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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文


 年は新(あらた)になりて建文二年となりぬ。燕(えん)は洪武(こうぶ)三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州(いしゅう)を下し、大同(だいどう)を攻む。景隆(けいりゅう)師を出して之(これ)を救わんとすれば、燕王は速く居庸関(きょようかん)より入りて北平(ほくへい)に還(かえ)り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼(だったん)の兵来(きた)りて燕を助く。蓋(けだ)し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮(はか)りて、燕王の請えるなり。春闌(たけなわ)にして、南軍勢(いきおい)を生じぬ。四月朔(さく)、景隆兵を徳州(とくしゅう)に会す、郭英(かくえい)、呉傑(ごけつ)は真定(しんてい)に進みぬ。帝は巍国公(ぎこくこう)徐輝祖(じょきそ)をして、京軍(けいぐん)三万を帥(ひき)いて疾馳(しっし)して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等(ら)、軍六十万を合(がっ)し、百万と号して白溝河(はくこうが)に次(じ)す。南軍の将平安(へいあん)驍勇(ぎょうゆう)にして、嘗(かつ)て燕王に従いて塞北(さいほく)に戦い、王の兵を用いるの虚実を識(し)る。先鋒(せんぽう)となりて燕に当り、矛(ほこ)を揮(ふる)いて前(すす)む。瞿能(くのう)父子も亦(また)踴躍して戦う。二将の向(むか)う所、燕兵披靡(ひび)す。夜、燕王、張玉(ちょうぎょく)を中軍に、朱能(しゅのう)を左軍に、陳亨(ちんこう)を右(ゆう)軍に、丘福(きゅうふく)を騎兵に将とし、馬歩(ばほ)十余万、黎明(れいめい)に畢(ことごと)く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛(ぼうかん)の陣を擣(つ)いて之を破る。張玉等之(これ)を見て懼色(くしょく)あり。王曰く、勝負(しょうはい)は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為(ため)に敵を破らんと。既(すなわ)ち精鋭数千を麾(さしまね)いて敵の左翼に突入す。王の子高煦(こうこう)、張玉等の軍を率いて斉(ひと)しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声(かんせい)天に震い 飛矢(ひし)雨の如し。王の馬、三たび創(きず)を被(こうむ)り、三たび之を易(か)う。王善(よ)く射る。射るところの箭(や)、三箙(ふく)皆尽く。乃(すなわ)ち剣を提(ひっさ)げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒(けんぽう)折れ欠けて、撃(う)つに堪(た)えざるに至る。瞿能(くのう)と相(あい)遇(あ)う。幾(ほと)んど能の為に及ばる。王急に走りて※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)(つつみ)に登り、佯(いつわ)って鞭(むち)を麾(さしまね)いで、後継者を招くが如くして纔(わずか)に免(まぬか)れ、而して復(また)衆を率いて馳(は)せて入る。平安善(よ)く鎗刀(そうとう)を用い、向う所敵無し。燕将陳亨(ちんこう)、安の為に斬られ、徐忠亦創(きず)を被(こうむ)る。高煦(こうこう)急を見、精騎数千を帥(ひき)い、前(すす)んで王と合(がっ)せんとす。瞿能(くのう)また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相(あい)視(み)て驚き動く。王これに乗じ、勁騎(けいき)を以て繞(めぐ)って其(その)後(うしろ)に出で、突入馳撃(しげき)し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏(うち)に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵(ゆつうえん)、勝聚(しょうしゅう)等(ら)皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼(せま)り火を縦(はな)つ。急風火を扇(あお)る。是(ここ)に於(おい)て南軍大(おおい)に潰(つい)え、郭英(かくえい)等(ら)は西に奔(はし)り、景隆は南に奔る。器械輜重(しちょう)、皆燕の獲(う)るところとなり、南兵の横尸(おうし)百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此(この)戦(たたかい)、軍を全くして退く者、徐輝祖(じょきそ)あるのみ。瞿能、平安等、驍将(ぎょうしょう)無きにあらずと雖(いえど)も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦(てんしょう)の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以(もっ)てす。北軍の克(か)ち、南軍の潰(つい)ゆる、まことに所以(ゆえ)ある也。
 山東参政(さんとうさんせい)鉄鉉(てつげん)は儒生より身を起し、嘗(かつ)て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石(ていせき)という字(あざな)を賜わりたる者なり。北征の師の出(い)づるや、餉(しょう)を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰(つい)えて、諸州の城堡(じょうほ)皆風(ふう)を望みて燕に下るに会い、臨邑(りんゆう)に次(やど)りたるに、参軍高巍(こうぎ)の南帰するに遇(あ)いたり。偕(とも)に是(こ)れ文臣なりと雖(いえど)も、今武事の日に当り、目前に官軍の大(おおい)に敗れて、賊威の熾(さか)んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上(たてまつ)りしも効(かい)無かりしを歎(たん)ずれば、鉉は忠臣の節に死する少(すくな)きを憤る。慨世の哭(なげき)、憂国の涙、二人相(あい)持(じ)して、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)然(げんぜん)として泣きしが、乃(すなわ)ち酒を酌(く)みて同(とも)に盟(ちか)い、死を以て自ら誓い、済南(せいなん)に趨(はし)りてこれを守りぬ。景隆は奔(はし)りて済南に依(よ)りぬ。燕王は勝(かち)に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚(なお)十余万の兵を有せしが、一戦に復(また)敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢愈(いよいよ)旺(さか)んにして城を屠(ほふ)らんとす。鉄鉉、左都督(さととく)盛庸(せいよう)、右都督(ゆうととく)陳暉(ちんき)等(ら)と力を尽して捍(ふせ)ぎ、志を堅うして守り、日を経(ふ)れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使(さんとうふせいしし)と為(な)し、盛庸を大将軍と為(な)し、陳暉を副将軍に陞(のぼ)す。景隆は召還(めしかえ)されしが、黄子澄(こうしちょう)、練子寧(れんしねい)は之を誅(ちゅう)せずんば何を以(もっ)て宗社(そうしゃ)に謝し将士を励まさんと云(い)いしも、帝卒(つい)に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂(つい)に下(くだ)すこと能(あた)わず。乃(すなわ)ち城外の諸渓(しょけい)の水を堰(せ)きて灌(そそ)ぎ、一城の士(し)を魚とせんとす。城中是(ここ)に於て大(おおい)に安んぜず。鉉曰く、懼(おそ)るゝ勿(なか)れ、吾(われ)に計ありと。千人を遣(や)りて詐(いつわ)りて降(くだ)らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予(かね)て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯(うかが)いて大鉄板を墜(おと)して之(これ)を撃ち、又別に伏(ふく)を設けて橋を断たしめんとす。燕王計(はかりごと)に陥り、馬に乗じ蓋(がい)を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟(にわか)に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易(か)えて馳(は)せて出(い)づ。橋を断たんとす。橋甚(はなは)だ堅(かた)し。未(いま)だ断つに及ばずして、王竟(つい)に逸し去る。燕王幾(ほと)んど死して幸(さいわい)に逃る。天助あるものゝ如し。王大(おおい)に怒り、巨※(きょほう)[#「石+駁」、UCS-791F、316-5]を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈(いよいよ)屈せず、太祖高皇帝の神牌(しんぱい)を書して城上に懸けしむ。燕王敢(あえ)て撃たしむる能(あた)わず。鉉又数々(しばしば)不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅(おびや)かさしむ。燕王憤(いか)ること甚(はなはだ)しけれども、計の出づるところ無し。道衍(どうえん)書を馳(は)せて曰く、師老いたり、請う暫(しば)らく北平に還(かえ)りて後挙を図りたまえと。王囲(かこみ)を撤して還る。鉉と盛庸等(ら)と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大(おおい)に振う。鉉是(ここ)に於て擢(ぬきん)でられて兵部尚書(へいぶしょうしょ)となり、盛庸は歴城侯(れきじょうこう)となりたり。
 盛庸は初め耿炳文(こうへいぶん)に従い、次(つい)で李景隆(りけいりゅう)に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦(ぼうぎょ)、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕(へいえん)将軍となり、陳暉(ちんき)、平安(へいあん)、馬溥(ばふ)、徐真(じょしん)等の上に立ち、呉傑(ごけつ)、徐凱(じょがい)等と与(とも)に燕を伐(う)つの任に当りぬ。庸乃(すなわ)ち呉傑、平安をして西の方定州(ていしゅう)を守らしめ、徐凱をして東の方滄州(そうしゅう)に屯(たむろ)せしめ、自ら徳州に駐(とど)まり、猗角(きかく)の勢を為(な)して漸(ようや)く燕を蹙(しじ)めんとす。燕王、徳州の城の、修築已(すで)に完(まった)く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰(つい)え※(くず)[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ[#「※(くず)[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ」は底本では「※(くず)[#「土へん+已」、317-6]るゝ」]こと久しくして破り易(やす)きを思い、之(これ)を下して庸の勢を殺(そ)がんと欲す。乃(すなわ)ち陽(よう)に遼東(りょうとう)を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津(てんしん)より直沽(ちょくこ)に至り、俄(にわか)に河(か)に沿いて南下するを令す。軍士猶(なお)知らず、其(そ)の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途(みち)に偵騎(ていき)に遇(あ)えば、尽(ことごと)く之(これ)を殺し、一昼夜にして暁(あかつき)に比(およ)びて滄州に至る。凱の燕師の到(いた)れるを覚(さと)りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能(あた)わず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂(つい)に抜かれ、凱と程暹(ていせん)、兪※(「王+其」、第3水準1-88-8)(ゆき)、趙滸(ちょうこ)等皆獲(え)らる。これ実に此(この)年(とし)十月なり。
 十二月、燕王河に循(したが)いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清(りんせい)に至り、館陶(かんとう)に屯(たむろ)し、次(つい)で大名府(たいめいふ)を掠(かす)め、転じて※(「さんずい+文」、第3水準1-86-53)上(ぶんじょう)に至り、済寧(せいねい)を掠(かす)めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其(その)後(のち)を躡(ふ)み、東昌(とうしょう)に営したり。此(この)時(とき)北軍却(かえ)って南に在(あ)り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢(いきおい)成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初(はじめ)は官軍の先鋒(せんぽう)孫霖(そんりん)、燕将(えんしょう)朱栄(しゅえい)、劉江(りゅうこう)の為(ため)に敗れて走りしが、両軍持重(じちょう)して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉牛(うし)を宰して将士を犒(ねぎら)い、義を唱(とな)え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密(ひそか)に火器毒弩(どくど)を列(つら)ねて、粛(しゅく)として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟(こそう)して薄(せま)る。火器電(でん)の如(ごと)くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟(ころうしきょう)、皆傷ついて倒る。又平安(へいあん)の兵の至るに会う。庸是(ここ)に於て兵を麾(さしまね)いて大(おおい)に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝(つ)く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝(つ)く。庸陣を開いて王の入るに縦(まか)せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃甚(はなは)だ力(つと)むれども出(い)づることを得ず、殆(ほと)んど其の獲(う)るところとならんとす。朱能(しゅのう)、周長(しゅうちょう)等、王の急を見、韃靼(だったん)騎兵を縦(はな)って庸の軍の東北角を撃つ。庸之(これ)を禦(ふせ)がしめ、囲(かこみ)やゝ緩(ゆる)む。能(のう)衝いて入って死戦して王を翼(たす)けて出づ。張玉(ちょうぎょく)も亦(また)王を救わんとし、王の已(すで)に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍勝(かち)に乗じ、残獲万余人、燕軍大(おおい)に敗れて奔(はし)る。庸兵を縦(はな)って之を追い、殺傷甚だ多し。此(この)役(えき)や、燕王数々(しばしば)危(あやう)し、諸将帝の詔(みことのり)を奉ずるを以て、刃(じん)を加えず。燕王も亦之(これ)を知る。王騎射尤(もっと)も精(くわ)し、追う者王を斬(き)るを敢(あえ)てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々(たまたま)高煦(こうこう)、華衆(かしゅう)等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
 燕王張玉の死を聞きて痛哭(つうこく)し、諸将と語るごとに、東昌(とうしょう)の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾(われ)今に至って寝食安からずと。涕(なみだ)下りて已(や)まず。諸将も皆泣く。後(のち)功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間(かかん)王を追封(ついほう)す。

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