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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文

底本: 運命
出版社: ほるぷ出版
初版発行日: 1985(昭和60)年2月1日
入力に使用: 1985(昭和60)年2月1日初版第1刷


底本の親本: 幽秘記
出版社: 改造社
初版発行日: 1925(大正14)年6月

 

世おのずからすうというもの有りや。有りといえば有るがごとく、無しとせば無きにも似たり。洪水こうずい天にはびこるも、の功これを治め、大旱たいかん地をこがせども、とうの徳これをすくえば、数有るが如くにして、しかも数無きが如し。しんの始皇帝、天下を一にして尊号そんごうを称す。※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)いえんまことに当るからず。しかれども水神ありて華陰かいんの夜に現われ、たまを使者に托して、今年祖龍そりゅう死せんとえば、はたして始皇やがて沙丘しゃきゅうに崩ぜり。とう玄宗げんそう、開元は三十年の太平をけ、天宝てんぽうは十四年の華奢かしゃをほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨いちぎょうあじゃり、陛下万里に行幸して、聖祚せいそかぎりからんと奏したりしかば、心得がたきことをもうすよとおぼされしが、安禄山あんろくざんの乱起りて、天宝十五年しょくに入りたもうに及び、万里橋ばんりきょうにさしかゝりて瞿然くぜんとして悟りたまえりとなり。此等これらを思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録ていめいろく続定命録ぞくていめいろく前定録ぜんていろく感定録かんていろく等、小説野乗やじょうの記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭いんたくしょうこくも、ことごとく天意にるかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令たとえ数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数をおそれて、巫覡卜相ふげきぼくそうの徒の前にこうべせんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢のおしえもとに心を安くせんにはかじ。かつや人の常情、敗れたる者は天のめいを称してたんじ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共にろうとすべし。事敗れてこれが徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るにゆだねなば、そのひと偽らずしてしん、其小ならずして偉なりというべし。先哲いわく、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者あるいく数を知らん。
 いにしえより今に至るまで、成敗せいばいの跡、禍福の運、人をしておもいひそめしめたんを発せしむるにるものもとより多し。されども人の奇を好むや、なおもって足れりとせず。ここおいて才子は才をせ、妄人もうじんもうほしいいままにして、空中に楼閣を築き、夢裏むりに悲喜をえがき、意設筆綴いせつひってつして、烏有うゆうの談をつくる。或はすこしくもとづくところあり、或は全くるところ無し。小説といい、稗史はいしといい、戯曲といい、寓言ぐうげんというものすなわこれなり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。あにはからんや造物の脚色は、綺語きごの奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵するあたわざるの巧緻こうちあり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、こころみ建文けんぶん永楽えいらくの事を。


 我が小説家のゆう曲亭主人馬琴きょくていしゅじんばきんす。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝はっけんでんの雄大、弓張月ゆみはりづきの壮快、皆江湖こうこ嘖々さくさくとして称するところなるが、八犬伝弓張月に比してまさるあるも劣らざるものを侠客伝きょうかくでんす。うらむらくは其の叙するところ、けだいまだ十の三四をおわるに及ばずして、筆硯ひっけん空しく曲亭の浄几じょうきのこりて、主人既にきて白玉楼はくぎょくろうとなり、鹿鳴草舎はぎのやおきなこれをげるも、また功を遂げずして死せるをもって、世の結構の輪奐りんかんの美をるに至らずしてみたり。しかれども其の意を立て材を排する所以ゆえんを考うるに、楠氏なんし孤女こじょりて、南朝のために気を吐かんとする、おのずかられ一大文章たらずんばまざるものあるをば推知するに足るあり。おしかな其の成らざるや。
 侠客伝は女仙外史じょせんがいしより換骨脱胎かんこつだったいきたる。其の一部は好逑伝こうきゅうでんるありといえども、全体の女仙外史をきたれるはおおからず。これ姑摩媛こまひめすなわかれ月君げっくんなり。月君が建文帝けんぶんていの為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本らんぽんたらずんばあらず。れ馬琴が腔子裏こうしりの事なりといえども、かりに馬琴をして在らしむるも、が言を聴かば、含笑がんしょうして点頭てんとうせん。


 女仙外史一百回は、しん逸田叟いつでんそう呂熊りょゆうあざな文兆ぶんちょうあらわすところ、康熙こうき四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業をおわる。の書のたいたるや、水滸伝すいこでん平妖伝へいようでん等に同じといえども、立言りつげんは、綱常こうじょう扶植ふしょくし、忠烈を顕揚するに在りというをもって、南安なんあんの郡守陳香泉ちんこうせんの序、江西こうせい廉使れんし劉在園りゅうざいえんの評、江西の学使楊念亭ようねんていの論、広州こうしゅうの太守葉南田しょうなんでんばつを得て世に行わる。幻詭猥雑げんきわいざつの談に、干戈かんか弓馬の事をはさみ、慷慨こうがい節義のだんに、神仙縹緲しんせんひょうびょうしゅまじゆ。西遊記さいゆうきに似て、しかも其の誇誕こたんは少しくゆずり、水滸伝に近くして、而もの豪快は及ばず、三国志のごとくして、而も其の殺伐はやゝすくなし。たゞ其の三者の佳致かちを併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書にまさ所以ゆえんにして、其の大体の風度ふうどは平妖伝に似たりというべし。うらむらくは、通篇つうへん儒生じゅせい口吻こうふん多くして、説話は硬固勃率こうこぼっそつ、談笑に流暢尖新りゅうちょうせんしんのところすくなきのみ。
 女仙外史の名は其のじつを語る。主人公月君げっくん、これをたすくるの鮑師ほうし曼尼まんに公孫大娘こうそんたいじょう聶隠娘しょういんじょう等皆女仙なり。鮑聶ほうしょう等の女仙は、もと古伝雑説より取りきたって彩色となすに過ぎず、しこうして月君はすなわ山東蒲台さんとうほだい妖婦ようふ唐賽児とうさいじなり。賽児の乱をなせるはみん永楽えいらく十八年二月にして、えん王の簒奪さんだつ建文けんぶん遜位そんいと相関するあるにあらず、建文なお死せずといえども、簒奪の事成って既に十八春秋をたり。賽児何ぞ実に建文のために兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城をほふり、安遠侯あんえんこう柳升りゅうしょうをして征戦に労し、都指揮としき衛青えいせいをして撃攘げきじょうつとめしめ、都指揮劉忠りゅうちゅうをして戦歿せんぼつせしめ、山東の地をして一時騒擾そうじょうせしむるに至りたるもの、真に稗史はいしの好題目たり。これに加うるに賽児が洞見どうけん預察のめいを有し、幻怪詭秘きひの術をくし、天書宝剣を得て、恵民けいみん布教の事をせるも、また真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟じっせき既にかくごとし。これきたりてもって建文の位をゆずれるに涙をおとし、燕棣えんていの国を奪えるに歯をくいしばり、慷慨こうがい悲憤して以て回天の業をさんとするの女英雄じょえいゆうとなす。女仙外史の人の愛読耽翫たんがん所以ゆえんのもの、決して尠少せんしょうにあらずして、而して又実に一ぺん淋漓りんりたる筆墨ひつぼく巍峨ぎがたる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児さいじ蒲台府ほだいふたみ林三りんさんの妻、わかきより仏を好み経をしょうせるのみ、別に異ありしにあらず。林三死してこれを郊外にほうむる。賽児墓に祭りて、かえるさのみち、一山のふもとを経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石あらわれたり。これをるに石匣せきこうなりければ、いてうかがいてついに異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙をって人馬となし、けんふるって咒祝じゅしゅくし、髪を削って尼となり、おしえ里閭りりょく。いのりには効あり、ことばにはげんありければ、民翕然きゅうぜんとして之に従いけるに、賽児また饑者きしゃにはを与え、凍者には衣を給し、賑済しんさいすること多かりしより、ついに追随する者数万に及び、とうとびて仏母と称し、そのいきおいはなは洪大こうだいとなれり。官これにくみて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲とうげんこう劉俊りゅうしゅん賓鴻ひんこう等、敢然としてって戦い、益都えきと安州あんしゅう※(「くさかんむり/呂」、第3水準1-90-87)きょしゅう即墨そくぼく寿光じゅこう等、山東諸州鼎沸ていふつし、官と賊と交々こもごも勝敗あり。官兵ようやく多く、賊勢日にしじまるに至って賽児を捕え得、まさに刑に処せんとす。賽児怡然いぜんとしておそれず。衣をいで之をばくし、とうを挙げて之を※(「石+欠」、第4水準2-82-33)るに、刀刃とうじん入るあたわざりければ、むを得ずしてまた獄に下し、械枷かいかたいこうむらせ、鉄鈕てっちゅうもて足をつなぎ置きけるに、にわかにして皆おのずから解脱げだつし、ついのがれ去って終るところを知らず。三司郡県将校さんしぐんけんしょうこう、皆あだを失うを以てちゅうせられぬ。賽児は如何いかがしけん其後踪跡そうせきようとして知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京ほくけい山東さんとう尼姑にこことごとく逮捕して京に上せ、厳重に勘問かんもんし、ついに天下の尼姑という尼姑をとらうるに至りしが、得るあたわずしてみ、遂に後の史家をして、妖耶ようか人耶ひとかわれこれを知らず、とわしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既にはなはだ奇、修飾をらずして、一部稗史はいしたり。女仙外史の作者のりてもって筆墨をするもまたむべなり。しかれども賽児の徒、はじめより大志ありしにはあらず、官吏の苛虐かぎゃくするところとなってしこうして後爆裂迸発へいはつして※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおを揚げしのみ。其の永楽帝の賽児をもとむる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮きんきゅうしてほこって立つに及び、あるいは建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにかそのじつを知るを得ん。永楽簒奪さんだつして功を成す、しか聡明そうめい剛毅ごうきまつりごとす甚だ精、補佐ほさまた賢良多し。こゝを以て賽児の徒たちまちにして跡を潜むといえども、秦末しんまつ漢季かんきごときの世にでしめば、陳渉ちんしょう張角ちょうかくついに天下を動かすの事をすに至りたるやも知るからず。嗚呼ああ賽児も亦奇女子きじょしなるかな。而してこの奇女子をりて建文にくみし永楽と争わしむ。女仙外史の奇、の奇を求めずして而しておのずからしかるあらんのみ。然りと雖もなおおもえらく、逸田叟いつでんそうの脚色はにして後わずかに奇なり、造物爺々やや施為しいは真にしてかつ更に奇なり。


 みん建文けんぶん皇帝は実に太祖たいそこう皇帝にいで位にきたまえり。時に洪武こうぶ三十一年うるう五月なり。すなわちみことのりして明年を建文元年としたまいぬ。御代みよしろしめすことはまさしく五歳にわたりたもう。しかるに廟諡びょうしを得たもうこと無く、正徳しょうとく万暦ばんれき崇禎すうていの間、事しば/\議せられて、しかついに行われず、みん亡び、しん起りて、乾隆けんりゅう元年に至って、はじめて恭憫恵きょうびんけい皇帝というおくりなを得たまえり。その国の徳衰えたくきて、内憂外患こも/″\せまり、滅亡になりなんとする世には、崩じておくられざるみかどのおわすためしもあれど、明のの後なお二百五十年も続きて、この時太祖の盛徳偉業、炎々えんえんの威を揚げ、赫々かくかくの光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりののちなれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを[#ルビの「そ」は底本では「その」]かくごとくなるに至りし所以ゆえんは、天意か人為かはいざ知らず、一動いて万波動き、不可思議の事の重畳ちょうじょう連続して、其の狂濤きょうとうは四年の間の天地を震撼しんかんし、其の余瀾よらんは万里の外の邦国に漸浸ぜんしんするに及べるありしがためならずばあらず。
 建文皇帝いみな※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父おんちち懿文いぶん太子、太祖にぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢おんとし六十五にわたらせたまいければ、流石さすが淮西わいせい一布衣いっぷいよりおこって、腰間ようかんけん、馬上のむち、四百余州を十五年になびけて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮にしょくを失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣きしおれたもう。翰林学士かんりんがくし劉三吾りゅうさんご御歎おんなげきはさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君ちょくんと仰せ出されんには、四海心をけ奉らんに、のみは御過憂あるべからず、ともうしたりければ、にもと点頭うなずかせられて、そのとしの九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、すなわち後に建文のみかどと申す。谷氏こくしの史に、建文帝、生れて十年にして懿文いぶんしゅっすとあるは、けだ脱字だつじにして、父君に別れ、儲位ちょいに立ちたまえる時は、まさしく十六歳におわしける。資性穎慧えいけい温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳にわたりて昼夜膝下しっかを離れたまわず、かくれさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々とせ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、なんじまことに純孝なり、たゞ子をうしないて孫を頼む老いたる我をもおもわぬことあらじ、とのたまいて、過哀に身をやぶらぬよう愛撫あいぶせられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
 はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏しょうそうを決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄においなだめ軽めらるゝこと多かりき。太子せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、あまね礼経れいけいを考え、歴代の刑法を参酌さんしゃくし、刑律はおしえたすくる所以ゆえんなれば、およ五倫ごりんあいわたる者は、よろしく皆法を屈してもっじょうを伸ぶべしとの意により、太祖の准許じゅんきょを得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下おおいに喜びて徳をしょうせざる無し。太祖のことばに、われは乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、なんじは平世を治むるなれば、刑おのずからまさかろうすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌ぶしょうを平らげたるの元年に、李善長りぜんちょうの考え設けたるをはじめとし、洪武六年より七年にわたりて劉惟謙りゅういけんの議定するに及びて、所謂いわゆる大明律たいみんりつ成り、同じ九年胡惟庸こいよう命を受けて釐正りせいするところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰へんせんを経て、ついに洪武の末に至り、更定大明律こうていたいみんりつ三十巻大成し、天下にわかち示されたるなり。呉の元年よりここに至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すことくわしくして、一代の法始めて定まり、朱氏しゅしの世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐にくらぶれば簡覈かんかくしかして寛厚はそうかざるも、其の惻隠そくいんの意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦わがくにに及び、徳川期の識者をしてこれを研究せしめ、明治初期の新律綱領をしてこれに採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、また人君の度ありて、明律りてもって成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位にきたもうや、刑官にさとしたまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、ちんに命じて細閲せしめたまえり。前代にくらぶるに往々重きを加う。けだし乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕がさきに改定せるところは、皇祖すでに命じて施行せしめたまえり。しかれども罪の矜疑きょうぎすべき者は、なおこれとどまらず。それ律は大法を設け、礼は人情にしたがう。民をととのうるに刑を以てするは礼を以てするにかず。それ天下有司に諭し、務めて礼教をたっとび、疑獄をゆるし、朕が万方ばんぽうともにするをよろこぶの意にかなわしめよと。嗚呼ああ、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、たれがこれを然らずとせんや。
 かくの如きの人にして、みかどとなりて位を保つを得ず、天に帰しておくりなあたわず、びょう無く陵無く、西山せいざん一抔土いっぽうどほうせずじゅせずして終るに至る。嗚呼ああ又奇なるかな。しかも其の因縁いんえん糾纏錯雑きゅうてんさくざつして、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、あるい刻毒こくどくなる、或は杳渺ようびょうたる、奇もまた太甚はなはだしというべし。

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