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海城発電(かいじょうはつでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:26:01  点击:  切换到繁體中文



       五

「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がさうやすやす捕虜とりこを返す法はない。しかしそれには証拠がない、しいて敵に内通をしたとはいはん、が、既に国民の国民たる精神のない奴を、そのままにして見遁みのがしては、我軍の元気の消長に関するから、きっと改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加へなければならん。勿論軍律を犯したといふでもないから、将校方は何の沙汰さたをもせられなかつたのであらう。けれどもが、われわれ父母妻子をうつちやつて、御国みくにのために尽さうといふ愛国の志士が承知せん。この室にゐるものは、皆な君の所置ぶりに慊焉けんえんたらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、其様そんな国賊は、きっと談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。いいか。そのにくむべき感謝状を、かういつた上でも、裂いて棄てんか。やつぱりましいことはないが、些少ちょっとも良心がとがめないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちやあ不可いかんぞ。」
 看護員は傾聴して、深くそのことばを味ひつつ、黙然として身動きだもせず、やや猶予ためらひてものいはざりき。
 こなたはしたり顔に附入つけいりぬ。
きっと責任のある返答を、此室ここにゐるみんなに聞かしてもらはう。」
 いひつつ左右を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまわしたり。
 軍夫の一人は叫びいだせり。「先生。」
 かれらは親方といはざりき。海野は老壮士なればなり。
「先生、はやくしておくむなせえ。いざこざは面倒でさ。」
なぐつちまへ!」と呼ばるるものあり。
「隊長、おい、たましいへて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
 と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと床板ゆかいた踏鳴ふみならす音ぞ聞こえたる。
 看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠はいささかも心にましきことなかりけむ、胸苦むねぐるしき気振けぶりもなく、静に海野に打向うちむかひて、
些少ちっとも良心に恥ぢないです。」
 軽く答へて自若じじゃくたりき。
「何、恥ぢない。」
 といひ返して海野はまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりたり。
「もう一度、きっとやましい処はないか。」
 看護員は微笑ほほえみながら、
「繰返すに及びません。」
 その信仰や極めて確乎かっこたるものにてありしなり。海野は熱し詰めてこぶしを握りつ。容易たやすくはものも得いはで唯、唯、かれにらまへ詰めぬ。
 時に看護員は従容しょうよう
「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」
 いひ懸けて片頬かたほみつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、げらるれば遁げるんですが、り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国しんこくだのといふ、左様さような名称も区別もないです。ただ病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。丁度ちょうど自分が捕虜とりこになつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折なおれになる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ躰面たいめんだけは保つことが出来ました。感謝状はづそのしるしといつていいやうなもので、これを国への土産みやげにすると、全国の社員はみんな満足に思ふです。既に自分の職務さへ、かろうじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今貴下あなたにおはなし申すことも、おしらべになつて将校方にいつたことも、全くこれにちがひはないのでこのほかにいふことは知らないです。毀誉褒貶きよほうへんは仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあればいい。しかし看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心てきがいしんがどうであるのと、左様さようなことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」
 とよどみなくべたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫とんざなかりき。

       六

 見る見る百人長は色げきして、くだけよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思ふこと乱麻らんま胸をきて、反駁はんばくいとぐち発見みいだし得ず、小鼻と、ひげのみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、
「畜生、すきなことをいつてやがらあ。」
 声高こわだかに叫びざま、足疾あしばや進出すすみいでて、看護員のかたえに接し、そのおもてのぞきつつ、
「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へむ、しらばくれはよしてくれ。その悪済わるすましが気に喰はねえんだい。赤十字社とか看護員とかツて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがつて、何でえ、ていよく言抜けやうとしたつて駄目だめだぜ。おいらアみんな知てるぞ、間抜まぬけめい。へむ畜生、支那チャン捕虜とりこになるやうぢやあとても日本で色の出来ねえ奴だ。唐人とうじん阿魔あまなんぞにれられやあがつて、このあいめ、手前てめえ、何だとか、だとかいふけれどな、南京なんきんに惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、贔負ひいきをしたりして、内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。かう、おいらの口は浄玻璃じょうはりだぜ。おいらあしよつちう知つてるんだ。おいみんな聞かつし、初手しょてはな、支那人チャンチャンの金満が流丸ながれだまくらつて路傍みちばたたおれてゐたのを、中隊長様が可愛想だつてえんで、お手当をなすつてよ、此奴こいつにその家まで送らしておんなすつたのがはじまりだ。するとお前その支那人チャンを介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込むだらう。面くらいやアがつてつかまる処をな、金満のやっこさん恩儀を思つて、無性むしょう難有ありがたがつてる処だから、きわどい処を押隠して、やうやう人目を忍ばしたが、大勢押込むでゐるもんだから、かくしきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、むすめの部屋へ秘したのよ。ね、隠れて五日いつかばかり対向さしむかひでゐるあひだに、何でもその女がれたんだ。無茶におツこちたと思ひねえ。五日目に支那の兵が退いてく時つかめえられてしよびかれた。何でもその日のこつた。おいら五、六人で宿営地へ急ぐ途中、ひど吹雪ふぶく日で眼も口もあかねへ雪ン中に打倒ぶったおれの、半分まつて、ひきつけてゐた婦人おんながあつたい。いつて見りや支那人チャン片割かたわれではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構ふめえと思つて焚火たきびであつためて遣ると活返いきけえつた李花てえむすめで、此奴こいつがエテよ。別離苦わかれ一目ひとめてえんでたった一人ひとり駈出かけだしてさ、吹雪僵ふぶきだおれになつたんだとよ。そりやあとで分つたが、そン時あ、おいらツちがおぶつてうちまで届けて遣つた。その因縁でおいらちよいちよい父親おやじの何とかてえ支那の家へ出入をするから、くわしいことを知つてるんだ。女はな、ものずきじやあねえか、この野郎が恋しいとつて、それつきり床着とこづいてよ、どうだい、この頃じやもう湯も、水も通らねえツさ。父親なんざ気をんで銃創てっぽうきずもまだすつかりよくならねえのに、此奴こいつ音信たよりを聞かうとつて、旅団本部へ日参にっさんだ。だからもうみんながうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おいやっこさむ。お前おしらべの時もそのお談話はなしをなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体もってえねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けてつかはせとおつしやらあ、恐しい冥伽みょうがだぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと支那兵チャンチャン介抱かいほうをして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、にくくてならねえ。支那チャン探偵いぬになるやうな奴は大和魂やまとだましいを知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人チャン同一おんなじだ。どてツ腹あ蹴破けやぶつて、このわたを引ずり出して、噛潰かみつぶして吐出すんだい!」
其処そこだ!」と海野は一喝いっかつして、はたと卓子ていぶる一打ひとうちせり。かかりしあいだ他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者ぜっしゃの声を打消すばかり、熱罵ねつばを極めて威嚇いかくしつ。
 楚歌そか一身にあつまりて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず眉宇びう一点の懸念けねんなく、いと晴々はればれしき面色おももちにて、かれ春昼しゅんちゅうせきたる時、無聊むりょうえざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、かわる交る投懸けては、その都度つど靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。
 けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。
其処そこだ。」と今卓子ていぶるを打てる百人長は大に決する処ありけむ、きっと看護員に立向ひて、
「無神経でも、おい、先刻さっきからこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴きょうどである、国賊である、破廉恥、無気力の人外にんがいである。みんなが貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長はうなずきぬ。
よし、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、神崎愛三郎かんざきあいさぶろう。」

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