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高野聖(こうやひじり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 13:25:57  点击:  切换到繁體中文



     七

はてしが無いからきもえた、もとより引返す分ではない。もとところにはやっぱり丈足じょうたらずのむくろがある、遠くへけて草の中へけ抜けたが、今にもあとの半分がまといつきそうでたまらぬから気臆きおくれがして足が筋張すじばると石につまずいて転んだ、その時膝節ひざぶしを痛めましたものと見える。
 それからがくがくして歩行あるくのが少し難渋なんじゅうになったけれども、ここでたおれては温気うんき蒸殺むしころされるばかりじゃと、我身で我身をはげまして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。
 何しろ路傍みちばたの草いきれがおそろしい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許あしもとにごろごろしている茂り塩梅あんばい
 また二里ばかり大蛇おろちうねるような坂を、山懐やまぶところ突当つきあたって岩角を曲って、木の根をめぐって参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀さんぼう本部の絵図面を開いて見ました。
 何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにもかわりはない、旧道はこちらに相違はないから心遣こころやりにも何にもならず、もとよりれっきとした図面というて、いてある道はただくりいがの上へ赤い筋が引張ってあるばかり。
 難儀なんぎさも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりとたたんでふところに入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立直ったはよいが、息も引かぬうち情無なさけない長虫が路を切った。
 そこでもう所詮しょせんかなわぬと思ったなり、これはこの山のれいであろうと考えて、杖をてて膝を曲げ、じりじりするつちに両手をついて、
(誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡ひるね邪魔じゃまになりませぬようにそっと通行いたしまする。
 ごらんの通り杖も棄てました。)とれしみじみと頼んで額を上げるとざっというすさまじい音で。
 心持こころもちよほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、かたえたにへ一文字にさっとなびいた、はてみねも山も一斉にゆらいだ、恐毛おぞげふるって立竦たちすくむと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪やまおろしよ。
 この折から聞えはじめたのはどっという山彦こだまに伝わるひびき、ちょうど山の奥に風が渦巻うづまいてそこから吹起ふきおこる穴があいたように感じられる。
 何しろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さもしのぎよくなったので、気もいさみ足も捗取はかどったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得えとくすることが出来た。
 というのは目の前に大森林があらわれたので。
 世のたとえにも天生あもう峠は蒼空あおぞらに雨が降るという、人の話にも神代かみよからそまが手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。
 今度は蛇のかわりにかにが歩きそうで草鞋わらじが冷えた。しばらくすると暗くなった、杉、松、えのき処々ところどころ見分けが出来るばかりに遠い処からかすかに日の光のすあたりでは、土の色が皆黒い。中には光線が森を射通いとお工合ぐあいであろう、青だの、赤だの、ひだがって美しい処があった。
 時々爪尖つまさきからまるのは葉のしずく落溜おちたまった糸のようなながれで、これは枝を打って高い処を走るので。ともするとまた常磐木ときわぎが落葉する、何の樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠ひのきがさにかかることもある、あるいは行過ぎた背後うしろへこぼれるのもある、それは枝から枝にたまっていて何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。」

     八

「心細さは申すまでもなかったが、卑怯ひきょうなようでも修行しゅぎょうの積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便たよりがよい。何しろ体がしのぎよくなったために足のよわりも忘れたので、道も大きに捗取はかどって、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓あたまの上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。
 なまりおもりかとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着くッついていてそのままには取れないから、何心なく手をやってつかむと、なめらかにひやりと来た。
 見ると海鼠なまこいたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずるとすべって指のさきへ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々たらたらと出たから、吃驚びっくりして目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げたひじの処へつるりと垂懸たれかかっているのは同形おなじかたちをした、幅が五分、たけが三寸ばかりの山海鼠やまなまこ
 呆気あっけに取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血いきちをしたたかに吸込むせいで、にごった黒い滑らかなはだ茶褐色ちゃかっしょくしまをもった、疣胡瓜いぼきゅうりのような血を取る動物、こいつはひるじゃよ。
 が目にも見違えるわけのものではないが、図抜ずぬけて余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何のはたけでも、どんな履歴りれきのあるぬまでも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。
 肱をばさりとふるったけれども、よく喰込くいこんだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ぶきみながら手でつまんで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくもたまったものではない、突然いきなり取って大地へたたきつけると、これほどの奴等やつらが何万となく巣をくってわがものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土はやわらかい、つぶれそうにもないのじゃ。
 ともはやえりのあたりがむずむずして来た、平手ひらてこいて見ると横撫よこなでに蛭のせなをぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へひそんで帯の間にも一ぴきあおくなってそッと見ると肩の上にも一筋。
 思わず飛上って総身そうしんを震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中むちゅうでもぎ取った。
 何にしても恐しい今の枝には蛭がっているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱりいくツということもない蛭の皮じゃ。
 これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満いっぱい
 私は思わず恐怖きょうふの声を立ててさけんだ、すると何と? この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒なせた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。
 草鞋を穿いた足のこうへも落ちた上へまたかさなり、並んだわきへまた附着くッついて爪先つまさきも分らなくなった、そうしてきてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮のびちぢみをするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。
 この恐しい山蛭やまびる神代かみよいにしえからここにたむろをしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛なんごくかの血を吸うと、そこでこの虫ののぞみかなう、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出はきだすと、それがために土がとけて山一ツ一面に血とどろとの大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光をさえぎって昼もなお暗い大木が切々きれぎれに一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違そういないと、いや、全くの事で。」

     九

「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮うすかわが破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被おっかぶさるのでもない、飛騨国ひだのくに樹林きばやしが蛭になるのが最初で、しまいにはみんな血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それがだいがわりの世界であろうと、ぼんやり。
 なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだらや残らず立樹たちきの根の方からちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁いんねんらしい、取留とりとめのない考えが浮んだのも人が知死期ちしごちかづいたからだとふと気が付いた。
 どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者がゆめにも知らぬ血と泥の大沼の片端かたはしでも見ておこうと、そう覚悟かくごがきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠数生じゅずなりになったのを手当てあたり次第に※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むして、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるでおどり狂う形で歩行あるき出した。
 はじめのうち一廻ひとまわりも太ったように思われてかゆさがたまらなかったが、しまいにはげっそりせたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦ようしゃなく歩行あるく内にも入交いりまじりにおそいおった。
 すでに目もくらんで倒れそうになると、わざわいはこの辺が絶頂であったと見えて、隧道トンネルを抜けたように、はるか一輪いちりんのかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。
 いや蒼空あおぞらの下へ出た時には、何のことも忘れて、くだけろ、微塵みじんになれと横なぐりに体を山路やまじ打倒うちたおした。それでからもう砂利じゃりでも針でもあれとつちへこすりつけて、十余りも蛭の死骸しがいひっくりかえした上から、五六けん向うへ飛んで身顫みぶるいをして突立つッたった。
 人を馬鹿ばかにしているではありませんか。あたりの山では処々ところどころ茅蜩殿ひぐらしどの、血と泥の大沼になろうという森をひかえて鳴いている、日はななめ渓底たにそこはもう暗い。
 まずこれならばおおかみ餌食えじきになってもそれは一思ひとおもいに死なれるからと、路はちょうどだらだらおりなり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこらげたわ。
 これで蛭に悩まされて痛いのか、かゆいのか、それともくすぐったいのかもいわれぬ苦しみさえなかったら、うれしさにひと飛騨山越ひだやまごえ間道かんどうで、おきょうふしをつけて外道踊げどうおどりをやったであろう、ちょっと清心丹せいしんたんでも噛砕かみくだいて疵口きずぐちへつけたらどうだと、だいぶ世の中の事に気がついて来たわ。つねってもたしか活返いきかえったのじゃが、それにしても富山の薬売はどうしたろう、あの様子ようすではとうに血になって泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地のきたな下司げすな動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、をぶちまけても分る気遣きづかいはあるまい。
 こう思っている間、くだんのだらだら坂は大分長かった。
 それをくだり切ると流が聞えて、とんだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。
 はやその谷川の音を聞くと我身で持余もてあます蛭の吸殻すいがら真逆まっさかさまに投込んで、水にひたしたらさぞいい心地ここちであろうと思うくらい、何の渡りかけてこわれたらそれなりけり。
 危いとも思わずにずっとかかる、少しぐらぐらしたが難なく越した。向うからまた坂じゃ、今度はのぼりさ、ご苦労千万。」

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