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安吾巷談(あんごこうだん)10 世界新記録病

底本: 坂口安吾全集 08
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年9月20日
入力に使用: 1998(平成10)年9月20日初版第1刷
校正に使用: 1998(平成10)年9月20日初版第1刷

底本の親本: 文藝春秋 第二八巻第一三号
初版発行日: 1950(昭和25)年10月1日

 

スポーツというものは自らたのしむ境地で、それ自体に好戦的な要素はないものだ。国際競技とか、対校試合とかいうのも、世界の現状が国家単位であったり、チームが学校に属しているからの便宜的な区分で、スポーツは本来、個人的なもの(チームをも個とみて)である。現状に於てもスポーツの最高エベントは国際試合に限るわけでなく、ウインブルトンの庭球、又はプロ・ボクシングの世界選手権試合に於けるが如く、人種、国家の如何をとわず、最高エベントが個人的に争われている例も少くはない。年々アメリカで行われていた千五百メートルのインドアレース(陸上)なども、オリムピックのレース以上に豪華な大レースを展開するのが例で、こういうレースの在り方は選手がプロ化する危険はあるが、スポーツ本来としては、このように個人的に争わるべき性質のものだ。
 スポーツも勝負であるから、勝敗を争うのは当然であるが、それと同時に、練習の結果をためしている賭の要素が大きい。練習をつみ、その技術に深入りするほど、賭に打込む情熱も大きなものになる。偶然にまかせるルーレットの類とちがって、練習というものは合理的なものだ。いや、力というものを技術によって合理化し、ほぼ、あますところなく合理化してしまうのが、訓練、又は、練習というものなのである。もう一つ、その上に、試合に際して、相手とせりあって発する場合の力というものがある。つまり、勝負強いとか、勝負師の力があるとか云われているものが、これだ。そして、これが、賭というものなのである。
 吉岡が十秒三のレコードを何度もだした。だからメトカルフとせり合って一着になる可能性があると時計から割りだしたって、どうにもならない。本当の勝負というものはタイムではなくて、相手が自分より一米出ているから、これを抜いてでる、これを力といい、レースという。吉岡は百米を何十歩だかで走り、そのきまった歩数で走る時によいレコードがでるというようなことを言っていたが、そのような独走的な、又、無抵抗なものは、単に机上の算数であって、力というものではない。レースは相手とせりあうことによって、相手をぬいて行く力を言うのである。吉岡は決勝にものこらなかった。
 水上競技も、古橋の出現までは、時計をたよりに勝負の力というものを忘れていた。タイムで比較して、勝つ、勝つ、と云いながら、四百米では、勝ったことがない。バスタークラブとか、メディカの力というものを忘れていたのである。日本の水泳選手で、アメリカのお株をうばって、レースの力というものを見せてくれたのは古橋だ。今度の日米競泳でも、古橋は勝負強さを見せてくれた。タイムの問題ではなくて、相手が自分の前にいるから、これを抜く、という力なのである。日本は古橋一人だが、アメリカの選手は概ね時計の選手ではなくて、レースの選手なのだ。負けたとはいえ、古橋をタッチの差まで追いつめたマクレンの二百米の追泳ぶりは力の凄さを如実に示している。四百米リレーでも、マクレンはあんまり得意の種目ではない百米で、百米専門の浜口を二米ぬいて、寄せつけなかった。タイムでどうこういうのでなくて、相手次第、せり合って負けないという型なのである。
 欧米選手は概ねこの型のレース屋なのである。日本の選手は箱庭流のタイム屋だ。しかし、日本の選手だって、レースに於て賭けることを忘れているわけはない。現に古橋のような超特別のレース屋も現れている。しかし外国選手はレース屋という点では、たいがい古橋に負けず劣らずだ。これは食べ物の相違、体力の相違と見るべきかも知れない。
 運動選手というものは、練習中に、自分の最高タイムを知る、というやり方は、あんまりとらないものだ。限界が分ると困ったことになるからだ。ジャンプ競技は特別そうで、自分の限界へくると、バアを一センチあげても、一尺あがったような恐怖を感じてしまうものだ。この恐怖を克服するのは並たいていのことではない。そこで、ふだんはバネをつける練習に主点をおいて、本当に飛ぶ練習は、フォームの練習だけにとめておく程度で、全部を試合に賭ける。競走にしろ、水泳にしろ、レースというものはタイムではなくて、競りあいなのだから、練習というものによって、力を技術的に合理化したアゲクに於ては、結局、競り合い、相手次第の賭が全部ということになるのだ。
 碁や将棋でも同じことで、呉清源や、木村や、大山は、特に妙手をさすでもなく、技術はさほどぬきんでてもいないが、勝負づよい、という。そして、だから、天才というのではなくて、ネバリ屋だなどゝ、言いだしベイは誰だか知らないが、商売人までみんなそう言って、それですんでいるのである。これ即ち、十秒三の吉岡流であり、箱庭水泳のタイム流というもので、競り合いに現れてくる力、勝負の差はそれが決定的なものだということを知らないのである。人事をつくして(というのは、合理的な訓練をつくした上で)最後には競りあいに賭ける。そのとき現れてくる力の差が、本当の力の差である。フォームが美しくて、独走とか独泳にさいしてピッチに閃きがあるといっても、競り合いで役に立たなければ、ダメなのである。棋理に明るいったって、力ではない。理に通じることと、レースの強さは別のものだ。
 すべてを試合にかける、出たとこまかせだ、というと、いかにも明快で、選手の心事は澄んでいるようであるが、そうは参らんものである。練習をつむにしたがって、自分の力の理にかなった限界というものは、これを知るまいと努めても、チャンと感じられてしまうから困る。ジャムプなどゝいう足のバネに依存するスポーツとなると、足の毛が一本ぬけたぐらいの重量の変化がしつこく感じられるぐらい、コンディションに敏感になりすぎてしまうのである。スポーツマンの心事というものは豪快なものではなくて、甚しく神経衰弱的であり、女性的なものである。
 私も大昔インターミドルで走高跳に優勝らしきことをやったことがあった。この日は大雨で、トラックもフィールドもドロンコである。当時は外苑競技場が未完成で、日本の主要な競技会は駒場農大の二百八十米コースの柔くてデコボコだらけのところでやる。排水に意を用いたところなどミジンもないから、雨がふると、ひどい。走高跳の決勝に六人残って、これから跳びはじめるという時に、大雨がふってきた。六人のうち五人は左足でふみきる。拙者一人、右足でふみきる。助走路は五対一にドロンコとなり、五人は水タマリの中でふみきるが、私はそうでないところでふみきるから、楽々と勝った。実際はその柄ではない。力量の相違というものは、マグレで勝っても、よく分って、勝った気持がしないものだ。あのころの中学生は強豪ぞろいで、短距離の高木、ジャンプの織田、南部、いずれも中学生にして日本の第一人者であった。こういう天才と私とでは、力量の差がハッキリしすぎて、面白くなかったな。雨のオカゲで勝ったりしたが、とても勝てないと分ってみると二度とそんなことをやる気がしなくなるものだ。
 後年、ワセダに田中という走高跳の選手が現れたが、身長と跳んだ高さの比率では、この先生が世界一だろうと思う。二メートル跳ばないと一人前じゃないから、小男ぞろいの日本でも、走高跳というと、六尺前後の大男に限って一流選手になりうるのが普通である。田中選手は五尺五六寸の普通の日本人だが、二メートルか二米〇二ぐらい跳んだように覚えている。バーと頭の間に一尺余の空間があいておるのである。もっとも、走高跳というものは、身長と跳んだ高さの比率を争う競技ではないから、要するに、なんにもならない。小男では、所詮、ダメということだ。
 しかし、自分の限度へくると、バーが二センチだけあがったのに一尺もあがったように見える恐怖感というものを身にしみている私には、(もっとも、そこに賭に挑戦するスリルも愉快もあるのだが)田中選手のケタ外れの比率を見ると、ほれぼれと血肉躍動する感動を与えられたものである。彼の跳びッぷりを見たいばかりに、私はあのころの競技会へしばしば見物にでかけた。
 走高跳などゝいう単純な競技は、ただバーをとびこすだけのことだから、跳び方なども単純で、特に規則など有るはずがないと思うのが人情だが、実は、特別の定めがある。足が、他の身体の部分よりも先に(イヤ、頭よりも先に、かな?)バーを越さなければならない、と定めてある。日本人はマサカと思うかも知れないが、外国人は何を編みだすか分らない。この規則がないと、トンボ返り式に、頭から命がけの跳び方をやらかす仁が現れないとは限らない。現に近年はロールオーバーという跳び方がアメリカで発明された。この跳び方はバーと平行に身体をねせて空中に一回転するもので、頭が先にかかっているか、足が先にかかっているか、まったく見当がつかない。規則スレスレのところで曲芸をやっている。
 ロールオーバーにしても、クロール、バタフライにしても、スポーツの技術面に独創的な新風をおこしたということは、日本には一度も例がないようだ。
 私が中学の一年か二年のとき、アントワープのオリムピックに日本から水泳が初参加した。内田正練、斎藤兼吉という二人の選手である。
 斎藤兼吉という人は佐渡出身の高師の学生で、私のいた新潟中学へ毎年コーチにきてくれた人である。彼は陸上競技も当時日本の第一人者で、オリムピックでは十種競技にでたように記憶する。水陸を兼ねてスポーツの名手であるから、世人がアダ名して斎藤兼吉とよび、アダ名の兼吉で通用していたが、万能選手だが、六尺豊か、骨格鬼の如く、しかし甚だ心やさしく、女性的な人であった。
 このとき、オリムピックの一次予選で、兼吉選手が十種競技の走幅跳に二十尺五寸で、日本新記録であったが、六米ちょッとで今の日本の女子記録と同じぐらいである。第一流のジャンパーが、五尺二寸ぐらいで、走高跳に優勝している始末であった。今の女の子の記録はもっと上である。それから四年たつと、織田や南部が現れて、中学生のうちから一米七五ぐらい跳んでいる。兼吉先生の当時は創世紀である。
 内田、斎藤、両水泳選手は、アントワープのオリムピックに於て、自由形を片抜手で泳いだ。自由型とある通り、どんな泳ぎでもよいのである。このとき、ハワイのジューク・カワナモクが自ら発明したクロールで泳いで、大差で優勝した。百が一分三秒いくらかぐらいであった筈だ。内田、斎藤両選手はクロールという新発明の泳法を習い覚えて帰ってきた。兼吉先生は新潟中学の水陸兼用のコーチであるから、カワナモク式の原始クロールは先ず新潟中学へ伝えられ、この伝授の世話係は私の兄献吉であったようだ。彼がどういうわけで母校の水泳の世話係をやっていたのか、その理由が私には分らない。スポーツには全然縁のない男だ。しかし、極端に新しがり屋の珍し好きで、それに世話好きであるから、クロールという新型の速力に驚いて、なんとなくジッとしていられなかったのかも知れない。新渡来のクロールをいちはやく身につけたが、新潟中学は今もって、一度も、水泳で鳴らしたことがない。風土が水泳に向かないのと、したがって、今もって、プールを持たないせいである。そして最初にプールをもった茨木中学から高石勝男が現れたのである。私もカワナモク型原始クロールをいちはやく身につけた一人だが、しかし私は百米を今の日本の女子記録よりも速く泳ぐことができなかったようである。
 高石勝男は長距離から短距離専門に変って、まず日本で最初の国際レベルの選手になった。ここ十数年、日本水泳は長距離王国を誇っているが、高石の自由型短距離につゞいては鶴田の平泳。長距離の発達はおくれていた。
 ターザンのワイズミュラーが全盛のころ、オリムピックの帰途だかに、日本へ来たことがあった。アルネ・ボルグと、チャールトンも一しょであったと思うが、あるいは私の記憶ちがいで別の機会であったかも知れん。
 これが外国の水泳選手来朝の皮切りであったと思う。当時の日本の国際レベルの選手は高石一人だが、彼は競泳界を引退するまで、一度もワイズミュラーに勝つことができなかった。最も接戦したときでも、百米レースで一秒ぐらい差をつけられ、ターザン氏は全然無敵であった。二百米の世界記録はターザン氏のが今もって破られずにいるように記憶するが、あるいは破られているかも知れない。今度の日米競泳で古橋のだした新記録なるものはターザン氏の記録には遠く及ばないのである。
 この最初の国際競泳は、なんとか玉川という遥か郊外で行われ、終点で電車を降りて、多摩川ぞいの畑の中をトボトボ歩いて遊園地の五十米プールに辿りつく。見物席はサーカスと同じように俄かづくりの小屋掛である。
 ワイズミュラーはプールのまん中までもぐっていって、顔をだしざま、水をふきあげて、ガガア! という河馬かばのマネ(ではないかと思うが)を再三やって見物衆をよろこばせた。天性無邪気で、当時からターザンに誰よりも適任の素質を示していた。
 陸上水上に限らず、短距離の速力はほぼ人間の限界近く達しており、ワイズミュラーの記録は今日でも大記録であるが、日本来朝の時には高石がいくらか接戦することができたから、当時に於ては競争相手のないアルネ・ボルグの方が驚異であった。彼は千五百を十九分七秒で泳ぎ、その後の二十年ちかく破られなかった。世界二位のチャールトンと一分ぐらいのヒラキがあり、当時の日本選手に至っては、二十一分台はごく出来のよい方、二十二分以上かかっていたのである。時計のマチガイではないかと、真偽を疑問視されていたほどである。やせた男で、細長い手を頭の前でくの字に曲げて軽く水へ突っこみ、チョコチョコ、チョコ/\と水をかいていた。
 牧野、北村という中学坊主が現れて突然日本は長距離王国になったが、彼らもアルネ・ボルグの記録は破っていない。横山、寺田などもダメ、天野が戦争の直前ごろに、十八分五十八秒いくらかぐらいで、ようやくボルグの記録を破ったのである。

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