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本所両国(ほんじょりょうごく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 10:19:56  点击:  切换到繁體中文



     錦糸堀

 僕は天神橋てんじんばしたもとから又円タクに乗ることにした。この界隈かいわいはどこを見ても、――僕はもう今昔こんじやくの変化を云々うんぬんするのにも退屈した。僕の目に触れるものはなかば出来上つた小公園である。或は亜鉛塀トタンべいめぐらした工場である。或は又見すぼらしいバラツクである。斎藤茂吉さいとうもきち氏は何かの機会に「もののきとどまらめやも」と歌ひ上げた。しかし今日こんにち本所ほんじよは「ものの行き」を現してゐない。そこにあるものは震災の為に生じた「ものの飛び」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠りやうまつしやうのあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電によろやくによでんといふ言葉のかならずしも誇張でないことを感じた。
 僕のかよつてゐた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変つてゐる。僕はこの中学校へ五年のあひだかよひつづけた。当時の校舎も震災の為に灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舎のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈かいわいは土のせてゐる為にポプラア以外の木は育ちにくかつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や数学を覚えたほかにも如何いかに僕等人間の情け無いものであるかを経験した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの悪口わるぐちを言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕等の彼をいぢめたのは格別理由のあつたわけではない。若し又理由らしいものを挙げるとすれば、唯彼の生意気なまいきだつた、――或は彼は彼自身を容易にげようとしなかつたからである。僕はもう五六年ぜん、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落してゐるのを感じた。彼は今は揚子江やうすこうの岸に不相変あひかはらず孤独に暮らしてゐる。……
 かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記はんじやうき」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれども唯一人ひとりこの機会にスケツチしておきたいのは山田やまだ先生である。山田先生は第三中学校の剣道部と云ふものの先生だつた。先生の剣道は封建ほうけん時代の剣客けんかくまさるとも劣らなかつたであらう。なんでも先生に学んだ一人ひとりは武徳会の大会に出、相手の小手こて竹刀しなひを入れると、余り気合ひのはげしかつた為に相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の伝へたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人せんにんに成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真紛しやうじんまぎれのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉たんれんにはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物学教室へき、そこにあつたコツプの昇汞水しようこうすゐを水と思つて飲みしてしまつた。それを知つた博物学の先生は驚いて医者を迎へにやつた。医者は勿論やつて来るが早いか、先生に吐剤とざいを飲ませようとした。けれども先生は吐剤と云ふことを知ると、自若じじやくとしてかう云ふ返事をした。
山田次郎吉やまだじろきちは六十を越しても、まだ人様ひとさまのゐられる前でへどを吐くほど耄碌まうろくはしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」
 先生はなんとか云ふ法を行ひ、とうとう医者にもかからずにしまつた。僕はこの三四年のあひだは誰からも先生の噂を聞かない。あの面長おもながの山田先生は或はもう列仙伝れつせんでん中の人々と一しよに遊んでゐるのであらう。しかし僕は不相変あひかはらずほこり臭い空気の中に、――僕等をのせた円タクは僕のそんなことを考へてゐるうちに江東橋かうとうばしを渡つて走つて行つた。

     緑町、亀沢町

 江東橋かうとうばしを渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は円タクの窓越しに赤錆あかさびをふいた亜鉛トタン屋根だのペンキ塗りの板目はめだのを見ながら、確か明治四十三年にあつた大水おほみづのことを思ひ出した。今日こんにち本所ほんじよは火事には会つても、洪水に会ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に残つてゐるのでは一番水嵩みづかさの高いものだつた。江東橋かうとうばし界隈かいわいの人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面にみなぎつた泥水の中を泳いでかなければならなかつた。……
「実際その時は大変でしたよ。もつとも僕のうちなどはゆかの上へ水は来なかつたけれども。」
「では浅い所もあつたのですね?」
緑町みどりちやう二丁目――かな。なんでもあの辺は膝位ひざくらゐまででしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地ろぢの奥にゐるもう一人ひとりの友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちがどぶの中へ落ちてしまつてね。……」
「ああ、水が出てゐたから、どぶのあることがわからなかつたんですね。」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子ひやうし可也かなり深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」
 僕等をのせた円タクはかう云ふ僕等の話のうち寿座ことぶきざの前を通り過ぎた。画看板ゑかんばんを掲げた寿座は余り昔と変らないらしかつた。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津軽つがる様」の屋敷だつた。「御維新ごゐしんまへの或年の正月、父は川向うへ年始にき、帰りに両国橋りやうごくばしを渡つて来ると、少しも見知らない若侍わかざむらひ一人ひとり偶然父と道づれになつた。彼もちやんと大小をさし、たかの紋のついた上下かみしもを着てゐた。父は彼と話してゐるうちにいつか僕のうちを通り過ぎてしまつた。のみならずふと気づいた時には「津軽様」のどぶの中へ転げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまま、僕のうちへ帰つて来た。何でも父の刀は鞘走さやばしつた拍子ひやうしにさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍にけた狐は(父はいまだこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れた為にやつと逃げ出したのだと云ふことである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支さしつかへない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所ほんじよ如何いかに寂しかつたかを想像してゐた。
 僕等は亀沢町かめざはちやうかどで円タクをおり、元町もとまち通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵じゆとくあんは昔のやうにやはり繁昌はんじやうしてゐるらしい。しかしその向うの質屋しちやの店は安田やすだ銀行に変つてゐる。この質屋の「いちやん」も僕の小学時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等のうちにあるものを自慢じまんし合つたことを覚えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人こやくにん息子むすこばかりではない。が、誰も「いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。
「僕のうち土蔵どざうの中には大砲おほづつ万右衛門まんゑもん化粧廻けしやうまはしもある。」
 大砲おほづつは僕等の小学時代に、――常陸山ひたちやまうめたにの大関だつた時代に横綱を張つた相撲すまふだつた。

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