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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文

 

せいすなわち しゅう容刀たまのさや
生は乃ち ※(「王+與」、第3水準1-88-33)※(「王+番」、第4水準2-81-1)よきたま
しんなれば 乃ち貴し、
なんもちゐん 空言を用ゐるを。
孳々じじとして 務めて践形せんけいし、
そむなかれ 七尺の身に。
敬義 もっし、
忠信 以てかんと為し、
慈仁 以てはいと為し、
廉知れんち 以てかわおび[#「般/革」、UCS-97B6、374-5]と為し、
ひとり立つて 千古をにらまば、
万象 あきらかにしてくらき無からむ。
このこころ ついたれか知らん、
なんじために ことば諄諄じゅんじゅんたり。
いたずらに しいてものいふとおもなかれ、
一一 よろしくしんしょすべし。


 孝孺のちに至りて此詩を録して人にしめすの時、書して曰く、前輩せんぱい後学こうがくつとめしむ、惓惓けんけんこころひとり文辞のみにらず、望むらくはあいともに之を勉めんと。臨海りんかい林佑りんゆう葉見泰しょうけんたい、潜渓の詩にばつして、又みな宋太史そうたいしの期望にむくいんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓にそむかざりき。


 孝孺こうじゅしゅうは、そのひと天子のにくむところ、一世のむところとなりしをもって、当時絶滅に帰し、歿後ぼつご六十年にして臨海りんかい趙洪ちょうこうに附せしより、またようやく世に伝わるを得たり。今遜志斎集そんしさいしゅうを執ってこれを読むに、蜀王しょくおう所謂いわゆる正学先生せいがくせんせいの精神面目奕々えきえきとして儼存げんそんするを覚ゆ。幼儀ようぎ雑箴ざっしん二十首を読めば、りつこうしんより、げんどういんしょく等に至る、皆道にたがわざらんことを欲して、而して実践躬行底きゅうこうていより徳を成さんとするの意、看取すべし。その雑銘を読めば、かんたい※(「尸+(彳+婁)」、第4水準2-8-20)より、すい[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1][#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/垂の一画目の下に横画一つ足した形」、376-1]」]、あんれんしゃ等に至る、各物一々にとう日新にっしんの銘にのっとりて、語を下し文をす、反省修養の意、看取すべし。雑誡ざっかい三十八章、学箴がくしん九首、家人箴かじんしん十五首、宗儀そうぎ九首等を読めば、希直きちょくの学をすや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域にいたらんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視まっしし、つねに王道を明らかにし太平を致すを以ておのが任と為すと。(これ鄭暁ていぎょう方先生伝ほうせんせいでんもとづく)まことしかり、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯しんしなる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術のなるは、四蠹しとこれを害すればなり。姦言かんげんかざり、近事きんじ※(「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91)り、時勢を窺伺きしし、便べんはしげきに投じ、冨貴ふうきを以て、志とす。これ利禄りろくう。耳剽じひょう口衒こうげんし、いろいつわことばいんにし、聖賢にあらずして、しかも自立し、果敢かかん大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、これを名を務むるのという。※(「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91)こうせきして説を成し、上古にがっするを務め、先儒を※(「此/言」、第4水準2-88-57)きしし、以謂おもえらく我に及ぶなりと、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁くんこという。道徳の旨を知らず、雕飾ちゅうしょく綴緝てっしゅうして、以て新奇となし、歯をかんし舌をして、以て簡古と為し、世において加益するところ無し。是を文辞ぶんじという。四者交々こもごもおこりて、聖人の学ほろぶ。必ずやこれを身にもとづけ、諸を政教にあらわし、以てものを成す可き者は、ただ聖人の学、聖道を去ってしこうしてしたがわず、而してただにこれ帰す。甚しいかな惑えるや、と。孝孺のこのげんてらせば、鄭暁ていぎょうの伝うるところ、実にむなしからざる也。四箴ししんの序のうちの語に曰く、天にがっして人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生せんけいせんせいえる所の、ひとり立って千古をにらみ、万象てらしてくらき無しのきょうに入れるをるべし。又克畏こくいしんを読めば、あゝおおいなる上帝、ちゅうを人にくだす、といえるより、其のまさくらきに当ってや、てんとしてよろしくしかるべしとうも、中夜ちゅうや静かに思えばあに吾が天ならんや、すなわち奮って而してかなしみ、すみやかに前轍ぜんてつを改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずるなかれ、たしなむ所を嗜む勿れ、といい、表裏交々こもごも修めて、本末一致せんといえる如き、あたかも神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流ちょうりゅうせるを見る。父克勤こくきんの、昼の為せるところ、夜はすなわち天にもうしたるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟こうもうの正大純粋のおしえ徳光とくこう恵風けいふう浸涵しんかんして、真に心胸しんきょうの深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるをるべき也。
 孝孺既に文芸を末視まっしし、孔孟の学をし、伊周いしゅうの事に任ぜんとす。しかれどもの文章またおのずから佳、前人評して曰く、※(「广+龍」、第3水準1-94-86)博朗じゅんほうばくろう[#「醇※(「广+龍」、第3水準1-94-86)博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、沛乎はいことしてあまり有り、勃乎ぼっことしてふせしと。又曰く、醇深雄邁じゅんしんゆうまいと。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩はけだし其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずからる可し。其の王仲縉感懐おうちゅうしんかんかいいんする詩の末に句あり、曰く

壮士 千載せんざいの心、
あに憂へんや とを。
由来 かいうかばんの志、
れ 軒冕けんべんの姿にあらず。
人生 道を聞くをたっとぶ、
富貴 またなにるものぞ。
賢にして有り 陋巷ろうこうたのしみ
聖にして有り 西山せいざんうえ
おとがいる 失ふところ多し、
苦節 いまだ非とす可からず。


 道衍どうえんは豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子とうきょしは歌って曰く、苦節かたくすべからずと。遜志斎そんしさいは歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量はくいりょう何ぞせまきと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山のうえと。孝孺又其の※陽えいよう[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」][#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS-7020、380-4]ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之にって首陽しゅようおもう、西顧せいこすれば清風せいふう生ずと。又乙丑中秋後いっちゅうちゅうしゅうご二日あにに寄する詩の句に曰く、苦節伯夷はくいを慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、※(「角+光」、第3水準1-91-91)こうちゅう又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直きちょくは俗にして、いんしんに、酒のうれいたる、謹者きんしゃをしてすさみ、荘者をして狂し、貴者をしていやしく、存者そんしゃをしてほろばしむ、といい、酒巵しゅしの銘には、しんあまねくし衆を和するも、つねここおいてし、わざわいを造りはいをおこすも、つねここに於てす、其あくに懲り、以て善にはしり、其儀をつつしむをたっとぶ、といえり。逃虚子はぶつを奉じて、しか順世じゅんせい外道げどうの如く、遜志斎は儒を尊んで、しか浄行者じょうぎょうしゃの如し。嗚呼ああ、何ぞ其の奇なるや。しかも遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳じょうし南楼なんろうに登るの詩に曰く、

昔時せきじ 喜んで酒を飲み、
さかずきを挙げて 深きを辞せざりき。
ここ中歳ちゅうさいに及んでよりこのかた、
すでまた 人のむをおそる。
後生わかきもの ゆるがせにする所多きも、
あにらんや おい会臨かいりんするを。
志士は 景光をおしむ、
ふもとに登れば すでみねを知る。
つねに聞く 前世ぜんせいの事、
すこぶる見る 古人の心。
く者 まことにやすまず、
将来 たれか今にがむ。
百年 まさに成る有るべし、
泯滅びんめつ なんうらやむに足らんや。
つねあわれむ 伯牙はくがろうにして、
しょう 死して そのことを破れるを。
みずかるあらば まことに伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも 知音ちいんを求めんや。
してはる 水中のこうお[#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9][#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9]」は底本では「※(「條」の「木」に代えて「黒の旧字」、第3水準1-14-46)」]、
仰いではる 雲際うんさいとり
真楽しんらく われ 隠さず、
欣然きんぜんとして 煩襟はんきんひろうす。


 前半は巵酒ししゅ 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありてそとに待つ無きをいう。伯牙をろうとして破琴をあわれみ、荘子そうじを引きて不隠ふいんを挙ぐ。それ外より入る者は、うちしゅたる無し、門より入る者は家珍かちんにあらず。さかずきを挙げてたのしみとなす、何ぞれ至楽ならん。
 遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神はるかことなり。意気の俊邁しゅんまいなるに至っては、たがいあいゆずらずといえども、正学先生せいがくせんせいの詩はついに是れ正学先生の詩にして、其の帰趣きしゅを考うるに、つねに正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側きそく詭※きひ[#「言+皮」、UCS-8A56、383-8]の言をさず、放逸ほういつ曠達こうたつたい無し。勉学の詩二十四章の如きは、けだし壮時の作と雖も、其の本色ほんしょくなり。談詩だんし五首の一に曰く、

こぞって 皆そうとす 李杜りとの詩を。
知らず 李杜の 更にたれを宗とせるを。
く 風雅 無窮の意をさぐらば、
始めて是れ 乾坤けんこん 絶妙のならん。


第二に曰く、

道徳を 発揮して すなわち文を成す、
枝葉 何ぞかつて 本根ほんこん[#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
末俗ばつぞく 工を競ふ 繁縟はんじょくたい
千秋の精意 たれともに論ぜん。

 れ正学先生の詩にけるのけんなり。しりぞじつたっとび、雅を愛しいんにくむ。尋常一様詩詞ししの人の、綺麗きれい自ら喜び、藻絵そうかい自らてらい、しこうして其の本旨正道を逸し邪路にはしるを忘るゝが如きは、希直きちょくの断じて取らざるところなり。希直の父愚庵ぐあん、師潜渓せんけいの見も、また大略かくの如しといえども、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
 孝孺こうじゅの父は洪武こうぶ九年を以て歿ぼっし、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)ごちんすすめを以て太祖にまみゆ。太祖の挙止端整なるを喜びて、皇孫にって曰く、この荘士、まさその才を老いしめて以てなんじたすけしめんと。えつ十年にして又すすめられて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時にあらずと。太祖が孝孺を器重きちょうして、しかも挙用せざりしは何ぞ。後人こゝにおいりょを致すもの多し。しかれどもこれは強いて解すからず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見のあいだおいて、たま/\仇家きゅうかためるいせられて孝孺の闕下けっか械送かいそうせられし時、太祖そのを記し居たまいてことゆるされしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳ようやく高くして、太祖の第十一子蜀王しょくおう椿ちん、孝孺をへいして世子のとなし、尊ぶに殊礼しゅれいもってす。王の孝孺にたまうの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士をけみはなはだ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に

けんにして以て みづからぼくし、
ひくうして以て みづからす。
雍容ようよう 儒雅じゅが
鸞鳳らんぽうの 儀あり。


とあり。又其の賜詩しし三首の一に

文章 金石を奏し、
衿佩きんぱい 儀刑ぎけいる。
まさ世々よよ 三に遊ぶべし、
いずくんぞく 一けいこんせん。


の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、また知るべし。王孝孺の読書のに題して正学せいがくという。孝孺はみずから遜志斎そんしさいという。人の正学先生というものは、実にしょく王の賜題にるなり。
 太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々こもごも孝孺をすすむ。すなわち召されて翰林かんりんに入る。徳望もとよりさかんにして、一時の倚重きちょうするところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢しじゅんくることほとんひま無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄しょうげき皆孝孺の手にづ。三年より四年に至り、孝孺はなは煎心せんしん焦慮しょうりょすと雖も、身武臣にあらず、皇師数々しばしば屈して、燕兵ついに城下にいたる。金川門きんせんもんまもりを失いて、帝みずから大内たいだいきたもうに当り、孝孺伍雲ごうんためとらえられて獄に下さる。
 燕王志を得て、今既に帝たり。もとより孝孺の才を知り、又道衍どうえんの言をく。すなわち孝孺をゆるしてこれを用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄につなぎ、孝孺の弟子ていし※(「金+庸」、第3水準1-93-36)りょうよう廖銘りょうめいをして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯とくけいこう廖権りょうけんの子なり。孝孺怒って曰く、なんじ予に従って幾年の書を読み、かえって義の何たるを知らざるやと。二人説くあたわずしてむ。帝なお孝孺を用いんと欲し、一日にを下すこと再三に及ぶ。しかついに従わず。帝即位のみことのりを草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。すなわち召して獄よりでしむ。孝孺喪服そうふくして入り、慟哭どうこくしてかなしみ、声殿陛でんへいに徹す。帝みずからとうくだりてねぎらいて曰く、先生労苦するなかれ。我周公しゅうこう成王せいおうたすけしにのっとらんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにかると。帝曰く、かれみずから焚死ふんしすと。孝孺曰く、成王もし存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君ちょうくんる。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これちんが家事なり、先生はなはだ労苦するなかれと。左右をして筆札ひっさつを授けしめて、おもむろにみことのりして曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺おおいに数字を批して、筆を地になげうって、又大哭たいこくし、かつののしり且こくして曰く、死せんにはすなわち死せんのみ、しょうは断じて草す可からずと。帝勃然ぼつぜんとして声を大にして曰く、汝いずくんぞにわかに死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何いかにせんやと、声はなは※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげし。帝もと雄傑剛猛なり、ここに於ておおいいかって、刀を以て孝孺の口をえぐらしめて、また之を獄にす。


 孝孺の宋潜渓そうせんけいに知らるゝや、けだ釈統しゃくとうぺん後正統論こうせいとうろんとをもってす。四篇の文、雄大にして荘厳、その大旨、義理の正にって、情勢のしりぞけ、王道をたっとび、覇略を卑み、天下を全有して、海内かいだいに号令する者といえども、その道においてせざる者は、もくして、正統の君主とすべからずとするにり。しんずい王※おうもう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、390-3]や、晋宋しんそう斉梁せいりょうや、則天そくてん符堅ふけんや、これ皆これをして天下を有せしむる数百年にゆといえども、正統とすからずとす。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、あに其の天下を有するをわんやと。又曰く、天下を有してしかも正統に比す可からざる者三、簒臣さんしんなり賊后ぞくこう也、夷狄いてき也と。孝孺篇後へんごに書して曰く、予がこの文をつくりてより、いまかつて出して以て人に示さず。人のこの言を聞く者、みな予を※(「此/言」、第4水準2-88-57)ししょうして以て狂とし、あるいいんこれ詆詬ていこうす。其のしかりとう者は、独り予が師太史公たいしこうと、金華きんか胡公翰ここうかんとのみと、れ正統変統の論、もとより史のためにして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者はあに其の天下を有するを謂わんやとす。かくの如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪さんだつの君に面し、其の天下にぐるのみことのりを草せんことをせまらる。嗚呼ああ、運命遭逢そうほうまた奇なりというべし。孝孺又かつて筆の銘をつくる。曰く、

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