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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文

 

乾坤(けんこん) 果して何物ぞ、
開闔(かいこう) 古(いにしえ)より有り。
世を挙(こぞ)って 孰(たれ)か客(かく)に非(あら)ざらん、
離会 豈(あに)偶(たまたま)なりと云(い)はんや。
嗟(ああ)予(われ) 蓬蒿(ほうこう)の人、
鄙猥(ひわい) 林籔(りんそう)に匿(かく)る。
自(みず)から慚(は)づ 駑蹇(どけん)の姿、
寧(なん)ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山(ござん) 窈(ふか)くして而(しこう)して深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
且(かつ) 木石と共に居(お)りて、
氷檗(ひょうばく)と 志(こころざし) 堅く守りぬ。
人は云ふ 鳳(ほう) 枳(からたち)に栖(す)むと、
豈(あに)同じからんや 魚の※(やな)[#「网/卯」、354-11]に在(あ)るに。
藜※(「くさかんむり/霍」、第3水準1-91-37)(れいかく) 我(わが)腸(はらわた)を充(みた)し、
衣(い)蔽(やぶ)れて 両肘(りょうちゅう)露(あら)はる。
※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)龍(きりゅう) 高位に在り、
誰(たれ)か来(きた)りて 可否を問はん。
盤旋(ばんせん)す 草※(そうもう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]の間(あいだ)に、
樵牧(しょうぼく) 日に相(あい)叩(たた)く。
嘯詠(しょうえい) 寒山(かんざん)に擬し、
惟(ただ) 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹(とまつ)して、
乞(こい)媚(こ)びて 里婦(さとのおんな)に効(なら)ふに。
山霊 蔵(かく)るゝことを容(ゆる)さず、
辟歴(はたたがみ) 岡阜(こうふ)を破りぬ。
門を出(い)でゝ 天日を睹(み)る、
行也(こうや) 焉(いずく)にぞ 肯(あえ)て苟(いやしく)もせん。
一挙して 即ち北に上(のぼ)れば、
親藩 待つこと惟(これ)久しかりき。
天地 忽(たちま)ち 大変して、
神龍 氷湫(ひょうしゅう)より起る。
万方 共に忻(よろこ)び躍(おど)りて、
率土(そっと) 元后(げんこう)を戴(いただ)く。
吾(われ)を召して 南京(なんけい)に来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時 天眷(てんけん)を荷(にな)ふ、
愛に因(よ)って 醜(しゅう)を知らず。(下略)


 嘯詠寒山(しょうえいかんざん)に擬すの句は、此(この)老(ろう)の行為に照(てら)せば、矯飾(きょうしょく)の言に近きを覚ゆれども、若(もし)夫(そ)れ知己に遇(あ)わずんば、強項(きょうこう)の人、或(あるい)は呉山(ござん)に老朽を甘(あま)んじて、一生世外(せいがい)の衲子(とっし)たりしも、また知るべからず、未(いま)だ遽(にわか)に虚高(きょこう)の辞を為(な)すものと断ず可(べ)からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦(しょうえいぎんが)、或(あるい)は獅子(しし)の繍毬(しゅうきゅう)を弄(ろう)して日を消するが如(ごと)くに、其(その)身を終ることは之(これ)有るべし、寒山子(かんざんし)の如くに、蕭散閑曠(しょうさんかんこう)、塵表(じんぴょう)に逍遙(しょうよう)して、其身を遺(わす)るゝを得(う)可きや否(あらず)や、疑う可き也。※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)龍(きりゅう)高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容(ゆる)さず以下数句、燕王(えんおう)に召出(めしいだ)されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起(くっき)の事をいう。道(い)い得て佳(か)なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身(わがみ)を世に徇(とな)うるを言えるもの、亦(また)善(よ)く標置(ひょうち)すというべし。


 道衍(どうえん)の一生を考うるに、其(そ)の燕(えん)を幇(たす)けて簒(さん)を成さしめし所以(ゆえん)のもの、栄名厚利の為(ため)にあらざるが如(ごと)し。而(しか)も名利(めいり)の為にせずんば、何を苦(くるし)んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴(いただ)かしめしぞ。道衍と建文帝(けんぶんてい)と、深仇(しんきゅう)宿怨(しゅくえん)あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可(べ)からざるある也(なり)。道衍己(おのれ)の偉功によって以(もっ)て仏道の為にすと云(い)わんか、仏道明朝(みんちょう)の為に圧逼(あっぱく)せらるゝありしに非(あらざ)る也。燕王覬覦(きゆ)の情(じょう)無き能(あた)わざりしと雖(いえど)も、道衍の扇(せん)を鼓(こ)して火を煽(あお)るにあらざれば、燕王未(いま)だ必ずしも毒烟(どくえん)猛[※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)(もうえん)を揚げざるなり。道衍抑(そも)又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚(りょしょう)、范増(はんぞう)、皆老いて而(しこう)して後立つと雖(いえど)も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教(おしえ)を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼(ああ)又解すべからずというべし。若(も)し強(し)いて道衍の為に解さば、惟(ただ)是(こ)れ道衍が天に禀(う)くるの気と、自ら負(たの)むの材と、※々(もうもう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]、蕩々(とうとう)、糾々(きゅうきゅう)、昂々(こうこう)として、屈す可(べ)からず、撓(たわ)む可からず、消(しょう)す可からず、抑(おさ)う可からざる者、燕王に遇(あ)うに当って、※(「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32)然(かくぜん)として破裂し、爆然として迸発(へいはつ)せるものというべき耶(か)、非(ひ)耶(か)。予其(そ)の逃虚子集(とうきょししゅう)を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟(あと)に感慨するもの多くして、仏灯(ぶっとう)梵鐘(ぼんしょう)の間に幽潜するの情の少(すくな)きを思わずんばあらざるなり。
 道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門(しゃもん)を以て目す可からずと雖も、而(しか)も文を好み道の為にするの情も、亦(また)偽(ぎ)なりとなす可からず。此(この)故(ゆえ)に太祖(たいそ)[#「太祖」は底本では「大祖」]実録(じつろく)を重修(ちょうしゅう)するや、衍(えん)実に其(その)監修を為(な)し、又支那(しな)ありてより以来の大編纂(だいへんさん)たる永楽大典(えいらくだいてん)の成れるも、衍実に解縉(かいしん)等(ら)と与(とも)に之(これ)を為(な)せるにて、是(こ)れ皆文を好むの余(よ)に出で、道余録(どうよろく)を著し、浄土簡要録(じょうどかんようろく)を著し、諸上善人詠(しょじょうぜんじんえい)を著せるは、是れ皆道の為にせるに出(い)づ。史に記す。道衍晩(ばん)に道余録を著し、頗(すこぶ)る先儒を毀(そし)る、識者これを鄙(いや)しむ。其(そ)の故郷の長州(ちょうしゅう)に至るや、同産の姉を候(こう)す、姉納(い)れず。其(その)友王賓(おうひん)を訪(と)う、賓も亦(また)見(まみ)えず、但(ただ)遙(はるか)に語って曰く、和尚(おしょう)誤れり、和尚誤れりと。復(また)往(ゆ)いて姉を見る、姉これを詈(ののし)る。道衍惘然(ぼうぜん)たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏(ぶつ)を斥(しりぞ)くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝(でん)無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善(おうたつぜん)ならんか。声を揚げて遙語(ようご)す、鄙(いや)しむも亦甚(はなはだ)し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之(これ)を悪(にく)むも、亦(また)過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余曩(さき)に僧たりし時、元季(げんき)の兵乱に値(あ)う。年三十に近くして、愚庵(ぐあん)の及(きゅう)和尚に径山(けいざん)に従って禅学を習う。暇(いとま)あれば内外の典籍を披閲(ひえつ)して以(もっ)て才識に資す。因って河南(かなん)の二程先生(にていせんせい)の遺書と新安(しんあん)の晦庵朱先生(かいあんしゅせんせい)の語録を観(み)る。(中略)三先生既に斯文(しぶん)の宗主(そうしゅ)、後学の師範たり、仏老(ぶつろう)を※斥(じょうせき)[#「てへん+(嚢-口二つ)」、361-8]すというと雖も、必ず当(まさ)に理に拠(よ)って至公無私なるべし、即(すなわ)ち人心服せん。三先生多く仏書を探(さぐ)らざるに因って仏(ぶつ)の底蘊(ていおん)を知らず。一に私意を以て邪※(じゃひ)[#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]の辞(ことば)を出して、枉抑(おうよく)太(はなは)だ過ぎたり、世の人も心亦(また)多く平らかならず、況(いわ)んや其(その)学を宗(そう)する者をやと。(下略)道余録は乃(すなわ)ち程氏(ていし)遺書(いしょ)の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目(もく)して、極めて謬誕(びょうたん)なりと為(な)し、条を逐(お)い理に拠って一々剖柝(ぼうせき)せるものなり。藁(こう)成って巾笥(きんし)に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵(たいてい)禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋(けだ)し明道(めいどう)、伊川(いせん)、晦庵(かいあん)の仏(ぶつ)を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如(ごと)き、本(もと)是(これ)弁じ易(やす)きの事たり。膽(たん)を張り目を怒らし、手を戟(ほこ)にし気を壮(さかん)にするを要せず。道衍の峻機(しゅんき)険鋒(けんぼう)を以て、徐(しずか)に幾百年前の故紙(こし)に対す、縦説横説、甚(はなは)だ是(こ)れ容易なり。是れ其の観(み)る可き無き所以(ゆえん)なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道(めいどう)の言を罵(ののし)って、豈(あに)道学の君子の為(わざ)ならんやと云(い)い、明道の執見(しっけん)僻説(へきせつ)、委巷(いこう)の曲士の若(ごと)し、誠に咲(わら)う可き也、と云い、明道何ぞ乃(すなわ)ち自ら苦(くるし)むこと此(かく)の如くなるや、と云い、伊川(いせん)の言(げん)を評しては、此(これ)は是れ伊川(いせん)みずから此(この)説を造って禅学者を誣(し)う、伊川が良心いずくにか在(あ)る、と云い、管(かん)を以て天を窺(うかが)うが如しとは夫子(ふうし)みずから道(い)うなりと云い、程夫子(ていふうし)崛強(くっきょう)自任(じにん)す、聖人の道を伝うる者、是(かく)の如くなる可からざる也、と云い、晦庵(かいあん)の言を難(なん)しては、朱子の※(「寐」の「未」に代えて「自/木」、第4水準2-8-10)語(げいご)、と云い、惟(ただ)私意を逞(たくま)しくして以て仏を詆(そし)る、と云い、朱子も亦(また)怪なり、と云い、晦庵此(かく)の如くに心を用いば、市井(しせい)の間の小人の争いて販売する者の所為(しょい)と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄(ぐろう)嘲笑(ちょうしょう)すること太(はなは)だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋(けだ)し其(その)姉の納(い)れず、其(その)友の見ざるに至れる所以(ゆえん)ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大※(「既/木」、第3水準1-86-3)(たいがい)禅宗(ぜんしゅう)に依り、楞伽(りょうが)、楞厳(りょうごん)、円覚(えんがく)、法華(ほっけ)、華厳(けごん)等の経に拠って、程朱(ていしゅ)の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然(しか)れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於(おい)て、抗争反撃の弁を逞(たくま)しくす。書の公(おおやけ)にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰(い)うと雖も、亦争(あらそい)を好むというべし。此(こ)も亦道衍が※々蕩々(もうもうとうとう)[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]の気の、已(や)む能わずして然るもの耶(か)、非(ひ)耶(か)。
 道衍は是(かく)の如きの人なり、而して猶(なお)卓侍郎(たくじろう)を容(い)るゝ能わず、之(これ)を赦(ゆる)さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素(もと)より相(あい)善(よ)からざるの私(わたくし)ありしに因(よ)るとは云え、又実に卓の才の大にして器(き)の偉なるを忌(い)みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭(たくいきょう)もまた雄傑の士というべし。
 道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮(か)りて之を評すれば、道衍量(りょう)何ぞ隘(せま)きやと云う可きなり。然(しか)るに道衍の方正学(ほうせいがく)に対するは則(すなわ)ち大(おおい)に異なり。方正学の燕王に於(お)けるは、実に相(あい)容(い)れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃(はら)わんとするを名として、其の目(もく)して以て事を構え親(しん)を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方(せいこうれんほう)の四人なりき。斉は斉泰(せいたい)なり、黄は黄子澄(こうしちょう)なり、練は練子寧(れんしねい)なり、而(しか)して方は即ち方正学(ほうせいがく)なり。燕王にして功の成るや、もとより此(この)四人を得て甘心(かんしん)せんとす。道衍は王の心腹(しんぷく)なり、初(はじめ)よりこれを知らざるにあらず。然(しか)るに燕王の北平(ほくへい)を発するに当り、道衍これを郊(こう)に送り、跪(ひざまず)いて密(ひそか)に啓(もう)して曰(いわ)く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺(ほうこうじゅ)あり、学行(がくこう)あるを以(もっ)て聞(きこ)ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降(くだ)らざらんも、幸(さいわい)に之を殺したもう勿(なか)れ、之を殺したまわば則(すなわ)ち天下の読書の種子(しゅし)絶えんと。燕王これを首肯(しゅこう)す。道衍の卓敬に於(お)ける、私情の憎嫉(ぞうしつ)ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂(そうれん)の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋(けだ)し文字の交あり。道衍の少(わか)きや、学を好み詩を工(たくみ)にして、濂の推奨するところとなる。道衍豈(あに)孝孺が濂の愛重(あいちょう)するところの弟子(ていし)たるを以て深く知るところありて庇護(ひご)するか、或(あるい)は又孝孺の文章学術、一世の仰慕(げいぼ)するところたるを以て、之(これ)を殺すは燕王の盛徳を傷(やぶ)り、天下の批議を惹(ひ)く所以(ゆえん)なるを慮(はか)りて憚(はばか)るか、将(はた)又真に天下読書の種子の絶えんことを懼(おそ)るゝか、抑(そもそも)亦孝孺の厳※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)(げんれい)の操履(そうり)、燕王の剛邁(ごうまい)の気象、二者相(あい)遇(あ)わば、氷塊の鉄塊と相(あい)撃(う)ち、鷲王(しゅうおう)と龍王(りゅうおう)との相(あい)闘(たたか)うが如き凄惨狠毒(せいさんこんどく)の光景を生ぜんことを想察して預(あらかじ)め之を防遏(ぼうあつ)せんとせるか、今皆確知する能(あた)わざるなり。
 方孝孺は如何(いか)なる人ぞや。孝孺字(あざな)は希直(きちょく)、一字は希古(きこ)、寧海(ねいかい)の人。父克勤(こくきん)は済寧(せいねい)の知府(ちふ)たり。治を為すに徳を本(もと)とし、心を苦(くるし)めて民の為(ため)にす。田野(でんや)を闢(ひら)き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚(とんこう)人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘(こううん)暇(いとま)あらず、何ぞ又畚※(「金+插のつくり」、第3水準1-93-28)(ほんそう)に堪えんと。中書省(ちゅしょしょう)に請いて役(えき)を罷(や)むるを得たり。是より先(さ)き久しく旱(ひでり)せしが、役の罷むに及んで甘雨(かんう)大(おおい)に至りしかば、済寧の民歌って曰く。

孰(たれ)か我が役を罷(や)めしぞ、
使君(しくん)の 力なり。
孰(たれ)か我が黍(しょ)を活(い)かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ勿(なか)れ、
我が民の 父なり 母なり。


 克勤の民意を得(う)る是(かく)の如くなりしかば、事を視(み)ること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足(じょうそく)し、男女怡々(いい)として生を楽(たのし)みしという。克勤愚菴(ぐあん)と号す。宋濂(そうれん)に故(こ)愚庵先生方公墓銘文(ほうこうぼめいぶん)あり。滔々(とうとう)数千言(すせんげん)、備(つぶさ)に其の人となりを尽す。中(うち)に記す、晩年益(ますます)畏慎(いしん)を加え、昼の為(な)す所の事、夜は則(すなわ)ち天に白(もう)すと。愚庵はたゞに循吏(じゅんり)たるのみならざるなり。濂又曰く、古(いにしえ)に謂(い)わゆる体道(たいどう)成徳(せいとく)の人、先生誠に庶幾焉(ちかし)と。蓋(けだ)し濂が諛墓(ゆぼ)の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦(てんぷ)も厚く、庭訓(ていきん)も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸(そうぼう)烱々(けいけい)として、日に書を読むこと寸に盈(み)ち、文を為(な)すに雄邁醇深(ゆうまいじゅんしん)なりしかば、郷人呼んで小韓子(しょうかんし)となせりという。其の聰慧(そうけい)なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉(ことごと)く称して太史公(たいしこう)となして、姓氏を以てせず。濂字(あざな)は、景濂(けいれん)、其(その)先(せん)金華(きんか)の潜渓(せんけい)の人なるを以て潜渓(せんけい)と号(ごう)す。太祖濂(れん)を廷(てい)に誉(ほ)めて曰く、宋景濂朕(ちん)に事(つか)うること十九年、未(いま)だ嘗(かつ)て一言(げん)の偽(いつわり)あらず、一人(いちにん)の短(たん)を誚(そし)らず、始終二(に)無し、たゞに君子のみならず、抑(そもそも)賢と謂(い)う可しと。太祖の濂を視(み)ること是(かく)の如し。濂の人品想(おも)う可き也(なり)。孝孺洪武(こうぶ)の九年を以て、濂に見(まみ)えて弟子(ていし)となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大(おおい)に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還(かえ)るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直(きちょく)を得たり、其の人となりや凝重(ぎょうちょう)にして物に遷(うつ)らず、穎鋭(えいえい)にして以て諸(これ)を理に燭(しょく)す、間(まま)発(はっ)[#「間(まま)発(はっ)」は底本では「発(まま)間(はっ)」]して文を為(な)す、水の湧(わ)いて山の出(い)づるが如し、喧啾(けんしゅう)たる百鳥の中(うち)、此の孤鳳皇(こほうおう)を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重(ぎょうちょう)穎鋭(えいえい)の二句、老先生眼裏(がんり)の好学生を写し出(いだ)し来(きた)って神(しん)有り。此の孤鳳皇(こほうおう)を見るというに至っては、推重(すいちょう)も亦(また)至れり。詩十四章、其二に曰く、

念(おも)ふ 子(し)が 初めて来りし時、
才思 繭糸(けんし)の若(ごと)し。
之を抽(ひ)いて 已(すで)に緒(いとぐち)を見る、
染めて就(な)せ 五色(ごしき)の衣(い)。


其九に曰く、

須(すべか)らく知るべし 九仭(きゅうじん)の山も、
功 或(あるい)は 一簣(き)に少(か)くるを。
学は 貴ぶ 日に随(したが)つて新(あらた)なるを、
慎んで 中道に廃する勿(なか)れ。


其十に曰く、

羣経(ぐんけい) 明訓(めいくん) 耿(こう)たり、
白日 青天に麗(かか)る。
苟(いやしく)も徒(ただ)に 文辞に溺(おぼ)れなば、
蛍※(けいしゃく)[#「火+爵」、UCS-721D、370-6] 妍(けん)を争はんと欲するなり。


其十一に曰く、

姫(き)も 孔(こう)も 亦何人(なんぴと)ぞや、
顔面 了(つい)に異(こと)ならじ。
肯(あえ)て 盆※(「央/皿」、第3水準1-88-73)(ぼんおう)の中(うち)に墮(だ)せんや、
当(まさ)に 瑚※(「王+連」、第3水準1-88-24)(これん)の器(き)となるべし。


其終章に曰く、

明年 二三月、
羅山(らざん) 花 正(まさ)に開かん。
高きに登りて 日に盻望(べんぼう)し、
子(し)が能(よ)く 重ねて来(きた)るを遅(ま)たむ。


 其(その)才を称(しょう)し、其学を勧め、其(そ)の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮(ふる)って聖賢の域に至らんことを求め、他日復(また)再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓(せんけい)が孝孺に対する、称許(しょうきょ)も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼(ああ)、老先生、孰(たれ)か好学生を愛せざらん、好学生、孰(たれ)か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳(ていし)、経(けい)を執って浦陽(ほよう)に潜渓に就(つ)きぬ。従学四年、業大(おおい)に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下(しも)に出で、先輩胡翰(こかん)も蘇伯衡(そはくこう)も亦(また)自(みずか)ら如(し)かずと謂(い)うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之(これ)を送る五十四韻(いん)の長詩あり。其(その)引(いん)の中(うち)に記して曰く、細(つまび)らかに其の進修の功を占(と)うに、日々に異(こと)なるありて、月々に同じからず、僅(わずか)に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著(えいはつこうちょ)や斯(かく)の如し、後(のち)四春秋ならしめば、則(すなわ)ち其の至るところ又如何(いか)なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿(おうようしょうけい)、蘇長公(そちょうこう)の輩(はい)は、姑(しば)らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場(じょう)に角逐(かくちく)せば、孰(たれ)か後となり孰(いずれ)か先となるを知らざる也。今此(この)説を為(な)す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当(まさ)に其の知言にして、生(せい)に許す者の過(か)に非(あら)ざるを信ずべき也。然(しか)りと雖(いえど)も予の生に許すところの者、寧(なん)ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜(おし)み、為(ため)に是(この)詩を賦(ふ)す、既に其の素有の善を揚げ、復(また)勗(つと)むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞(ことば)を行(や)る自在(じざい)にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、

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