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お律と子等と(おりつとこらと)



        四

 一時間ののち店の二階には、谷村博士たにむらはかせを中心に、賢造けんぞう慎太郎しんたろう、おきぬの夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はおりつの診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格のたくましい谷村博士は、すすめられた茶をすすったのち、しばらくは胴衣チョッキ金鎖きんぐさりを太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、
戸沢とざわさんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。
「ただ今電話をかけさせました。――すぐにあがるとおっしゃったね。」
 賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈きゅうくつそうなひざを重ねていた。
「ええ、すぐに見えるそうです。」
「じゃそのかたが見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」
 谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。
「当年は梅雨つゆが長いようです。」
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」
 お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋ごふくやの主人は、短い口髭くちひげふち無しの眼鏡めがねと云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒はがゆさを感じながら、剛情に一人黙っていた。
 しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間にまじったのは、それからもないのちの事だった。黒絽くろろの羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃いんぎんな初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、
「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北なまりの声をかけた。
「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」
 谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。
「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」
 戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態ようだい可成かなり詳細に説明した。慎太郎には薄い博士のまゆが、戸沢の処方しょほうを聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。
 しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様おおように、二三度独りうなずいて見せた。
「いや、よくわかりました。無論十二指腸の潰瘍かいようです。が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。何しろこう下腹したはらが押し上げられるように痛いと云うんですから――」
「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」
 戸沢はセルのはかまの上にかついひじを張りながら、ちょいと首を傾けた。
 しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。
「熱なぞはそれでも昨日きのうよりは、ずっと低いようですが、――」
 その内にやっと賢造は、覚束ない反問の口を切った。しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作むぞうさにその言葉をさえぎった。
「それがいかんですな。熱はずんずんさがりながら、脈搏はかえってふえて来る。――と云うのがこの病の癖なんですから。」
「なるほど、そう云うものですかな。こりゃ我々若いものも、伺って置いてい事ですな。」
 お絹の夫は腕組みをした手に、時々口髭くちひげをひっぱっていた。慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。
「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候ちょうこうも見えないようでしたがな。――」
 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、かさず愛想あいその好い返事をした。
「そうでしょう。多分はあなたの御覧になったあとで発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」
「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」
 慎太郎はけわしい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうな※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
「今はとても動かせないです。まず差当さしあたりは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――今夜はまだ中々痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」
 谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣チョッキの時計を出して見ると、
「じゃ私はもう御暇おいとまします。」と、すぐに背広の腰をもたげた。
 慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診らいしんの礼を述べた。が、そのあいだも失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。
「どうか博士もまた二三日うちに、もう一度御診察を願いたいもので、――」
 戸沢は挨拶あいさつをすませてから、こう云ってまた頭を下げた。
「ええ、あがる事はいつでも上りますが、――」
 これが博士の最後の言葉だった。慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子はしごりながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………

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