子が自分に与えた忠告を、そっくり、せつ子に返しておくのが何よりだと思った。せつ子は何も知らない方がいいのだ。記代子の過去も、現在も。青木にも知らせない方がいいのだ。彼ひとり突きとめて、自分の胸に隠しておけばすむことだ。

       三

 放二は早版の夕刊新聞を買いこんで、電車にのった。一般の退社時刻には早すぎる時間であった。キッピイのところへ立ち寄って、思いきって訊いてみようかと思案したが、新宿の喫茶街の開店時刻には間があるし、キッピイの自宅へ行けば、行き違いになる時刻であった。
 キッピイが五人目の名を言うことができないのは、なぜだろう? 人生の裏街では、どんなことでも有りうるのだ。どんな考えられないことでも、それが実在するときには、なんでもない顔をしているのだ。そして、全てが在りうるのである。
 青木のほかにも記代子の恋人がいたかも知れぬ、ということも、放二にとっては、なんでもなく実在しうることであった。それは記代子の値打に関することではなかった。人間が元々そういうものなのだ。しかし、同時に、万人がいたましくもあり、高くもあるのだ。
 夕刊を読んでいると、映画欄の下段に、キッピイの店の広告がでていた。麗人を求む、とある。記代子が酒場で働く意志があるとすれば、あの店はよろこんで使うだろう。しかし、あの店にいないにしても、他の店にもいない理由にはならない。礼子の観察によれば、記代子は女給の生態が、つまらなくなかった、おもしろかった、というのである。
 放二の部屋には、ルミ子や八重子や数人の女たちが、生菓子と果物をたべていた。ほかの女たちはシュミーズひとつであったが、ルミ子は服をつけていた。いつもルミ子はそうであった。
「記代子さんて方の屍体、まだ、あがらないんですか」
 八重子が放二にきいた。
「え? 記代子さんが自殺したんですか」
 放二はおどろいて訊きかえしたが、彼女らが記代子のことを知るわけがないことに気がついた。今よんできた新聞にも、そんな記事はでていなかったはずである。
「誰かそんなことを言った人があるんですか」
 八重子は笑った。
「青木さんがルミちゃんちへ遊びにきて、今しがた帰ったばかしなんです。ゆうべ新宿でブンなぐられたんですッて。三十分ぐらいルミちゃんに泣き言いって、千円くれてッたんですって。そのお金で、目下、宴会中」
 ルミ子は何も言わなかった。
 放二は穂積の話を思いだして、意外であった。
「青木さんの顔の怪我はひどいようにきいたけど。話もよくできないぐらい」
「ええ。腐爛した水屍体のデスマスクに似ていたわ」
 ルミ子は珍らしくもなさそうな顔だった。
「痛さをこらえれば、話すこともできるの。ポロポロ泣きながら。それを見せにきたんです。腐った顔と、泣きながらしぼりだす声とを、ね」
「そのくせ、私には見せないのよ。出て行け、なんて。キザなんだ、あのジジイ」
 八重子は吐きすてるように、
「やること、なすこと、ニヤケているのよ。ツバひッかけてやりたいよ。だけど、ルミちゃんには、いいお客さ。腐った顔と泣き声みせて、千円くれて帰るんだもの。キザなジジイに好かれてみたいや」
 ルミ子は水蜜の皮をむきながら放二にたずねた。
「大庭先生の姪ですッてね。その方、自殺じゃないんですか」

       四

 放二は捜査のあらましを女たちに語ってきかせた。
 ルミ子はきき終って、
「キッピイさん、もちろん、みんな知ってるのね。そして、何か、深い理由があるんだわ。キッピイさんに、会ってみたいな」
 そしてルミ子は夕刊をとりあげて、放二の示したキッピイの店の広告を眺めていたが、
「私、この店の女給になってみましょうか。二三日いるうちに、秘密をききだすことができるでしょう」
 とんでもないことを言いだしたのに気がついて、ルミ子は苦笑した。
「ちょッとしたスリルか。なにか、イタズラがしてみたいのさ」
「気どってやがら」
 八重子がやりかえした。ルミ子の言葉に意外に反感をいだいた様子である。
 ルミ子は苦笑して、
「フン。ヒステリイ」
「チェッ。しょッてやがら、あんたは、美人だよ。麗人でございますよ。美人女給にお似合いですよ。この町内へ二度と戻ってきなさんな」
「どうも相すみません。パンパンアパートの姐御さま」
「よしやがれ。パンパンでわるかったわね」
 八重子がなぜ腹をたてたか、ルミ子には一から十まで分っていた。何よりも嫉妬であった。誰が放二を恋しているというわけではないのだ。ゴミ屑のような生活のなかで、美しい恋なんてものは、ありやしない。しかし、又、あるといえば、生活の全部が恋だけなのかも知れなかった。
 ルミ子は自分の心を考えてみた。彼女は放二を恋してはいなかったが、世界で一番放二の偉さを知っている者があるとすれば、それは自分だろうと思った。彼女は放二に自分の魂をゆるしていたが、放二も彼女のためにその魂をゆるしていると信じることができるのだ。この上の何物をもとめることもないではないか。放二はそういう人なのだ。己れの魂を彼にゆるす者は、彼の魂を己れにもゆるされていることを見ることができるのである。
 キッピイの店へ女給にでて秘密をききだしてあげたいというのは、深い動機からではない。八重子はそれを恋のせいであるかのように腹を立てゝいるけれども、そう思われるものがもしも自分にあるとすれば、それは自分の大きな罪だと言わなければならなかった。
 放二を恋するというようなことが、他の人々への義理からではなく、自分の正しい生き方として、許さるべきことではないのだ。放二の偉大な魂を知りつつあることの満足よりも大きなものが有り得べきではないのだから。
 彼女は人々に、恋のせいだと見られたことが羞しかったし、放二にはすまないことだと意外に深く気に病んだ。
「なんだか差出がましくッて、私だって、キザッぽくッて気がひけるのよ。あんまり羞しがらせないでね。でも、私が女給にすみこめば、秘密をききだすこともできるし、そうでもしなければ、キッピイさんはタニシみたいに口をつぐんでいるだけだ。兄さんのために何かしてあげたいというんじゃないわ。私には出来ることらしいから、その義務を果すのさ。そして、それが私には面白そうに見えるからのことさ。私が、そうしちゃ、いけないの?」
 ルミ子は珍しくムキになっていた。そして、ふいに、涙ぐんだ。

       五

 その晩から、ルミ子はキッピイの店で働いていた。
 この店の主人夫婦は、この商売の主人にしては、ちょッと柄が変っていた。男の方は五十がらみの年配であるが、昔は手堅い会社かなにかに実直な事務をとっていたような、グズで気のきかないノンダクレという感じである。女はわりに若くて三十三四と見うけられるが、いくらかこんな商売をしていたように思われる程度のおとなしそうな女であった。ルミ子を雇い入れるとき、男主人がなんとなく真剣な顔付で、
「このへんの流儀で、ヒッパリをやらなきゃ競争ができないから、ぼくとしちゃアしたかアないが、身を入れてつとめて下さい。あなたに客がついて繁昌してくれるなら、それに応じるだけのことはします」
 命令らしいことを言ったのは、それだけだった。真剣のようで、なげやりであった。来たばッかりの女に、何を言ったって仕様がない。気にいらなきゃア、その日のうちによその店へ行っちまうのがこの商売の女だから、身を入れて話をするのは居ついてからの相談だというような悟りきった様子である。悟り方が諦め的で、なんとなく哀れに見えた。
 ほかに男はいなかった。
 お客は幾組もきやしない。お客のもとめに応じて、二階の小部屋で遊ぶことができるようになっていた。なんだ、そんなのか、とルミ子は思ったが、表向きがそうでないだけバカバカしくて、奥へ消えたカップルが妙な顔付で再び現れてくると、笑いたくなるのであった。
 ルミ子はお客にさそわれたが、
「はじめてだから、ダメ」
「はじめてだって、ここはそういうウチじゃないか。はずかしがることはないぜ」
「あんたに会うのが、はじめてだから、ダメなのさ」
 再び戻ってくるという仕掛が妙であった。女の中でも利のきいた子は、ここで遊ぶことには応じなかった。
 ルミ子の様子がまだ子供っぽくて可愛いのに、おめずおくせず悠々としているから、女たちは興味をもつものも、好意を示すものもいた。無関心なのはキッピイ一人であったが、彼女は他の誰に対しても、友情を示さなかった。そして一同から腫れ物にさわるような扱いをうけていた。
 ルミ子はキッピイの人物にはなはだしく愛想をつかしてしまった。女の中で一番くだらぬタイプである。自分を一段偉い女だと思っているらしい。このへんで睨みのきくアンチャンがついているせいだ。お客に対しても傲慢だった。それもアンチャンのせいだ。
「ルミ子!」
 とつぜんキッピイがよびつけた。店にお客がいなくなった時である。はなれたテーブルにいたルミ子は、アクビでもするように、
「なアにい?」
「ルミ子」
 ここへ来い、という命令の意味はわかっていたが、ルミ子は顔だけうごかして、
「なんの用?」
 キッピイがズカズカ歩いてきた。ルミ子は有がたくない御来意をさとって身をひこうとしたが、戦闘訓練には全然なれていなかったから、身をひくことを考えてだけいるうちに、十か十五、つづけざまにひッぱたかれた。ルミ子は腕力に自信がないから、腹も立たないタチで、痛さをのぞけば、蠅がとまったぐらいにしか考えていなかった。

       六

 ルミ子がボンヤリしていると、もう七ツ八ツ、おまけにひっぱたかれた。
 ほかの女なら、口惜しまぎれに何とか言いたくなるところだが、ルミ子は睨みつけもしなかった。手応えがなさすぎるせいか、又、三ツ四ツ、おまけをもらった。
 キッピイは凄んだタンカで睨みをきかせるヒマがなく、ひっぱたくだけひっぱたいて、手が痛くなってしまった。
 ルミ子がコック場で顔をなおして戻ってくると、キッピイは帰り仕度して出てしまったあとだった。
「ポン中よ」
 一人が教えてくれた。ヒロポンの話はきいていたが、ルミ子の周囲には愛用者がいなかったので、ポン中毒の正体がのみこめなかった。
「それで、凶暴なの?」
「そうでもないよ。根がヤキモチヤキなのよ。ルミちゃんが可愛いい顔してるから、癪にさわるのよ」
 その言葉が気に入らなかったと見えて、ちょッと可愛い大柄な女が訂正した。
「エンゼルに女ができたから、ヒステリーなのさ。その女ッてのが、キッピイの学校友だちじゃないの。ここへ遊びにきたじゃないの。あの子さ。あんときエンゼルが来ていたでしょう。女をつれてッて、そのまま同棲してるんだってさ」
 簡単に秘密がほぐれてきたが、ルミ子は驚きもしなかった。ただ、エンゼル(天使)という、女らしい名が妙であった。
「エンゼルッて、女性?」
「男も男、凄いのさ。今日は来なかったけど時々くるよ」
 一人のわりに年配なのが、不快そうに口をはさんだ。
「エンゼルがあの子と同棲するのは、キッピイも承知だったのよ。むしろ、キッピイがすすめたのさ。キッピイは、悪党よ。ねえ。あんたも、あのとき、話きいてたわね」
 話しかけられた子は、軽くうなずいたが、答えなかった。年配の女は語りつづけた。
「キッピイはテルミに負けない気なの。そして、エンゼルに気に入られようとしているのよ。だけど、問題になりゃしない。顔だって、貫禄だって、キッピイにいいとこ有りゃしないよ。エンゼルがテルミを可愛がるのは、当り前さ。キッピイはエンゼルにとりいるために、あの子を世話しちゃったのよ」
 そして、不快そうに、つけ加えた。
「世話しちゃってから、ヤキモチやいてるのさ」
「惚れてる男に、女を世話するって、そんなの、あるかしら」
 一人がフシギそうであった。ひとしきり、それで議論がわいたが、言うだけ言わせておいて、年配の女はこう結論した。
「あの娘はね。良家の娘なんだってさ。お金持ちの娘らしいのよ。そして、ニンシンして家出中かなんかだって。それで、子供を生ませて、養育料かなんか、ゆすらせようッてことなの。それがキッピイの発案なのよ。だから、キッピイのツモリじゃア、女の世話じゃなくッて、もうけ口の世話のツモリだったんでしょうね。とにかく悪党よ。いいとこ、一つもない奴ねえ」
 ルミ子はキッピイやエンゼルの悪党ぶりには驚かなかった。そんな奴は、どこかにタクサンいるものだ。わけが分らないのは、記代子という娘であった。ポッと出の田舎娘じゃあるまいし、その馬鹿ッぷりに見当がつけかねるのだ。

       七

 人間はいつも何かにためされているような気がするとルミ子は思った。
 放二のような稀有な人が、せつ子だの記代子のような女とばかり交渉をもつということがその証しだが、人間万事、そんなものでもあるらしい。
 両々その処をうるというのは愚人の夢か諦めである。不均衡、不安定、ガサツなのが人間関係の定めであろう。それに対処することによって、いつも何かにためされているのが人間だ。
 利巧だけがためされているわけではない。バカはバカなりにためされている。自分の位置や身の程を知らないから、バカは得だという理窟もない。記代子のような女を相手にさせられて放二が損してるわけでもなくて、ただ、ためしに応じて生きるのが人間の定めのように思われた。
 そして、尊大なせつ子や、バカな記代子のお相手をさせられるのは、放二が稀有な人だから、ためしが大きいのだろうとルミ子は思った。
 ルミ子は、ともかく、自分の義務を果したことで満足した。意外にも早く、一夜のうちに。それというのも、キッピイにぶんなぐられたせいである。それがキッカケでもあったし、又、ぶんなぐられたルミ子である故、彼女がキッピイに興味をもったり、こまかく質問することを人々は怪しまなかった。
 ルミ子はおそくアパートへ戻って、放二に報告した。
「エンゼルの住所は、女給さんたち、知らなかったわ。知らないのが当然だから、一々きいてもみなかったけど」
 放二は驚きもしなかった。キッピイの様子から相当ケンノンな事情が想像されたからである。エンゼルが記代子のかねてからの愛人でなかったことが多少意外であっただけだ。
 しかし、キッピイが根からの悪党だとも思われない。エンゼルが街のダニであるにしても、それだけが彼の全部ではないはずだ。キッピイがエンゼルにとりいるために級友を売ったにしても、人間というものは多かれ少かれ人を売っているものだ。人間には、めいめいに、やむにやまれぬ悲しい立場があるのだから。
「どうしたら、エンゼルの住所がつきとめられるんだろうね」
 カズ子が分別ぶって言った。ヤエ子は大根足の股をひろげて投げだして、ひっくりかえって、ウチワで胸をバタバタやりながら、
「ルミちゃん、ジュクでパンパンやるのさ。エンゼルの子分が遊びにくらア。そのうちに、なんとかなるよ」
「フン。それぐらいのことだったら、あんたで間に合うよ。やってきな」
 カズ子にこう言われて、ヤエ子はプッとふきだした。
「まったくだ。エンゼルの子分と遊ぶぐらいだったらね。チェッ! つまらねえとこで、間に合いやがら」
 エンゼルの住所を探すということは必ずしも彼の仕事の領分ではない。エンゼルのもとに居ると分れば、せつ子や長平や、又は、警察が探しだしてくれるだろう。
 しかし、放二は、そうしたくなかった。記代子の過去も現在も、誰にも知らせたくなかったのである。
 どうしても、彼自身の手で、記代子を元の位置へ置き戻さなければ、と、思った。
 しかし、そのとき、ルミ子がこう言った。
「記代子さんを探しだしてあげるのが、その方に親切なことでしょうか?」
 ルミ子は思い惑っていた。

       八

「エンゼルに手下が多いたって、監禁してやしないでしょう。監禁されているにしても、逃げられないことないはずだわ。ポッとでの田舎娘じゃないもの。都会のオフィスで働く女性だものね」
 ルミ子は表現の言葉を選ぶのに苦しんだ。
 記代子をバカな女だと思うけれども、自分や自分の周囲の女と同じようにバカなだけだ。彼女らがこんな暮しをしているのも、バカのせい。それを悔いてもいないし、世間体よく暮す人を羨んでもいないが、記代子をハッキリとパンパンなみだと言いきって、寝ざめが良くもない。
「その気持があれば逃げだせるのに、逃げないとしたら。……世間で思うのと、当人が思うのと、ちがうんじゃないかなア。泥沼から助けられて、迷惑する人もいないかなア。泥沼なんて、心境の問題だ。お金をウントコサもって鬼のように生きている人もいるし、働くよりも乞食がいいという人もいるし」
「男を死なせて、増長してるパンパンもいるし」
「奥さんになりたいパンパンもいるしね」
「フン」
 ヤエ子は半身を起して、ルミ子を睨みつけた。
「余計なお世話だよ。利いたふうなことを言いなさんな。今さら、弱音をはこうッてのかい。きッと見つけてきますッて、大きなタンカをきったのは、どこのドイツさ。探しておいでよ、エンゼルのウチをさ。色仕掛でも、腕ッ節でも、キッピイにかなわないというんだろう。チェッ! ハッキリ言えよ。さもなきゃ、エンゼルのウチをつきとめてきやがれ」
 ルミ子はニヤリと笑って、
「すみませんね。色仕掛でも、腕ッ節でも、とてもキッピイにかなわないのよ。助けてちょうだい。姐さん。ワアーン」
 掌に顔をおおい膝にうつぶして泣きマネをした。
「えイ。コイツ」
 ヤエ子はルミ子の髪の毛へ指を突ッこんでゴシャ/\やったが、あきらめて、ゴロンとひッくりかえった。
 ルミ子の言葉にも一理はあった。人間はどこで何をしている方が幸福だという定まった場所があるわけではない。同じ場所にいて幸福な人も、そうでない人も、無限の個人差があるだけのものだ。
 しかし、記代子が逃げだしてこないから、というだけの理由で、場所の適合性を信じるわけにはいかない。エンゼルの住居をつきとめて、記代子に会うことが何よりの急務であろう。
「ルミちゃん、ありがとう。おかげで、記代子さんの行方が知れて、ひと安心しました。エンゼルの住居をつきとめるのは、男の方が適していますね。女だけがエンゼルの手下と仲良くなれるわけじゃないから」
 放二は笑った。なんでもないことだ。今までの雲をつかむような捜査のマヌケさ加減にくらべれば。ホシはハッキリしたのだから。気がかりなのは、いつまで持つか分らない健康だけだが、愚連隊の一撃を避けることができれば、記代子と会うまで持たせる見込みはあるだろう。
「そう」
 ルミ子はなんでもない風にうなずいた。しかし心中では、明日中には是が非でも自分がつきとめなければ、と思った。放二を捜しにやることが気がかりでたまらなかったからである。

       九

 放二は新宿の街に出ている靴ミガキの中から、知り合いのジイサンをさがしだした。このジイサンは放二の付近から通っているらしく、例のオデン屋で時々一しょになる仲間であった。
「私ゃ愚連隊のことは知らないが、仲間にきいてみたら分るでしょう。なんてましたッけ? エンゼル。へ。ちょッと、お待ちなさい」
 ジイサンは靴ミガキ仲間のいかにもアンチャンらしいのとヒソヒソ話し合っていたが、やがて、雑沓の中へ消えてしまった。
 四五人分も靴をみがけるぐらいの時間をかけて汗をふきふき戻ってきた。
「ヘエ。これなんです」
 なんでもないように渡された紙片に、二ツの所番地と、野中幸吉という姓名が記されていた。
「この野中がエンゼルの本名なんです。百万円もかけて普請した立派なウチに住んでるそうですぜ。千坪からの花園をもってるそうでさア。花束を卸してるんだそうですなア。商魂抜群のアンチャンだそうで」
 甚だ意外な話であった。
「それじゃア、愚連隊どころか、立派な商人じゃありませんか」
「私だって、そう思いましたよ。きいてみると、そうでもないねえ。屋敷や花園の敷地だって、焼跡を勝手に拝借したもの、花売りだって因業な商売してるんだそうです。商魂があって、金ができるし、隆々と、いい顔だそうですよ」
 ジイサンは他の所番地を示した。そこはアパートであった。
「このアパートがね。新築するまで住んでたとこで、今でもここにいくつか部屋を持ってるンだそうですがね」
 住所はいたって簡単にわかってしまった。百万もかけて新築して、千坪からの花園をつくって商売しているからには、世を忍ぶ必要はないのだろう。
 放二はジイサンにムリにお金をにぎらせて別れた。記代子の居るのはアパートだろうと思ったが、先ず本宅へ伺うのが礼義であるから、そう遠くないお屋敷町の焼跡へでかけた。
 誰の屋敷跡だか、二千坪ぐらいの焼跡をそっくり拝借したものらしい。表側だけコンクリートの塀が焼け残っているが、三方には二間ぐらいの厚板の高塀をめぐらしている。木材だけでも相当の金がかかったであろう。しかし、そのほかには、家をのぞいて、金のかかったものがない。一本の樹木もなかった。裏は一面の花園らしい。門をはいると、隅の方で犬が吠えた。見ると、吠えている一匹のほかに、シェパードが二匹、雑種の猛犬らしいのが一匹、こっちを睨んでいた。家は花園の片隅に、小さな一隅を占めているにすぎなかった。二階屋の七八間ぐらいの小ザッパリした普請であった。
 取次にでたのは、若いアンチャンであった。そんなのが、幾人もゴロゴロしているようであった。
 放二はいっさい隠さなかった。名刺を渡して、
「大庭先生と社長の言いつけで、大庭記代子とおッしゃる方を探している者ですが、当家にかくまっていただいてるとききましたので、お目にかからせていただきに上りました。御主人にお目にかかって、くわしい事情を申上げたく存じますが、野中さんは御在宅でしょうか」
 アンチャンは黙ってスッとひッこんだ。

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