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海城発電(かいじょうはつでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:26:01  点击:  切换到繁體中文



       三

「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ? 可加減いいかげんなことをいへ。」
 海野は苛立いらだつ胸を押へて、務めて平和を保つに似たり。
 看護員は実際その衷情ちゅうじょうを語るなるべし、いささか飾気かざりけなく、
「全く、知らないです。いつて利益になることなら、何かくすものですか。また些少ちっとも秘さねばならない必要も見出さないです。」
 百人長はいぶかしに、
「して見ると、何か、全然まるで無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。」
「別に聞いて見やうとも思はないでした。」
 と看護員は手をそのひたいに加へたり。
 海野は仕込杖以てゆかをつつき、足蹈あしぶみして口惜くちおしげに、
「無神経極まるじやあないか。敵情を探るためには斥候せっこうや、探偵たんていが苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しやうとして、十に八、九は失敗しくじるのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあつて、まるでうつちやツて、や、聞かうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」
 と吐息して慨然たり。看護員はうなじでて打傾うちかたむき、
「なるほど、左様でした。ひまだとそんな処まで気が着いたんでしやうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかつたです。些少ちっとも準備が整はないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休むひまもない位で、夜の目も合はさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうして其処々そこどころまで、手が廻るものですか。」
 といまだいひもはてざるに、
「何だ、何だ、何だ。」
 海野は獅子吼ししぼえをなして、突立つったちぬ。
「そりや、何の話だ、誰に対する何奴どいつことばだ。」
 と噛着かみつかむずる語勢なりき。
 看護員は現在おのが身の如何いかに危険なる断崖だんがいはしに臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――いなむしろ無邪気――のていにて、
「すべてこれが事実であるのです。」
「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳もおしむで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身ふんこつさいしんをして、夜の目も合はさない、呼吸いきもつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴ちょうだいする訳にはゆかんな。道理もっともだ。」
 といい懸けて、夢見る如き対手あいての顔を、海野はじつとみまもりつつ、あざみ笑ひて、声太く、
「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君をいて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ一番ひとつ、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」
 と口はやわらかにものいへども、胸にみちたる不快の念は、包むにあまりてでぬ。
 看護員は異議もなく、
「確かありましたツけ、お待ちなさい。」
 手にせる鉛筆をおさむるとともに、衣兜かくしうちをさぐりつつ、
「あ、ありました。」
 と一通の書を取出して、
「なかなか字体がうまいです。」
 無雑作むぞうさ差出さしいだして、海野の手に渡しながら、
「裂いちやあ不可いけません。」
「いや、つつしむで、拝見する。」
 海野はことさらに感謝状を押戴おしいただき、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳さしかざしつ。声を殺し、なりを静め、片唾かたずを飲みてむらがりたる、多数の軍夫に掲げ示して、
「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。いいか、支那人チャンチャンから礼をいつて寄越したふみだぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓あたまを下げて、お辞儀をする者はない。ことに敵だ、われわれの敵たる支那人チャンチャンだ。支那人が礼をいつて捕虜とりこを帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」
 いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して後背うしろなる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長たけたかき人物あり。頭巾ずきん黒く、外套がいとう黒く、おもておおひ、身躰からだを包みて、長靴を穿うがちたるが、わずかこうべを動かして、きっとその感謝状に眼を注ぎつ。こまやかなる一脈いちみゃくの煙はかれ唇辺くちびるめて渦巻うずまきつつ葉巻はまきかおり高かりけり。

       四

 百人長は向直むきなおりてそのことばを続けたり。
「何と思ふ。意気地もなく捕虜とりこになつて、生命いのちが惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、支那人チャンチャン介抱かいほうをした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽してつてな、それで生命を助かつて、阿容々々おめおめと帰つて来て、あまつさへこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」
 といまだいひもはてざるに、満堂たちまち黙を破りて、どっ諸声もろごえをぞ立てたりける、喧轟けんごう名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、なぐれと、衆口一斉熱罵ねつば恫喝どうかつを極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯単身みひとつなる看護員は、冷々然として椅子にりつ。あたりを見たる眼配まくばりは、深夜時計のきしる時、病室に患者を護りて、油断せざるにことならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手をりてしきりに一同をしずむるにぞ、その命なきにさきだちて決して毒手を下さざるべく、かねいましむる処やありけん、地踏※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)じだんだみてたけり立つをも、夥間なかま同志が抑制して、こぶしを押へ、腕をやくして、野分のわけは無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子ていぶるの上に押遣りて、
「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが如彼あんなに騒ぐ。殺せの、撲れのといふ気組きぐみだ。うむ、やつぱり取つて置くか。引裂ひっさいて踏むだらどうだ。さうすりや些少ちっとあ念ばらしにもなつて、いくらか彼奴あいつらが合点がってんしやう。さうでないと、あれでも御国みくにのためには、生命いのちも惜まないてあいだから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、いいか。」
 耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野がことばの途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜かくしに納まりぬ。
「取つたな。」と叫びたる、海野の声の普通ただならざるに、看護員は怪む如く、
不可いけないですか。」
「良心に問へ!」
「やましいことは些少ちっともないです。」
 いと潔くいひはなちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、たとひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。
 海野はその答を聞くごとに、あきれもし、怒りもし、苛立いらだちもしたりけるが、真個しんこ天真なるさま見えてことばを飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひのしぶりがちにも、
「やましいことがないでもあるまい。考へて見るがいい。第一敵のためにとりこにされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、何故なぜ切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、はらわたつかみ出して、敵のしやツつらへたたきつけてるべき処だ。それもいい、時と場合で捕はれないにも限らんが、なぐられて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、あきはてた腰抜だ。其上それにまだ親切に支那人チャンチャンの看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴ふいちょうもないもんだ。のみならず、一旦恥辱をこうむつて、われわれ同胞の面汚つらよごしをしてゐながら、洒亜しあつくで帰つて来て、感状をいただきは何といふ心得だ。せめて土産みやげに敵情でも探つて来れば、まだ言訳いいわけもあるんだが、刻苦こっくして探つても敵の用心が厳しくつて、残念ながら分らなかつたといふならまだもじょすべきであるに、先に将校にしらべられた時も、前刻さっきおれが聞いた時も、いひやうもあらうものを、敵情なんざ聞かうとも、見やうとも思はなかつたは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、其様そんなことあ考へてるひまもなかつたなんぞと、憶面おくめんもなくいふ如きに至つては言語同断ごんごどうだんといはざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑つて見た日にやあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言はれた処で仕方がないぞ。」

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