七
「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」
賢造はお絹にこう云ったなり、
窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。
「慎ちゃん。お早う。」
「お早う、お母さんは?」
「
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――
もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に
「妙な事ってどんな事を?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は
「早いな。」
慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
五分の
「慎太郎が来たよ。」
戸沢の側に坐っていた父は
彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには
「手を握っておやり。」
慎太郎は父の云いつけ通り、両手の
母は彼の顔を見ると、
「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。
「いや、そんな事はありません。もう二三日の
戸沢は手を洗っていた。
「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」
母の枕もとの盆の上には、大神宮や
「
父は小声に看護婦へ云った。
「少し舌がつれるようですね。」
「口が御
慎太郎は看護婦の手から、水に
「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」
戸沢は
「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。
看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。
慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の
「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
慎太郎も苦笑した。
「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の
戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。
医者が雨の中を帰った
「眠いだろう?」
慎太郎はしゃがむように、長火鉢の
「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」
「うん、――
洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ
「でもお母さんが
「ちっとは楽になったと見えるねえ。」
叔母は母の
「四時までは苦しかったようですがね。」
そこへ松が台所から、
「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」
「はい、はい、今行きます。」
叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」
叔母がこう云って出て行くと、洋一も
「僕も一寝入りして来るかな。」
慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。
すると突然次の
「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」
慎太郎は
「お母さん。お母さん。」
母は彼に抱かれたまま、二三度体を
「お母さん。」
誰もまだそこへ来ない何秒かの
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月9日修正
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