鏡花全集 巻十六 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年4月20日 |
1987(昭和62)年12月3日第3刷 |
1987(昭和62)年12月3日第3刷 |
一
「いまの、あの婦人が抱いて居た嬰兒ですが、鯉か、鼈ででも有りさうでならないんですがね。」
「…………」
私は、默つて工學士の其の顏を視た。
「まさかとは思ひますが。」
赤坂の見附に近い、唯ある珈琲店の端近な卓子で、工學士は麥酒の硝子杯を控へて云つた。
私は卷莨を點けながら、
「あゝ、結構。私は、それが石地藏で、今のが姑護鳥でも構ひません。けれども、それぢや、貴方が世間へ濟まないでせう。」
六月の末であつた。府下澁谷邊に或茶話會があつて、斯の工學士が其の席に臨むのに、私は誘はれて一日出向いた。
談話の聽人は皆婦人で、綺麗な人が大分見えた、と云ふ質のであるから、羊羹、苺、念入に紫袱紗で薄茶の饗應まであつたが――辛抱をなさい――酒と云ふものは全然ない。が、豫ての覺悟である。それがために意地汚く、歸途に恁うした場所へ立寄つた次第ではない。
本來なら其の席で、工學士が話した或種の講述を、こゝに筆記でもした方が、讀まるゝ方々の利益なのであらうけれども、それは殊更に御海容を願ふとして置く。
實は往路にも同伴立つた。
指す方へ、煉瓦塀板塀續きの細い路を通る、とやがて其の會場に當る家の生垣で、其處で三つの外圍が三方へ岐れて三辻に成る……曲角の窪地で、日蔭の泥濘の處が――空は曇つて居た――殘ンの雪かと思ふ、散敷いた花で眞白であつた。
下へ行くと學士の背廣が明いくらゐ、今を盛と空に咲く。枝も梢も撓に滿ちて、仰向いて見上げると屋根よりは丈伸びた樹が、對に並んで二株あつた。李の時節でなし、卯木に非ず。そして、木犀のやうな甘い匂が、燻したやうに薫る。楕圓形の葉は、羽状複葉と云ふのが眞蒼に上から可愛い花をはら/\と包んで、鷺が緑なす蓑を被いで、彳みつゝ、颯と開いて、雙方から翼を交した、比翼連理の風情がある。
私は固よりである。……學士にも、此の香木の名が分らなかつた。
當日、席でも聞合せたが、居合はせた婦人連が亦誰も知らぬ。其の癖、佳薫のする花だと云つて、小さな枝ながら硝子杯に插して居たのがあつた。九州の猿が狙ふやうな褄の媚かしい姿をしても、下枝までも屆くまい。小鳥の啄んで落したのを通りがかりに拾つて來たものであらう。
「お乳のやうですわ。」
一人の處女が然う云つた。
成程、近々と見ると、白い小さな花の、薄りと色着いたのが一ツ一ツ、美い乳首のやうな形に見えた。
却説、日が暮れて、其の歸途である。
私たちは七丁目の終點から乘つて赤坂の方へ歸つて來た……あの間の電車は然して込合ふ程では無いのに、空怪しく雲脚が低く下つて、今にも一降來さうだつたので、人通りが慌しく、一町場二町場、近處へ用たしの分も便つたらしい、停留場毎に乘人の數が多かつた。
で、何時何處から乘組んだか、つい、それは知らなかつたが、丁ど私たちの並んで掛けた向う側――墓地とは反對――の處に、二十三四の色の白い婦人が居る……
先づ、色の白い婦と云はう、が、雪なす白さ、冷さではない。薄櫻の影がさす、朧に香ふ裝である。……こんなのこそ、膚と云ふより、不躾ながら肉と言はう。其胸は、合歡の花が雫しさうにほんのりと露である。
藍地に紺の立絞の浴衣を唯一重、絲ばかりの紅も見せず素膚に着た。襟をなぞへに膨りと乳を劃つて、衣が青い。青いのが葉に見えて、先刻の白い花が俤立つ……撫肩をたゆげに落して、すらりと長く膝の上へ、和々と重量を持たして、二の腕を撓やかに抱いたのが、其が嬰兒で、仰向けに寢た顏へ、白い帽子を掛けてある。寢顏に電燈を厭つたものであらう。嬰兒の顏は見えなかつた、だけ其だけ、懸念と云へば懸念なので、工學士が――鯉か鼈か、と云つたのは此であるが……
此の媚めいた胸のぬしは、顏立ちも際立つて美しかつた。鼻筋の象牙彫のやうにつんとしたのが難を言へば強過ぎる……かはりには目を恍惚と、何か物思ふ體に仰向いた、細面が引緊つて、口許とともに人品を崩さないで且つ威がある……其の顏だちが帶よりも、きりゝと細腰を緊めて居た。面で緊めた姿である。皓齒の一つも莞爾と綻びたら、はらりと解けて、帶も浴衣も其のまゝ消えて、膚の白い色が颯と簇つて咲かう。霞は花を包むと云ふが、此の婦は花が霞を包むのである。膚が衣を消すばかり、其の浴衣の青いのにも、胸襟のほのめく色はうつろはぬ、然も湯上りかと思ふ温さを全身に漲らして、髮の艶さへ滴るばかり濡々として、其がそよいで、硝子窓の風に額に絡はる、汗ばんでさへ居たらしい。
ふと明いた窓へ横向きに成つて、ほつれ毛を白々とした指で掻くと、あの花の香が強く薫つた、と思ふと緑の黒髮に、同じ白い花の小枝を活きたる蕚、湧立つ蕊を搖がして、鬢に插して居たのである。
唯、見た時、工學士の手が、確と私の手を握つた。
「下りませう。是非、談話があります。」
立つて見送れば、其の婦を乘せた電車は、見附の谷の窪んだ廣場へ、すら/\と降りて、一度暗く成つて停まつたが、忽ち風に乘つたやうに地盤を空ざまに颯と坂へ辷つて、青い火花がちらちらと、櫻の街樹に搦んだなり、暗夜の梢に消えた。
小雨がしと/\と町へかゝつた。
其處で珈琲店へ連立つて入つたのである。
こゝに、一寸斷つておくのは、工學士は嘗て苦學生で、其當時は、近縣に賣藥の行商をした事である。
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