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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文



 しかりといえども、太祖の遺詔、考うきもまた多し。皇太孫※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、天下心を帰す、よろしく大位に登るべし、とえるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、まさに大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、あるいは皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年わかゆう乏しき、自ら謙譲して諸王のうちの材雄に略大なる者に位をゆずらんことを欲する者ありしがごときをもすいせしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。みんの世を治むる、わずかに三十一年、げんえいなおいまだ滅びず、中国に在るもの無しといえども、漠北ばくほくに、塞西さいせいに、辺南へんなんに、元の同種の広大の地域を有して※(「足へん+番」、第4水準2-89-49)ばんきょするもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和こうわあだするあり。国外のじょうかくの如し。しこうして域内の事、また英主の世を御せんことをさいわいとせずんばあらず。仁明孝友はもとよりたっとぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、あるいは恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐ほゆうし、もっが民をさいわいせよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるをおそるゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る。諸王は国中になげきてけいに至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王のその封国ほうこくむなしゅうして奸※かんごう[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことをおそるというも、諸王の臣、あに一時をたくするに足る者無からんや。子の父のそうはしるは、おのずかられ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずとさんや。諸王をして葬に会せざらしむるみことのりは、果して是れ太祖の言にづるか。太祖にしてこの詔をのこすとせば、太祖ひそかにしりぞけて聴かざりし葉居升しょうきょしょうの言の、諸王衆を擁して入朝し、はなはだしければすなわかんりてたんに、これを防ぐも及ぶ無きなり、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼ああ子にして父の葬に会するを得ず、父のなりとうと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つもまたにして薄きのうらみ無くんばあらざらんとす。詔或は時勢にあたらん、しかも実に人情に遠いかな。およ施為しい命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きことはなはだしきものは、意は善なるも、理は正しきも、けいあたるも、けんは徹するも、必らず弊にし凶を招くものなり。太祖の詔、可なることはすなわち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年こう皇后の崩ずるや、しんしんえん王等皆国に在り、しかれども諸王はしりてけいに至り、礼をえて還れり。太祖の崩ぜると、其きさきの崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。これも亦人を強いて人情に遠きをさしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。あに弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端じたんずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王はまさ淮安わいあんに至らんとせるに当りて、斉泰せいたいは帝にもうし、人をして※(「來+力」、第4水準2-3-41)ちょくもたらして国にかえらしめぬ。燕王をはじめとして諸王は皆よろこばず。これ尚書しょうしょ斉泰せいたい疎間そかんするなりといぬ。建文帝は位にきて劈頭へきとう第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父しゅくふなり、尊族なり、封土ほうどを有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯しか、皇室の藩屏はんぺいたるも何かあらん。嗚呼ああ、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、そも又遺詔にあるか、諸王にあるか、これを知らざる也。又ひるがえって思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨をとどむるの語ありしや否や。あるいは疑う、太祖の人情に通じ、世故せいこに熟せる、まさにかくの如きの詔をのこさゞるべし。し太祖に果して登遐とうかの日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封にくの時において、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王もまた発駕奔喪はつがほんそうの際に於て、半途にして擁遏ようかつせらるゝの不快事に会う無く、※(二の字点、1-2-22)おのおのその封に於て哭臨こくりんして、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事ここでず、詔を遺して諸王の情を屈するは解すからず。人の情屈すればすなわち悦ばず、悦ばざれば則ちうらみいだき他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞこれを知るのめい無からん。故にいわく、太祖の遺詔に、諸王の入臨をとどむる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄こうしちょうの輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔をむるの事も、世其例に乏しからず、かくの如きの事、未だ必ずしも無きをせず。然れどもれ推測の言のみ。しん、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰のか、為にあらざる将又はたまた斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬をとどめざるあたわざるの勢の存せしか、非。建文永楽のかん、史に曲筆多し、今あらたに史徴を得るあるにあらざれば、うたがいを存せんのみ、たしかに知るあたわざる也。


 太祖の崩ぜるはうるう五月なり、諸王の入京にゅうけいとどめられてよろこばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけいというもの、密疏みっそたてまつる。卓敬あざな惟恭いきょう、書を読んで十行ともに下るとわれし頴悟聡敏えいごそうびんの士、天文地理より律暦兵刑に至るまできわめざること無く、後に成祖せいそをして、国家を養うこと三十年、ただ一卓敬を得たりとたんぜしめしほどの英才なり。※(「魚+更」、第3水準1-94-42)直慷慨こうちょくこうがいにして、避くるところ無し。かつて制度いまだ備わらずして諸王の服乗ふくじょうも太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶ちゃくしょあいみだり、尊卑序無くんば、何をもって天下に令せんや、と説き、太祖をして、なんじげんなり、とわしめたり。の人となり知るきなり。敬の密疏は、宗藩そうはん裁抑さいよくして、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事ついみぬ。敬の言、けだし故無くして発せず、必らずひそかに聞くところありしなり。二十余年前の葉居升しょうきょしょうが言は、ここおいそのあたれるを示さんとし、七国の難は今まさに発せんとす。えん王、しゅう王、せい王、しょう王、だい王、みん王等、秘信相通じ、密使たがいに動き、穏やかならぬ流言ありて、ちょうに聞えたり。諸王と帝との間、帝はいまだ位にかざりしより諸王を忌憚きたんし、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君ちょくんを侮り、叔父しゅくふの尊をさしばんで不遜ふそんの事多かりしなり。入京会葬をとどむるの事、遺詔にづと云うといえども、諸王、せめ讒臣ざんしんたくして、しこうして其の奸悪かんあくのぞかんと云い、こう孝陵こうりょうに進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、けだ辞柄じへい無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼ああ、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ※(「目+癸」、第4水準2-82-11)かいりせざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔そかくせざらん。疎隔し、※(「目+癸」、第4水準2-82-11)離す、而して帝のためひそかに図るものあり、諸王の為にひそかに謀るものあり、いわんや藩王をもって天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるにおいてをや。事ついに決裂せずんばまざるものある也。
 帝のためひそかに図る者をばたれとなす。いわく、黄子澄こうしちょうとなし、斉泰せいたいとなす。子澄は既に記しぬ。斉泰は※(「さんずい+栗」、第4水準2-79-2)りっすいの人、洪武十七年よりようやく世にづ。建文帝くらいに即きたもうに及び、子澄とともに帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬をとどめたる時の如き、諸王は皆おもえらく、泰皇考たいこうこうの詔をめて骨肉をへだつと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
 諸王の為にひそかに謀る者を誰となす。曰く、諸王のゆうを燕王となす。燕王のに、僧道衍どうえんあり。道衍は僧たりといえど[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智かいしんめっち羅漢らかんにあらずして、かえってれ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国にく時、道衍ずからすすめて燕王のとならんとし、って曰く、大王だいおう臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽いちはくぼうを奉りて大王がためにいただかしめんと。王上おうじょうはくを冠すれば、そのぶんは皇なり、儲位ちょい明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、かくごときの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、しこうして燕王かくの如きの怪僧をいて帷※いばく[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中にく。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲そうこうも毒ありというべし。道衍燕邸えんていに至るに及んで※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこうを王に薦む。袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)あざな廷玉ていぎょく※(「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2-90-26)きんの人にして、これまた一種の異人なり。かつて海外に遊んで、人をそうするの術を別古崖べつこがいというものに受く。仰いで皎日こうじつて、目ことごとげんして後、赤豆せきとう黒豆こくとうを暗室中にいて之をべんじ、又五色のいとを窓外に懸け、月に映じてその色を別ってあやまつこと無く、しかして後に人を相す。其法は夜中を以て両炬りょうきょもやし、人の形状気色きしょくて、参するに生年月日げつじつを以てするに、百に一びょう無く、元末より既に名を天下にせたり。其の道衍どうえんるに及びたるは、道衍が嵩山寺すうざんじに在りし時にあり。※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう道衍が相をつく/″\とて、れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎びょうこの如し。性かならず殺をたしなまん。劉秉忠りゅうへいちゅうりゅうなりと。劉秉忠はがく内外を兼ね、しき三才をぶ、釈氏しゃくしよりおこって元主を助け、九州を混一こんいつし、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力にると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※きかく[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]よろしきを得るにるものまたすくなからず。秉忠は実に奇偉卓犖きいたくらくの僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処ようしょ爬着はちゃくするもの。是れより二人、友としし。道衍の※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうを燕王に薦むるに当りてや、燕王ず使者をして※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうとも酒肆しゅしに飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人にまじわり、おのれまた衛士の服を服し、弓矢きゅうしりて肆中しちゅうに飲む。※(「王+共」、第3水準1-87-92)一見してすなわはしって燕王の前に拝していわく、殿下何ぞ身を軽んじてここに至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩わがはい皆護衛の士なりと。※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうべってとせず。こゝに於て王って入り、※(「王+共」、第3水準1-87-92)を宮中にきてつばらそうせしむ。※(「王+共」、第3水準1-87-92)諦視ていしすることやや久しゅうしていわく、殿下は龍行虎歩りゅうこうこほしたまい、日角にっかく天をさしはさむ、まことに異日太平の天子にておわします。御年おんとし四十にして、御鬚おんひげへそぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位たいほういに登らせたまわんことうたがいあるべからず、ともうす。又燕府えんふの将校官属を相せしめたもうに、※(「王+共」、第3水準1-87-92)一々指点して曰く、ぼうこうたるべし、某はこうたるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王ことばれんことをはかり、うわべしりぞけて通州つうしゅうに至らしめ、舟路しゅうろひそかに召してていに入る。道衍は北平ほくへい慶寿寺けいじゅじに在り、※(「王+共」、第3水準1-87-92)燕府えんふに在り、燕王と三人、時々人をしりぞけて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。※(「王+共」、第3水準1-87-92)柳荘居士りゅうそうこじと号す。時に年けだし七十に近し。そもまた何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹ちゅうてつの伝うるところの柳荘相法、今に至ってなお存し、風鑑ふうかん津梁しんりょうたり。※(「王+共」、第3水準1-87-92)と永楽帝と答問するところの永楽百問のうち帝鬚ていしゅの事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書ろうしょとなすと雖も、ことごとしりぞからざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其のあらわすところ、今古識鑑ここんしきかん八巻ありて、明志みんし採録す。未だ寓目ぐうもくせずと雖も、けだ藻鑑そうかんの道を説く也。※(「王+共」、第3水準1-87-92)と忠徹と、ともに明史方伎伝ほうぎでんに見ゆ。※(「王+共」、第3水準1-87-92)の燕王にまみゆるや、ひげ長じてへそぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、が年まさに四旬ならんとす、鬚あにまた長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠きんちゅうというものをすすむ。金忠も亦※(「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2-90-26)きんの人なり、わかくして書を読みえきに通ず。卒伍そつごに編せらるゝに及び、ぼく北平ほくへいに売る。卜多く奇中して、市人伝えて以てしんとなす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜してを得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意ようやくにしてかたし。忠のちに仕えて兵部尚書ひょうぶしょうしょを以て太子たいし監国かんこくに補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。


 帝のかたえには黄子澄こうしちょう斉泰せいたいあり、諸藩を削奪さくだつするの意、いかでこれ無くしてまん。燕王えんおうかたえには僧道衍どうえん※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこうあり、秘謀を※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょうするの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既にかくごとし、風声鶴唳ふうせいかくれい、人あい驚かんと欲し、剣光火影かえい、世ようやまさに乱れんとす。諸王不穏の流言、ちょうに聞ゆることしきりなれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔ちゅうせき東角門とうかくもんの言をおぼえたもうや、とおおす。子澄直ちにこたえて、あえて忘れもうさずともうす。東角門の言は、すなわち子澄七国しちこくの故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰せいたいと議す。泰いわく、えん重兵ちょうへいを握り、かつもとより大志あり、まさこれを削るべしと。子澄が曰く、しからず、燕はあらかじめ備うること久しければ、にわかに図り難し。よろしく先ずしゅうを取り、燕の手足しゅそくり、しこうして後燕図るべしと。すなわ曹国公そうこくこう李景隆りけいりゅうに命じ、兵を調してにわかに河南に至り、周王しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]及び世子せいし妃嬪ひひんとらえ、爵を削りて庶人しょじんとなし、これ雲南うんなんうつしぬ。ゆうどう[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるをもって、帝もかねて之を疑いはばかり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]また異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]長史ちょうし王翰おうかんというもの、数々いさめたれどれず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]次子じし汝南じょなん有※[#「火+動」、279-5]の変を告ぐるに及び、此このことあり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月いくばくげつらざる也。冬十一月、代王だいおうけい暴虐ぼうぎゃく民をくるしむるを以て、しょくに入りて蜀王と共に居らしむ。
 諸藩ようやく削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍ぜんぐん都督府断事ととくふだんじ高巍こうぎ書をたてまつりて政を論ず。巍は遼州りょうしゅうの人、気節をたっとび、文章をくす、材器偉ならずといえども、性質実にこれ、母の蕭氏しょうしつかえて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表せいひょうせらる。の立言正平せいへいなるを以て太祖の嘉納するところとなりしまたこれ一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り御史ぎょし韓郁かんいくとは説を異にす。巍の言にいわく、我が高皇帝、三代のこうのっとり、※(「贏」の「貝」に代えて「女」、第4水準2-5-84)えいしんろうを洗い、諸王を分封ぶんぽうして、四裔しえい藩屏はんぺいたらしめたまえり。しかれどもこれを古制に比すれば封境過大にして、諸王又おおむ驕逸きょういつ不法なり。削らざればすなわち朝廷の紀綱立たず。之を削ればしんしたしむの恩をやぶる。賈誼かぎ曰く、天下の治安をほっするは、おおく諸侯を建てゝその力をすくなくするにくは無しと。臣愚しんぐおもえらく、今よろしくそのを師とすべし、晁錯ちょうさくが削奪の策を施すなかれ、主父偃しゅほえんが推恩のれいならうべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王のけんは、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々ますます親親しんしんの礼をさかんにし、歳時さいじ伏臘ふくろう使問しもん絶えず、賢者は詔を下して褒賞ほうしょうし、不法者は初犯は之をゆるし、再犯は之をゆるし、三ぱん改めざれば、則ち太廟たいびょうに告げて、地を削り、之を廃処せんに、あに服順せざる者あらんやと。帝これなりとは聞召きこしめしたりけれど、いきおい既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満みちみちたりければ、高巍こうぎの説も用いられてみぬ。
 建文元年二月、諸王にみことのりして、文武の吏士りしを節制し、官制を更定こうていするを得ざらしむ。も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯せいへいこう沐晟もくせい岷王びんおうこうの不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟そうりんちゅうし、王を廃して庶人となす。又湘王しょうおうはくいつわりてしょうを造り、及びほしいままに人を殺すを以て、ちょくくだして之を責め、兵をってとらえしむ。湘王もと膂力りょりょくありて気を負う。曰く、われ聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、あに僕隷ぼくれいの手にはずかしめられて生活を求めんやと。ついきゅうじて自ら焚死ふんしす。斉王せいおうもまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王けいもまたついに廃せられて庶人となり、大同だいどうに幽せらる。
 燕王ははじめより朝野の注目せるところとなり、かつは威望材力も群を抜けるなり、又ついに天子たるべきを期するものも有るなり、又ひそかに異人術士を養い、勇士勁卒けいそつをもたくわれるなり、人も疑い、おのれも危ぶみ、朝廷と燕とついに両立するあたわざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]とらえらるゝを見て、燕王は遂に壮士そうしえらみて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王をゆるす能わず。たま/\北辺に寇警こうけいありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調してさいでしめ、其の羽翼うよくを去りて、其の咽喉いんこうやくせんとし、すなわ工部侍郎こうぶじろう※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへいをもて北平左布政使ほくへいさふせいしとなし、謝貴しゃきもっ都指揮使としきしとなし、燕王の動静を察せしめ、巍国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ曹国公そうこくそう李景隆りけいりゅうをして、はかりごとあわせて燕をはからしむ。
 建文元年正月、燕王長史ちょうし葛誠かつせいをして入って事を奏せしむ。せい、帝のためつぶさ燕邸えんていの実を告ぐ。こゝにおいて誠をりて燕にかえらしめ、内応をさしむ。燕王さとって之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲にゅうきんす。皇道こうどうを行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史かんさつぎょし曾鳳韶そうほうしょうこれをがいせしが、帝曰く、至親ししん問うなかれと。戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけい、先に書をたてまつって藩を抑えわざわいを防がんことを言う。また密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平ほくへいは、形勝の地にして、士馬しば精強に、きんげんの由って興るところなり、今よろしくほう南昌なんしょううつしたもうべし。しからばすなわち万一の変あるも控制こうせいやすしと、帝けいこたえたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞこれに及ぶことあらんやと。敬曰く、ずい文揚広ぶんようこうは父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父をしいす。燕王の傲慢ごうまんなる、何をかさゞらん。敬の言、敦厚とんこうを欠き、帝の意、醇正じゅんせいに近しといえども、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、かなしきかな、敬の言かえって実に切なり。然れども帝黙然たることやや久しくして曰く、けい休せよと。三月に至って燕王国にかえる。都御史とぎょし暴昭ぼうしょう燕邸えんていの事を密偵して奏するあり。北平の按察使あんさつし僉事せんじ湯宗とうそう按察使あんさつし陳瑛ちんえいが燕のこがねを受けて燕の為に謀ることをがいするあり。よってえいを逮捕し、都督宗忠そうちゅうをして兵三万をひきい、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下きかれいし、開平かいへいとんして、名を辺に備うるにり、都督の耿※こうけん[#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]に命じて兵を山海関さんかいかんに練り、徐凱じょがいをして兵を臨清りんせいに練り、ひそか※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきに勅して、厳に北平ほくへいの動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を、国に帰れるよりやまいたくして出でず、これを久しゅうして遂にやまいあつしと称し、以て一時の視聴をけんとせり。されども水あるところ湿気無きあたわず、火あるところは燥気そうき無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒げいりょうというもの変をたてまつり、燕の官校于かんこうう諒周鐸りょうしゅうたくの陰事を告げゝれば、二人はとらえられてけいに至り、罪明らかにしてちゅうせられぬ。こゝに於てこと燕王に及ばざる能わず、みことのりありて燕王を責む。燕王弁疏べんそする能わざるところありけん、いつわりて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食しゅしを奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、あるいは土壌にして、時をれど覚めず、全く常を失えるものゝごとし。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきの二人、入りてやまいを問うに、時まさに盛夏に属するに、王はを囲み、身をふるわせて、寒きことはななだしとい、宮中をさえつえつきて行く。されば燕王まことに狂したりとおもう者もあり、朝廷もややこれを信ぜんとするに至りけるが、葛誠かつせいひそかに※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急をゆるくして、後日のけいに便にせんまでのいつわりに過ぎず、もとより恙無つつがなきのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうようというもの、けついたり事を奏したりけるを、斉泰いてとらえて鞠問きくもんしけるに、王がまさに兵を挙げんとするの状をば逐一にもうしたり。
 待設まちもうけたる斉泰は、たゞちに符を発し使を遣わし、いて燕府の官属を逮捕せしめ、ひそか謝貴しゃき※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへいをして、燕府に在りて内応を約せる長史ちょうし葛誠かつせい指揮しき盧振ろしんと気脈を通ぜしめ、北平都指揮としき張信ちょうしんというものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王をとらえしむ。しんは命を受けて憂懼ゆうくすところを知らず、情誼じょうぎを思えば燕王にそむくに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずるあたわず、進退両難にして、行止こうしともにかたく、左思右慮さしゆうりょ、心ついに決する能わねば、苦悶くもんの色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、なんじの深憂太息することよ、となじり問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母おおいに驚いて曰く、不可なり、汝が父のこうつねに言えり王気おうき燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝のとりこにするところにあらざるなり、燕王にそむいて家を滅することなかれと。信愈々いよいよまどいて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信ついに怒って曰く、何ぞ太甚はなはだしきやと。すなわちち意を決して燕邸にいたる。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、ただちに門に至りてまみゆることを求め、ようやく召入めしいれらる。されども燕王なおやまいを装いてものいわず。信曰く、殿下しかしたもう無かれ、まことに事あらばまさに臣に告げたもうべし、殿下もしじょうを以て臣に語りたまわずば、上命あり、まさとらわれに就きたもうべし、し意あらば臣にみたもうなかれと。燕王信のまことあるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものはなりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍どうえんを召して、まさに大事をげんとす。
 天とき耶、燕王の胸中颶母ばいぼまさに動いて、黒雲こくうん飛ばんと欲し、張玉ちょうぎょく朱能しゅのうの猛将梟雄きょうゆう、眼底紫電ひらめいて、雷火発せんとす。燕府えんぷこぞって殺気陰森いんしんたるに際し、天もまた応ぜるか、時そも至れるか、※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)ひょうふう暴雨卒然としておおいに起りぬ。蓬々ほうほうとして始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然はいぜんとして至り、澎然ほうぜんとしてそそぎ、猛打乱撃するの雨とともなって、乾坤けんこん震撼しんかんし、樹石じゅせき動盪どうとうしぬ。燕王の宮殿堅牢けんろうならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦えんが吹かれてくうひるがえり、※(「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32)かくぜんとして地にちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何のちょうぞ。さすがの燕王も心に之をにくみて色よろこばず、風声雨声、竹折るゝ声、裂くる声、物凄ものすさまじき天地を睥睨へいげいして、惨として隻語無く、王の左右もまたしゅくとしてものいわず。時に道衍どうえん少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆しょうちょうや、ともうす。もとよりの異僧道衍は、死生禍福のちまたに惑うが如き未達みだつの者にはあらず、きもに毛もいたるべき不敵の逸物いちもつなれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何いかん、とありけるに、昂然こうぜんとして答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦えんがおとす。時に取ってのさがとも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言きょうげんに聞えければ、燕王もこらえかねて、和尚おしょう何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎののしる。道衍騒がず、殿下きこしめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨をもってすと申す、かわらちて砕けぬ、これ黄屋こうおくかわるべきのみ、と泰然としてこたえければ、王もとみまゆを開いてよろこび、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。かのくにの制、天子のおくは、くに黄瓦こうがを以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるにかわるべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然ぼつぜん凛然りんぜん糾々然きゅうきゅうぜんただちにまさに天下をまんとするのいきおいをなさしめぬ。
 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入ってまもらしめぬ。矢石しせきいままじわるに至らざるも、刀鎗とうそう既にたがいに鳴る。都指揮使謝貴しゃき七衛しちえいの兵、ならびに屯田とんでんの軍士を率いて王城を囲み、木柵ぼくさくを以て端礼門たんれいもん等のみちを断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るのみことのり、及び王府の官属をとらうべきの詔至りぬ。秋七月布政使ふせいし※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきともに士卒を督してみな甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一げん支吾しごあらんには、巌石がんせき鶏卵けいらんを圧するの勢を以て臨まんとするの状をし、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)へいきの軍の殺気のはしるところ、をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だすくなく、彼の軍は甚だ多し、奈何いかにせんと。朱能進んで曰く、ず張※(「日/丙」、第3水準1-85-16)謝貴を除かば、く為す無き也と。王曰く、よし、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)へいきとりこにせんと。壬申じんしんの日、王、やまいえぬと称し、東殿とうでんに出で、官僚の賀を受け、人をして※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とを召さしむ。二人応ぜず。また内官をつかわして、とらわるべき者を交付するを装う。二人すなわち至る。衛士甚だおおかりしも、門者してこれとどめ、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とのみを入る。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴との入るや、燕王はつえいてし、宴を賜い酒をり宝盤にうりを盛っていだす。王曰く、たま/\新瓜しんかを進むる者あり、けいと之をこころみんと。自ら一を手にしけるが、たちまちにして色をしてののしって曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族けいていそうぞくなおあいたがいあわれぶ、身は天子の親属たり、しか旦夕たんせきに其めいを安んずること無し、県官の我を待つことかくの如し、天下何事か為すからざらんや、と奮然として瓜を地になげうてば、護衛の軍士皆激怒して、すすんで※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とをとらえ、かねて朝廷に内通せる葛誠かつせい盧振ろしんを殿下に取っておさえたり。王こゝにおいて杖を投じてって曰く、我何ぞ病まん、奸臣かんしんに迫らるゝのみ、とて遂に※(「日/丙」、第3水準1-85-16)貴等をる。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)貴等の将士、二人が時を移してかえらざるを見、はじめは疑い、のちさとりて、おのおの散じ去る。王城を囲める者も、首脳すでに無くなりて、手足しゅそく力無く、其兵おのずからついえたり。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへいが部下北平都指揮ほくへいとしき彭二ほうじ、憤慨あたわず、馬を躍らしておおいに市中によばわって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門たんれいもんに殺到す。燕王の勇卒※(「广+龍」、第3水準1-94-86)来興ほうらいこう丁勝ていしょうの二人、彭二を殺しければ、其兵もまた散じぬ。このいきおいに乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北さいほくに転戦して元兵げんぺいあい馳駆ちくし、千軍万馬の間に老いきたれる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明れいめいに至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門せいちょくもんをも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の※(「王+眞」、第4水準2-80-87)よてんは、走って居庸関きょようかんを守り、馬宣ばせんは東して薊州けいしゅうに走り、宋忠そうちゅう開平かいへいより兵三万を率いて居庸関に至りしが、あえて進まずして、退いて懐来かいらいを保ちたり。
 煙はさかんにして火は遂にえたり、けんは抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔せいさくを奉ぜず、あえて建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍どうえん帷幄いあくの謀師とし、金忠きんちゅう紀善きぜんとして機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福きゅうふくを都指揮僉事せんじとし、張※(「日/丙」、第3水準1-85-16)部下にして内通せる李友直りゆうちょく布政司ふせいし参議さんぎし、すなわち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣かんしんの為に謀害せらる。祖訓にわく、ちょうに正臣無く、内に奸逆かんぎゃくあれば、必ず兵を挙げて誅討ちゅうとうし、もって君側の悪を清めよと。こゝになんじ将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王せいおうたすくるにのっとらん。なんじそれ予が心を体せよと。一面にはかくの如くに将士に宣言し、又一面には書を帝にたてまつりて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固きょうこにして、盤石の計をしたまえり。しかるに奸臣かんしん斉泰せいたい黄子澄こうしちょう、禍心を包蔵し、しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]はくけい※(「木+便」、第4水準2-15-14)べんの五弟、数年ならずして、並びに削奪さくだつせられぬ、はくもっともあわれむべし、闔室こうしつみずからく、聖仁かみに在り、なんなんこれに忍ばん。けだし陛下の心に非ず、実に奸臣のす所ならん。心なおいまだ足らずとし、又以て臣に加う。臣はんを燕に守ること二十余年、つつしおそれて小心にし、法を奉じぶんしたがう。誠に君臣の大分たいぶん、骨肉の至親なるを以て、つねに思いてつつしみを加う。しかるに奸臣跋扈ばっこし、禍を無辜むこに加え、臣が事を奏するの人をとらえて、※楚すいそ[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5][#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]。 刺※ししつ[#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]し、つぶさに苦毒を極め、迫りて臣不軌ふきを謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張※(「日/丙」、第3水準1-85-16)等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢がいく馳突ちとつし、鉦鼓しょうこ遠邇えんじ喧鞠けんきくし、臣が府を囲み守る。すでにして護衛の人、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)きへいとらえ、始めて奸臣欺詐ぎさの謀を知りぬ。ひそかおもうに臣の孝康こうこう皇帝にけるは、同父母兄弟なり、今陛下につかうるは天に事うるが如きなり。たとえば大樹をるに、先ず附枝ふしるが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷しゃしょくあやうからん。臣して祖訓をるにえることあり、ちょうに正臣無く、内に奸悪あらば、すなわち親王兵を訓して命を待ち、天子ひそかに諸王にみことのりし、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏ふふくして命をつ、と言辞を飾り、情理をいろえてぞ奏しける。道衍わかきより学を好み詩をたくみにし、高啓こうけいと友としく、宋濂そうれんにも推奨すいしょうされ、逃虚子集とうきょししゅう十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、あるいは又金忠の輩やことばつづりけん、いずれにせよ、柔を外にして剛をいだき、おのれまもりて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然としてこのしょのみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝にじょう無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就くきを覚ゆ。されどもほしいままに謝張を殺し、みだりに年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑こうえんに軍器を作り、密室に機謀を錬る、これぶんしたがうにあらず。君側の奸をはらわんとすと云うといえども、詔無くして兵を起し、威をほしいままにして地をかすむ。そのすなわち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、また理に於て欠け、情に於て薄し。れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意をいだいて諸王に臨むは、かみは太祖の意をやぶり、しもは宗室のしんを破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土ほうど未だかわかず、ただちに其意を破り、諸王を削奪せんとするは、れ理において欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところかくの如くなれば、燕王等手を袖にし息をしりぞくるもまた削奪罪責をまぬかれざらんとす。太祖の血をけて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首べんしゅしてえんに服するに忍びんや。うりを投じて怒罵どばするの語、其中に機関ありといえども、又ことごと偽詐ぎさのみならず、もとより真情の人にせまるに足るものあるなり。畢竟ひっきょう両者おのおの理あり、各非理ひりありて、争鬩そうげいすなわち起り、各じょうなく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於てたれく其の是非を判せんや。高巍こうぎの説は、敦厚とんこうよろこしと雖も、時既におそく、卓敬たくけいの言は、明徹用いるに足ると雖も、勢かえし難く、朝旨の酷責すると、燕師えんしの暴起すると、実にたがいあたわざるものありしなり。是れ所謂いわゆるすうなるものか、

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