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路上(ろじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:15:37  点击:  切换到繁體中文



        四

 二人に別れた俊助(しゅんすけ)はふと、現在の下宿へ引き移った事がまだ大学の事務所まで届けてなかったのを思い出した。そこでまたさっきの金時計を出して見ると、約束の三時までにはかれこれ三十分足らずも時間があった。彼はちょいと事務所へ寄る事にして、両手を外套(がいとう)の隠しへ突っこみながら、法文科大学の古い赤煉瓦(あかレンガ)の建物の方へ、ゆっくりした歩調で歩き出した。
 と、突然頭の上で、ごろごろと春の雷(らい)が鳴った。仰向(あおむ)いて見ると、空はいつの間にか灰汁桶(あくおけ)を掻(か)きまぜたような色になって、そこから湿っぽい南風(みなみかぜ)が、幅の広い砂利道(じゃりみち)へ生暖く吹き下して来た。俊助は「雨かな」と呟きながら、それでも一向急ぐ気色(けしき)はなく、書物を腋(わき)の下に挟(はさ)んだまま、悠長な歩みを続けて行った。
 が、そう呟くか呟かない内に、もう一度かすかに雷(らい)が鳴って、ぽつりと冷たい滴(しずく)が頬に触れた。続いてまた一つ、今度は触るまでもなく、際どく角帽の庇を掠(かす)めて、糸よりも細い光を落した。と思うと追々に赤煉瓦の色が寒くなって、正門の前から続いている銀杏(いちょう)の並木の下まで来ると、もう高い並木の梢(こずえ)が一面に煙って見えるほど、しとしとと雨が降り出した。
 その雨の中を歩いて行く俊助の心は沈んでいた。彼は藤沢の声を思い出した。大井の顔も思い出した。それからまた彼等が代表する世間なるものも思い出した。彼の眼に映じた一般世間は、実行に終始するのが特色だった。あるいは実行するのに先立って、信じてかかるのが特色だった。が、彼は持って生れた性格と今日(こんにち)まで受けた教育とに煩(わずら)わされて、とうの昔に大切な、信ずると云う機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いては来なかった。従って彼は世間に伍(ご)して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむ事が出来なかった。袖手(しゅうしゅ)をして傍観す――それ以上に出る事が出来なかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味うべく余儀なくされた。彼が大井と交際していながら、しかも猶(なお)俊助ズィ・エピキュリアンなどと嘲(ののし)られるのはこのためだった。まして土耳其帽(トルコぼう)の藤沢などは……
 彼の考がここまで漂流して来た時、俊助は何気(なにげ)なく頭を擡(もた)げた。擡げると彼の眼の前には、第八番教室の古色蒼然たる玄関が、霧のごとく降る雨の中に、漆喰(しっくい)の剥(は)げた壁を濡らしていた。そうしてその玄関の石段の上には、思いもよらない若い女がたった一人佇(たたず)んでいた。
 雨脚(あまあし)の強弱はともかくも、女は雨止(あまや)みを待つもののごとく、静に薄暗い空を仰いでいた。額にほつれかかった髪の下には、潤(うるお)いのある大きな黒瞳(くろめ)が、じっと遠い所を眺めているように見えた。それは白い――と云うよりもむしろ蒼白い顔の色に、ふさわしい二重瞼(ふたえまぶた)だった。着物は――黒い絹の地へ水仙(すいせん)めいた花を疎(まばら)に繍(ぬ)い取った肩懸けが、なだらかな肩から胸へかけて無造作(むぞうさ)に垂れているよりほかに、何も俊助の眼には映らなかった。
 女は俊助が首を擡(もた)げたのと前後して、遠い空から彼の上へうっとりとその黒瞳勝(くろめが)ちな目を移した。それが彼の眼と出合った時、女の視線はしばらくの間(あいだ)、止まるとも動くともつかず漂っていた。彼はその刹那(せつな)、女の長い睫毛(まつげ)の後(うしろ)に、彼の経験を超越した、得体の知れない一種の感情が揺曳(ようえい)しているような心もちがした。が、そう思う暇(ひま)もなく、女はまた眼を挙げて、向うの講堂の屋根に降る雨の脚を眺め出した。俊助は外套の肩を聳やかせて、まるで女の存在を眼中に置かない人のように、冷然とその前を通り過ぎた。三度(さんど)頭の上の雲を震わせた初雷(はつらい)の響を耳にしながら。

        五

 雨に濡れた俊助(しゅんすけ)が『鉢(はち)の木(き)』の二階へ来て見ると、野村(のむら)はもう珈琲茶碗(コオヒイじゃわん)を前に置いて、窓の外の往来へ退屈そうな視線を落していた。俊助は外套(がいとう)と角帽とを給仕の手に渡すが早いか、勢いよく野村の卓子(テエブル)の前へ行って、「待たせたか」と云いながら、どっかり曲木(まげき)の椅子(いす)へ腰を下した。
「うん、待たない事もない。」
 ほとんど鈍重な感じを起させるほど、丸々と肥満した野村は、その太い指の先でちょいと大島の襟を直しながら、細い鉄縁(てつぶち)の眼鏡越しにのんびりと俊助の顔を見た。
「何にする? 珈琲か。紅茶か。」
「何でも好い。――今、雷(かみなり)が鳴ったろう。」
「うん、鳴ったような気もしない事はない。」
「相不変(あいかわらず)君はのんきだな。また認識の根拠は何処(いずく)にあるかとか何とか云う問題を、御苦労様にも考えていたんだろう。」
 俊助は金口(きんぐち)の煙草(たばこ)に火をつけると、気軽そうにこう云って、卓子(テエブル)の上に置いてある黄水仙(きずいせん)の鉢へ眼をやった。するとその拍子(ひょうし)に、さっき大学の中で見かけた女の眼が、何故(なぜ)か一瞬間生々(いきいき)と彼の記憶に浮んで来た。
「まさか――僕は犬と遊んでいたんだ。」
 野村は子供のように微笑しながら、心もち椅子をずらせて、足下(あしもと)に寝ころんでいた黒犬を、卓子掛(テエブルクロオス)の陰からひっぱり出した。犬は毛の長い耳を振って、大きな欠伸(あくび)を一つすると、そのまままたごろりと横になって、仔細(しさい)らしく俊助の靴の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)(におい)を嗅ぎ出した。俊助は金口(きんぐち)の煙を鼻へ抜きながら、気がなさそうに犬の頭を撫(な)でてやった。
「この間、栗原(くりはら)の家(うち)にいたやつを貰って来たんだ。」
 野村は給仕の持って来た珈琲を俊助の方へ押しやりながら、また肥った指の先を着物の襟へちょいとやって、
「あすこじゃこの頃、家中(うちじゅう)がトルストイにかぶれているもんだから、こいつにも御大層なピエルと云う名前がついている。僕はこいつより、アンドレエと云う犬の方が欲しかったんだが、僕自身ピエルだから、何でもピエルの方をつれて行けと云うんで、とうとうこいつを拝領させられてしまったんだ。」
 と、俊助は珈琲茶碗を唇(くちびる)へ当てながら、人の悪い微笑を浮べて、調戯(からか)うように野村を一瞥した。
「まあピエルで満足しとくさ。その代りピエルなら、追っては目出度くナタシアとも結婚出来ようと云うもんだ。」
 野村もこれには狼狽(ろうばい)したものと見えて、しばらくは顔を所斑(ところまだら)に赤くしたが、それでも声だけはゆっくりした調子で、
「僕はピエルじゃない。と云って勿論アンドレエでもないが――」
「ないが、とにかく初子女史(はつこじょし)のナタシアたる事は認めるだろう。」
「そうさな、まあ御転婆(おてんば)な点だけは幾分認めない事もないが――」
「序(ついで)に全部認めちまうさ。――そう云えばこの頃初子女史は、『戦争と平和』に匹敵(ひってき)するような長篇小説を書いているそうじゃないか。どうだ、もう追(おっ)つけ完成しそうかね。」
 俊助はようやく鋒芒(ほうぼう)をおさめながら、短くなった金口(きんぐち)を灰皿の中へ抛(ほう)りこんで、やや皮肉にこう尋ねた。

        六

「実はその長篇小説の事で、今日は君に来て貰ったんだが。」
 野村は鉄縁(てつぶち)の眼鏡を外(はず)すと、刻銘(こくめい)に手巾(ハンケチ)で玉の曇りを拭いながら、
「初子(はつこ)さんは何でも、新しい『女の一生』を書く心算(つもり)なんだそうだ。まあ Une Vie ※(グレーブアクセント付きA小文字) la Tolsto※(ダイエレシス付きI小文字) と云う所なんだろう。そこでその女主人公(じょしゅじんこう)と云うのが、いろいろ数奇(さっき)な運命に弄(もてあそ)ばれた結果だね。――」
「それから?」
 俊助(しゅんすけ)は鼻を黄水仙の鉢へ持って行きながら、格別気乗りもしていなさそうな声でこう云った。が、野村は細い眼鏡の蔓(つる)を耳の後(うしろ)へからみつけると、相不変(あいかわらず)落着き払った調子で、
「最後にどこかの癲狂院(てんきょういん)で、絶命する事になるんだそうだ。ついてはその癲狂院の生活を描写したいんだが、生憎(あいにく)初子さんはまだそう云う所へ行って見た事がない。だからこの際(さい)誰かの紹介を貰って、どこでも好(い)いから癲狂院を見物したいと云っているんだ。――」
 俊助はまた金口(きんぐち)に火を付けながら、半ば皮肉な表情を浮べた眼で、もう一度「それから?」と云う相図(あいず)をした。
「そこで君から一つ、新田(にった)さんへ紹介してやって貰いたいんだが――新田さんと云うんだろう。あの物質主義者(マテリアリスト)の医学士は?」
「そうだ――じゃともかくも手紙をやって、向うの都合(つごう)を問い合せて見よう。多分差支えはなかろうと思うんだが。」
「そうか。そうして貰えれば、僕の方は非常に難有(ありがた)いんだ。初子さんも勿論(もちろん)大喜びだろう。」
 野村は満足そうに眼を細くして、続けさまに二三度大島の襟を直しながら、
「この頃はまるでその『女の一生』で夢中になっているんだから。一しょにいる親類の娘なんぞをつかまえても、始終その話ばかりしているらしい。」
 俊助は黙って、埃及(エジプト)の煙を吐き出しながら、窓の外の往来へ眼を落した。まだ霧雨(きりあめ)の降っている往来には、細い銀杏(いちょう)の並木が僅に芽を伸ばして、亀(かめ)の甲羅(こうら)に似た蝙蝠傘(こうもりがさ)が幾つもその下を動いて行く。それがまた何故(なぜ)か彼の記憶に、刹那の間さっき遇(あ)った女の眼を思い出させた。……
「君は『城』同人の音楽会へは行かないのか。」
 しばらく沈黙が続いた後(あと)で、野村はふと思出したようにこう尋ねた。と同時に俊助は、彼の心が何分かの間、ほとんど白紙のごとく空(むな)しかったのに気がついた。彼はちょいと顔をしかめて、冷(つめた)くなった珈琲を飲み干すと、すぐに以前のような元気を恢復して、
「僕は行こうと思っている。君は?」
「僕は今朝(けさ)郁文堂(いくぶんどう)で大井(おおい)君に言伝(ことづ)てを頼んだら何でも買ってくれと云うので、とうとう一等の切符を四枚押つけられてしまった。」
「四枚とはまたひどく奮発したものじゃないか。」
「何、どうせ三枚は栗原で買って貰うんだから。――こら、ピエル。」
 今まで俊助の足下(あしもと)に寝ころんでいた黒犬は、この時急に身を起すと、階段の上り口を睨(にら)みながら、凄(すさま)じい声で唸(うな)り出した。犬の気色(けしき)に驚いた野村と俊助とは、黄水仙(きずいせん)の鉢を隔てて向い合いながら、一度にその方へ振り返った。するとちょうどそこにはあの土耳其帽(トルコぼう)の藤沢が、黒いソフトをかぶった大学生と一しょに、雨に濡れた外套を給仕の手に渡している所だった。

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