泉鏡花集成7 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1995(平成7)年12月4日 |
1995(平成7)年12月4日第1刷 |
1995(平成7)年12月4日第1刷 |
鏡花全集 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年7月刊行開始 |
場所 越前国大野郡鹿見村琴弾谷
時 現代。――盛夏
人名 萩原晃(鐘楼守)
百合(娘)
山沢学円(文学士)
白雪姫(夜叉ヶ池の主)
湯尾峠の万年姥(眷属)
白男の鯉七
大蟹五郎
木の芽峠の山椿
鯖江太郎
鯖波次郎
虎杖の入道
十三塚の骨
夥多の影法師
黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者)
与十(鹿見村百姓)
その他大勢
鹿見宅膳(神官)
権藤管八(村会議員)
斎田初雄(小学教師)
畑上嘉伝次(村長)
伝吉(博徒)
小烏風呂助(小相撲)
穴隈鉱蔵(県の代議士)
劇中名をいうもの。――(白山剣ヶ峰、千蛇ヶ池の公達)
[#改ページ]
三国岳の麓の里に、暮六つの鐘きこゆ。――幕を開く。
萩原晃この時白髪のつくり、鐘楼の上に立ちて夕陽を望みつつあり。鐘楼は柱に蔦からまり、高き石段に苔蒸し、棟には草生ゆ。晃やがて徐に段を下りて、清水に米を磨ぐお百合の背後に行く。
晃 水は、美しい。いつ見ても……美しいな。
百合 ええ。
その水の岸に菖蒲あり二三輪小さき花咲く。
晃 綺麗な水だよ。(微笑む。)
百合 (白髪の鬢に手を当てて)でも、白いのでございますもの。
晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。……(框の縁に腰を掛く)お勝手働き御苦労、せっかくのお手を水仕事で台なしは恐多い、ちとお手伝いと行こうかな。
百合 可うございますよ。
晃 いや……お手伝いという処だが、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映したようでなお綺麗だ。
百合 存じません。
晃 賞めるのに怒る奴がありますか。
百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦那様は、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。
晃 鐘を撞く旦那はおかしい。実は権助と名を替えて、早速お飯にありつきたい。何とも可恐く腹が空いて、今、鐘を撞いた撞木が、杖になれば可いと思った。ところで居催促という形もある。
百合 ほほほ、またお極り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。
晃 手品じゃあるまいし、磨いでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。
百合 まあ、あんな事を――これは翌朝の分を仕掛けておくのでございますよ。
晃 翌朝の分――ああ、お所帯もち、さもあるべき事です。いや、それを聞いて安心したら、がっかりして余計空いた。
百合 何でございますねえ。……お菜も、あの、お好きな鴫焼をして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。お腹が空いたって、人が聞くと笑います。
晃 (縁を上る)誰に遠慮がいるものか、人が笑うのは、ね、お前。
百合 はい。
晃 お互いに朝寝の時――
百合 知りませんよ。(莞爾俯向く。)
晃 煩く薮蚊が押寄せた。裏縁で燻してやろう。(納戸、背後むきに山を仰ぐ)……雲の峰を焼落した、三国ヶ岳は火のようだ。西は近江、北は加賀、幽に美濃の山々峰々、数万の松明を列ねたように旱の焔で取巻いた。夜叉ヶ池へも映るらしい。ちょうどその水の上あたり、宵の明星の色さえ赤い。……なかなか雨らしい影もないな。
百合 ……その竜が棲む、夜叉ヶ池からお池の水が続くと申します。ここの清水も気のせいやら、流が沢山痩せました。このごろは村方で大騒ぎをしています。……暑さは強し……貴方、お身体に触りはしますまいかと、――めしあがりものの不自由な片山里は心細い。私はそれが心配でなりません。
晃 流が細ったって構うものか。お前こそ、その上夏痩せをしないが可い。お百合さん、その夕顔の花に、ちょっと手を触ってみないか。
百合 はい、どういたすのでございますか。
晃 花にも葉にも露があろうね。
百合 ああ冷い。水の手にも涼しいほど、しっとり花が濡れましたよ。
晃 世間の人には金が要ろう、田地も要ろう、雨もなければなるまいが、我々二人活きるには、百日照っても乾きはしない。その、露があれば沢山なんだ。(戸外に向える障子を閉す。)
百合 貴方、お暑うございましょう。開けておおきなさいましても、もう、そちこち人も通りますまい。
晃 何、更って、そんな心配をするものか。……晩方閉込んで一燻し燻しておくと、蚊が大分楽になるよ。
時に蚊遣の煙なびく、
学円。日に焼けたるパナマ帽子、背広の服、落着のある人体なり。風呂敷包を斜に背い、脚絆草鞋穿、杖づくりの洋傘をついて、鐘楼の下に出づ。打仰ぎ鐘を眺め、
学円 今朝、明六つの橋を渡って、ここで暮六つの鐘を聞いた。……
お百合は笊に米をうつす。
学円 やあ、お精が出ます。(と声を掛く。)
百合 はい。(見向く。)
学円 途中、畷の竹藪の処へ出て……暗くなった処で、今しがた聞きました。時を打ったはこの鐘でしょうな。
百合 さようでございます。
学円 音も尊い!……立派な鐘じゃ。鐘楼へ上ってみても差支えはありませんか。
百合 (笊を抱えて立つ)ええ、大事ござんせん。けれども貴客、御串戯に、お杖やなんぞでお敲き遊ばしては不可ません。
学円 西瓜を買うのではありません。決して敲いてはみますまい。(笑う。)
百合 御串戯おっしゃいます。……いいえ、悪戯を遊ばすようなお方とは、お見受け申しはしませんけれど、その鐘は、明六つと、暮六つと、夜中丑満に一度、――三度のほかは鳴らさない事になっておりますから、失礼とは存じましたが、ちょっと申上げたのでございます。さあ、どうぞ御遠慮なく、上って御覧なさいまし。(夕顔の垣根について入んとす。)
学円 ああ、ちょっと……お待ち下さい。鐘を見ようと思いますが、ふと言を交わしたを御縁に、余り不躾がましい事じゃが、茶なりと湯なりと、一杯お振舞い下さらんか。
百合 お易い事でございます。さあ、貴客、これへお掛けなさいまし。
学円 御免下さいよ。
百合 真に見苦しゅうございます。
学円 これは――お寺の庫裡とも見受ません。御本堂は離れていますか。
百合 いいえ、もう昔、焼けたと申しまして、以前から、寺はないのでございます。
学円 鐘ばかり……
百合 はい。
学円 鐘ばかり……成程、ところで西瓜の一件じゃ。(帽子を脱ぐ、ほとんど剃髪したるごとき一分刈の額を撫でて)や、西瓜と云えば、内に甜瓜でもありますまいか。――茶店でもない様子――(見廻す。)
片山家の暮れ行く風情、茅屋の低き納戸の障子に灯影映る。
学円 この上、晩飯の御難題は言出しませんが、いかんとも腹が空いた。
百合 ほほ。(と打笑み)筧の下に、梨が冷してござんす、上げましょう。(と夕顔の蔭に立廻る。)
学円 (がぶがぶと茶を呑み、衣兜から扇子を取って、煽いだのを、と翳して見つつ)おお、咲きました。貴女の顔を見るように。
百合 ええ?(聞返す。)
学円 いや、髪の色を見るように。
百合 もう、年をとりますと、花どころではございません。早く干瓢にでもなりますれば、……とそればかりを待っております。
学円 小刀をこれへお遣わし……私が剥きます。――お世話を掛けてはかえって気遣いな。どれどれ……旅の事欠け、不器用ながら、梨の皮ぐらいは、うまく剥きます。おおおお氷よりよく冷えた。玉を削るとはこの事じゃろう。
百合 旅を遊ばす御様子にお見受け申します……貴客は、どれから、どれへお越しなさいますえ?
学円 さて名告りを揚げて、何の峠を越すと云うでもありません。御覧の通り、学校に勤めるもので、暑中休暇に見物学問という処を、遣って歩行く……もっとも、帰途です。――涼しくば木の芽峠、音に聞こえた中の河内か、(廂はずれに山見る眉)峰の茶店に茶汲女が赤前垂というのが事実なら、疱瘡の神の建場でも差支えん。湯の尾峠を越そうとも思います。――落着く前は京都ですわ。
百合 お泊りは? 貴客、今晩の。
学円 ああ、うっかり泊りなぞお聞きなさらぬが可い。言尻に着いて、宿の御無心申さんとも限らんぞ。はははは、いや、串戯じゃ。御心配には及ばんが、何と、その湯の尾峠の茶汲女は、今でも赤前垂じゃろうかね。
百合 山また山の峠の中に、嘘のようにもお思いなさいましょうが、まったくだと申します。
学円 谷の姫百合も緋色に咲けば、何もそれに不思議はない。が、この通り、山ばかり、重り累る、あの、巓を思うにつけて、……夕焼雲が、めらめらと巌に焼込むようにも見える。こりゃ、赤前垂より、雪女郎で凄うても、中の河内が可いかも分らん。何にしろ、暑い事じゃね。――やっとここで呼吸をついた。
百合 里では人死もありますッて……酷い旱でございますもの。
学円 今朝から難行苦行の体で、暑さに八九里悩みましたが――可恐しい事には、水らしい水というのを、ここに来てはじめて見ました。これは清水と見えます。
百合 裏の崕から湧きますのを、筧にうけて落します……細い流でございますが、石に当って、りんりんと佳い音がしますので、この谷を、あの琴弾谷と申します。貴客、それは、おいしい冷い清水。……一杯汲んで差上げましょうか。
学円 何が今まで我慢が出来よう、鐘堂も知らない前に、この美い水を見ると、逆蜻蛉で口をつけて、手で引掴んでがぶがぶと。
百合 まあ、私はどうしましょう、知らずにお米を磨ぎました。
学円 いや、しらげ水は菖蒲の絞、夕顔の花の化粧になったと見えて、下流の水はやっぱり水晶。ささ濁りもしなかった。が、村里一統、飲む水にも困るらしく見受けたに、ここの源まで来ないのは格別、流れを汲取るものもなかったように思う……何ぞ仔細のある事じゃろうか。
百合 あの、湧きますのは、裏の崕でござんすけれど。
学円 はあ、はあ。……
百合 水の源はこの山奥に、夜叉ヶ池と申します。凄い大池がございます。その水底には竜が棲む、そこへ通うと云いまして――毒があると可恐がります。――もう薄暗くて見えますまいけれども、その貴客、流の石には、水がかかって、紫だの、緑だの、口紅ほどな小粒も交って、それは綺麗でございますのを、お池の主の眷属の鱗がこぼれたなんのッて、気味が悪いと申すんでございますから。……
学円 綺麗な石が毒蛇の鱗? や、がぶがぶと、豪いことを遣ってしもうた。(と扇子をもって胸を打つ。)
百合 まあ、(と微笑み)私どもがこの年まで朝夕飲んで何ともない、それをあの、人は疑うのでございます。
学円 もっとも、もっとも。ものを疑うのは人間の習いですよ。私は今のお言で、決して心配はしますまい。現に朝夕飲んでおらるる、――この年紀まで――(と打ち瞻り)お幾歳じゃな。
百合 …………
学円 まあさ、失礼じゃが、お幾歳です?
百合 御免なさいまし、……忘れました。……
学円 ははは、俚言にも、婦人に対して、貴女はいつ死ぬとは問うても可い。が、いつ生れた、とは聞くな――とある。これは無遠慮に出過ぎました。……お幾歳じゃと年紀は尋ねますまい。時に幾干ですか。
百合 幾干かとおっしゃって?
学円 代価じゃ。
百合 あの、お代、何の?……お宝……ま、滅相な。お茶代なぞ頂くのではないのでござんす。
学円 茶も茶じゃが、いやあこれは、髯のようにもじゃもじゃと聞えておかしい。茶も勿論、梨を十分に頂いた。お商売でのうても無代価では心苦しい。ずばりと余計なら黙っても差置きますが、旅空なり、御覧の通りの風体。ちゃんと云うて取って下さい。
百合 そうまでお気が済みませんなら、少々お代を頂きましょうか。
学円 勿論ともな。
百合 でも、あの、お代とさえ申しますもの、お宝には限りません。そのかわり、短いのでも可うござんす、お談話を一つ、お聞かせなすって下さいましな。
学円 談話をせい、……談話とは?
百合 方々旅を遊ばした、面白い、珍しい、お話しでございます。
学円 その談話を?
百合 はい、お代のかわりに頂きます。貴客には限りませず、薬売の衆、行者、巡礼、この村里の人たちにも、お間に合うものがござんして、そのお代をと云う方には、誰方にも、お談話を一条ずつ伺います。沢山お聞かせ下さいますと、お泊め申しもするのでござんす。
学円 むむ、これこそ談話じゃ。(と小膝を拍て)面白い。話しましょう。……が、さて談話というて、差当り――お茶代になるのじゃからって、長崎から強飯でもあるまいな。や、思出した。しかもこの越前じゃ。
晃 (細く障子を開き差覗く。)
時に小机に向いたり。双紙を開き、筆を取りて、客の物語る所をかき取らんとしたるなるが、学円と双方、ふと顔を合せて、何とかしけん、燈火をふっと消す。
百合 どんなお話、もし、貴客。
学円 ……時にここで話すのを、貴女のほかに聞く人がありますかね。
百合 いいえ、外にはお月様ばかりでござんす。