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太平は毎日ねむつてゐた。眼をさましてゐたが、眼をさまして眠つてゐた。そして食事のためにだけ外へでる。億劫になると一日に一度しか食事にも出なかつた。
ある日外へでて、もう春も終らうとしてゐることに気がついた。まだ冬のつゞきのつもりでゐたのである。すべての樹々はまぶしいほどの新緑にあふれてゐた。
「驚いたなア」
彼はむせぶやうに新緑の香気を吸つた。彼の部屋には、まだ真冬の万年床が敷かれてゐた。
すると、唐突な初夏と同じやうに、突然キミ子が訪ねてきた。小型のトランクを一つぶらさげて。
「しばらく泊めてちやうだいよ」
キミ子は男が狂喜することを知つてゐた。その男を冷然と見下してゐる鬼の目がかくされてゐた。二人をつなぐ魂の糸はもはや一つも見当らず、太平はキミ子の肉体を貪るやうに愛撫して、牝犬を追ふ牡犬のやうな自分の姿を感じてゐた。キミ子の肉体すらもすでに
庄吉が訪ねてくると困るからとキミ子は運送屋をつれてきて別のアパートへ引越させた。そこから多摩川が近かつた。キミ子は太平をうながして、二人は毎日釣りに行つた。
キミ子の腕はむきだされてゐた。キミ子のスカートは短かつた。靴下をつけてゐなかつた。キミ子の釣竿は青空に弧を描いたが、それはまつしろな腕が鋭く空を
太平はキミ子のまつしろな脚と腕とに小さな斑点をさがしもとめた。なぜなら太平はひと月あまり虱に悩まされてゐたからだつた。夜毎の痒さに堪へがたく、たぶん皮膚病であらうと思ひ薬をぬつた。ある日一匹の虱を見つけた。生れて初めて虱を見た。シャツや猿股を日向で見ると、日陰では認めがたい小さな虱が無数にゐた。卵も産みつけられてゐた。太平はそれをつぶすのが毎日の仕事であつた。太平は虱を咒つてゐた。けれどもキミ子の脚と腕には太平のさがす斑点がなかつた。
「君は虱に食はれなかつたか? 僕の寝床に虱がゐるんだぜ」
「虱ぐらゐ平気よ」
キミ子は薄目をあけて平然と答へた。
「私は虱のいつぱいゐる家で育つたのよ。身体も、髪の毛も、虱だらけだつたわ。熱湯をそゝぐと、すぐ死ぬわ。いつか洗濯してあげるわね」
太平は「可愛いゝ女」を見た。それは果実のやうな情慾を一そうそゝるのであつた。
ボートを岸へつけて、二人は上流の
太平は再びキミ子の魔力に憑かれた不安で
いつ頃のことであつたか、あるとき花村が情慾と青空といふことをいつた。印度の港の郊外の原で十六の売笑婦と遊んだときの思ひ出で、青空の下の情慾ほど澄んだものはないといふ述懐だつた。すると舟木が横槍を入れて、情慾と青空か。どうやら電燈と天ぷらといふやうに月並ぢやないかな、といつた。その花村や舟木や間瀬や小夜太郎らは庄吉も一しよにキミ子を囲んで伊豆や富士五湖や上高地や赤倉などへ屡々旅行に出たといふ。キミ子が彼等の先頭に立ち、短いスカートが風にはためき、まつしろな腕と脚をあらはに、青空の下をかたまりながら歩く様が見えるのだつた。すると花村も舟木も間瀬も小夜太郎も、一人々々が白日の下でキミ子を犯してゐるのであつた。陽射のクッキリした伊豆の山々の景色が見え、その山陰の情慾の絵図が鮮明な激しい色で目にしみる。その絵図を拭きとることが出来ないのだつた。悔いと怖れと憎しみがひろがり、その情慾の代償がたゞ永遠の苦悶のみにすぎないことを知るのであつた。
その翌日は、すでに太平は青空の情慾を意識して多摩川へ急ぐ自分の姿に気づいてゐた。キミ子の腕や脚を見ると、色情のムク犬のやうにただその周りをあさましく嗅ぎめぐる自分の姿が感じられて、憎しみが溢れてくるのであつた。
彼は思ひきつて上流までさかのぼつた。そのための肉体の苦痛が、こみあげる怒りと共に、近づく情慾のよろこびを孕み、奇怪な亢奮を生みだしてゐた。そこは見知らぬ土地だつた。飛ぶ鳥の姿もなかつた。太平は破れかけた納屋を見つけた。彼は無言でキミ子の腕をとり、ぐいぐいと納屋へ歩いた。太平はキミ子を抱きすくめた。するとキミ子は彼よりも更に激しい力をこめてそれに答へ、思ひがけない数々の優しさのために、太平は気違ひになるのであつた。気がつくと、彼等は埃だらけになつてゐた。太平の手足も、キミ子の腕も脚も、あたりの材木や枯枝のために無数の小さな傷となり、血が滲んでゐた。
ボートは何事もなかつたやうに川を下る。太平は舵をとるだけで、いくらも漕がずにすむのであつた。キミ子は何事もなかつたやうに仰向けにねて額に両手を組合せ目をとぢてゐる。その肌は陽にさらされて、赤く色づきはじめてゐた。太平はその肉体に縛りつけられた自分を知り、それを失ふ苦痛に堪へられぬ自分を知つて、そのあさましさに絶望した。太平は肉慾以外のあらゆるキミ子を否定し軽蔑しきつてゐた。ひときれの純情も、ひときれの人格も認めてをらず、憂愁や哀鬱のべールによつて二人のつながりを包み飾つてみるといふこともない。たゞ肉慾の餓鬼であつた。
彼はもはやキミ子が情死を申出ないことを知つてゐた。太平は肉慾の妄執に憑かれてゐたが、情死に応ずる筈はなかつた。彼は死の要求を拒絶するばかりでなく、拒絶につけたして、人格の絶対の否定と軽蔑を目に浮かべるに相違ない。キミ子はそれを知つてゐた。太平はたゞ肉体に挑む野獣で、人格を無視してゐるが、肉慾のみの妄執が人格や偶像を削り去ることにより、動物力の絶対的な執念に高まるものであることをキミ子は嗅ぎつけてゐる。その妄執は生ある限り死ぬことがなく、肉体に慕ひ寄り威力に屈した一匹の虫にすぎないことを見抜いてゐた。
太平は死に得ぬことのあさましさと肉慾の暗さに絶望し、その憎しみと愛慾の未知の時間の怖れのために苦悶した。
けれどもキミ子は立ち去つた。小さなトランクを置き残して。友達を訪ねてくるからといひ、今夜は帰らないかも知れないわ、といひ残して。そのとき彼はチラと不安に襲はれたが、それをどうすることもできなかつた。三日たち、五日たち、十日たち、キミ子は帰らなかつた。
外套と青空(がいとうとあおぞら)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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