学円 むむ。
晃 鐘撞が住む小屋で、一昨年の夏、私が来て、代るまでは、弥太兵衛と云う七十九になる爺様が一人居て、これは五十年以来、いかな一日も欠かす事なく、一昼夜に三度ずつこの鐘を打っていた。
山沢、花は人の目を誘う、水は人の心を引く。君も夜叉ヶ池を見に来たと云う。私がやっぱり、池を見ようと、この里へ来た時、暮六つの鐘が鳴ったんだ。弥太兵衛爺に、鐘の所謂を聞きながら、夜があけたら池まで案内させる約束で、小屋へ泊めて貰った処。 その夜、丑満の鐘を撞いて、鐘楼の高い段から下りると、爺は、この縁前で打倒れた――急病だ。死ぬ苦悩をしながら、死切れないと云って、悶える。――こうした世間だ、もう以前から、村一統鐘の信心が消えている。……爺が死んだら、誰も鐘を鳴らすものがない。一度でも忘れると、掌をめぐらさず、田地田畠、陸は水になる、沼になる、淵になる。幾万、何千の人の生命――それを思うと死ぬるも死切れぬと、呻吟いて掻く。――虫より細い声だけれども、五十年の明暮を、一生懸命、そうした信仰で鐘楼を守り通した、骨と皮ばかりの爺が云うのだ。……鐘の自から鳴るごとく、僕の耳に響いた。……且は臨終の苦患の可哀さに、安心をさせようと、――心配をするな親仁、鐘は俺が撞いてやる、――とはっきり云うと、世にも嬉しそうに、ニヤニヤと笑って、拝みながら死んだ。その時の顔を今に忘れん。 が、まさか、一生、ここに鐘を撞いて終ろうとは思わなかった。丑満は爺が済ました、明六つの鐘一度ばかり、代って撞くぐらいにしか考えなかった。が、まあ、爺が死ぬ、村のものを呼ぼうにも、この通り隣家に遠い。三度の掟でその外は、火にも水にも鐘を撞くことはならないだろう。
学円 その鳴らしてならないというは、どうした次第じゃね?
晃 鐘は、高く、ここにあって――その影は、深く夜叉ヶ池の碧潭に映ると云う。……撞木を当てて鳴る時は、凩にすら、そよりとも動かない、その池の水が、さらさらと波を立てると聞く。元来、竜神を驚かすために打鳴らすのであるから、三度のほかに騒がしては、礼を欠く事に当る。……
学円 その道理じゃ、むむ。
晃 鐘も鳴らせん……処で、不知案内の村を駈廻って人を集めた、――サア、弥太兵衛の始末は着いたが、誰も承合って鐘を撞こうと言わない。第一、しかじかであるからと、爺に聞いた伝説を、先祖の遺言のように厳に言って聞かせると、村のものは哄と笑う。……若いものは無理もない。老寄どもも老寄どもなり、寺の和尚までけろりとして、昔話なら、桃太郎の宝を取って帰った方が結構でござる、と言う。癪に障った――勝手にしろ、と私もそこから、(と框を指し)草鞋を穿いて、すたすたとこの谷を出て帰ったんだ。帰る時、鹿見村のはずれの土橋の袂に、榎の樹の下に立ってしょんぼりと見送ったのが、(と調子を低く)あの、婦人だ。
その日の、明六つの鐘さえ、学校通いの小児をはじめ、指しをして笑う上で、私が撞いた。この様子では、最早や今日から、暮六つの鐘は鳴るまいな!…… もしや、岩抜け、山津浪、そうでもない、大暴風雨で、村の滅びる事があったら、打明けた処……他は構わん、……この娘の生命もあるまい――待て、二三日、鐘堂を俺が守ろう。その内には、とまた四五日、半月、一月を経るうちに、早いものよ、足掛け三年。――君に逢うまで、それさえ忘れた。……また、忘れるために、その上、年に老朽ちて世を離れた、と自分でも断念のため。……ばかりじゃ無い、……雁、燕の行きかえり、軒なり、空なり、行交う目を、ちょっとは紛らす事もあろうと、昼間は白髪の仮髪を被る。
学円 (黙然として顔を見る。)
晃 (言葉途絶える)そう顔を見るな、恥入った。
学円 (しばらく、打案じ)すると、あの、……お百合さんじゃ、その人のために、ここに隠れる気になったと云うのじゃ。
晃 ……ますます恥入る。
学円 いや、恥ずるには及ばん。が、どうじゃ、細君を連れて東京に帰るわけには行かんのかい。
晃 何も三ヶ国と言わん。越前一ヶ国とも言わん。われわれ二人が見棄てて去って、この村と、里と、麓に棲むものの生命をどうする。
学円 萩原、(と呼びつつ、寄り)で、君はそれを信ずるかい。
晃 信ずる、信ずるようになった。萩原晃はいざ知らん、越前国三国ヶ岳の麓、鹿見村琴弾谷の鐘楼守、百合の夫の二代の弥太兵衛は確に信じる。
学円 (ひたりと洋服の胡坐に手をおき)何にも言わん。そう信ぜい。堅く進ぜい。奥方の人を離れた美しさを見るにつけても、天がこの村のために、お百合さんを造り置いて、鐘楼守を、ここに据えられたものかも知れん。君たち二人は二柱の村の神じゃ。就中、お百合さんは女神じゃな。
百合 (行燈を手に黒髪美しく立出づる)私、どうしたら可うございましょう。
学円 や、これは……
百合 貴客、今ほどは。
学円 さて、お初に……はははは、奥さん。
百合 まあ。……(と恥らう。)
晃 これ、まあ……ではない、よく御挨拶申しな、兄とおなじ人だ。
百合 (黙って手をつく。)
学円 はいはい。いや、御挨拶はもう済みました。貴女嚔は出ませなんだか。
晃 うっかり嚔なんぞすると、蚊が飛出す。
百合 あれ、沢山おなぶんなさいまし。
晃 そんなに、お前、白粉を粧けて。
百合 あんな事ばかりおっしゃる。(と優しく睨んで顔を隠す。)
学円 何にしろ、お睦じい……ははははは、勝手にお噂をしましたが、何は、お里方、親御、御兄弟は?
晃 山沢、何にもない孤児なんだ。鎮守の八幡の宮の神官の一人娘で、その神官の父親さんも亡くなった。叔父があって、それが今、神官の代理をしている。……これの前だが、叔父というのは、了簡のよくない人でな。
学円 それはそれは。
晃 姪のこれを、附けつ廻しつしたという大難ぶつです。
百合 ほんとうに、たよりのない身体でございます。何にも存じません、不束ものでございますけれど、貴客、どうぞ御ふびんをお懸けなすって下さいまし。(しんみりと学円に向って三指して云う。)
学円 (引き入れられて、思わず涙ぐむ。)御殊勝ですな。他人のようには思いません。
晃 (同じく何となく胸せまる。涙を払って)さあさあ、親類というお言葉なんだ。遠慮のない処、何にも要らん。御吹聴の鴫焼で一杯つけな。これからゆっくり話すんだ。山沢、野菜は食わしたいぜ、そりゃ、甘いぞ。
学円 奥方、お立ちなさるな。トそこでじゃな、萩原、私は志した通り、これから夜を掛けて夜叉ヶ池を見に行く気じゃ。種々不思議な話を聞いたら、なお一層見たくなった。御飯はお手料理で御馳走になろうが、お杯には及ばん、第一、知ってる通り、一滴も飲めやせん。
晃 成程、そうか、夜叉ヶ池を見に来たんだ。……明日にしては、と云うんだけれども、道は一里余り、が、上りが嶮しい。この暑さでは夜が可い。しかし、四五日は帰さんから、明日の晩にしてくれないかい。
学円 いや、学校がある。これでも学生の方ではないから勝手に休めん。第一、遊び過ぎて、もう切詰めじゃ。
晃 それは困った、学校は?……先刻、落着く先は京都だと云ったようだな。
学円 むむ、去年から。……みやづかえの情なさじゃ。何しろ、急ぐ。
晃 分った、では案内かたがた一所に行く。
学円 君も。
晃 ……直ぐに出掛けよう。
学円 それだと、奥方に済まんぞ。
晃 何を詰らない。
百合 いいえ……(と云いしがしおしおと)貴方、直ぐにとおっしゃって、……お支度は、……
晃 土橋の煮染屋で竹の皮づつみと遣らかす、その方が早手廻だ。鰊の煮びたし、焼どうふ、可かろう、山沢。
学円 結構じゃ。
晃 事が決れば早いが可い。源佐衛門は草履で可し、最明時どのは、お草鞋、お草鞋。
学円 やあ、おもしろい。奥さん、いずれ帰途には寄せて頂く。私は味噌汁が大好きです。小菜を入れて食べさして発せて下さい。時に、帰途はいつになろう。……
晃 さあ、夜が短い。明方になろうも知れん。
学円 明けがた……は可いが、(と草鞋を穿きながら)待て待て、一所に気軽に飛出して、今夜、丑満つの鐘はどうするのじゃ。
晃 百合が心得ておる。先代弥太兵衛と違う。仙人ではない、生身の人間。病気もする、百合が時々代るんだよ。
学円 では、池のあたりで聞きましょう。――奥方しっかり願います。
百合 はい、内をお忘れなさいませんように、私は一生懸命に。(と涙声にて云う。)
晃 ……おい、あの、弥太兵衛が譲りの、お家の重宝と云う瓢箪を出したり、酒を買う。――それから鎌を貸しな、滅多に人の通わぬ処、路はあっても熊笹ぐらいは切らざあなるまい。……早くおし。
百合 はい、はい。
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