私の一礼に答えて、
「ご緩り、ご覧なさい。」
 二、三の散佚はあろうが、言うまでもなく、堂の内壁にめぐらした八の棚に満ちて、二代基衡のこの一切経、一代清衡の金銀泥一行まぜ書の一切経、並に判官贔屓の第一人者、三代秀衡老雄の奉納した、黄紙宋板の一切経が、みな黒燿の珠玉の如く漆の架に満ちている。――一切経の全部量は、七駄片馬と称うるのである。
「――拝見をいたしました。」
「はい。」
 と腰衣の素足で立って、すっと、経堂を出て、朴歯の高足駄で、巻袖で、寒く細りと草を行く。清らかな僧であった。
「弁天堂を案内しますで。」
 と車夫が言った。
 向うを、墨染で一人行く若僧の姿が、寂しく、しかも何となく貴く、正に、まさしく彼処におわする……天女の御前へ、われらを導く、つつましく、謙譲なる、一個のお取次のように見えた。
 かくてこそ法師たるものの効はあろう。
 世に、緋、紫、金襴、緞子を装うて、伽藍に処すること、高家諸侯の如く、あるいは仏菩薩の玄関番として、衆俗を、受附で威張って追払うようなのが少くない。
 そんなのは、僧侶なんど、われらと、仏神の中を妨ぐる、姑だ、小姑だ、受附だ、三太夫だ、邪魔ものである。
 衆生は、きゃつばらを追払って、仏にも、祖師にも、天女にも、直接にお目にかかって話すがいい。
 時に、経堂を出た今は、真昼ながら、月光に酔[#ルビの「よ」は底本ではは「え」]い、桂の香に巻かれた心地がして、乱れたままの道芝を行くのが、青く清明なる円い床を通るようであった。
 階の下に立って、仰ぐと、典雅温優なる弁財天の金字に縁して、牡丹花の額がかかる。……いかにや、年ふる雨露に、彩色のかすかになったのが、木地の胡粉を、かえってゆかしく顕わして、萌黄に群青の影を添え、葉をかさねて、白緑碧藍の花をいだく。さながら瑠璃の牡丹である。
 ふと、高縁の雨落に、同じ花が二、三輪咲いているように見えた。
 扉がギイ、キリキリと……僧の姿は、うらに隠れつつ、見えずに開く。
 ぽかんと立ったのが極が悪い。
 ああ、もう彼処から透見をなすった。
 とそう思うほど、真白き面影、天女の姿は、すぐ其処に見えさせ給う。
 私は恥じて俯向いた。
「そのままでお宜しい。」
 壇は、下駄のままでと彼の僧が言うのである。
 なかなか。
 足袋の、そんなに汚れていないのが、まだしもであった。
 蜀紅の錦と言う、天蓋も広くかかって、真黒き御髪の宝釵の玉一つをも遮らない、御面影の妙なること、御目ざしの美しさ、……申さんは恐多い。ただ、西の方遥に、山城国、浄瑠璃寺、吉祥天のお写真に似させ給う。白理、優婉、明麗なる、お十八、九ばかりの、略人だけの坐像である。
 ト手をついて対したが、見上ぐる瞳に、御頬のあたり、幽に、いまにも莞爾と遊ばしそうで、まざまざとは拝めない。
 私は、端坐して、いにしえの、通夜と言う事の意味を確に知った。
 このままに二時いたら、微妙な、御声が、あの、お口許の微笑から。――
 さて壇を退きざまに、僧のとざす扉につれて、かしこくもおんなごりさえ惜まれまいらすようで、涙ぐましくまた額を仰いだ。御堂そのまま、私は碧瑠璃の牡丹花の裡に入って、また牡丹花の裡から出たようであった。
 花の影が、大な蝶のように草に映した。
 月ある、明なる時、花の朧なる夕、天女が、この縁側に、ちょっと端居の腰を掛けていたまうと、経蔵から、侍士、童子、払子、錫杖を左右に、赤い獅子に騎して、文珠師利が、悠然と、草をのりながら、
「今晩は――姫君、いかが。」
 などと、お話がありそうである。
 と、麓の牛が白象にかわって、普賢菩薩が、あの山吹のあたりを御散歩。
 まったく、一山の仏たち、大な石地蔵も凄いように活きていらるる。
 下向の時、あらためて、見霽の四阿に立った。
 伊勢、亀井、片岡、鷲尾、四天王の松は、畑中、畝の四処に、雲を鎧い、
糸の風を浴びつつ、或ものは粛々として衣河に枝を聳かし、或ものは恋々として、高館に梢を伏せたのが、彫像の如くに視めらるる。
 その高館の址をば静にめぐって、北上川の水は、はるばる、瀬もなく、音もなく、雲の涯さえ見えず、ただ(はるばる)と言うように流るるのである。
 
「この奥に義経公。」
 車夫の言葉に、私は一度俥を下りた。
 帰途は――今度は高館を左に仰いで、津軽青森まで、遠く続くという、まばらに寂しい松並木の、旧街道を通ったのである。
 松並木の心細さ。
 途中で、都らしい女に逢ったら、私はもう一度車を飛下りて、手も背もかしたであろう。――判官にあこがるる、静の霊を、幻に感じた。
「あれは、鮭かい。」
 すれ違って一人、溌剌[#「剌」は底本では「刺」]たる大魚を提げて駈通ったものがある。
「鱒だ、――北上川で取れるでがすよ。」
 ああ、あの川を、はるばると――私は、はじめて一条長く細く水の糸を曳いて、魚の背とともに動く状を目に宿したのである。
「あれは、はあ、駅長様の許へ行くだかな。昨日も一尾上りました。その鱒は停車場前の小河屋で買ったでがすよ。」
「料理屋かね。」
「旅籠屋だ。新築でがしてな、まんずこの辺では彼店だね。まだ、旦那、昨日はその上に、はい鯉を一尾買入れたでなあ。」
「其処へ、つけておくれ、昼食に……」
 ――この旅籠屋は深切であった。
「鱒がありますね。」
 と心得たもので、
「照焼にして下さい。それから酒は罎詰のがあったらもらいたい、なりたけいいのを。」
 束髪に結った、丸ぽちゃなのが、
「はいはい。」
 と柔順だっけ。
 小用をたして帰ると、もの陰から、目を円くして、一大事そうに、
「あの、旦那様。」
「何だい。」
「照焼にせいという、お誂ですがなあ。」
「ああ。」
「川鱒は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可ないですかな。」
「ああ、結構だよ。」
 やがて、膳に、その塩焼と、別に誂えた玉子焼、青菜のひたし。椀がついて、蓋を取ると鯉汁である。ああ、昨日のだ。これはしかし、活きたのを料られると困ると思って、わざと註文はしなかったものである。
 口を溢れそうに、なみなみと二合のお銚子。
 いい心持の処へ、またお銚子が出た。
 喜多八の懐中、これにきたなくもうしろを見せて、
「こいつは余計だっけ。」
「でも、あの、四合罎一本、よそから取って上げましたので、なあ。」
 私は膝を拍って、感謝した。
「よし、よし、有難う。」
 香のものがついて、御飯をわざわざ炊いてくれた。
 これで、勘定が――道中記には肝心な処だ――二円八十銭……二人分です。
「帳場の、おかみさんに礼を言って下さい。」
 やがて停車場へ出ながら視ると、旅店の裏がすぐ水田で、隣との地境、行抜けの処に、花壇があって、牡丹が咲いた。竹の垣も結わないが、遊んでいた小児たちも、いたずらはしないと見える。
 ほかにも、商屋に、茶店に、一軒ずつ、庭あり、背戸あれば牡丹がある。往来の途中も、皆そうであった。かつ溝川にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家にさえ、大抵皆、菖蒲、杜若を植えていた。
 弁財天の御心が、自ら土地にあらわれるのであろう。
 忽ち、風暗く、柳が靡いた。
 停車場へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は雪を散らしそうに寒くなった。一千年のいにしえの古戦場の威力である。天には雲と雲と戦った。
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