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本所両国(ほんじょりょうごく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 10:19:56  点击:  切换到繁體中文



     柳島

 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋あづまばしたもとへ出、そこへ来合せた円タクに乗つて柳島やなぎしまへ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋なりひらばしかどこかにあつた或可也かなり大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新ごゐしんぜん本所ほんじよの話をして貰つた。父は往来わうらいの左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだつた」とか「なんとかさまの裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊くびくくりとかの死骸を早桶はやをけに入れ、その又早桶を葭簀よしずに包んだ上、白張しらはりの提灯ちやうちんを一本立てて原の中にゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原くさはらの中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是かれこれ真夜中まよなかになると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少所謂いはゆる御朱引ごしゆびそと」のおもかげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来わうらいを見ながら、金銭を武器にする修羅界しゆらかいの空気を憂鬱に感じるばかりだつた。
 僕等は「橋本はしもと」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り伝ひに亀井戸かめゐど天神様てんじんさまへ行つて見ることにした。名高い柳島やなぎしまの「橋本」も今は食堂に変つてゐる。もつともこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども硝子ガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒燈けんとうは少くとも僕にははかなかつた。僕は勿論「橋本」の料理を云々うんぬんするほどの通人つうじんではない。のみならず「橋本」へ来たことさへあるかないかわからない位である。が、五代目菊五郎きくごろうの最初の脳溢血なういつけつを起したのは確かこの「橋本」の二階だつたであらう。
 掘割りを隔てた妙見様めうけんさまも今ではもうすつかり裸になつてゐる。それから掘割りに沿うた往来わうらいも、――僕は中学時代に蕪村ぶそん句集を読み、「君くや柳緑に路長し」といふ句に出合つた時、この往来にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田ありたドラツグや愛聖館あいせいくわんの並んだ、せせこましいなりに賑かな往来である。近頃私娼ししやうの多いとか云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草あさくさ千束町せんぞくまちにまだ私娼の多かつた頃のよるの景色を覚えてゐる。それは窓ごとにかげのさした十二階の聳えてゐる為にほとんど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊はいくわいする気にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺ふうし詩人しじん斎藤緑雨さいとうりよくうは十二階に悪趣味そのものを見いだしてゐた。すると明日みやうにちの詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にも彼等自身の「悪の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。

     萩寺あたり

 僕はろくでもないことを考へながら、ふと愛聖館あいせいくわん掲示板けいじばんを見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」
 産児制限論者は勿論、現世げんせいの人々はかういふ言葉に微笑しないわけにはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠しようこと思ふことは出来ない。いや、むしろ全能のしゆの憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所ほんじよの或場末ばすゑの小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈かいわいに住んでゐる人々は子供のかずの多い家ほどかへつて暮らしもらくだと云ふことである。それは又どの家の子供もかく十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金をかせいで来るからだと云うことである。愛聖館あいせいくわんの掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所ほんじよの或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。もつとも子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺はぎでらを見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文おちあひなほぶみ先生の石碑を前にした古池の水もれになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層ものびてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所ほんじよ猿江さるえにあつた僕の家の菩提寺ぼだいじを思ひ出した。この寺にはなんでも司馬江漢しばかうかん小林平八郎こばやしへいはちらうの墓のほかに名高い浦里時次郎うらざとときじろう翼比塚ひよくづか[#「比翼塚」の誤り?]も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りのに両刀をふるつて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張やはり小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりもむし禿かむろだつた。)この寺は――慈眼寺じげんじといふ日蓮にちれん宗の寺は震災よりも何年か前に染井そめゐ墓地ぼちのあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江さるえの墓地はいまだに僕の記憶に残つてゐる。就中なかんづく薄い水苔みづごけのついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華まんじゆしやげの赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所ほんじよ以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。
 萩寺はぎでらの先にある電柱(?)は「亀井戸かめゐど天神てんじん近道」といふペンキ塗りの道標だうへうを示してゐた。僕等はその横町よこちやうまがり、待合まちあひやカフエの軒を並べた、狭苦しい往来わうらいを歩いて行つた。が、肝腎かんじんの天神様へは容易よういに出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人ひとりメリンスのたもとひるがへしながら、傍若無人ばうじやくぶじんにゴムまりをついてゐた。
「天神様へはどうきますか?」
「あつち。」
 女の子は僕等に返事をしたのち、聞えよがしにこんなことを言つた。
「みんな天神様のことばかりくのね。」
 僕はちよつと忌々いまいましさを感じ、この如何いかにもこましやくれたとをばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目わきめも振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張やはまりをつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕もまた僕の小学時代には鉄面皮てつめんぴにも生薬屋きぐすりやへ行つて「半紙はんしを下さい」などと言つたものだつた。

     「天神様」

 僕等は門並かどなみの待合まちあひあひだをやつと「天神様てんじんさま」の裏門へ辿たどりついた。するとその門の中には夏外套を着た男が一人ひとり、何か滔々としやべりながら、「お立ち合ひ」の人々へ小さい法律書を売りつけてゐた。僕は彼の雄辯に辟易へきえきせずにはゐられなかつた。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を着た男が一人最新化学応用の目薬めぐすりと云ふものを売りつけてゐた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかつたものである。しかし広場の出来たのちにもここにかかる世見物小屋みせものごや[#「見世物小屋」の誤り?]き人形や「からくり」ばかりだつた。
「こつちは法律はふりつ、向うは化学――ですね。」
亀井戸かめゐども科学の世界になつたのでせう。」
 僕等はこんなことを話し合ひながら、久しぶりに「天神様」へお詣りに行つた。「天神様」の拝殿は仕合せにも昔に変つてゐない。いや、昔に変つてゐないのは筆塚ふでづかや石の牛も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思ひ出した。(が、僕の字は何年たつても、一向いつかう上達する容子ようすはない。)それから又石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思ひ出した。かう云ふ時に投げる銭は今のやうに一銭銅貨ではない。大抵たいていは五厘銭か寛永通宝くわんえいつうはうである。その又穴銭の中の文銭ぶんせんを集め、所謂いはゆる「文銭の指環ゆびわ」をこしらへたのも何年まへの流行であらう。僕等は拝殿の前へ立ち止まり、ちよつと帽をとつてお時宜じぎをした。
太鼓橋たいこばしも昔の通りですか?」
「ええ、――しかしこんなに小さかつたかな。」
「子供の時に大きいと思つたものは存外ぞんぐわいあとでは小さいものですね。」
「それは太鼓橋たいこばしばかりぢやないかも知れない。」
 僕等は暖簾のれんをかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やつと短い花房を垂らした藤棚ふぢだなの下を歩いて行つた。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変つてゐない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立つてゐるのは僕には何か時代錯誤を感じさせないわけにはかなかつた。江戸時代に興つた「風流」は江戸時代と一しよに滅んでしまつた。唯僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)にほひを残してゐた。けれども今はのあたりに、――O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾をし示した。
「カルシウム煎餅せんべいも売つてゐますね。」
「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだの亀の子は売つてゐる。」
 僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋ふなばしや」の葛餅くずもちを食ふ相談をした。が、本所ほんじよ疎遠そゑんになつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋あらものやの前に水をいてゐたおかみさんに田舎ゐなか者らしい質問をした。それから花柳病くわりうびやうの医院の前をやつと又船橋屋へ辿たどり着いた。船橋屋も家はあらたになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台えんだいに腰をおろし、鴨居かもゐの上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆ひとぼんづつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
 O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆ひとぼん三銭だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園かうとうばいゑんなどへ遠足に行つた帰りに度たびこの葛餅を食つたものである。江東梅園も臥龍梅ぐわりゆうばいと一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田すゐでんはんの木のあつた亀井戸かめゐどはかう云ふ梅の名所だつた為に南画なんぐわらしいおもむきを具へてゐた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来わうらいの向うに二階建の商店が何軒も軒を並べてゐる。……

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