学円 道理こそ燈が消えて、ああ、蚊遣の煙で、よくは見えぬが、……納戸に月が射すらしい。――お待ちなさい。今、言いかけた越前の話というのは、縁の下で牡丹餅が化けたのです。たとえば、ここで私がものを云うと、その通り、縁の下で口真似をする奴がある。村中が寄って集って、口真似するは何ものじゃ。狐か、と聞くと、違う。と答える。狸か、違う、獺か、違う、魔か、天狗か、違う、違う。……しまいに牡丹餅か、と尋ねた時、おうと云って消え失せたという――その話をする気であったが、……まだ外に、月が聞くと言わるるから、出直して、別の談話をする気になった。お聞きなさい。これは現在一昨年の夏――
一人、私の親友に、何かかねて志す……国々に伝わった面白い、また異った、不思議な物語を集めてみたい。日本中残らずとは思うが、この夏は、山深い北国筋の、谷を渡り、峰を伝って尋ねよう、と夏休みに東京を出ました。――それっきり、行方が知れず、音沙汰なし。親兄弟もある人物、出来る限り、手を尽くして捜したが、皆目跡形が分らんから、われわれ友だちの間にも、最早や世にない、死んだものと断念めて、都を出た日を命日にする始末。いや、一時は新聞沙汰、世間で豪い騒ぎをした。…… 自殺か、怪我か、変死かと、果敢ない事に、寄ると触ると、袂を絞って言い交わすぞ! あとを隠すにも、死ぬのにも、何の理由もない男じゃに、貴女、世間には変った事がありましょうな。……
百合 ああ、貴客、貴客、難有う存じます。……ほんとうに難有う存じました。(とにべなく言う。)
学円 そんなに礼を云うて、茶代のかわりになるのですかい。
百合 もう沢山でございます。
学円 それでは面白かったのじゃね。
百合 ……おもしろいのは、前の牡丹餅の化けた方、あとのは沢山でございます。
学円 さて談話はこれからなんじゃ、今のはほんの前提ですが。
百合 どうぞ、……結構でございますから、……そして貴客、もう暗くなります、お宿をお取り遊ばすにも御不自由でございましょうから。……
学円 いやいや、談話の模様では、宿をする事もあると言われた。私も一つ泊めて下さい、――この談話は実がありますから。
百合 先刻は、貴客、女の口から泊りの事なぞ聞くんじゃない。……その言について、宿の無心でもされたらどうするとおっしゃって。……もう、清い涼いお方だと思いましたものを、……女ばかり居る処で、宿貸せなぞと、そんな事、……もう、私は気味が悪い。
学円 気味が悪いな? 牡丹餅の化けたのではないですが。
百合 こんな山家は、お化より、都の人が可恐うござんす、……さ、貴客どうぞ。
学円 これは、押出されるは酷い。(不承々々に立つ。)
百合 (続いて出で、押遣るばかりに)どうぞ、お立ち下さいまし。
学円 婦人ばかりじゃ、ともこうも言われぬか。鉢の木ではないのじゃが、蚊に焚く柴もあるものを、……常世の宿なら、こう情なくは扱うまい。……雪の降らぬがせめてもじゃ。
百合 真夏土用の百日旱に、たとい雪が降ろうとも、……(と立ちながら、納戸の方を熟と視て、学円に瞳を返す。)御機嫌よう。
学円 失礼します。
晃 (衝と蚊遣の中に姿を顕し)山沢、山沢。(ときっぱり呼ぶ。)
学円 おい、萩原、萩原か。
百合 あれ、貴方。(と走り寄って、出足を留めるように、膝を突き手に晃の胸を圧える。)
晃 帰りやしない、大丈夫、大丈夫。(と低声に云って)何とも言いようがない、山沢、まあ――まあ、こちらへ。
学円 私も何とも言いようが無い。十に九ツ君だろうと、今ね、顔を見た時、また先刻からの様子でもそう思うた、けれども、余り思掛けなし――(引返して框に来り)第一、その頭はどうしたい。
晃 頭もどうかしていると思って、まあ、許して上ってくれ。
学円 埃ばかりじゃ、失敬するぞ、(と足を拭いたなりで座に入る)いや、その頭も頭じゃが、白髪はどうじゃ、白髪はよ?……
晃 これか、谷底に棲めばといって、大蛇に呑まれた次第ではない、こいつは仮髪だ。(脱いで棄てる。)
学円 ははあ……(とお百合を密と見て)勿論じゃな、その何も……
晃 こりゃ、百合と云う。
お百合、座に直った晃の膝に、そのまま俯伏して縋っている。
学円 お百合さんか。細君も……何、奥方も……
晃 泣く奴があるか、涙を拭いて、整然として、御挨拶しな。
と言ううちに、極り悪そうに、お百合は衝と納戸へかくれる。
晃 君に背中を敲かれて、僕の夢が覚めた処で、東京に帰るかって憂慮いなんです。
学円 (お百合の優しさに、涙もろく、ほろりとしながら)いや、私の顔を見たぐらいで、萩原――この夢は覚めんじゃろう。……何、いい夢なら、あえて覚めるには及ばんのじゃ……しかし萩原、夢の裡にも忘れまいが、東京の君の内では親御はじめ、
晃 むむ。
学円 君の事で、多少、それは、寿命は縮められたか分らんが、皆まず御無事じゃ。
晃 ああ、そうか。難有い。
学円 私に礼には及ばない。
晃 実に済まん!
学円 さてこれはどうしたわけじゃ。
晃 夢だと思って聞いてくれ。
学円 勿論、夢だと思うておる。……
晃 委しい事は、夜すがらにも話すとして、知ってる通り……僕は、それ諸国の物語を聞こうと思って、北国筋を歩行いたんだ。ところが、自身……僕、そのものが一条の物語になった訳だ。――魔法つかいは山を取って海に移す、人間を樹にもする、石にもする、石を取って木の葉にもする。木の葉を蛙にもするという、……君もここへ来たばかりで、もの語の中の人になったろう……僕はもう一層、その上を、物語、そのものになったんだ。
学円 薄気味の悪い事を云うな。では、君の細君は、……(云いつつ憚る。)
晃 (納戸を振向く)衣服でも着換えるか、髪など撫つけているだろう。……襖一重だから、背戸へ出た。……
学円 (伸上り納戸越に透かして見て)おい、水があるか、蘆の葉の前に、櫛にも月の光が射して、仮髪をはずした髪の艶、雪国と聞くせいか、まだ消残って白いように、襟脚、脊筋も透通る。……凄いまで美しいが、……何か、細君は魔法つかいか。
晃 可哀想な事を言え、まさか。
学円 ふん。
晃 この土地、この里――この琴弾谷が、一個の魔法つかいだと云うんだよ。――
山沢、君は、この山奥の、夜叉ヶ池というのを聞いたか。
学円 聞いた。しかもその池を見ようと思って、今庄駅から五里ばかり、わざわざここまで入込んだのじゃ。
晃 僕も一昨年、その池を見ようと思って、ただ一人、この谷へ入ったために、こういう次第になったんだ。――ここに鐘がある――
学円 ある! 何か、明六つ、暮六つ……丑満、と一昼夜に三度鳴らす。その他は一切音をさせない定じゃと聞いたが。
晃 そうだよ。定として、他は一切音をさせてはならない、と一所にな、一日一夜に三度ずつは必ず鳴らさねばならないんだ。
学円 それは?
晃 ここに伝説がある。昔、人と水と戦って、この里の滅びようとした時、越の大徳泰澄が行力で、竜神をその夜叉ヶ池に封込んだ。竜神の言うには、人の溺れ、地の沈むを救うために、自由を奪わるるは、是非に及ばん。そのかわりに鐘を鋳て、麓に掛けて、昼夜に三度ずつ撞鳴らして、我を驚かし、その約束を思出させよ。……我が性は自由を想う。自在を欲する。気ままを望む。ともすれば、誓を忘れて、狭き池の水をして北陸七道に漲らそうとする。我が自由のためには、世の人畜の生命など、ものの数ともするものでない。が、約束は違えぬ、誓は破らん――但しその約束、その誓を忘れさせまい。思出させようとするために、鐘を撞く事を怠るな。――山沢、そのために鋳た鐘なんだよ。だから一度でも忘れると、たちどころに、大雨、大雷、大風とともに、夜叉ヶ池から津浪が起って、村も里も水の底に葬って、竜神は想うままに天地を馳すると……こう、この土地で言伝える。……そのために、明六つ、暮六つ、丑満つ鐘を撞く。……
学円 (乗出でて)面白い。
晃 いや、面白いでは済まない、大切な事です。
学円 いかにも大切な事じゃ。
晃 ところで、その鐘を撞く、鐘撞き男を誰だと思う。
学円 君か。
晃 僕だよ。すなわち萩原晃がその鐘撞夫なんだよ。
学円 はてな。
晃 ここに小屋がある……
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