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義血侠血(ぎけつきょうけつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:50:09  点击:  切换到繁體中文



       三

 はすでに十一時に近づきぬ。かわら凄涼せいりょうとして一箇ひとり人影じんえいを見ず、天高く、露気ろきひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
 熱鬧ねっとうきわめたりし露店はことごとく形をおさめて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いをるる燈火ともしびは、かすかに宵のほどの名残なごりとどめつ。かわは長く流れて、向山むこうやまの松風静かにわたところ、天神橋の欄干にもたれて、うとうとと交睫まどろ漢子おのこあり。
 かれは山にり、水に臨み、清風をにない、明月をいただき、了然たる一身、蕭然しょうぜんたる四境、自然の清福を占領して、いと心地ここちよげに見えたりき。
 折から磧の小屋よりあらわれたる婀娜者あだものあり。紺絞りの首抜きの浴衣ゆかたを着て、赤毛布ゲットを引きまとい、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄げた爪頭つまさき戞々かつかつこいし蹴遣けやりつつ、流れに沿いて逍遥さまよいたりしが、瑠璃るり色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
 川風はさっと渠のびんを吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
 しかと毛布ケットまといて、渠はあたりを※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色けしきなもんだ」
 渠は再び徐々として歩を移せり。
 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠はたごを取らずして、小屋を家とせるものすくなからず。白糸もなり。
 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄あずまげたの音は天地の寂黙せきもくを破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛おかしさに、なおしいて響かせつつ、橋のなかば近く来たれるとき、やにわに左手ゆんでげてその高髷たかまげつかみ、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
 暴々あらあらしく引きほどきて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
 かくて白糸は水をき、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾ちんきんとして露下月前に快眠せる漢子おのこは、数歩のうちにありて※(「鼻+句」、第4水準2-94-72)いびきを立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
 囃子方はやしかたに新という者あり。宵よりでていまだ小屋にかえらざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)のぞきたり。
 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌そうぼうはかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつまさること千の新なるべき異常の面魂つらだましいなりき。
 そのまゆは長くこまやかに、ねむれる眸子まなじり凛如りんじょとして、正しく結びたるくちびるは、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽しゅんそうなるを語れり。漆のごとき髪はややいて、広きひたいに垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えずそよげり。
 つくづくながめたりし白糸はたちまち色をして叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者ぎょしゃなり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
 渠は跫音あしおとを忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
 恍惚こうこつとしてひとみを凝らしたりしが、にわかにおのれがまといし毛布ケットを脱ぎてけたれども、馭者は夢にも知らで熟睡うまいねせり。
 白糸は欄干に腰をやすめて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」ひざのあたりをはたとてり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚めさまして、あくびまじりに、
「ああ、寝た。もう何時なんどきか知らん」
 思い寄らざりしわがかたわらになまめける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
 馭者は愕然がくぜんとして顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ケットありて、深夜の寒をまもれり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
 白糸は微笑えみを含みて、あきれたる馭者のおもてつつ、
「夜露に打たれるとからだの毒ですよ」
 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌ごきげんよう」
 いよいよあきれたる馭者は少しく身を退すさりて、仮初かりそめながら、狐狸変化こりへんげのものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ちながめたる渠の眼色めざしは、ひそめる眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑かたほえみて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者はこうべを傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
 馭者はいたく驚けり。月下の美人生面せいめんにしてわが名をる。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸こりの類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いいとこで!」
 そでおおいて白糸は嫣然えんぜん一笑せり。
 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けしこうべを正して言えり。
「抱いた記憶おぼえはないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走かけっくらをして、石動いするぎ手前からおまえさんに抱かれて、馬上うまの合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手よこでちて、馭者は大声たいせいを発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
 馭者は脣辺しんぺんに微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまでおもい出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上うまの合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵すうしょの鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
 白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日いつ、どうしてお出でなすったの?」
 四顧寥廓しこりょうかくとして、ただ山水と明月とあるのみ。※(「風にょう+繆のつくり」、第4水準2-92-40)りょうれいたる天風てんぷうはおもむろに馭者の毛布ケットひるがえせり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄ながしめ見遣みやりぬ。
「いや、それはともかくも、話説はなしをせんけりゃわからん」
 馭者は懐裡ふところさぐりて、油紙の蒲簀莨入かますたばこいれを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端をひらかんとせり。白糸は渠が吸い殻をはたくを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
 馭者は言下ごんかに莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管がつまってます」
「いいえ、結構」
 白糸は一吃いっきつを試みぬ。はたしてそのことばのごとく、煙管は不快こころわろやにの音のみして、けむりの通うこといとすじよりわずかなり。
「なるほどこれはつまってる」
「それで吸うにはよっぽど力がるのだ」
「ばかにしないねえ」
 美人は紙縷こよりひねりて、煙管を通し、溝泥どぶどろのごとき脂におもてしわめて、
「こら! 御覧な、無性ぶしょうだねえ。おまえさん寡夫やもめかい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶あいさつだ。でも、情婦いろの一人や半分はんぶんはありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝いっかつせり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯そらうそぶきぬ。
「おまえさんの壮年としで、独身ひとりみで、情婦がないなんて、ほんとに男子おとこ恥辱はじだよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
 馭者は傲然ごうぜんとして、
「そんなものはらんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除そうじができたから、一服いただこう」
 白糸はまず二服をきっして、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「またつまったときは、いつでも持ってお出でなさい」
 大口いて馭者は心快こころよげに笑えり。白糸は再び煙管をりて、のどかにけぶりを吹きつつ、
「今の顛末はなしというのを聞かしてくださいな」
 馭者はうなずきて、立てりしすがたを変えて、斜めに欄干にり、
「あのとき、あんな乱暴をって、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜くやしがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
 美人はまゆげて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟りくつなんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩けんかを仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便おんびんがいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
 白糸は身にむ夜風にわれとわが身をいだきて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
 渠は慰むることばなきがごとき面色おももちなりき。馭者は冷笑あざわらいて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
 美人は愁然として腕をこまぬきぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨ぶらついていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁べっとうの口でもあるだろうと思って、さがしに出て来た。今日きょうも朝から一日奔走かけあるいたので、すっかりくたびれてしまって、晩方一風呂ひとっぷろはいったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼すずみに出掛けて、ここで月をていたうちに、いい心地こころもちになってこんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者はかしらりぬ。
 白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
 馭者は長嘆せり。
生得うまれからの馬丁でもないさ」
 美人は黙してうなずきぬ。
愚痴ぐちじゃあるが、聞いてくれるか」
 わびしげなる男の顔をつくづくながめて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細しさいがあって、幼少ちいさいころにうちは高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺おやじくなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止やめさ。それから高岡へかえってみると、その日からかせぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中のからだだろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父おやじは馬の家じゃなかったけれど、大の所好すきで、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児こどもの時分稽古けいこをして、少しは所得おぼえがあるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計くらしを立てているという、まことにずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡りょうけんでもない、目的も希望のぞみもあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
 渠は茫々ぼうぼうたる天を仰ぎて、しばらく悵然ちょうぜんたりき。その面上おもてにはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情にえざる声音こわねにて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望のぞみというのは、私たちには聞いてもわかりはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
 馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
 白糸はかろく小ひざちて、
黄金かねの世の中ですか」
「地獄の沙汰さたさえ、なあ」
 再び馭者は苦笑いせり。
 白糸は事もなげに、
「じゃあなた、おでなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
 深沈なる馭者の魂も、このときおどるばかりにゆらめきぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろおののきたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性ましょうのものをめたりけり。さきに半円の酒銭さかてを投じて、他の一銭よりもしまざりしこの美人のたんは、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に※(「目+登」、第3水準1-88-91)とうもくせし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出ほとばしらん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸こりか、変化へんげか、魔性か。おそらくは※脂えんし[#「月+因」、35-8]の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
 馭者は美人のこころをそのおもてに読まんとしたりしが、あたわずしてついにうめき出だせり。
「なんだって?」
 美人も希有けうなる面色おももちにて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚につばするがごとく独語ひとりごちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番ひとつ私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなにかんがえることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁ゆかりもないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければかえさんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩おんがえしができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父おじさんがあるのじゃなし、知りもしない人をつかまえて、やたらにお金をみついでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生ごしょうだから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何もるものじゃない。私はおまえさんの希望のぞみというのが※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かないさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩おんがえしさ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物ひとになれるとおもうから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
 そのおん柔媚じゅうびなれども言々風霜をさしはさみて、りんたり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
 渠はきんを正して、うやうやしく白糸の前にかしらを下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
 美人は喜色満面にあふるるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいなことばつかわれると、私は気がつまるから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々りりしくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つこまったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
 馭者は夢みる心地ここちしつつ耳を傾けたり。白糸は誠をおもてあらわして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩おんがえしには、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望のぞみはありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かないさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望のぞみを遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩おんがえしになるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
 かく言いつつ美人は微笑ほほえみぬ。
「いや、理屈りくつを言うわけではないがね、目的を達するのを報恩おんがえしといえば、乞食こじきも同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭をもらった報恩おんがえしになるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
 とみには返すことばもなくて、白糸はかしられたりしが、やがて馭者のおもてを見るがごとく見ざるがごとく※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)うかがいつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はややかたちを正せり。
「ちっとずかしいことさ」
「なんなりとも」
いてくださるか。いずれおまえさんの身にかなったことじゃあるけれども」
「一応いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
 白糸はびんおくれをき上げて、いくぶんの赧羞はずかしさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ちまもりつつ、固唾かたずみてその語るを待てり。白糸は始めに口籠くちごもりたりしが、直ちに心を定めたる気色けしきにて、
処女きむすめのようにずかしがることもない、いいばばあのくせにさ。私の所望のぞみというのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君おかみさんにしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯しょうがい親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
 馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
 涼しきと凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の※(「石+薄」、第3水準1-89-18)ほうはくは、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町かたはらまちで、村越欣弥むらこしきんやという者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
 白糸ははたとことばつまりぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっとこまったねえ」
「だって、うちのないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
 天下に家なきは何者ぞ。乞食こつじきの徒といえども、なおかつ雨露をしのぐべきかげに眠らずや。世上のならいをもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿たまのこしに乗るべきなり。しかるを渠は無宿やどなしと言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるにはかず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人はかわらの小屋を指させり。
 馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑えみを含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とはかわっている」
 馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思いけざりき、すくなくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心をみておのれをあざけりぬ。
「あんまりかわりすぎてるわね」
「見世物の三味線しゃみせんでもいているのかい」
「これでも太夫元たゆうもとさ。太夫だけになお悪いかもしれない」
 馭者は軽侮けいぶの色をもあらわさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目きまりが悪いからさ」
 馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
 かく言いつつ珍しげに女のおもて※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)のぞきぬ。白糸はさっとあからむ顔をそむけつつ、
「ああもうたくさん、堪忍かにしておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
 白糸は渠のことばを手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情ふぜいにて、欣弥はうなずけり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥をきたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳いくつになるのだ」
「おまえさん何歳いくつになるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもうばばあだね」
何歳いくつさ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳はたちぐらいかとおもった」
「何かおごりましょうよ」
 白糸は帯の間より白縮緬ちりめん袱紗ふくさ包みを取り出だせり。ひらけば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「これに三十円あります。まあこれだけげておきますから、うち処置かたをつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
うちの処置といって、別に金円かねるようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
全額みんなもらったらおまえさんがこまるだろう」
「私はまた明日あすはいる口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
 欣弥は受け取りたる紙幣をかろいただきてふところにせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥いちべつして、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
 渠は愚弄ぐろうの態度を示して、両箇ふたりのかたわらに立ちまりぬ。白糸はわずかに顧眄みかえりて、つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人いちにん乗りに同乗あいのりができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
 おもしろ半分に※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)まつわるを、白糸は鼻のさきあしらいて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。ひとのことよりは、早くかえって、内君うちのでもよろこばしておやんな」
 さすがに車夫もこの姉御のくみしやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
 渠は直ちにきびすめぐらして、鼻唄はなうたまじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫くるまや!」とにわかに呼びめたり。
 車夫しゃふかしらを振り向けて、
「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木ふしきまで行くか」
 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
 伏木はけだし上都じょうとの道、越後直江津えちごなおえつまで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐにとうと思う」
「これから※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と白糸はさすがにむねとどろかせり。
 欣弥は頷きたりしかしらをそのままれて、見るべき物もあらぬ橋の上にひとみを凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若いしゅさん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
 渠が紙入れをさぐるとき、欣弥はあわただしく、
車夫くるまや、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
 五銭の白銅をりて、まさに渡さんとせり。欣弥はそのなかに分け入りて、
「少し都合があるのだから、これからってくれ」
 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるをさとりて、潔く未練をてぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
 このとき両箇ふたりまなこは期せずして合えり。
「そうしておかあさんには?」
「道で寄って暇乞いとまごいをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯ふざけでないよ」
 欣弥はすでに車上にありて、
車夫くるまや、どうだろう。二人乗ったらこわれるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。ねえさんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
 欣弥は手招けば、白糸は微笑ほおえむ。その肩を車夫はとんとちて、
「とうとうおつな寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。

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