4
ユダは後を尾行て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者なものか! 預言者なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
不安と疲労とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々として眠っていた。
イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可ない。お祈りをしよう」
ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑いに[#「惑いに」は底本では「惑いに」]入らぬよう祈るがいい」
イエスは如何にも寂しそうに云った。
と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
麓の方を指さした。
山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
それからその方へ小走って行った。
ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
そこで一隊は歩き出した。傍路からユダは先へ廻った。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
ユダは走りながらワクワクした。
マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
使徒達はイエスを囲繞いた。
イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついていた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
その時無花果の茂みを分け、つとユダが進み出た。
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
イエスの顔はひん曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
が、その次の瞬間には、以前の態度に返っていた。
兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」
こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
ユダだけは一人立っていた。
5
それは劇的の光景であった。
だが何物にも変化はなかった。
沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側で、曳かれて来るキリストを待っていた。
それは劇的の光景であった。
使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈された盃だ」
彼は両手を差し出した。
彼は、従容と縄を受けた。
誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山は静かになった。
ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望んでいた人の様に、従容と縛に就こうとは? 一体彼奴は何者だろう?」
ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
楊の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
どうにも不安でならなかった。
イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子大権の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
カヤパの司どる猶太教からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将に死に当たった。
人を死罪に行なうには、羅馬政府の方伯たるピラトに聞かなければならなかった。
サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて行った。
それは金曜日にあたっていた。おりから逾越の祝日で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいでいた。
ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外へ引き出した。棘の冕を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
イエスは十字架へ附けられた。
彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
彼の生命が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。
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