您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 幸田 露伴 >> 正文

運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文


 

みだりに動けば くいあり、
道は もとる可からず。
なんじ 才ありとなかれ、
後に 万世あり。


かつて紙の銘を為る。曰く、

これもって言を立つ、其の道をせんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以ておしえを施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。


 これの文、けだし少時のつくる所なり。嗚呼、運命遭逢そうほう、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴ふうき我をつこと久し、これに臨みてめいを拒まば、刀鋸とうきょ我に加わらんことし。嗚呼、正学先生せいがくせんせい、こゝにおいて、成王せいおういずくにりやと論じ、こゝに於て筆を地になげうってこくす。父にそむかず、師にそむかず、天にがっして人にがっせず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々りんりんれつれつとして、屈せずたゆまず、苦節伯夷はくいを慕わんとす。壮なるかな
 帝、孝孺の一族を収め、一人を収むるごとすなわち孝孺に示す。孝孺顧みず、すなわち之を殺す。孝孺の妻鄭氏ていし諸子しょしとは、皆経死けいしす。二女とらえられてわいを過ぐる時、あいともに橋より投じて死す。季弟きてい孝友こうゆうまたとらえられてまさりくせられんとす。孝孺之を目してなんだ下りければ、流石さすがは正学の弟なりけり、

阿兄あけい 何ぞ必ずしも 涙潜々さんさんたらむ、
義を取り 仁を成す このかんに在り。
華表かひょう 柱頭ちゅうとう 千歳せんざいのち
旅魂りょこん 旧にりて 家山かざんに到らん。


と吟じてりくせられぬ。母族林彦清りんげんせい、妻族鄭原吉ていげんきつ九族既に戮せられて、門生等まで、方氏ほうしの族として罪なわれ、坐死ざしする者およそ八百七十三人、遠謫えんたく配流はいるさるゝもの数う可からず。孝孺はつい聚宝門外しゅうほうもんがい磔殺たくさつせられぬ。孝孺慨然がいぜん、絶命のつくりて戮にく。時に年四十六、詞に曰く、

天降乱離兮孰知其由てんらんりをくだしてたれかそのよしをしらん
奸臣得計兮謀国用かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ
忠臣発憤兮血涙交流ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる
此殉君兮抑又何求ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん
嗚呼哀哉兮庶不我尤あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ


 ※(「金+庸」、第3水準1-93-36)りょうよう廖銘りょうめいは孝孺の遺骸いがいを拾いて聚宝門外しゅうほうもんがいの山上に葬りしが、二人もまた収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷りんかゆうは、かつて燕王父子の間に反間のはかりごとしたるもの、これ亦戮せられぬ。
 方氏一族かくの如くにしてほとんど絶えしが、孝孺の幼子徳宗とくそう、時にはじめて九歳、寧海県ねいかいけん典史てんし魏公沢ぎこうたく護匿ごとくするところとなりて死せざるを得、のち孝孺の門人兪公允ゆこういんの養うところとなり、つい兪氏ゆしおかして、子孫繁衍はんえんし、万暦ばんれき三十七年には二百余丁よていとなりしこと、松江府しょうこうふの儒学の申文しんぶんに見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「※(「やまいだれ+謬のつくり」、第4水準2-81-69)氏」]二子及び門人王※おうじょ[#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]拾骸しゅうがいの功またむなしからず、万暦に至って墓碑祠堂しどう成り、祭田さいでん及び嘯風亭しょうふうてい等備わり、松江しょうこう求忠書院きゅうちゅうしょいん成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、あに後無く祠無くして泯然びんぜんとして滅せんや。
 せつに死し族をせらるゝの事、もと悲壮なり。ここを以て後の正学先生の墓をぎる者、愴然そうぜんとして感じ、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)げんぜんとして泣かざるあたわず。すなわ祭弔さいちょう慷慨こうがいの詩、累篇るいへん積章せきしょうして甚だ多きを致す。衛承芳えいしょうほうが古風一首、うちに句あり、曰く、

古来 馬をたたく者、
采薇さいび 逸民を称す。
みんの徳 ※(「言+巨」、第3水準1-92-4)なんしゅうゆずらん。
すなわち其の仁を成す無からんや。


と。劉秉忠りゅうへいちゅうを慕うの人道衍どうえんは其の功を成して秉忠の如くなるを伯夷はくいを慕うの人方希直ほうきちょくは其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任おうしじん二律の一に句あり、曰く、

十族 たまの 暗き月にる有り、
九原きゅうげん はじの 青灯に付する無し。


と、李維※(「木+貞」、第3水準1-85-88)りいてい五律六首のうちに句あり、曰く、

国破れて 心 なおり、
あやうふして 舌 なお存す。


又句あり、曰く、

気はさかんなり 河山かざんの色、
しんとどまる 宇宙の



 燕王えんおう今は燕王にあらず、げんとして九五きゅうごくらいに在り、明年をもって改めて永楽えいらく元年とさんとす。しこうして建文皇帝は如何いかん。燕王の言に曰く、始め難にう、むを得ずして兵を以てわざわいを救い、誓って奸悪かんあくを除き、宗社を安んじ、周公しゅうこうの勲を庶幾しょきせんとす。おもわざりき少主予が心をまこととせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史みんしには記す、帝終る所を知らずと。又記す、あるいう帝地道ちどうよりぐと。又記す、※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)てんきん巴蜀ばしょくかんあいつたう帝の僧たる時の往来の跡ありと。これことばを二三にするものなり。帝果して火におもむいて死せるか、そもそもかみいで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先ぎゅうけいせんの伝の後に、忠賢奇秘録ちゅうけんきひろくおよび致身録ちしんろく等の事を記して、録はけだし晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡しゅつぼう、諸臣庇護ひごの事を否定するの口気あり。しかれども巻三百四、鄭和伝ていかでんには、成祖せいそ恵帝けいていの海外にげたるを疑い、これ蹤跡しょうせきせんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すとしるせり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、すなわち永楽三年なり。永楽三年にしてなお疑うあるは何ぞや。又給事中きゅうじちゅう胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]内侍ないし朱祥しゅしょうとが、永楽中に荒徼こうきょうを遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人せんにん張三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ちょうさんぼうもとめんとすというをそのとすといえども、山谷さんこくに仙をもとめしむるが如き、永楽帝の聰明そうめい勇決にしてあに真にそのことあらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知るき也。けだこの時に当って、元の※(「薛/子」、第3水準1-47-55)よけつなお所在に存し、漠北ばくほくは論無く、西陲南裔せいすいなんえいまたことごとくはみんしたがわず、野火やか焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするのいきおいあり。且つやてん一豪傑を鉄門関辺の碣石けっせきに生じて、カザン(Kazan)しいされて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児チモル(Timur)と為す。西人せいじん所謂いわゆるタメルラン也。帖木児チモルサマルカンドにり、四方を攻略して威をふるう甚だだいに、みんに対してはみつぎると雖も、太祖の末年に使つかいしたる傅安ふあんとどめて帰らしめず、これを要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度いんどかすめて、デリヒを取り、波斯ペルシヤを襲い、土耳古トルコを征し、心ひそかに支那しなうかがい、四百余州を席巻して、大元たいげんの遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北さいほくに出征して、よく胡情こじょうを知る。部下の諸将もまた夷事いじに通ずる者多し。王のみなみする、幕中ばくちゅう番騎ばんきを蔵す。およこれの事に徴して、永楽帝の塞外さくがいの状勢をさとれるを知るべし。し建文帝にして走って域外にで、崛強くっきょうにして自大なる者にるあらば、外敵は中国をうかがうの便べんを得て、義兵は邦内ほうないに起るく、重耳ちょうじ一たび逃れてかえって勢を得るが如きの事あらんとす。れ永楽帝のおそうれうるところたらずんばあらず。鄭和ていかふねうかめて遠航し、胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]せんもとめて遍歴せる、密旨をふくむところあるが如し。しこうして又鄭は実に威を海外に示さんとし、は実に異を幽境にえるや論無し。く射る者は雁影がんえいを重ならしめて而して射、はかる者は機会を復ならしめて而して謀る。一せんがんずといえども、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝のあにあえて建文をもとむるを名として使つかいを発するをさんや。いわんや又鄭和は宦官かんがんにして、胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]ともにせるの朱祥しゅしょう内侍ないしたるをや。秘意察す可きあるなり。


 鄭和ていか王景弘おうけいこうと共にいで使つかいしぬ。和のづるや、帝、袁柳荘えんりゅうそうの子の袁忠徹えんちゅうてつをしてそうせしむ、忠徹いわく可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、ふね長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州そしゅう劉家河りゅうかかよりかいうかびて福建ふくけんに至り、福建五虎門ごこもんより帆を揚げて海に入る。えつ三年にして、五年九月かえる。建文帝の事、得る有る無し。しかれども諸番国しょばんこくの使者したがって朝見し、各々おのおのその方物ほうぶつこうす。三仏斉国さんぶつせいこく酋長しゅうちょうとりことして献ず。帝おおいよろこぶ。これより建文の事に関せず、もはら国威を揚げしめんとして、再三いだす。和の使つかいを奉ずる、前後七回、の間、あるい錫蘭山セイロンざん(Ceylon)の王阿烈苦奈児アレクナルと戦って之をとりこにして献じ、あるい蘇門答剌スモタラ(Sumotala)の前の前の偽王ぎおうの子蘇幹剌スカンラと戦って、その妻子をあわせてとりことして献じ、おおいに南西諸国にみんの威を揚げ、遠く勿魯漠斯ホルムス(Holumusze ペルシヤ)麻林マリン(Mualin? アフリカ?)祖法児ズファル(Dsuhffar アラビヤ)天方てんほう(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史みんし外国伝がいこくでん西南方のやゝつまびらかなるは、鄭和に随行したる鞏珍きょうちんの著わせる西洋番国志せいようばんこくしを採りたるにもとづくという。
 胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]もまた得る無くしてみぬ。しか張三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ちょうさんぼうもとめしこと、天下の知る所たり。すなわち三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)りし所の武当ぶとう 大和山たいかざんかんを営み、えきする三十万、ついやす百万、工部侍郎こうぶじろう郭※かくつい[#「王+追」、402-3]隆平侯りゅうへいこう張信ちょうしん、事に当りしという。三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)かつて武当のしょ巌壑がんがくあそび、このやま異日必ずおおいおこらんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。


 建文帝けんぶんてい如何いかにせしぞや。伝えていわく、金川門きんせんもんまもりを失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修かんりんいんへんしゅう程済ていせいもうす、出亡しゅつぼうしたまわんにはかじと。少監しょうかん王鉞おうえつひざまずいて進みてもうす。昔高帝こうてい升遐しょうかしたもう時、遺篋いきょうあり、大難に臨まばあばくべしとのたまいぬ。謹んで奉先殿ほうせんでんの左に収め奉れりと。羣臣ぐんしん口々に、いだすべしという。宦者かんじゃたちまちにして一のくれないなるかたみきたりぬ。れば四囲はかたむるに鉄を以てし、二また鉄をそそぎありて開くべくも無し。帝これを見ておおいなげきたまい、今はとて火を大内たいだいに放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。このとき程済は辛くもかたみを砕き得て、篋中きょうちゅうの物を取出とりいだす。でたる物はそも何ぞ。釈門しゃくもんの人ならでたれかは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒どちょうというもの三ちょうありたり。度牒は人の家をいでて僧となるとき官のゆるして認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文おうぶんの名のろくされ、一には応能おうのうの名あり、一には応賢おうけんの名あり。袈裟けさ、僧帽、くつ剃刀かみそり、一々ともに備わりて、銀十じょう添わりぬ。かたみの内に朱書あり、これを読むに、応文は鬼門きもんよりで、水関すいかん御溝ぎょこうよりして行き、薄暮にして神楽観しんがくかん西房せいぼうに会せよ、とあり。衆臣驚きおののきて面々あいるばかり、しばらくはものいう者も無し。やゝありて天子、数なり、とおお[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝のいみな※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん応文おうぶんの法号、おのずから相応ずるが如し。且つみんもといを開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となりたまいたれ、げん順宗じゅんそう至正しせい四年とし十七におわしける時は、疫病おおいに行われて、御父おんちち御母兄上幼き弟皆せたまえるに、家貧にして棺槨かんかくそなえだにしたもうあたわず、藁葬こうそうという悲しくも悲しき事を取行とりおこなわせ玉わんとて、なかの兄と二人してみずから遺骸いがいきて山麓さんろくに至りたまえるに、※(「糸+更」、第4水準2-84-30)なわ絶えて又如何いかんともするあたわず、仲の兄はせかえって※(「糸+更」、第4水準2-84-30)を取りしという談だにのこりぬ。其の仲の兄もまた亡せたれば、孤身るところなく、つい皇覚寺こうかくじに入りて僧とり、を得んがため※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)ごうひに至り、こうじょえいの諸州に托鉢たくはつ修行し、三歳の間は草鞋そうあい竹笠ちくりゅうき雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因にょぜいん如是縁にょぜえん、今また袈裟けさ念珠ねんじゅの人たらんとす。不思議というもあまりあり。程済すなわち御意に従いて祝髪しゅくはつしまいらす。万乗の君主金冠をおとし、剃刀ていとうの冷光翠髪すいはつぐ。悲痛何ぞえんや。呉王ごおうの教授揚応能ようおうのうは、臣が名度牒どちょうに応ず、願わくは祝髪してしたがいまつらんともうす。監察御史かんさつぎょし葉希賢しょうきけん、臣が名はけん応賢おうけんたるべきことうたがい無しともうす。おのおの髪をえてちょうひらく。殿でんに在りしものおよそ五六十人、痛哭つうこくして地に倒れ、ともちかってしたがいまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とてさしまねいて去らしめたもう。御史ぎょし曾鳳韶そうほうしょう、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、のち果して燕王のめしおうぜずして自殺しぬ。諸臣おおいなげきてようやくに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟いっしゅうの岸にるあり。たれぞと見るに神楽観しんがくかんの道士王昇おうしょうにして、帝を見て叩頭こうとうして万歳をとなえ、嗚呼ああきたらせたまえるよ、臣昨夜の夢にこう皇帝の命をこうむりて、ここにまいりたり、と申す。すなわち舟に乗じて太平門たいへいもんに至りたもう。しょう導きまいらせてかんに至れば、あたかすでに薄暮なりけり。陸路よりして楊応能ようおうのう葉希賢しょうきけん十三人同じく至る。ごう二十二人、兵部侍郎へいぶじろう廖平りょうへい刑部侍郎けいぶじろう金焦きんしょう編修へんしゅう趙天泰ちょうてんたい検討けんとう程亨ていこう按察使あんさつし王良おうりょう参政さんせい蔡運さいうん刑部郎中けいぶろうちゅう梁田玉りょうでんぎょく中書舎人ちゅうしょしゃじん梁良玉りょうりょうぎょく梁中節りょうちゅうせつ宋和そうか郭節かくせつ刑部司務けいぶしむ馮※ひょうかく[#「さんずい+寉」、405-12]鎮撫ちんぶ牛景先ぎゅうけいせん王資おうし劉仲りゅうちゅう翰林侍詔かんりんじしょう鄭洽ていこう欽天監正きんてんかんせい王之臣おうししん太監たいかん周恕しゅうじょ徐王府賓輔じょおうふひんほ史彬しひんと、楊応能ようおうのう葉希賢しょうきけん程済ていせいとなり。帝、今後はたゞ師弟をもって称し、必ずしも主臣の礼にかかわらざるべしとのたまう。諸臣泣いて諾す。廖平こゝにおいて人々にって曰く、諸人のしたがわんことを願うは、もとよりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室のるい無くして、膂力りょりょくふせまもるに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、ともはるかに応援をさば、可ならんと。帝も、しかるべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘びくと称し、程済は道人どうじんと称して、常に左右に侍し、馮※ひょうかく[#「さんずい+寉」、406-8][#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子ばじしと称し、郭節かくせつ雪菴せつあんと称し、宋和そうか雲門僧うんもんそうと称し、趙天泰ちょうてんたい衣葛翁いかつおうと称し、王之臣おうししん補鍋ほかもって生計を為さんとして老補鍋ろうほかと称し、牛景先ぎゅうけいせん東湖樵夫とうこしょうふと称し、各々おのおの姓をうずめ名を変じて陰陽いんよう扈従こしょうせんとす。帝は※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)てんなんきて西平侯せいへいこうらんとしたもう。史彬しひんこれを危ぶみてとどめ、しんの中の、家いさゝか足りて、旦夕たんせきに備うき者のもとしゃくとどめたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしともうす。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽ていこう、郭節、王資、史彬しひん、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、しょう、楊、牛、ひょう、宋、史なり。は皆涙をふるって別れまいらす。帝は道を※(「さんずい+栗」、第4水準2-79-2)りつように取りて、呉江ごこう黄渓こうけいの史彬の家に至りたもうに、月のおわりを以て諸臣またようやあいあつまりて伺候しこうす。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王くらいきて、諸官員の職をなげうって遯去のがれさりし者の官籍を削る。呉江ごこう邑丞ゆうじょう鞏徳きょうとく蘇州府そしゅうふの命を以て史彬が家に至り、官を奪い、かつ曰く、聞く君が家建文けんぶん皇帝をかしずくと。ひん驚いて曰く、全くそのこと無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江をで、舟にのぼりて京口けいこうに至り、六合ろくごうを過ぎ、陸路襄陽じょうように至り、廖平が家に至りたもうに、そのあとう者ありければ、ついに意を決して雲南うんなんに入りたもう。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ... 下一页  >>  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告