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本所両国(ほんじょりょうごく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 10:19:56  点击:  切换到繁體中文



     「富士見の渡し」

 僕等は両国橋(りやうごくばし)の袂(たもと)を左へ切れ、大川(おほかは)に沿つて歩いて行つた。「百本杭(ひやつぽんぐひ)」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様(だてさま)」は残つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊(われい)神社のお神楽(かぐら)を見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神楽をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何処(どこ)を眺めても、亜鉛葺(トタンぶ)きのバラツクの外(ほか)に「伊達様」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達様」の庭には木犀(もくせい)が一本秋ごとに花を盛(も)つてゐたものである。僕はその薄甘(うすあま)い※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)ひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。
 流転(るてん)の相の僕を脅(おびやか)すのは「伊達様(だてさま)」の見えなかつたことばかりではない。僕は確かこの近所にあつた「富士見(ふじみ)の渡(わた)し」を思ひ出した。が、渡し場らしい小屋は何処(どこ)にも見えない。僕は丁度(ちやうど)道ばたに芋(いも)を洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無(うむ)をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸(かし)から「明治病院」の裏手に当る向う河岸(がし)へ通(かよ)つてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々何処(どこ)かの家(うち)の家鴨(あひる)なども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつた後(のち)も或親戚を尋ねる為めに度々(たびたび)「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派(さんゆうは)の「五(ご)りん」とかいふもののお上(かみ)さんだつた。僕の家(うち)へ何かの拍子(ひやうし)に円朝(ゑんてう)の息子(むすこ)の出入(しゆつにふ)したりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎(いまむらじらう)といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――
 僕は講談といふものを寄席(よせ)では殆(ほとん)ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の邑井吉瓶(むらゐきつぺい)だけである。(もつとも典山(てんざん)とか伯山(はくざん)とか或は又伯龍(はくりゆう)とかいふ新時代の芸術家を知らない訣(わけ)ではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵(たいてい)今村次郎(いまむらじらう)氏の速記本に依つた。しかし落語(らくご)は家族達と一しよに相生町(あひおひちやう)の広瀬(ひろせ)だの米沢町(よねざはちやう)(日本橋(にほんばし)区)の立花家(たちばなや)だのへ聞きに行つたものである。殊に度々(たびたび)行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎(あいにく)はつきりと覚えてゐない。唯吉田国五郎(よしだくにごろう)の人形芝居を見たことだけは未(いま)だにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵(たいてい)小幡小平次(こばたこへいじ)とか累(かさね)とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行(ゆ)き、久振(ひさしぶ)りに文楽(ぶんらく)を見物した。けれども今日(こんにち)の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業(かるわざ)じみたけれんを使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄(せいげん)の庵室(あんしつ)などでも、血だけらな[#「血だらけな」の誤り?]清玄の幽霊は大夫(たいふ)の見台(けんだい)が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席(よせ)の広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人(ひとり)である。
 そのうちに僕は震災前(ぜん)と――といふよりも寧(むし)ろ二十年前(ぜん)と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑(おさ)へた、三尺に足りない草土手(くさどて)である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河(さんか)在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情(なさけ)なかつた。

     「お竹倉」

 僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈(かいわい)に斃(たふ)れてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を全(まつた)うしたのは二十(はたち)前後の息子(むすこ)だけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めに捲(ま)き上げられ、安田家(やすだけ)の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条(でう)さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処(どこ)へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生(は)やす為めに蝙蝠(かうもり)の血などを頭へ塗(ぬ)つてゐた。)最後に僕の通(かよ)つてゐた江東(かうとう)小学校の校長さんは両眼とも明(めい)を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所(ほんじよ)に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張(やは)りこの界隈(かいわい)に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業(ひごふ)の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋(りやうごくばし)を渡つた人は大抵(たいてい)助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町(もとまち)通りには高圧線の落ちたのに触(ふ)れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
「兎(と)に角(かく)東京中でも被服廠(ひふくしやう)程大勢(おおぜい)焼け死んだところはなかつたのでせう。」
 かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉(たけぐら)」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新(ごゐしん)」前(ぜん)と変らなかつたものの、もう総武(そうぶ)鉄道会社の敷地の中(うち)に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、妄(みだ)りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林(ざふきばやし)や竹藪のある、町中(まちなか)には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川(おほかは)に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板(どぶいた)の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記(れふじんにつき)」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰(かげ)や大きい昼の月のかかつた雑木林の梢(こずゑ)を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳(いかめ)しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日(こんにち)を思へば、――「卻(かへ)つて并州(へいしう)を望めば是(これ)故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
 総武(そうぶ)鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜(よる)は「本所(ほんじよ)の七(なな)不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉(かたは)の芦(あし)」は何処(どこ)かこのあたりにあるものと信じない訣(わけ)には行(ゆ)かなかつた。現に夜学に通(かよ)ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃(ばかばや)しを聞き、てつきりあれは「狸囃(たぬきばや)し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕一人(ひとり)の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通(かよ)つてゐた線路工夫の一人(ひとり)は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。

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