海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊 |
三一書房 |
1991(平成3)年5月31日 |
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷 |
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷 |
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魔都上海に、夏が来た。
だが、金博士は、汗もかかないで、しきりに大きな手押式の起電機を廻している。室内の寒暖計は、今ちょうど十三度を指している。ばかに涼しい室である。それも道理、金博士のこの実験室は、上海の地下二百メートルのところにあり、あの小うるさい宇宙線も、完全に遮断されてあるのであった。
天井裏のブザーが、奇声をたてて鳴った。
「ほい、また来客か。こう邪魔をされては、研究も何も出来やせん」
博士は、例の無精髭を、兎の尻尾のようにうごかして、天井裏を睨みつけた。
「博士、御来客です。醤買石閣下の密使だそうです。はい、只今、X線で、身体をしらべてみましたが、何も兇器は所持して居りません。どういたしますか」
姿は見えないが、声だけの秘書が、用事を取次いだ。
「何か土産を持っている様子か」
「なんだか、大きな風呂敷包を、背負って居ります。どうやら羊か何からしく、X線をかけると、長い脊髄骨が見えました」
「羊の肉は、あまり感心しないが、糧食難の折柄じゃ、贅沢もいえまい」
「では、通しますか」
「とにかく、こっちへ通してよろしい。土産物を見た上で、話を聞くか、追払うか、どっちかに決めよう」
博士は、把手から手を放すと、手をあげて、禿頭をガリガリと掻いた。
醤の密使油蹈天氏が、その部屋に現れたのは、それから五分ばかりたって後のことであった。
「おう。油蹈天か。お前が来るようじゃ、大した土産もないのであろう」
博士は、密使の顔を見て、率直に落胆の色を現した。
「いや、博士。本日は、わが醤主席の密命を帯びてまいりましたもので、きっと博士のお気に入る珍味をもってまいりました」
「羊の肉は、くさくて、嫌いじゃ。第一、羊の肉が、珍味といえるか」
「羊の肉ではございません。なら、用談より先に、これをごらんに入れましょう」
密使は、背中に負っていた大きな包を、機械台のうえに下した。博士は、鼻をくんくんいわせながら、傍へよってきた。
「燻製じゃな。いくら燻製にしても、羊特有の、あの動物園みたいな悪臭は消えるものか」
「まあ、黙って、これをごらん下さい」
密使油が、包を派手にひろげると、中から鼠色の大きな動物が現れた。顔を見ると、やはり鼠に似ていた。
「ほう、これは大きな鼠じゃな」
「金博士。鼠ではございません。これはカンガルーの燻製でございます」
「カンガルーの燻製?」
博士は、目を丸くして、両手を意味なく、ぱしんぱしんと叩いた。
「さようです。カンガルーです。これは只今醤主席の隠れ……あ、むにゃむにゃ、ソノ、特別特製でございます」
「特製はわかったが、むにゃむにゃというところがよく聞えなかったし、一体これは、どこの産じゃ」
「はあ、それは御想像に委せるといたしまして、とにかく醤主席は、かような珍味を博士に伝達して、その代り、博士におねだりをして来いということでありました」
「なんじゃ、わしにねだるというと、また新発明の兵器を譲れというのじゃろう。昔の因縁を考えると、わしとて、譲らんでもないが、しかしあのように敗けてばかりいるのでは張合いがない。――で、当時、醤の奴は、どこにいるのか。重慶か、成都か、それとも昆明か」
博士の質問は、密使油にとって、甚だ痛かった。当時、醤主席およびその麾下百万余名は、その重慶にも成都にも、はたまた昆明にも居なかったのである。
「は、それはわが政権の機密に属する事項でございますから、私から申上げかねます。しかし、主席はぜひ博士の御好意によって、最近御発明になったあの……」
といいながら、密使は一応四方八方へ気を配った上で、
「……あのう、それ、人造人間戦車の設計図をお譲り願ってこいと申されました。どうぞ、ぜひに……」
「あれッ。ちょっと待て。わしが極秘にしている人造人間戦車の発明を、どうして、どこで知ったか」
「それはもう、地獄耳でございます。それを下されば、このカンガルーの燻製を置いてまいります。下さらなければ、折角ですが、カンガルーの燻製は、再び私が背負いまして……」
「わかったよ、もうわかった。あの醤め、わしが、珍味に目がないことを知っていて、大きなものをせびりよる。よろしい。では、その設計図をやろう。これが、そうだ。組立のときには、わしに知らせれば、行って指導してやってもいい。しかしそのときは、うんと代償物を用意して置けよ」
そういって、金博士は、大きな青写真にとった設計図を、惜し気もなく密使に渡してしまったのであった。
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