鯉七 ちと申つかった事があって、里へ参る路ではあれども、若君のお使、何は措いてもお供しょう。姫様、お喜びの顔が目に見える。われらもお庇で面目を施します、さあ、御坊。
蟹五郎 さあ、御坊。
鯰入 (ふと、くなくなとなって得進まず。)しばらく。まず、しばらく。……
鯉七 御坊、お草臥れなら、手を取りましょう。
蟹五郎 何と腰を押そうかい。
鯰入 いやいや疲れはしませぬ。尾鰭はのらのらと跳ねるなれども、ここに、ふと、世にも気懸りが出来たじゃまで。
鯉七 気懸りとは? 御坊。
鯰入 ここまで辿って、いざ、お池へ参ると思えば、急にこの文箱が、身にこたえて、ずんと重うなった。その事じゃ。
鯉七 恋の重荷と言いますの。お心入れの御状なれば、池に近し、御双方お気が通って、自然と文箱に籠りましたか。
蟹五郎 またかい。姫様から、御坊へお引出ものなさる。……あの、黄金白銀、米、粟の湧こぼれる、石臼の重量が響きますかい。
鯰入 (悄然として)いや、私が身に応えた処は、こりゃ虫が知らすと見えました。御褒美に遣わさるる石臼なれば可けれども==この坊主を輪切りにして、スッポン煮を賞翫あれ、姫、お昼寝の御目覚ましに==と記してあろうも計られぬ。わあ、可恐しや。(とわなわなと蘆の杖とともにふるい出す。)
鯉七 何でまた、そのような飛んだ事を? 御坊。……
鯰入 いやいや、急に文箱の重いにつけて、ふと思い出いた私が身の罪科がござる。さて、言い兼ねましたが打開けて恥を申そう。(と頸をすくめて、頭を撫で)……近頃、此方衆の前ながら、館、剣ヶ峰千蛇ヶ池へ――熊に乗って、黒髪を洗いに来た山女の年増がござった。裸身の色の白さに、つい、とろとろとなって、面目なや、ぬらり、くらりと鰭を滑らかいてまつわりましたが、フトお目触りとなって、われら若君、もっての外の御機嫌じゃ。――処をこの度の文づかい、泥に潜った閉門中、ただおおせつけの嬉しさに、うかうかと出て参ったが、心付けば、早や鰭の下がくすぽったい。(とまた震う。)
蟹五郎 かッ、かッ、かッ、(と笑い)御坊、おまめです。あやかりたい。
鯰入 笑われますか、情ない。生命とまでは無うても、鰭、尾を放て、髯を抜け、とほどには、おふみに遊ばされたに相違はござるまい。……これは一期じゃ、何としょう。(と寂しく泣く。)
鯉、蟹、これを見て囁き、頷く。
鯉七 いや、御坊、無い事とも言われませぬ。昔も近江街道を通る馬士が、橋の上に立った見も知らぬ婦から、十里前の一里塚の松の下の婦へ、と手紙を一通ことづかりし事あり。途中気懸りになって、密とその封じ目を切って見たれば、==妹御へ、一、この馬士の腸一組参らせ候==としたためられた――何も知らずに渡そうものなら、腹を割かるる処であったの。
鯰入 はあ、(とどうと尻餅つく。)
蟹五郎 お笑止だ。かッかッかッ。
鯉七 幸、五郎が鋏を持ちます……密と封を切って、御覧が可かろう。
鯰入 やあ、何と、……それを頼みたいばッかりに恥を曝した世迷言じゃ。……嬉しや、大目に見て下さるかのう。
蟹五郎 もっとも、もっとも。
鯉七 また……(と声を密めて)恋し床しのお文なれば、そりゃ、われわれどもがなお見たい。
鯰入 (わななきながら、文箱を押頂き、紐を解く。)
鯉、蟹ひしと寄る。蓋を放って斉しく見る。
鯰入 やあ!
鯉七 ええええ。
蟹五郎 やあやあやあ!
鯰入 文箱の中は水ばかりよ。
と云う時、さっと、清き水流れ溢る。
鯉七 あれあれあれ、姫様が。
はっと鯰入とともに泳ぐ形に腹ばいになる。蟹は跪いて手を支う。――迫上にて―― 夜叉ヶ池の白雪姫。雪なす羅、水色の地に紅の焔を染めたる襲衣、黒漆に銀泥、鱗の帯、下締なし、裳をすらりと、黒髪長く、丈に余る。銀の靴をはき、帯腰に玉のごとく光輝く鉄杖をはさみ持てり。両手にひろげし玉章を颯と繰落して、地摺に取る。 右に、湯尾峠の万年姥。針のごとき白髪、朽葉色の帷子、赤前垂。 左に、腰元、木の芽峠の奥山椿、萌黄の紋付、文金の高髷に緋の乙女椿の花を挿す。両方に手を支いて附添う。 十五夜の月出づ。
白雪 ふみを読むのに、月の明は、もどかしいな。
姥 御前様、お身体の光りで御覧ずるが可うござります。
白雪 (下襲を引いて、袖口の炎を翳し、やがて読果てて恍惚となる。)
椿 姫様。
姥 もし、御前様。
白雪 可懐しい、優しい、嬉しい、お床しい音信を聞いた。……姥、私は参るよ。
姥 たまたま麓へお歩行が。
椿 もうお帰り遊ばしますか。
白雪 どこへ?……(と聞返す。)
姥 お住居へ。
白雪 何?
姥 夜叉ヶ池へでござりましょう。
白雪 あれ、お前は何を言う……私の行くのは剣ヶ峰だよ。
一同 剣ヶ峰へ、とおっしゃりますると?
白雪 聞かずと大事ないものを――千蛇ヶ池とは知れた事――このおふみの許へさ。(と巻戻し懐中に納めて抱く。)
姥 (居直り)また……我儘を仰せられます。お前様、ここに鐘がござります。
白雪 む、(と眦をあげて、鐘楼を屹と見る。)
姥 お忘れはなさりますまい。山ながら、川ながら、御前様が、お座をお移しなさりますれば、幾万、何千の生類の生命を絶たねばなりませぬ。剣ヶ峰千蛇ヶ池の、あの御方様とても同じ事、ここへお運びとなりますと、白山谷は湖になりますゆえ、そのために彼方からも御越の儀は叶いませぬ。――姥はじめ胸を痛めます。……おいとしい事なれども、是非ない事にござります。
白雪 そんな、理窟を云って……姥、お前は人間の味方かい。
姥 へへ、(嘲笑い)尾のない猿ども、誰がかばいだていたしましょう。……憎ければとて、浅ましければとて、気障なればとて、たとい仇敵なればと申して、約束はかえられませぬ、誓を破っては相成りませぬ。
白雪 誓盟は、誰がしたえ。
姥 御先祖代々、近くは、両、親御様まで、第一お前様に御遺言ではございませぬか。
白雪 知っています。(とつんとひぞる。)
姥 もし、お前様、その浅ましい人間でさえ、約束を堅く守って、五百年、七百年、盟約を忘れぬではござりませぬか。盟約を忘れませねばこそ、朝六つ暮六つ丑満つ、と三度の鐘を絶しませぬ。この鐘の鳴りますうちは、村里を水の底には沈められぬのでござります。
白雪 ええ、怨めしい……この鐘さえなかったら、(と熟と視て、すらりと立直り)衆に、ここへ来いとお言い。
椿 (立って一方を呼ぶ。)召します。姫様が召しますよ。
鯉七 (立上がり一方を)やあ、いずれも早く。(と呼ぶ。)
眷属ばらばらと左右に居流る。一同得ものを持てり。扮装おもいおもい、鎧を着たるもあり、髑髏を頭に頂くもあり、百鬼夜行の体なるべし。
虎杖 虎杖入道。
鯖江 鯖江ノ太郎。
鯖波 鯖波ノ次郎。
この両個、「兄弟のもの。」と同音に名告る。
塚 十三塚の骨寄鬼。
蟹五郎 藪沢のお関守は既に先刻より。
椿 そのほか、夥多の道陸神たち、こだますだま、魑魅、魍魎。
影法師、おなじ姿のもの夥多あり。目も鼻もなく、あたまからただ灰色の布を被る。
影法師 影法師も交りまして。
とこの名のる時、ちらちらと遠近に陰火燃ゆ。これよりして明滅す。
鯉七 身内の面々、一同参り合せました。
鯰入 憚りながら法師もこれに。……
白雪 おお、遠い路を、大儀。すぐにお返事を上げましょうね、そのために皆を呼びましたよ。
姥 や、彼方へお返事につきまして、いずれもを召しました?――仰せつけられまする儀は?
白雪 姥、どう思うても私は行く。剣ヶ峰へ行かねばならぬ。鐘さえなくば盟約もあるまい……皆が、あの鐘、取って落して、微塵になるまで砕いておしまい。
姥 ええええ仰せなればと云うて、いずれも必ずお動きあるな。(眼を光らし、姫を瞻めて)まだそのようなわやくをおっしゃる。……身うちの衆をお召出し、お言葉がござりましては、わやくが、わやくになりませぬ。天の神々、きこえも可恐じゃ。……数の人間の生命を断つ事、きっとおたしなみなさりませい。
白雪 人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ。……姥、堪忍して行かしておくれ。
姥 ああ、お最惜い。が、なりますまい。……もう多年御辛抱なさりますと、三十年、五十年とは申しますまい。今の世は仏の末法、聖の澆季、盟誓も約束も最早や忘れておりまする。やッと信仰を繋ぎますのも、あの鐘を、鳥の啄いた蔓葛で釣しましたようなもの、鎖も絆も切れますのは、まのあたりでござります。それまでお堪えなさりまし。
白雪 あんな気の長い事ばかり。あこがれ慕う心には、冥土の関を据えたとて、夜のあくるのも待たりょうか。可し、可し、衆が肯かずば私が自分で。(と気が入る。)
椿 あれ、お姫様。
姥 これは何となされます……取棄てて大事ない鐘なら、お前様のお手は待たぬ……身内に仰せまでもない。何、唐銅の八千貫、こう痩せさらぼえた姥が腕でも、指で挟んで棄てましょうが、重いは義理でござりまするもの。
白雪 義理や掟は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。……鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる私が身に、袖とて、褄とて、恋路を塞いで、遮る雲の一重もない!……先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟誓なり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経てば、ないがしろにする約束を、一呼吸早く私が破るに、何に憚る事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!
姥 成程、お気が乱れましたな。朝六つ暮六つただ一度、今宵この丑満一つも、人間が怠れば、その時こそは瞬く間も待ちませぬ。お前様を、この姥がおぶい申して、お靴に雲もつけますまい。人は死のうと、溺れようと、峰は崩れよ、麓は埋れよ。剣ヶ峰まで、ただ一飛び。……この鐘を撞く間に、盟誓をお破り遊ばすと、諸神、諸仏が即座のお祟り、それを何となされます!
鯉七 当国には、板取、帰、九頭竜の流を合せて、日野川の大河。
蟹五郎 美濃の国には、名だたる揖斐川。
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