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外套と青空(がいとうとあおぞら)


          ★

 その日から太平の懊悩が始まつた。キミ子の肉体を失ふことが、これほどの虚しい苦痛であることを、どうして予期し得なかつたであらうか。夜更けの外套を思ひだすとき、太平の悔恨は悶絶的な苦悶に変るのであつた。あの夜更けキミ子はなぜ外套を着けはじめたのだらう? なぜ外套を脱がなかつたのだらう? 飛びついてきたキミ子は狂つた白痴のやうだつた。うつろであつた。泣いてゐた。キミ子のまつしろな肉体を思ひだすとき、それがいつか外套になり、外套を思ひだすとき、まつしろな肉体になるのであつた。訪れる夜ごとに眠れなくなり、暗闇が悔恨と苦悶にとざされてゐた。
 十日ほど経て庄吉からの手紙がきて、キミ子も待つてゐるから遊びに来いといふことが粉飾もなく書かれてゐた。その寛大な友情に太平は感動するのであつたが、その友情が極めて異常なものであり、庄吉の生活と性格が奇怪なものであることを、極めてかすかにしか意識してゐなかつた。舟木だの小夜太郎だの花村だの間瀬だの富永の顔をうそ寒い憎悪をこめて思ひ描くことはあつても、その憎悪と同じぐらゐの激しさで、庄吉の友情を裏切ることの切なさを嘆いたことは殆どない。太平の心は極めて自然に庄吉を黙殺してゐるばかりでなく、たぶん庄吉は愛人なしにゐられないキミ子の性情を知つてゐて、好ましくない男達の玩具になるより、自分の好む男と遊んでくれることを欲するために太平を選んだのであらうと考へてみたりするのであつた。その考へはうがち過ぎて厭だつたが、そんなことにもこだはる必要がなかつたほど彼は庄吉を忘れてゐた。そして庄吉の友情のこもつた手紙を読むと、その寛大さに涙ぐむほど感動しながら、庄吉に打ち開けてキミ子を正式に貰ひたいと思ひふけり、庄吉の悲痛なる人間苦を思ひやつてはゐなかつた。
 庄吉からキミ子を貰ひ受けたいといふ考へはだんだん激しくなるのであつた。けれども庄吉のことよりも、キミ子自身の返答に就いて考へると、絶望的になるのであつた。太平の甘い考へはキミ子自身を思ふたびに氷化して、永遠に突き放された思ひのために絶望した。
 太平は病者のやうに彷徨して、青々軒を訪れた。
 青々軒は過ぎ去つた話に就いては一語もふれず、たゞ、キミ子さんが昨日も来たぜ、今日も来たぜ、おひるごろだつたね。それから一週間前ぐらゐにも二三度来てゐるんだ、といつた。それをきくと、見る見る眼前に一縷の光が流れこんでくるやうに感じた。俺の消息をさぐりに来るのだ、と思つたが、さりげない風をして、
「何か用があるのかい?」
「さあね」
 青々軒の顔色からは予期したかすかな感情も読みとることが出来なかつた。彼はお勝手の奥さんの方を向いて「あの人は何の用で来たんだつけね」ときいたが、何か間の悪い物音にさへぎられて奥さんの耳にとゞかないのを知ると、再び訊ねようとはしなかつた。
 雪が降つてきた。青々軒の家には傘が一本しかなかつたので、その傘で駅まで送つてくれたが、二ツの子供をおんぶして長靴をはいた青々軒の異様な姿は往来の人目を惹いた。一瞬憐れむやうな翳が走つたが、青々軒は困りきつた顔をして、
「あの人は善い人だがね、然し、君が深入りするほどの人ぢやないんだがな。やつれたぢやないか」
 太平は答へることができなかつた。すべてが再び暗闇へもどり、空転だけが感じられた。彼はいつか傘からハミだして雪にぬれて歩いてゐた。
「濡れてみたいのかい。アッハッハ」
 青々軒の瞳にも濡れたやうな小さな善良な愛情が光つてゐたが、それらが急に縁のない遠い彼方のものにしか思はれなくなつてゐた。
 ある朝、太平は何物かに押される力で庄吉を訪ねた。庄吉に会ひキミ子を貰ひたいといふだけの、気違ひじみた決意だけしか分からなかつたが、おう、よく来てくれたな、と庄吉が書生のやうな大声で現れてくると、鬱積したものが霧消して、彼の顔にも和やかな微笑が浮んだ。
「久しぶりに一戦やらうぢやないか」
 日当りの良い二階の廊下へ碁盤を持ちだして二人は向ひ合つたが、太平の心は碁盤をみると片意地に沈んで、再び重い鬱積がひろがつてゐた。庄吉は二目まで打込まれてゐたことを忘れず黒石を二つ並べたが、太平はしばらくその石を見つめてゐたのち、とりあげて庄吉の碁笥ごけの中へ投げ入れた。そして思ひ決した顔を庄吉に振り向けようとしたが、すると同時に、碁盤の上をふッと庄吉の腕がのびて、両手が彼の喉首をしめつけてゐた。
「この野郎」
 庄吉の目は三白眼であつた。そして細い目であつた。その目がその時もやつぱり小さく、そして、まつしろに見えた。太平は抵抗してはいけないといふ厳しい声をきいたやうに思つたが、実際は、庄吉の手が急所を外れてゐることを意識しつゞけてゐたのであつた。庄吉はまつたく下手糞なやり方で夢中に太平の喉を突きあげた。
「この野郎! この野郎! この野郎!」
 太平は仰向けに倒れ、その上に庄吉も重なつてゐたが、太平の顔を濡れた熱いものが流れるので、庄吉の涙が彼の顔に落ちてくるのだと思つたが、実は自分が泣いてゐた。庄吉の眼もうるんでゐるやうに思はれたが、彼は泣いてゐなかつた。
 しばらくの後、二人は碁盤をはさんで元の位置に向き合つてゐた。
「碁をやらうか」
 今度は太平の方からいふと、庄吉の目にやはらかな光がさして、
「落合さん、俺は君が憎めないのだ。俺は君が好きだ。君だけは今でも信頼してゐる。ごうといふものだなア」
「業?」
「フッフッフ」
 そのときになつて、庄吉の細い目から一しづくの涙が流れた。太平は慟哭したい気持をこらへで、かすかに身がふるへてゐた。
 その日太平が帰るとき、キミ子が待つてゐるから又昔のやうに遊びに来てくれといふことを庄吉は繰返し言ふのであつた。その言葉を思ひだすと(否、その言葉は二六時中彼の耳から離れずに響いてゐた)二つの全く逆な心が同時に動きだすのであつた。一つはもう行くまいと思ふ心で、一つは行かずにはゐられない力であつた。
 するともうその夕方にはキミ子の電話がかゝつてきた。太平は幸福のために羽ばたく鳥であるやうな慌たゞしさで出かけるのだ。覚悟してゐた人々の悪意の視線は殆ど彼にそゝがれず、キミ子は以前と同様に床の間の席を彼にすゝめ、その席を占めてゐた間瀬がすこしもこだはらず立上つて、自ら太平にすゝめるのだつた。その朝太平が訪れた時はその沈鬱な顔色を一目見て姿を消して再び現れてこなかつたキミ子であるが、何事もなかつたやうな自由さで今は語り笑つてゐる。その凡庸な魂に巣食つてゐる一きは小癪こしやくな動物的な嗅覚を太平は憎まずにはゐられなかつた。太平の再度の現れを平然と迎へてゐる人々は、キミ子の心が再び太平に向けられないといふことを見抜いたからではあるまいかと思ふと、太平の心はすくみ、おだやかに席を譲つた間瀬の様子が彼を斬る最も鋭利な刃物のやうに思ひだされてくるのであつた。
 太平が便所へ立ち、濡縁へ出て、冬庭の暗闇の冷たさを全身に吸つてゐると、便所へ降りてきた花村が見つけて、
「落合さん。君は純な男だなア。僕は君が好きなんだ」
 花村は彼の手を握つて、大胆な率直さで、
「落合さん、あの女はてんで君の純粋な魂に値する立派なしろものぢやないんだよ。あんなものにこだはりたまふな。たゞ、遊びだよ。ネ、落合さん。人生は朝露の如し。ネ、たゞ遊びあるのみ。さうではないかね。遊びながら我等は死ぬのさ。いざ諸人もろびとよ、おゝ、さらば愛さんかな、唄はんかな、それだけさ」
 さうさゝやいて帰りかけたが、戻つてきて、腕つきで太平を抱くまねをして接吻の音だけさせて、アッハッハと笑ひながら階段を登つて行つた。太平が座へ戻ると、それを迎へた花村が、
「落合さんは純情だよ。彼は濡縁にしよんぼり立つてゐるのさ。濡縁にしよんぼりなどとは古風な芸者かなにかにあるが、ところが落合太平にはそれが場違ひぢやないんで、僕は惚れ直したといふわけさ」
 すると片隅の舟木が開き直つて、
「彼には古風なところがあるのさ。然しそれは純粋といふことではないね。いはば田舎者なんだな。木綿のゴツゴツした着物かなんか着て、つまりそこのところに芸者の姿と対照的にマッチするものはあるがね。田舎風な律義さが一応の文化的教養を背負つてゐる奇妙な効果で人目をはぐらかしてゐるだけのことぢやないか」
 その憎悪は決定的であつた。そこにも嫉妬はあつたが、下からの嫉妬でなしに、上に立つて、見下しながら憎んでゐた。そして、その時から、彼の態度は一座の中で最も積極的なものになつた。彼は以前と同じやうに決して多くは喋らなかつた。けれども、彼の無言の態度が常にキミ子を追ひ、キミ子にさゝやきかけてゐた。
 ある日、その部屋には太平と舟木とキミ子だけしかゐなかつた。
「明日、熱海へ行かうよ」
 舟木は押しつけるやうにキミ子にいつた。舟木は太平の存在を問題にしてゐないといふ露骨な態度を見せてゐた。けれどもそれがキミ子にもいさゝか唐突すぎたので、かすかな当惑と怒りが走つた。
「ピアノのお弟子さんはどうしたの? あの方といつしよに行きなさいな」
「あんな小娘は厭さ。右を向けといへば右を向くんだよ。いつしよに芝居を見に行つたんだ。芝居を見ながら話しかけると、俯向いて返事をするんだぜ。髪の毛で芝居が見えやしないにさ。僕は小娘は嫌ひだね」
 その言葉は毒々しいほどふてぶてしかつた。太平は顔をそむけたかつた。
 数日の後に、又奇妙に三人だけの機会があつた。
「明日、熱海へ行かうよ」
 まつたく同じことを舟木はいつた。数日間同じことをいひつゞけてゐる執拗さでなく、熱海へ行くまでは、たとひ死んでもいひつゞけてゐる執拗さであつた。
 それから間もなく舟木とキミ子は実際に行方をくらました。二人が服毒自殺をして、二人ながら命はとりとめたといふ新聞記事を見出したのは幾日かの後であつた。

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