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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文



 燕王えんおうの兵を起したる建文元年七月より、恵帝けいていの国をゆずりたる建文四年六月までは、烽烟ほうえん剣光けんこうにして、今一々これを記するにものうし。そのしょうを知らんとするものは、明史みんし及び明朝紀事本末みんちょうきじほんまつに就きて考うべし。今たゞ其概略がいりゃくと燕王恵帝の性格※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうを知るきものとを記せん。燕王もと智勇天縦ちゆうてんしょうかつつとに征戦に習う。洪武こうぶ二十三年、太祖たいその命を奉じ、諸王と共に元族げんぞく漠北ばくほくに征す。秦王しんおう晋王しんおうきょにしてあえて進まず、王将軍傅友徳ふゆうとく等を率いて北出し、※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)都山いとさんに至り、其将乃児不花ナルプファとりこにしてかえる。太祖おおい[#「おおい」は底本では「おおいい」]に喜び、これより後しばしば諸将をひきいて出征せしむるに、毎次功ありて、威名おおいふるう。王既に兵を知りたたかいる。加うるに道衍どうえんありて、機密に参し、張玉ちょうぎょく朱能しゅのう丘福きゅうふくありて爪牙そうがる。丘福は謀画ぼうかくの才張玉に及ばずといえども、樸直ぼくちょく猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、たたかい終って功を献ずるや必ず人におくる。いにしえ大樹たいじゅ将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我これを知る、と歎美たんびせしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福そのしゅたり、淇国公きこくこうほうぜらる。その将士の鷙悍※雄しかんごうゆう[#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]の者も、またはなはすくなからず。燕王の大事を挙ぐるも、けだ胸算きょうさんあるなり。燕王の※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきって反をあえてするや、郭資かくしとどめて北平ほくへいを守らしめ、ただちに師をいだして通州つうしゅうを取り、薊州けいしゅうを定めずんば、後顧のうれいあらんとえる張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、ついで夜襲して遵化じゅんかくだす。これ開平かいへいの東北の地なり。時に※(「王+眞」、第4水準2-80-87)よてん居庸関きょようかんを守る。王曰く、居庸は険隘けんあいにして、北平の咽喉いんこう也、敵ここるは、れ我がはいつなり、急に取らざる可からずと。すなわ徐安じょあん鐘祥しょうしょうをして※(「王+眞」、第4水準2-80-87)てんって、懐来かいらいに走らしむ。宗忠そうちゅう懐来かいらいり 兵三万と号す。諸将之を撃つをかたんず。王曰く、彼おおく、我すくなし、しかれども彼あらたに集まる、其心いまだ一ならず、之を撃たばかならず破れんと。精兵八千を率い、こうき道を倍して進み、ついに戦ってち、忠と※(「王+眞」、第4水準2-80-87)とをて之を斬る。こゝにおいて諸州燕にくだる者多く、永平えいへい欒州らんしゅうまた燕に帰す。大寧たいねい都指揮としき卜万ぼくばん松亭関しょうていかんで、沙河さがとどまり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、いきおいやゝ振う。燕王反間はんかんを放ち、万の部将陳亨ちんこう劉貞りゅうていをして万を縛し獄に下さしむ。
 帝黄子澄の言を用い、長興侯ちょうこうこう耿炳文こうへいぶんを大将軍とし、李堅りけん寧忠ねいちゅうえて北伐せしめ、又安陸侯あんりくこう呉傑ごけつ江陰侯こういんこう呉高ごこう都督ととく都指揮としき盛庸せいよう潘忠はんちゅう楊松ようしょう顧成こせい徐凱じょがい李文りぶん陳暉ちんき平安へいあんに命じ、諸道並び進みて、ただちに北平をかしむ。時に帝諸将士をいましめたまわく、むかし蕭繹しょうえき、兵を挙げてけいに入らんとす、しかそのしもに令して曰く、一門のうち自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今なんじ将士、燕王と対塁するも、務めてこのを体して、ちんをして叔父しゅくふを殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹しょうえきりょう孝元こうげん皇帝なり。今梁書りょうしょあんずるに、此事を載せず。けだし元帝兵を挙げて賊をちゅうけいに入らんことを図る。時に河東かとう王誉おうよ、帝に従わず、かえって帝の子ほうを殺す。帝鮑泉ほうせんりて之を討たしめ、又おう僧弁そうべんをして代って将たらしむ。帝は高祖武帝ぶていの第七子にして、は武帝の長子にして文選もんぜん撰者せんじゃたる昭明太子しょうめいたいしとうの第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔じんじゅうの性、宋襄そうじょうに近きものありというべし。それ燕王は叔父たりといえども、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器きょうきろうし王師に抗す、其罪もとより誅戮ちゅうりくに当る。しかるにかくごときの令を出征の将士に下す。これたまたまもって軍旅のえいぎ、貔貅ひきゅうたんを小にするに過ぎざるのみ、なりというからず。燕王と戦うに及びて、官軍時にあるいは勝つあるも、この令あるをもって、飛箭ひせん長槍ちょうそう、燕王をたおすに至らず。然りと雖も、小人のあやまち刻薄こくはく、長者のあやまち寛厚かんこう、帝の過をて帝の人となりを知るべし。
 八月耿炳文こうへいぶん兵三十万を率いて真定しんていに至り、徐凱じょがいは兵十万を率いて河間かかんとどまる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠ちょうしせいに当りて、長興ちょうこうを守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、ついに士誠をして志をたくましくするあたわざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列ほうれつするや、炳文を以て大将軍徐達じょたつして一等となす。後又、北はさいを出でゝ元の遺族を破り、南は雲南うんなんを征して蛮を平らげ、あるい陝西せんせいに、或はしょくに、旗幟きしの向う所、つねに功を成す。こと洪武こうぶの末に至っては、元勲宿将多く凋落ちょうらくせるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。老いて材いよいよ堅く、将老いて軍益々ますます固し。然れども不幸にして先鋒せんぽう楊松、燕王のために不意を襲われて雄県ゆうけんに死し、潘忠はんちゅういたすくわんとして月漾橋げつようきょうの伏兵にとらえられ、部将張保ちょうほ敵に降りて其の利用するところとなり、遂に※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)沱河こだかの北岸において、燕王及び張玉、朱能、譚淵たんえん馬雲ばうんの為におおいに敗れて、李堅りけん※忠ねいちゅう[#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]顧成こせい劉燧りゅうすいを失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗してしかついえず、真定城しんていじょうに入りて門をじて堅く守る。燕兵かちに乗じて城を囲む三日、下すあたわず。燕王も炳文が老将にして破りやすからざるを知り、を解いてかえる。
 炳文の一敗はなお復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄こうしちょうの言によりて、李景隆りけいりゅうを大将軍とし、斧鉞ふえつたまわって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)がんこの子弟、趙括ちょうかつりゅうなればなり。趙括を挙げて廉頗れんぱに代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実にこれに本づく。炳文の子※(「王+睿」、第3水準1-88-34)えい[#「※(「王+睿」、第3水準1-88-34)」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]は、帝の父懿文いぶん太子の長女江都公主こうとこうしゅを妻とす、※(「王+睿」、第3水準1-88-34)えい[#「※(「王+睿」、第3水準1-88-34)」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]父のまた用いられざるを憤ることはなはだしかりしという。又※(「王+睿」、第3水準1-88-34)[#「※(「王+睿」、第3水準1-88-34)」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-8]」]の弟けん[#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]遼東りょうとう鎮守ちんじゅ呉高ごこう都指揮使としきし楊文ようぶんともに兵を率いて永平えいへいを囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡そとうば所謂いわゆるえきする者も日に勝って日にやぶるゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児きょうじを挙ぐ。燕王手をって笑って、李九江りきゅうこう膏梁こうりょう豎子じゅしのみ、未だかつて兵に習い陣を見ず、すなわあたうるに五十万の衆を以てす、これ自らこれあなにするなり、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召してかえらしめたる、まことにたんずべし。
 景隆小字しょうじ九江きゅうこう、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰のすすむるにるも、又別に所以ゆえ有るなり。景隆は李文忠りぶんちゅうの子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好みけいを治め、の家居するや恂々じゅんじゅんとして儒者の如く、しかも甲を※(「てへん+鐶のつくり」、第3水準1-85-3)き馬にほこを横たえて陣に臨むや、※(「足へん+卓」、第4水準2-89-35)※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)たくれい風発、大敵にいてますますさかんに、年十九より軍に従いて数々しばしば偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重あいちょう[#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安せいあんに水道を設けては人を利し、応天おうてんに田租を減じては民をめぐみ、誅戮ちゅうりくすくなくすることを勧め、宦官かんがんさか[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることをいさめ、洪武十五年、太祖日本懐良王かねながおうの書に激して之を討たんとせるをとどめ、(懐良王、明史みんしに良懐に作るはけだあやまり也。懐良王は、後醍醐ごだいご帝の皇子、延元えんげん三年、征西大将軍に任じ、筑紫つくし鎮撫ちんぶす。菊池武光きくちたけみつこれに従い、興国こうこくより正平しょうへいに及び、勢威おおいに張る。明の太祖の辺海つね和寇わこうみださるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするをもっ威嚇いかくするや、王答うるに書を以てす。その略に曰く、乾坤けんこん浩蕩こうとうたり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪かんこうなり、諸邦をして以て分守す。けだし天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざるなりわれ聞く、天朝たたかいおこすの策ありと、小邦また敵をふせぐのあり。あにあえみちひざまずいて之を奉ぜんや。之にしたがうもいまだ其せいを必せず、之にさからうも未だ其死を必せず、あい賀蘭山前がらんさんぜんいささかもっ博戯はくぎせん、吾何をかおそれんやと。太祖書を得ていかること甚だしく、しんに兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和こうわ元年に当る。時に王既に今川了俊いまがわりょうしゅんの為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝ごむらかみてい[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子良成ながなり王に譲り、筑後ちくご矢部やべに閑居し、読経礼仏を事として、兵政のつとめをば執りたまわず、年代齟齬そご[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王とみんとの交渉はつとに正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。このこと我が国に史料全く欠け、大日本史だいにほんしも亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚ふだんにあらず。)一個いっか優秀の風格、多くからざるの人なり。洪武十七年、やまいを得て死するや、太祖親しく文をつくりてまつりを致し、岐陽王きようおうに追封し、武靖ぶせいおくりなし、太廟たいびょう配享はいきょうしたり。景隆はかくの如き人の長子にして、其父の蓋世がいせいの武勲と、帝室の親眷しんけんとの関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍をぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀びもくそしゅう雍容都雅ようようとが顧盻偉然こべんいぜん卒爾そつじに之を望めば大人物の如くなりしかば、しばしばでゝ軍を湖広ここう陝西せんせい河南かなんに練り、左軍都督府事さぐんととくふじとなりたるほかには、すところも無く、その功としては周王しゅうおうとらえしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮こひにして羊質ようしつ所謂いわゆる治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を[#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]み剣をふるいて進み、きずつつみ歯をくいしばってたたかうが如き経験は、いまかつて積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実にその真を得たりしなり。
 李景隆は大兵を率いて燕王をたんと北上す。帝はなお北方憂うるに足らずとしてこころを文治に専らにし、儒臣方孝孺ほうこうじゅと周官の法度ほうどを討論して日を送る、このかんに於て監察御史かんさつぎょし韓郁かんいく(韓郁あるい康郁こういくに作る)というもの時事を憂いてたてまつりぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒じゅじゅとなし、諸王は太祖の遺体なり、孝康こうこう手足しゅそくなりとなし、これを待つことの厚からずして、周王しょうだいせい王をして不幸ならしめたるは、朝廷のために計る者のあやまちにして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりとし、ことわざいわく、親者しんしゃ之をけども断たず、疎者そしゃ之をげどもかたからずと、これことに理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財をし兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王をゆるし、湘王をほうじ、周王を京師けいしかえし、諸王世子せいしをして書を持し燕に勧め、干戈かんかめ、親戚しんせきあつうしたまえ、然らずんば臣おもえらく十年を待たずして必ず噬臍ぜいせいくいあらん、というにり。其の論、彝倫いりんあつくし、動乱をしずめんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時すでに去り、いきおい既に成るの後に於て、この言あるも、嗚呼ああおそかりしなり。帝ついに用いたまわず。
 景隆の炳文へいぶんに代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆はいちょうを具せるを指摘し、我これとりこにせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平ほくへい世子せいしに守らしめ、東に出でゝ、遼東りょうとう江陰侯こういんこう呉高ごこうを永平よりい、転じて大寧たいねいに至りて之を抜き、ねい王を擁してかんに入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師をひきいて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲りじょう梁明りょうめい世子せいしを奉じて防守甚だつとむといえども、景隆が軍おおくして、将もまた雄傑なきにあらず、都督ととく瞿能くのうの如き、張掖門ちょうえきもんに殺入しておおいに威勇を奮い、城ほとんど破る。しかも景隆のの小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るをちてともに進めと令し、機に乗じて突至せず。ここに於て守る者便べんを得、連夜水をみて城壁にそそげば、天寒くしてたちまち氷結し、明日に至ればまた登ることを得ざるが如きことありき。燕王はあらかじめ景隆を吾が堅城の下に致して之をつくさんことを期せしに、景隆既に※(「(士/冖/一/弓)+殳」、第3水準1-84-25)やごろに入りきたりぬ、何ぞを放たざらんや。大寧よりかえりて会州かいしゅうに至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬りひん右軍ゆうぐんに、徐忠じょちゅうを前軍に、降将房寛ぼうかんを後軍に将たらしめ、ようやく南下して京軍けいぐんと相対したり。十一月、京軍の先鋒せんぽう陳暉ちんき、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷もくとうして曰く、天し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷はたして合す。燕の師勇躍して進み、の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃きょうげきし、遂にしきりに其七営を破って景隆の営にせまる。張玉も陣をつらねて進むや、城中もまた兵を出して、内外こもごも攻む。景隆支うるあたわずしてのがれ、諸軍も亦かててゝはしる。燕の諸将ここに於て頓首とんしゅして王の神算及ぶからずと賀す。王いわく、偶中ぐうちゅうのみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後にはけんす。燕王が英雄の心をるもたくみなりというべし。
 景隆が大軍功無くして、退いて徳州とくしゅうに屯す。黄子澄そのはいを奏せざるをもって、十二月に至ってかえって景隆に太子たいし太師たいしを加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌こうしょうを攻めて之を降す。
 前にたてまつりりて、諸藩を削るをいさめたる高巍こうぎは、言用いられず、事ついに発して天下動乱に至りたるをなげき、書をたてまつりりて、臣願わくは燕に使つかいして言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王にたてまつりりたり。その略に曰く、太祖たいそ[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐しょうかしたまいておもわざりき大王と朝廷とげきあらんとは。臣おもえらく干戈かんかを動かすは和解にかずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王にまみえん。昔周公流言を聞きては、すなわち位を避けて東にたまいき。し大王首計しゅけいの者をりたまい、護衛の兵を解き、子孫をしちにし、骨肉猜忌さいきうたがいき、残賊離間の口をふさぎたまわば、周公とさかんなることを比すべきにあらずや。しかるをおもんばかりこゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇きょううを襲いたもう。されば事に任ずる者、口にくことを得て、殿下文臣をちゅうすることを仮りて実は漢の王の七国にとなえて晁錯ちょうさくを誅せんとしゝにならわんと欲したもうと申す。今大王北平にりて数群を取りたもうといえども、数月すうげつ以来にして、なお※(「くさかんむり/最」、第4水準2-86-82)さつじたる一隅の地をづる能わず、くらぶるに天下を以てすれば、十五にして未だそのいつをも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王のべたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義はすなわち君臣たり、しんは則ち骨肉たるも、なお離れへだたりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。おもいこゝに至るごとに大王の為に流涕りゅうていせずんばあらざる也。願わくは大王臣がことばを信じ、上表じょうひょう謝罪し、甲をき兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥かんゆうあり、天人共によろこびて、太祖在天の霊もまた安んじたまわん。※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)もしまよいを執りてかえらず、小勝をたのみ、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、す可からざるの悖事はいじ僥倖ぎょうこうするをあえてしたまわば、臣大王の為にもうすべきところを知らざるなりいわんや、大喪の期未だ終らざるに、無辜むこの民驚きを受く。仁を求め国をまもるの義と、逕庭けいていあるもまたはなはだし。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪さんだつするの批議無きにあらじ。もしさいわいにして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何いかんの人とい申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣ふゆう微命びめい、もとより死をおそれず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩ぎょおんこうむりて、臣が孝行をあらわしたもうをかたじけなくす。巍すでに孝子たる、まさに忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊にまみゆるを得ば、巍も亦以てはじ無かるべし。巍至誠至心、直語してまず、尊厳を冒涜ぼうとくす、死を賜うもくい無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。とはばかるところ無くもうしける。されど燕王答えたまわねば、数次しばしば書をたてまつりけるが、皆かい無かりけり。
 巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王のこれに対して如何いかんの感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起したたかいを開く、巍のことばしと雖も、大河既に決す、一葦いちいの支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其げんと、忠孝敦厚とんこうの人たるにそむかず。数百歳の後、なお読む者をして愴然そうぜんとして感ずるあらしむ。魏と韓郁かんいくとは、建文の時に於て、人情の純、道理のまさに拠りて、げんを為せる者也。

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