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家なき子(いえなきこ)02

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-1 11:48:06  点击:  切换到繁體中文


     王子さまの雌牛(めうし)

 わたしはマンデに着くまえにもむろんマチアを愛(あい)していたけれど、その町を去るときにはもっともっとかれを愛していた。わたしは床屋(とこや)さんの前でかれが「なに、友だちを捨(す)てる」とさけんだとき、どんな感じがしたか、ことばで語ることはできなかった。
 わたしはかれの手をとって強くにぎりしめた。
「マチア、もう死ぬまではなれないよ」とわたしは言った。
「ぼくはとうからそれはわかっていた」とかれはあの大きな黒い目で、わたしににこにこ笑(わら)いかけながら答えた。
 なんでもユッセルでさかんな家畜市(かちくいち)があるということを聞いたので、わたしたちはそこへ行って、雌牛(めうし)を買うことに決めた。それはシャヴァノンへ行く道であった。わたしたちは道みち通る町ごとに村ごとに音楽をやって、ユッセルに着いたじぶんには、二百四十フランも金が集まっていた。わたしたちはこれだけの金をためるには、それこそできるだけの倹約(けんやく)をしなければならなかった。でもマチアはわたし同様雌牛(めうし)を買うことに熱心(ねっしん)であった。かれは白い牛を買いたがった。わたしはあのルセットのお形見に、茶色の牛をと思っていた。わたしたちはしかし、どちらにしても、ごくおとなしくって、乳(ちち)をたくさん出す牛を買うことに意見が一致(いっち)した。
 わたしたちは二人とも、なにを目標(もくひょう)に雌牛(めうし)のよしあしを見分けるか知らなかったから、獣医(じゅうい)の世話になることにした。わたしたちはよく牛を買うときに詐欺(さぎ)に会う話を聞いていた。そういう危険(きけん)をおかしたくはなかった。獣医をたのむことはよけいな費(つい)えではあろうけれど、どうもほかにしかたがなかった。ある人は、ごく安い値段(ねだん)で一ぴき買って帰ってみると、しっぽがにせものであったことがわかったという話も聞いた。またある人はごくじょうぶそうな、どこからみてもたくさん乳(ちち)を出しそうな雌牛(めうし)を買ったが、二十四時間にコップに二はいの乳(ちち)しか採(と)れなかったという話もある。ばくろうのやるちょいとした手品で、雌牛(めうし)はさもたくさん乳を出しそうに見せかけることができた。
 マチアはにせもののしっぽだけならなにも心配することはないと言った。なぜなら売り手といよいよ相談(そうだん)を始めるまえに、ありったけの力で雌牛(めうし)のしっぽに一つずつぶら下がってみればわかるのだからと言った。でもそれがほんとうのしっぽであったら、きっとおなかか頭をうんとひどくけとばされるだろうと言うと、かれの空想(くうそう)はすこしよろめいた。
 ユッセルに着いたのは五、六年ぶりであった。あれはヴィタリス親方といっしょで、ここで初(はじ)めてくぎで止めたくつを買ってくれたのであった。ああ、そのときここから出かけた六人のうち、残(のこ)っているのは、たったカピとわたしだけであった。
 わたしたちは町に着いて、あのときヴィタリスや犬ととまったことのある宿屋(やどや)に荷物を預(あず)けて、すぐ獣医(じゅうい)を探(さが)し始めた。やがて一人見つけたが、その人は、わたしたちが欲(ほ)しいという雌牛(めうし)の様子を話して、いっしょに行って買ってくれるようにと言うと、それをひどくおもしろいことに思ったらしかった。
「でもぜんたいおまえたち子ども二人で、雌牛(めうし)をなんにするのだね。お金は持っているのかい」とかれはたずねた。
 わたしたちはそこで、どのくらい金を持っているか、それをどうしてもうけたかということ、それからわたしが子どものとき世話になったシャヴァノン村のバルブレンのおっかあにおくり物をしておどろかせるつもりだということを話した。かれはするとひじょうに親切らしい熱心(ねっしん)を顔に見せて、あした七時に市場へ行って会おうとやくそくした。それでお礼はと言って聞くと、かれはまるっきりそんな物を受け取ることをこばんだ。そして笑いながらわたしたちを送り出して、その時間にはきっと市場へ行くようにと言った。
 そのあくる日夜明けから町はごたごたにぎわっていた。わたしたちのとまっている部屋(へや)から、馬車や荷車が下の往来(おうらい)のごろごろした石の上をきしって行くのが聞こえた。雌牛(めうし)はうなるし、ひつじは鳴く。百姓(ひゃくしょう)は家畜(かちく)にどなりつけたり、てんでんにじょうだんを言い合ったりしていた。
 わたしたちはいきなり頭から着物をひっかぶって、六時には市場に着いた。獣医(じゅうい)が来るまえに、選(よ)り取っておこうと思ったからである。
 なんという美しい雌牛(めうし)であろう……いろんな色、いろんな形をしていた。太ったのもあれば、やせたのもあり、子牛を連(つ)れたのもあった。馬もいたし、大きな太ったぶたは地べたに穴(あな)をほっていた。小さなぽちゃぽちゃした赤んぼうのぶたは、いまにも生きながら皮をはがれでもするようにぶうぶう鳴いていた。
 でもわたしたちは雌牛(めうし)よりほかには目にははいらなかった。それはみんな落ち着いて、おとなしく草を食べていた。かれらはまぶたをばちばち動かすだけで、わたしたちがしつっこく検査(けんさ)するままに任(まか)せていた。一時間もかかって調べたのち、わたしたちは十七頭気にいったのを見つけた。その一つ一つにちがった特質(とくしつ)があった。色の赤いのもあったし、白いのもあった。もちろんそんなことがいちいちマチアとわたしとの間に議論(ぎろん)をひき起こした。やがて獣医(じゅうい)がやって来た。わたしたちは好(す)きな雌牛(めうし)をかれに見せた。
「ぼくはこれがいいと思います」とマチアは白い雌牛を指さしながら言った。
「ぼくはあのほうがいいと思います」とわたしは赤い雌牛を指さして言った。
 獣医(じゅうい)はしかしその両方の前を知らん顔で通り過(す)ぎて、わたしたちのやりかけた争論(そうろう)を中止させた。そして第三の雌牛(めうし)に向かった。この牛はほっそりしたすねをして、赤い胴(どう)に茶色の耳とほおをして、目は黒くふちをとって、口の回りに白い輪(わ)がはいっていた。
「これがおまえさんたちのお望(のぞ)みの牛だ」と獣医(じゅうい)が言った。
 まったくこれはすばらしかった。マチアとわたしは、今度こそなるほどこれがいちばんいいと思った。獣医(じゅうい)はその雌牛(めうし)のはづな(口につけて引くつな)をおさえていたにぶい顔の百姓(ひゃくしょう)に、その雌牛の値段(ねだん)はいくらかとたずねた。
「三百フラン」とその男は答えた。
 わたしたちのくちびるは下に下がった。ああ三百フラン。わたしは獣医(じゅうい)に向かって、ほかの牛に移(うつ)らなければという手まねをした。かれはまたかけ合ってみせるという合図をした。そのときはげしい談判(だんぱん)が獣医と百姓(ひゃくしょう)の間に始まった。わたしたちのかけ合い人は百七十フランまで値切(ねぎ)った。百姓は二百八十フランまでまけた。この値段(ねだん)まで下げてくると、獣医は雌牛(めうし)をもっと批評的(ひひょうてき)に調べ始めた。この雌牛は足が弱かったし、首が短すぎたし、角(つの)が長すぎた。肺臓(はいぞう)が小さくって、乳首(ちちくび)の形が悪かった。どうしてこれではたんと乳は出まい。
 百姓(ひゃくしょう)はわたしたちが雌牛(めうし)のことをそんなにくわしく批評するので、きっと世話もよく行き届(とど)くだろうから、二百五十フランにまけてあげようと言った。
 そうなるとわたしたちは心配になり始めた。マチアもわたしも、ではろくでもない牛にちがいないと思った。
「もっとほかのを見ましょう」とわたしは獣医(じゅうい)の手をおさえて言った。それを聞くと、百姓(ひゃくしょう)は十フランまけた。それからだんだんにせり下げて、二百十フランまできて、そこで止まった。獣医はわたしのひじをついて、いま雌牛(めうし)の悪口を言ったのは、本気ではない。ほんとうはすばらしい牛だという意をさとらせた。でも二百十フランはわたしたちにとってはたいした金であった。
 そのあいだにマチアは雌牛(めうし)の後ろへ行って、そのしっぽから一本長い毛を引きぬいた。すると牛はおこって、かれをけりつけた。これでわたしの考えが決まった。
「二百十フランで買おう」わたしは事件(じけん)が解決(かいけつ)したと思って、そう言いながら牛のはづなを取ろうとした。
「おまえさん、つなを持って来たか」と百姓(ひゃくしょう)は言った。「わしは牛は売るがはづなは売らないぞ」こう言ってかれは、せっかくおなじみになったのだから、特別(とくべつ)ではづなを六十スーで売ってやると言った。はづなは入り用であったから、もうあとそれでわたしのふところには二十スーしか残(のこ)らないと思いながら、六十スー出した。それで二百十三フランを数えて、それから手を出そうとした。
「おまえさん、なわを持っているか」と百姓(ひゃくしょう)は言った。「わしははづなは売っても、なわは売らないぞ」
 それで最後(さいご)の二十スーも消えてしまった。
 これで雌牛(めうし)はとうとうわたしたちの手にわたった。けれどわたしたちは牛に食べ物を買ってやるにも、自分が食べるにも、一スーの金ももう残(のこ)らなかった。獣医(じゅうい)にはていねいに世話になった礼を言って、手をにぎってさようならを言った。そして宿屋(やどや)に帰ると、雌牛(めうし)をうまやにつないだ。
 きょうは町に市場があるので、ひどくにぎわって、ほうぼうから人が集まってもいたから、マチアとわたしは別(べつ)べつに出かけて、いくらお金ができるか、やってみることに相談(そうだん)を決めた。
 その夕方、マチアは四フラン。わたしは三フランと五十サンチーム持って帰った。七フラン五十サンチームのお金で、わたしたちはまたお金持ちになった。女中にたのんで雌牛(めうし)の乳(ちち)をしぼってもらったので、夕食には牛乳(ぎゅうにゅう)があった。これほどうまいごちそうを、わたしたちは味わったことはなかった。わたしたちは乳(ちち)のいいのにめちゃめちゃにのぼせ上がってしまって、食事がすむとさっそくうまやへ出かけて、わたしたちの宝物(たからもの)をだいてやりに行った。雌牛(めうし)はいかにも優(やさ)しくしてもらったのがうれしいらしく、その返礼にわたしたちの顔をなめた。
 わたしたちは雌牛(めうし)をキッスしたり、雌牛からキッスされて感じるゆかいさを人一倍(ばい)感じるわけがあった。それにはマチアもわたしも、これまでけっして人からちやほやされすぎたことがなかったということを記憶(きおく)してもらわなければならない。わたしたちの生まれ合わせは、ほかのあまやかされて育(そだ)った子どもたちが、あんまり多いキッスにへいこうしてそれをさけなければならないのとは、大ちがいであった。
 そのあくる朝、わたしたちは太陽といっしょに起きて、シャヴァノン村に向かって出発した。わたしはマチアがあたえてくれた助力に、どれほど感謝(かんしゃ)していたであろう。かれなしには、わたしはけっしてこんな大金をためることはできなかった。わたしはかれに雌牛(めうし)を引いて行く楽しみをあたえようと思った。そこでかれはたいへん得意(とくい)らしく雌牛のつなを引いて行くと、わたしはあとからついて行った。かの女はひじょうにりっぱに見えた。それは大様(おおよう)にすこしゆれながら、自分で自分の値打(ねう)ちを知っているけものらしく歩いていた。わたしは雌牛をくたびれさせないようにしたいと思ったので、その晩(ばん)おそくシャヴァノンに着くことはよして、それよりもあしたの朝早く行く計画にした。ところがそのうちにこういうことが起こった。
 わたしはその晩(ばん)、むかし初(はじ)めてヴィタリス親方ととまって、カピが悲しそうなわたしを見てそばへ来てねてくれた、あの村にとまることにした。
 この村にはいるまえにわたしたちはきれいな青い草の生えた所に来た。荷物をほうり出してわたしたちはそこで休むことにした。わたしたちは雌牛(めうし)をみぞの中に放してやった。初(はじ)めはなわで引いていようと思ったが、この雌牛はたいへんすなおで、草を食べることによく慣(な)れているようであったので、わたしはしばらくつなを牛の角に巻(ま)きつけて、そのそばにこしをかけて晩飯(ばんめし)を食べ始めた。もちろんわたしたちは雌牛よりずっとまえに食べてしまった。そこでさんざん雌牛を感心してながめたあとで、これからなにをしようというあてもないので、わたしたちはしばらく遊んでいた。それがすんでも牛はまだ食べていた。わたしがそばへ行くと、雌牛(めうし)は草の中に固(かた)く首をつっこんでいて、まだ腹(はら)が減(へ)っているというようであった。
「すこし待ってやりたまえ」とマチアが言った。
「だってきみ、雌牛は一日だって食べているんだぜ」とわたしは答えた。
「まあ、しばらく待ってやりたまえ」
 わたしたちはもう背嚢(はいのう)と楽器(がっき)をしょったが、まだ牛はやめなかった。
「ぼくは牛のためにコルネをふいてやる」と、じっとしていられないマチアが言った。「ガッソーの曲馬には、音楽の好(す)きな雌牛(めうし)がいたよ」
 かれはゆかいなマーチをふき始めた。
 初(はじ)めの音で、雌牛は頭を上げた。するととつぜんわたしがかれの角にとびかかってつなをおさえるまもないうちに、かの女はとっとっとかけ出した。わたしたちはいっしょうけんめい、止まれ、止まれと呼(よ)びながら、あとから追っかけた。わたしはカピに牛を止めるように声をかけた。だがだれでも万能(ばんのう)ということはできない。牛飼(うしか)い、馬飼いの犬なら鼻づらにとびついたであろうが、カピは牛の足にとびついた。
 牛はとうとうわたしたちが通って来た最後(さいご)の村までかけもどった。道はまっすぐであったから、遠方でもその姿(すがた)を見ることができた。おおぜいの人が通り道をふさいでつかまえようとしているのも見えた。わたしたちは牛を見失(みうしな)う気づかいはないと思ったので、すこし速力(そくりょく)をゆるめた。こうなるとしなければならないことは、牛を止めてくれた人たちから、それを受け取ることであろう。
 わたしたちがそこへ着いたとき、おおぜいの人間がもう集まっていた。そしてわたしたとが考えていたように、すぐに牛をわたしてはくれないで、どうして牛を手に入れたか、どこから牛をとって来たかをたずねた。
 かれらはわたしたちが牛をぬすんだこと、そして牛は持ち主の所へかけて帰ろうとしたのだということを主張(しゅちょう)いた。かれらはほんとうのことがわかるまで、わたしたちは牢屋(ろうや)へ行かなければならないと宣告(せんこく)した。牢屋と言われたばかりで、わたしは青くなって、どもり始めた。おまけにさんざんかけて息が切れていたので、ひと言もものが言えなかった。そこへちょうど巡査(じゅんさ)がやって来た。二言三言で全体の事件(じけん)が説明(せつめい)された。それを聞いてもいっこうはっきりしないことであったから、とにかくかれは雌牛(めうし)を預(あず)かること、それがわたしたちのものだというあかしの立つまで、わたしたちを拘留(こうりゅう)することに決めた。村じゅうが行列を作って、わたしたちのあとに続(つづ)いて、ちょうど警察署(けいさつしょ)をかねていた町の役場までつながった。やじうまがわたしたちをつついたり白い歯を見せたり、ありったけひどい名前で呼(よ)んだりした。巡査(じゅんさ)が保護(ほご)してくれなかったら、かれらはひどい大罪人(だいざいにん)でもあるように、わたしたちを私刑(しけい)に行なったかもしれなかった。
 役場を預(あず)かっている人で、典獄(てんごく)(刑務所の役人)と代理執行官(だいりしっこうかん)をかねていた人は、わたしたちを牢(ろう)に入れることを好(この)まなかった。わたしはなんという親切な人だろうと思ったけれど、巡査(じゅんさ)はあくまでわたしたちを拘留(こうりゅう)しなけばならないと言った。そこで典獄は二重になっているドアに、大きなかぎをつっこんで、わたしたちを牢(ろう)に入れてしまった。中へはいってはじめて、なぜ典獄(てんごく)がわたしたちを中へ入れることをおっくうがったかそのわけがわかった。かれはねぎをこの中へ干(ほ)しておいた。それがどのこしかけにも置(お)いてあった。かれはそれをみんなすみっこに積(つ)み重(かさ)ねた。わたしたちはからだじゅう捜索(そうさく)されて、金もマッチもナイフも取り上げられた。それからその晩(ばん)は閉(と)じこめられることになった。
「ぼくをぶってくれたまえ」とわたしたちだけになると、マチアが情(なさ)けなさそうに言いだした。
「ぼくの耳をぶつか、どうでも気のすむようにしてくれたまえ」
「ぼくも雌牛(めうし)のそばで、コルネをふかせるなんて、大きなばかだった」とわたしも答えた。
「ああ、ぼくはそれをずいぶん悪いことに思っている」かれはおろおろ声で言った。「かわいそうな雌牛、王子さまの雌牛」とかれは泣(な)き始めた。
 そのときわたしはかれに、これはそんなにむずかしいことではないわけを話してなぐさめようとした。
「ぼくたちは雌牛(めうし)を買ったあかしを立(た)てればいいのだ。ユッセルの獣医(じゅうい)の所へ使いをやればいい……あの人が証人(しょうにん)になってくれる」
「でもそれを買った金までもぬすんだものだと言われたら」とかれは言った。「わたしたちはそれをもうけた証拠(しょうこ)がない。運悪くゆくと、みんなはどこまでも罪人(ざいにん)だと思うだろう」
 これはまったくであった。
 それにさしあたりだれか牛を養(やしな)ってくれるだろうかと、マチアががっかりして言った。
「まあ、みんなが牛は養っていてくれるだろうよ」
「あしたたずねられたら、なんと言うつもりだ」とマチアが聞いた。
「ほんとうのことを言うさ」
「そうなれば、あの人たちはきみをバルブレンの手にわたすだろう。バルブレンのおっかあが一人きりだったら、あの人に向かってわたしたちの言うことがうそかどうか聞こうとする。そうなればもうあの人の不意(ふい)を驚(おどろ)かすことができなくなる」
「おやおや」
「きみはバルブレンのおっかあとは長いあいだ別(わか)れている。あの人がもう死んでしまって、いないとも限(かぎ)らない」
 このおそろしい考えだけはついぞこれまでわたしも起こしたことがなかった。でもヴィタリス老人(ろうじん)も死んだ……わたしはかの女までも亡(な)くしたかもわからない、という考えが、どうしてこれまで起こらなかったろう。
「なぜきみはそれを先に言わなかった」とわたしは言った。
「だってつごうのいいじぶんには、そんな考えは起こらなかったからさ。ぼくはきみの雌牛(めうし)をバルブレンのおっかあにおくるという考えでずいぶんうれしくなっていた。あの人がどんなに喜(よろこ)ぶだろうと思うと、死んでいるかもしれないなんていう考えはてんで起こらなかった」
 こう何事につけても悪いはうばかり見るのは、この暗い部屋(へや)のせいにちがいなかった。
「それから」とマチアはとび上がって、両うでをふり上げながら言った。「バルブレンのおっかあが死んで、あのこわいバルブレンのほうが生きていて、そこへぼくたちが行ったら、きっと雌牛(めうし)を取り上げて自分のものにしてしまうだろう」
 午後おそくなって、ドアが開かれ、白いひげを生やした老紳士(ろうしんし)が拘留所(こうりゅうしょ)にはいって来た。
「こら悪党(あくとう)ども、このかたに答えするのだぞ」といっしょについて来た典獄(てんごく)が言った。
「それでよろしい」と紳士(しんし)は言った。この人は検事(けんじ)であった。「わしは自分でこの子を尋問(じんもん)する」
 こう言ってかれは指でわたしをさし示(しめ)した。
「きみはもう一人の子を預(あず)かっていてもらいたい。そのほうはあとで調べるから」
 わたしは検事(けんじ)と二人になった。じっとわたしの顔を見つめながらかれは、わたしが雌牛(めうし)をぬすんだとがで告発(こくはつ)されていることを告(つ)げた。
 わたしはかれに雌牛(めうし)をユッセルの市場で買ったことを話して、買うときに世話をしてくれた獣医(じゅうい)の名前を言った。
「それは調べることにしよう」とかれは答えた。「さてなんの必要(ひつよう)でその雌牛を買ったのだ」
 わたしは、それを養母(ようぼ)へ愛情(あいじょう)のしるしとしておくるつもりであったと言った。
「その女の名は」とかれはたずねた。
「シャヴァノン村のバルブレンのおかみさん」とわたしは答えた。
「ああ、五、六年まえパリで災難(さいなん)に会った石工(いしく)の家内(かない)だな。それも知っている。調べさせよう」
「まあでも……」
 わたしはすっかり困(こま)ってしまった。わたしの当惑(とうわく)を見つけて、検事(けんじ)は厳(きび)しく問いつめた。そこでわたしは、検事(けんじ)がもしバルブレンのおかみさんを調べることになると、せっかくの雌牛(めうし)がちっとも不意(ふい)ではなくなること、しかも不意のおくり物でおどろかすというのがわたしたちの第一の目的(もくてき)であったことを告(つ)げた。
 けれどこんなことでまごまごしている最中(さいちゅう)に、バルブレンのおっかあのまだ生きていることを知って、わたしは大きな満足(まんぞく)を感じた。そのうえわたしに向けられた質問(しつもん)のあいだに亭主(ていしゅ)のバルブレンがすこしまえパリに帰ってしまったことをも知った。これはわたしをゆかいにした。するうちにとうとうマチアがおそれていた質問(しつもん)が出て来た。
 だがどうして雌牛(めうし)を買うだけの金を得(え)たか。
 わたしはパリからヴァルセまで、それからヴァルセからユッセルまで、一スー一スーとこれだけの金を積(つ)みたてたことを説明(せつめい)した。
「でもおまえ、ヴァルセではなにをしていた」とかれはたずねた。
 それからわたしは、いやでもかれに鉱山(こうざん)の椿事(ちんじ)を話さなければならなかった。
「ではおまえたち二人のうち、どちらがルミだ」とかれは声を優(やさ)しくしてたずねた。
「ぼくです」とわたしは答えた。
「それがほんとうなら、おまえはその事件(じけん)がどうして起こったか言ってみよ。わたしはその事件を残(のこ)らず新聞で読んでいる。わたしをあざむくことはできないぞ。おまえがまったくルミであるか、ないか、わたしにはわかる。用心しなさい」
 わたしはかれがわたしたちに対してひじょうに優(やさ)しい心持ちになっていることを見ることができた。わたしはかれに鉱山(こうざん)での経験(けいけん)をくわしく語った。
 話をしてしまうと、わたしはほとんど優しくなっていたかれの態度(たいど)から、すぐにもわたしたちを放免(ほうめん)してくれるかと思った。けれどもそうはしないで、かれはわたしを一人心配なまま部屋(へや)に残(のこ)して出て行った。しばらくしてかれは、マチアを連(つ)れてもどって来た。
「わたしはユッセルへ、おまえの話の真偽(しんぎ)を確(たし)かめさせにやる」とかれは言った。「幸いそれが真実(しんじつ)なら、あしたは放免してやる」
「それから雌牛(めうし)は」とマチアは心配そうにたずねた。
「おまえたちに返してやる」
「ぼくの言うのはそうではないんです」とマチアが答えた。「だれか雌牛(めうし)に食べ物をやっていますか。乳(ちち)をしぼっていますか」
「まあ、心配しなさんな」と検事(けんじ)が言った。
 マチアは満足(まんぞく)して、にっこり笑(わら)った。
「ああ、では雌牛(めうし)の乳をしぼったら、ぼくたちも晩(ばん)にすこしいただけないでしょうか」とかれはたずねた。
「それはいいとも」
 わたしたち二人だけになると、わたしはマチアに、ほとんど自分たちが拘留(こうりゅう)されていることを忘(わす)れさせるほどのえらい報告(ほうこく)をした。
「バルブレンのおっかあは生きているし、バルブレンはパリへ行っている」とわたしは言った。
「ああ、では『王子さまの雌牛(めうし)』もいばって乗りこめるわけだね」
 かれはうれしがっておどりをおどったり、歌を歌いだした。かれの元気につりこまれて、わたしはかれの手をつかまえた。カピはそのときまですみっこに静(しず)かに考えこんで転(ころ)がっていたが、はね上がって後足で立ちながら、わたしたちの間に割(わ)りこんで来た。それからは三人いっしょになってめちゃくちゃにおどり回ったので、典獄(てんごく)なにが始まったかと思って、とびこんで来た。たぶんねぎが気になったのであろう。かれはわたしたちにやめろと言ったが、さっきまでの様子とはだいぶ変(か)わっていた。その様子でわたしはもうたいしたことはないとさとった。そのうえもう一つの証拠(しょうこ)には、しばらくたつとかれは大きなはちに牛乳(ぎゅうにゅう)を入れて持って来た。わたしたちの雌牛(めうし)の乳(ちち)である。しかもそれだけではなかった。かれは白パンの大きな切れと冷(つめ)たい子牛の肉を持って来て、これは検事(けんじ)さんからの届(とど)け物(もの)だと言った。
 どうして、こうなると牢屋(ろうや)もそんなに悪い所ではなかった。ただでごちそうを食べさせて、とめてくれるのだもの。


 

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