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黒百合(くろゆり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 13:13:48  点击:  切换到繁體中文



       十六

貴方あなた御存じでございますか。」
「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」
 かや軒端のきばに鳥の声、というわびしいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸たすきがけで拭込ふきこむので、朽目くちめほこりたまらず、冷々ひやひやと濡色を見せて涼しげな縁に端居はしいして、柱にせなを持たしたのは若山ひらくわずらいのある双の目をふさいだまま。
 うまれは東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳あおやぎという旅店に一泊した。その賊のためにのこらず金子きんすを奪われて、あくる日の宿料もない始末。七日十日逗留とうりゅうして故郷へ手紙を出した処で、仔細しさいあって送金の見込はないので、進退きわまったのを、よろしゅうがすというような気前の商人あきんどはここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人ひととなりに見る所があって、世話をして、足をとどめさせたということを、かつておしえを受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒あるさむらいがしばし世を忍ぶ生計たつきによくある私塾を開いた。温厚篤実とくじつ、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子おしえごも多く、皆敬い、なずいていたが、日もたず目を煩って久しくえないので、英書をけみし、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。
 先生むぐらではございますが、庭も少々、裏が山つづきで風もよしまちにも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代稽古だいげいこも勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。
 後はこの侘住居わびすまいに、拓と雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便たよりもないので、うら若い身で病人を達引たてひいて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤児みなしごで、父はかつて地方裁判所に、明決、快断のほまれある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚のむすめを、心着かず入れてしょうとして、それがために暗殺された。この住居すまいは父が静を養うために古屋こおくあがなった別業の荒れたのである。近所に、癩病かったい医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣家となりの荒物屋で駄菓子、油、蚊遣香かやりこうまでも商っている婆さんが来て、瓦鉢かわらばちの欠けた中へ、杉の枯葉を突込つっこんでいぶしながら、庭先にかがんでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可愛かわゆくてならないので。
 一体、ここはもと山の裾の温泉宿ゆやどの一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山くずれがあって洪水でみずの時からはたとかなくなった。温泉いでゆの口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪畳やぶだたみの蔭にある洞穴ほらあなであることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主ともいつべき居てつきのおうな、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、まちの者は蚊だと思う。木屑きくずなどをいた位で追着おッつかぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉すぎッぱいてくれる深切さ。縁側に両人ふたり並んだのを見て嬉しそうに、
「へい、旦那様知ってるだね。」

       十七

「百合には種類が沢山あるそうだよ。」
 ささめ、為朝ためとも博多はかた、鬼百合、姫百合は歌俳諧にもんで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色そめいろは、くれない、黄、すかししぼり、白百合は潔く、たもと鹿の子は愛々しい。薩摩さつま琉球りゅうきゅう、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹もみきれで美しく目をおさえ、おうなを見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、
「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主とくいの、知事の嬢さんが、よく知っておいでだろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒まっくろな花というものはないそうさ。」
「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾えみかたむけては打頷うちうなずく。
「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、ななめに縁側に掛けている。
「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑がまじった、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、こずえの処へつぼみを持つのはほかの百合も違いはない。花弁はなびらは六つだ、しべも六つあって、黄色い粉の袋が附着くッついてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国ほっこくの高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山はくさんで取ったのと、信州のこまヶ嶽たけ御嶽おんたけと、もう一色ひといろ、北海道の札幌で見出みだしたのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。
 お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」
「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いておりますとおり、芝居でいたします早百合さゆり姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西フランスにいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合うけあいはしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外当地ここでもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方あなた、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」
 とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪のやつれた姿は、蚊遣の中に悄然しょうぜんとして見えたが、おもてには一種不可言の勇気とよろこびの色がかすかに動いた。
「おお、くすぶる燻る、これはたまりませぬ、お目の悪いに。」
 一団のけぶりが急にうづまいて出るのを、つかんで投げんと欲するごとく、婆さんは手をった。風があたって、ぱっ[#「火+發」、262-14]とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏たそがれの色は一面に裏山をめて庭にかかれり。
 若山は半面に団扇をかざして、
当地こちらで黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」

       十八

「ねえ、お婆さん。」
 お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方そなたを見た。
 湯の谷の主は習わずしておのずから這般しゃはんの問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、
「はい、石滝いわたきの奥には咲くそうでござります。」
 若山は静かに目を眠ったまま、
「どんな処ですか。」
「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。
「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋もかかっておりまするで、素麺そうめん、白玉、心太ところてんなど冷物ひやしものもござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣をあおぐ団扇の手を留めて、その柄をつくばった膝の上にする。
「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」
「それはもう昼も夜も真暗まっくらでござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光がすのじゃござりませぬ。
 一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北まッきたに当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田※たんぼ[#「なべぶた/(田+久)」、264-5]も広々としていつもあかるうござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りましたためしはござりませぬよ。」
「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんのことばを取って、確めてこれを男に告げた。
 若山はややあって、
「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言いつたえで、何か黒百合といえば因縁事のまつわった、美しい、黒い、つやを持った、紫色の、物凄ものすごい、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今のはなしでは、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月かげつ花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでもこうというのか。」と落着いて尋ねて、かれは気遣わしく傾いた。
「…………」お雪はふとその答につかえたが、婆さんはかえって猶予ためらわない。
「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝までかれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をしてばばは消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢かわらばちの底に赤く残って、けぶりも立たず燃え尽しぬ。
「お婆さん、御深切に難有ありがとう。」
 とうっかり物おもいに沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。
「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭いやらしいお客がござって迷惑なら、私家わしとこへ来て、かがんで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。

       十九

 帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外おもてへ出てく。荒物屋のばばあはこの時分からせわしい商売がある、隣の医者がうちばかり昔の温泉宿ゆやど名残なごりとどめて、いたずらに大構おおがまえの癖に、昼も夜も寂莫せきばくとして物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈まめランプの灯が一ツあれば、ふすまも、壁も、飯櫃めしびつの底まで、戸外おもてから一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取ひやといなどが、一廓をした貧乏町。思い思い、町々八方へちらばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時ひとしきり騒がしい。水をむ、胡瓜きゅうりを刻む。俎板まないたとんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸なまあくびをして大歎息を発する。翌日あくるひの天気の噂をする、お題目を唱える、小児こどもを叱る、わッという。戸外おもてでは幼い声で、――蛍来い、山見て来い、行燈あんどの光をちょいと見て来い!
「これこれ暗くなった。天狗様がさらわっしゃるに寝っしゃい。」と帰途かえりがけに門口かどぐちで小児をおどしながら、婆さんは留守にしたおのれの店の、草鞋わらじの下をくぐって入った。
 草履を土間に脱いで、一渡ひとわたり店の売物に目を配ると、真中まんなかつるした古いブリキの笠の洋燈ランプは暗いが、駄菓子にもあめにも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。
可恐おそろしいうなりじゃな。」とつぶやいて、一間口けんぐちへだての障子の中へ、腰を曲げて天窓あたまから入ると、
「おう、帰ったのか。」
「おや。」
ひどい蚊だなあ。」
「まあ、お前様めえさま。まあ、こんな中に先刻さっきにからござらせえたか。」
「今しがた。」
「暗いから、はや、なおたまりましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外ひっぱずしてござればいに。」
 深切を叱言こごとのごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。
いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢けはいがした。
「近所の静まるまで、もうちっとあかしけないでおけよ。」
「へい。」
のぞくとうるさいや。」
「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」
「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」
「可いようにさっしゃりませ。」
「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人此家ここへ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」
「お友達かね。お前様は物事ものずきじゃでいけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」
 言いも終らず、快活に、
「気扱いがいる奴じゃねえ、きたね婦人おんなよ。」
「おや!」と頓興とんきょにいった、ばばの声の下にくすくすと笑うのが聞える。
「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児こどもの声、繰返して、
「おくんな。」
「おい。」
しずかに………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。

       二十

 ばばが帰ったあと、縁側に身を開いて、一人は柱にって仰向あおむき、一人は膝に手を置いて俯向うつむいて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お雪は、突然驚いたようにいった。
「あれ星が飛びましたよ。」
 湯の谷もここは山の方へはずれの家で、奥庭が深いから、はたの騒しいのにもかかわらず、しんとした藪蔭やぶかげに、細い、青い光物が見えたので。
「ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。」
 と力なげに団扇持った手を下げて、
「今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推してくのは不可いけない。何も、妖物ばけものが出るの、魔がつかむのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足もれない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、つち工合ぐあいむと崩れるようなことがないとも限らないから。」
「はい、」
く気じゃあるまいね。」とやや力をめて確めた。
「はい、」と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、あわただしく、
「蛍です。」
 と立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。
「まあ、珍らしい、石滝から参りました。」
 このあたりに蛍は珍らしいものであった、一つびとつ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、みなしご孀婦やもめ、あわれなのが、そことも分かず彷徨さまよって来たのであろう。人可懐なつかしげにも見えて近々と寄って来る。お雪は細いに立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出てたもとを振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園生そのうにちらちら、髪も見えた、ほのかに雪なす顔を向けて、
「団扇を下さいなちょいと、あれ、」と打つ。蛍はれて、若山が上のひさしに生えた一八いちはつの中にかろく留まった。
「さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰児あかさんだな。」と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交際つきあいにも蛍かといって発奮はずみはせず、動悸どうきのするまで立廻って、手をすべらした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男のひややかさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰児あかんぼだといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方をながめたが、爪先つまさきを軽く、するすると縁側に引返ひっかえして、ものありげに――こうつんとした事は今までにはなかったが――黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪立つまだって、廂を払うと、ふッと消えた、光はひるがえした団扇の絵の、滝の上をうてそのながれも動く風情。
 お雪はみまもって、ほっと息をいて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰をじて、ななめに身を寄せて、くだんの団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、
「可愛いでしょう、」といった声も尋常ただならず。
「何か、石滝の蛍か、そうか。」といって若山は何ともなしに微笑ほほえんだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。

       二十一

「歩きますわ、御覧なさいな。」と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、はかない一点の青いともしで、しばしば男の顔を透かして差覗さしのぞく。
 男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けてけようとするのを、また、
「御覧なさいな、」と、人知れずお雪は涙含なみだぐんで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、
「止せ!」
 若山はてのひらをもてはたと払ったが、はしなく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。
「あれ、」といってお雪は顔を見ながら、と胸をいて背後うしろ退すさる。
 かれは膝を立直して、
「見えやあしない。」
「ええ!」
「僕の目がつぶれたんだ。」
 言いさま整然ちゃんとして坐り直る、怒気満面にあふれて男性の意気さかんに、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔をおおうて俯伏うつぶしになった。
「どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えばい。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目前めさきへ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くのと、まるでなぶるようなもんじゃあないか。女の癖に、第一失敬ださ。」
 と、声を鋭く判然はっきりと言い放つ。言葉の端にはおのずから、かかる田舎にこうして、女の手に養われていらるべき身分ではないことが、響いて聞える。
「そんな心懸こころがけじゃあ盲目めくらの夫の前で、情郎いろおとこ巫山戯ふざけかねはしないだろう。いやになったらさっぱりと突出すが可いじゃあないか、あわれななさけないものをつかまえて、いじめるなあ残酷だ。また僕も苛められるようなものになったんだ、全くのこッた、僕はこんな所にお前様まえさんほどの女が居ようとは思わなんだ。気の毒なほど深切にされる上に、打明けていえば迷わされて、はやく身を立てよう、行末を考えようと思いながら、右を見ても左を見ても、薬屋の金持か、せいぜいが知事か書記官の居る所で、しかも荒物屋の婆さんや近所の日傭取ひやといにばかり口を利いて暮すもんだからいつの間にか奮発気がなくなって、引込思案になる所へ、目のわずらいを持込んで、我ながら意気地はない。口へ出すのもみッともないや。お前さんに優しくされて朝晩にゃ顔を見て、一所に居るのが嬉しくッて、恥も義理も忘れたそうだ。そっちじゃあ親はなし、あにさんは兵に取られているしよ、こういっちゃあ可笑おかしいけれども、ただ僕をたよりにしている。僕はまた実際つえとも柱とも頼まれてやる気だもんだから、今目が見えなくなったといっちゃあ、どんなに力を落すだろう。お前さんばかりじゃない、人のことより僕だって大変だ。死んでも取返しのつかないほど口惜しいから、心にだけも盲目めくらになったと思うまい、目が見えないたあいうまいと、手探てさぐりの真似もしないで、苦しい、切ないおもいをするのに、何が面白くッてそんな真似をするんだな。されるのはこっちが悪い、意気地なしのしみったれじゃアあるけれども。」
 お雪の泣声が耳にると、若山は、口にふたをされたようになって黙った。

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