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本所両国(ほんじょりょうごく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 10:19:56  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集 第四巻
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年6月5日
入力に使用: 1971(昭和46)年10月5日初版第5刷

 

  「大溝おほどぶ

 僕は本所界隈ほんじよかいわいのことをスケツチしろといふ社命を受け、同じ社のO君と一しよに久振ひさしぶりに本所へ出かけて行つた。今その印象記を書くのに当り、本所両国ほんじよりやうごくと題したのは或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気もただよつてゐることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちよつと電車の方向板はうかうばんじみた本所両国といふ題を用ひることにした。――
 僕は生れてから二十歳頃までずつと本所ほんじよに住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日こんにちのやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者らくごしやが比較的大勢おほぜい住んでゐた町である。従つて何処どこを歩いてみても、日本橋にほんばし京橋きやうばしのやうに大商店の並んだ往来わうらいなどはなかつた。若しその中に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それはわづか両国りやうごくから亀沢町かめざわちやうに至る元町もとまち通りか、或ははしから亀沢町に至るふた通り位なものだつたであらう。勿論そのほか石原いしはら通りや法恩寺橋ほふおんじばし通りにも低い瓦屋根かはらやねの商店はのきを並べてゐたのに違ひない。しかし広い「お竹倉たけぐら」をはじめ、「伊達様だてさま」「津軽様つがるさま」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。……
 殊に僕の住んでゐたのは「お竹倉たけぐら」に近い小泉町こいづみちやうである。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠ひふくしやうに変つてしまつた。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝おほどぶ」に囲まれた、雑木林ざふきばやしや竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だつた。「大溝」とはその名の示す通り、少くとも一間半あまりのどぶのことである。この溝は僕の知つてゐる頃にはもう黒い泥水をどろりとよどませてゐるばかりだつた。(僕はそこへ金魚にやる孑孑ぼうふらすくひに行つたことをきのふのやうに覚えてゐる。)しかし「御維新ごゐしん」以前には溝よりも堀に近かつたのであらう。僕の叔父をぢは十何歳かの時に年にも似合はない大小を差し、この溝の前にしやがんだまま、長い釣竿つりざををのばしてゐた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当さやあてをしかけた者があつた。叔父は勿論むつとして肩越しに相手を振り返つてみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かつた者はない。かういふ叔父はこの時にも相手によつては売られた喧嘩を買ふ位の勇気は持つてゐたのであらう。が、相手は誰かと思ふと、朱鞘しゆざやの大小を閂差くわんぬきざしに差した身のたけ抜群のさむらひだつた。しかも誰にも恐れられてゐた「新徴組しんちようぐみ」の一人ひとりに違ひなかつた。かれは叔父を尻目しりめにかけながら、にやにや笑つて歩いてゐた。叔父は彼を一目みたぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにゐたとかいふことである。
 僕は小学時代にも「大溝おほどぶ」の側を通る度にこの叔父をぢの話を思ひ出した。叔父は「御維新」以前には新刀無念流しんたうむねんりう剣客けんかくだつた。(叔父が安房あは上総かづさへ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と仕合をした話も矢張やはり僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊しやうぎたいに加はる志を持つてゐた。最後に僕の知つてゐる頃には年とつた猫背ねこぜの測量技師だつた。「大溝おほどぶ」は今日こんにち本所ほんじよにはない。叔父もまた大正の末年ばつねん[#「ばつねん」は正しいか?]食道癌しよくだうがんを病んで死んでしまつた。本所の印象記の一節にかういふことを加へるのは或は私事に及び過ぎるであらう。しかし僕はO君と一しよに両国橋を渡りながら、大川おほかはの向うに立ち並んだ無数のバラツクを眺めた時には実際烈しい流転るてんさうに驚かないわけにはかなかつた。僕の「大溝」を思ひ出したり、その又「大溝」に釣をしてゐた叔父を思ひ出したりすることもかならずしも偶然ではないのである。

     両国

 両国りやうごくの鉄橋は震災前しんさいぜんと変らないといつても差支さしつかへない。唯鉄の欄干らんかんの一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形くしがたの鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜あいじやくを感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日こんにちよりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、なみの荒い「百本杭ひやつぽんぐひ」やあしの茂つた中洲なかずを眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸かしに近い水の中に何本も立つてゐた乱杭らんぐひである。昔の芝居はころなどに多田ただ薬師やくし石切場いしきりばと一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸かしを使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸かしを歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこにむらがる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川おほかはでもさかなの釣れたことに多少の驚嘆をらしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚のなんなんだつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸かしへ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人ひとりもそこに来てゐなかつた。その代りに杭のあひだには坊主ばうず頭の土左衛門どざゑもん一人ひとり俯向うつむけに浪に揺すられてゐた。……
 両国橋りやうごくばしたもとにある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役にちろえきの陸軍総司令官大山巖おほやまいはほ侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清ほくしん事変の時には大平だいへいといふ広小路ひろこうぢ(両国)の絵草紙ゑざうし屋へき、石版刷せきばんずりの戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団ぎわだん匪徒ひと英吉利イギリス兵などはたふれてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張やはり日本兵も一人位ひとりくらゐは死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾露西亜ロシア位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達するわけにはかなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山なんざんたたかひ鉄条網てつでうまうにかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日こんにちでは誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年ぜんの日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じないわけにはかなかつた。
 この表忠碑のうしろには確か両国劇場りやうごくげきぢやうといふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災ぜんにも落成しない芝居小屋の煉瓦壁れんぐわべいを見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚うすぎたない亜鉛葺トタンぶきのバラツクのほかに何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜あいじやくを持つてゐないやうにこの煉瓦建れんぐわだての芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止こまとばしもこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼ゐぶむらろう二州楼にしうろうといふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。そのほか鮨屋すしや与平よへい鰻屋うなぎや須崎屋すさきや、牛肉のほかにも冬になるとししや猿を食はせる豊田屋とよだや、それから回向院ゑかうゐんの表門に近い横町よこちやうにあつた「坊主ぼうず軍鶏しやも」――かう一々数へ立てて見ると、本所ほんじよでも名高い食物屋くひものや大抵たいていこの界隈かいわいに集つてゐたらしい。

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